学戦都市アスタリスク black trickster 作:白い鴉
翌日、有真朱羅はレヴォルフ黒学院の教室で教師の授業を受けていた。彼以外に授業を受けている生徒はかなり少数で、ギリギリ二桁に届くか届かないという所だろう。
しかし生徒の数はかなり少ないものの、教室は荒れ果てておらず、他学園と同じぐらいの綺麗さを誇っている。
それには、ある理由が存在している。
誤解されがちではあるが、レヴォルフには無秩序な退廃感はあまりない。秩序と規律の学園であるガラードワースの対極に位置する学園として、あるいは不良学生や彼らが根城としている再開発エリアのイメージから、レヴォルフ自体が酷く荒れ果てた場所のような印象を持つ者は多いが、その実態はやや異なる。
確かにレヴォルフでは校則は無いに等しく、外からは個人主義の巣窟と呼ばれている。だが、ここには唯一絶対のルールが深く広く根付いている。
即ち、強者への絶対服従だ。
レヴォルフにおいては力こそが全てであり、勝利こそが何よりも尊ばれる。だが同時にそれがある種のブレーキの役割を果たしているのだ。過度に野放図なふるまいは、より強い力の
それらの理由のため、レヴォルフはあまり荒れ果てておらず、朱羅達が勉強するこの教室も荒らされていないのだ。
やがて授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、教師が教室を出ていくと朱羅は教科書やノートをまとめ始めた。すると、そんな彼にある人物が近づいてきていた。イレーネの妹のプリシラだ。
朱羅は自分に近づいてきたその少女に気が付くと、彼女に声をかける。
「えっと、確かプリシラさん……だったよね?」
「はい、プリシラ・ウルサイスと申します。昨日お姉……姉から有真さんの事を聞いて、少し気になって……」
「姉……? あ、もしかしてイレーネの事?」
はい、とプリシラが頷くのを見て朱羅は納得した。確かに目の前のプリシラには、昨日出会った少女の面影がある。しかし今まで話さなかったからとは言え、イレーネとクラスメイトであるプリシラの繋がりに気づかなかったとは、自分も結構間抜けだなーと思う。これでは自分を『抜けている』と散々評している友人達を笑えないな、と朱羅は思った。
「姉は有真さんとは友達じゃないって言ってたんですけど、姉が他人の事を話すなんてすごく珍しい事だから……」
「そうだったんだ……」
まぁ確かに友達とは呼ばないかもな、と朱羅は思う。昨日は自分が勝手に彼女を助けた事だし、実際に彼女からは余計な事をするなと怒られた。今日街を紹介してくれと言われたがそれもただ単に貸し借りの問題だし、あれだけでは友人関係はさすがに成立しないだろう。
「でも、それも仕方ないと思うよ。昨日の事だって僕が勝手に首を突っ込んだ事だし、イレーネからなんて思われても仕方ないって思ってる。ま、後悔はしてないけどね」
「そうですか……」
それを聞くと、何故かプリシラは落ち込んでいるような表情を浮かべた。どうしたんだろう? と朱羅が思った直後、プリシラは顔を上げて真剣な表情で朱羅の顔をまっすぐ見つめた。
「あ、あの……こんな事、本当なら私から言うような事じゃないかもしれないんですけど……」
「え?」
朱羅が戸惑いの声を上げるが、プリシラはそれを無視して言葉を続ける。
「姉はちょっと乱暴で、口が悪くて、私が知らない間に他の人とよく喧嘩をしちゃうんですけど、でも本当なすごく優しい人なんです。戦えない私を、子供の頃からずっと護ってくれて……。だからその……できればで良いですから、姉と仲良くしてあげてください」
そう言って、プリシラはぺこりと頭を下げると教室から出ていった。彼女の後ろ姿を見届けた朱羅は、姉想いな人だなと思った。恐らく彼女にとって姉はとても大切な人なのだろう。そうでなければ、今まで話した事もない自分にあんな事を告げるはずもない。朱羅がそんな事を考えながら再び帰り支度を始めると、今度は廊下から自分を呼ぶ声が彼にかけられた。
「おい、有真!」
その声は聞き覚えのある声だった。朱羅がその方向に視線を向けると、案の定と言うべきかそこにはイレーネが立っていた。彼女はつかつかと朱羅に近寄ると、彼を見下ろして言う。
「さっさと行こうぜ。早くしねぇと帰るのが遅くなるからな」
「何か用事でもあるの?」
「別にねぇけど……。って、あたしの事はどうでも良いだろ! 早く立て!」
乱暴に言いながらイレーネは朱羅の腕を掴んで無理やり立たせる。それに朱羅は苦笑しながら、彼女と一緒に教室を出るのだった。
教室を出た二人はそのまま校舎を出て、市街地へと向かった。
アスタリスクの市街地は、主に外縁居住区と中央区に分けられる。
外縁居住区にはモノレールの環状線が通っていて、縁の部分にあたる港湾ブロックと居住エリア、さらには六つの学園を繋いでいる。それに対しては中央区での移動は地下鉄が中心だ。これは学生同士に決闘などが交通機関に影響しないように配慮した結果らしい。中央区はさらに商業エリアと行政エリアに分けられ、その中にステージが点在する形になっている。
そして現在、朱羅とイレーネは中央区の商業エリアを歩いていた。
「――――で、あれがアスタリスク最大の規模を誇るメインステージだ。『星武祭』の決勝戦は全部あそこで行われる」
「へぇ」
イレーネが指差す方向にある、巨大なドーム状の建物を見ながら朱羅が感想を口にする。
「まるでローマのコロッセオみたいだね」
「みたいというよりは、それをモチーフにしてるみたいだぜ? ま、自分達の願いのために戦う奴らにとってはお似合いだろうがな」
どこか自嘲しているようにも聞こえる彼女の言葉を聞きながら、朱羅は別の事を尋ねた。
「そう言えば、治療院は行政区だっけ?」
「ああ。あそこには治癒能力を持った『
『
朱羅自身、今まで実際に接した事がある『魔術師』は一人しかいないのだから。
「あれ、でも治癒能力の『魔術師』って事は……もしかして、骨折程度じゃ普通の治療に回されるの?」
すると、それを聞いたイレーネは少し意外そうな顔をしてから、にっと犬歯を剝き出しにして笑った。
「へぇ、見かけによらず結構頭は回るんだな。その通りだ」
治癒能力系の能力は極めて少ない。
そのためどの学園の生徒でも平等に治療が受けられるよう、協定によってアスタリスク直轄の治療院に集められているらしい。ただし手が回りきらないので、命に関わったり後遺症が残ったりするような怪我出ない限りは、能力者の治療は受けられないのだとか。
「あとは、お前にはあんまり関係なけど再開発エリアだな。あのあたりは一部がスラム化してて治安には問題があるが、知らずに迷い込む方がやばい。お前のような奴が迷い込んだら、カツアゲされて終わりだぜ?」
ニッと笑うイレーネに、朱羅は苦笑を浮かべるしかない。物騒な話だが、これだけの人が集まる場所ではどうしてもそういった影の部分が生まれてしまうのだろう。
「だけど、再開発エリアにもそれなりに楽しめる場所はあるんだぜ?
「
アスタリスクに来てまだ数日しか経っていないとはいえ、そのような街の名前は聞いた事が無い。するとイレーネがそんな朱羅のために説明をしてくれた。
「再開発エリアの一部に、合法非合法の店が集まっている場所があるんだ。歓楽街はそこの通称なんだよ」
「へぇー……」
今日何度目かの相槌の声を出すと、良い事を思いついたと言わんばかりにイレーネが楽しそうな口調で言った。
「そうだ。どうせならこれから行ってみるか?」
「え、良いの?」
「お前一人だけだったら考えるけど、あたしも一緒にいれば大丈夫だろ。折角だし、案内してやるよ」
そう言ってイレーネは朱羅を連れて、歓楽街へと歩き出した。朱羅は少し慌てながらも、イレーネの後をしっかりとついていく。
そして十分後、朱羅は自分の目の前に広がっている光景に思わず息を呑んでいた。
正直言って、再開発エリア全体から見れば歓楽街の大きさはさほど大したものではない。精々五分の一程度と言ったところだろう。
だがメインストリートには人が溢れ、その賑わいは商業エリアの一等地にも引けを取っていない。
しかし、その雰囲気と景観はまるで違う。
居並ぶ店と店の間には階層ごとに通路が通され、何層もの空中回廊が空を覆っている。それを支える柱があちこちに乱立し、そこには秩序だったものがまるで見当たらない。無論、こんな無秩序が許容されているのはアスタリスクだけだろう。
店もクラブやバーなどの酒類の提供を主とする飲食店から、地下カジノや風俗店などの違法店舗まで様々で、行き交う人々の年齢層も幾分高めに見える。学生らしき年頃の者達も少ないはないのだが、校章をつけているものはほとんどいない。本来学生が学園外へ出る場合、校章を外す事は許されていないため、仮に彼らが学生だとしたら軽微ではあるが『
しかしその事を朱羅が指摘すると、イレーネはこう説明してくれた。
「一応警備隊も巡回してるが、軽い違反なら取り締まりの対象にはならないんだよ。警備隊は常に人不足だし、キリが無いんだろうな。だから違法店舗への対応も同じだ。定期的な手入れをやってる以外はよほど悪質じゃない限り黙認って形になってる。でかい声じゃ言えないが、この辺りは歓楽街と都市議会の繋がりもあって、この都市の暗部の一つになってるんだよ」
「……なんだか、今日一日で別に知らなくても良い事をたくさん知ったような気がするよ……」
「はっ、違いないな」
朱羅の言葉にイレーネが笑って肯定したが、それから何故かそれまでとは打って変わって真剣そのものの声音で言った。
「……だけど、真面目な話お前はここには一人で来ない方が良い。ここには、やばい奴らがいるからな」
「やばい奴ら?」
ああ、とイレーネは頷いてから、
「元々再開発エリアは一部がスラム化してて、治安的に問題がある。色んな事情で学園にいられなくなった奴や、外から逃げ込んできた『星脈世代』の犯罪者とかがうろついてんのがその理由だな。ここは再開発エリアの外側に位置してるから治安は落ち着いてるが、その代わりここを取り仕切ってるマフィアみてぇな連中がいる。お前みたいな奴がこんな所を歩いてたら、連中の下っ端に目をつけられる可能性がある。一応奴らも堅気に手を出すほどじゃねえとは思うが、念のため気をつけろよ」
「うん、分かった。……ありがとう、イレーネ」
「はぁ? なんで礼なんか言うんだよ?」
イレーネが怪訝な顔をして聞くと、朱羅は柔らかい笑顔で言った。
「だって、僕の事を心配してくれて言ってくれてるんだよね? 僕が一人で歩いてたら、襲われるかもしれないから」
「なっ……!」
朱羅の言葉に、イレーネは思わず絶句した。それから慌てた口調で、彼の言葉を必死に否定する。
「そ、そんなわけねぇだろ! ただ単に、お前みたいな奴にここら辺をうろつかれたら邪魔なだけだ! 勘違いするんじゃねぇよ!」
「あはは、そういう事にしておくよ。……イレーネって、優しいんだね」
「………っ!」
そんなとんでもなくくさい台詞を堂々と告げる朱羅に、イレーネは自分の顔が赤くなるのを感じた。今までそんな事を異性から言われた事が無かったイレーネはその顔を見られないように、必死に朱羅から顔を背ける。一方、イレーネをそんな行為に走らせた当の本人はきょとんとした表情を浮かべながら尋ねる。
「どうしたの? イレーネ」
「何でもねぇよ! そんな事より、こっちを見るなよ! もし見たらぶっ殺すからな!」
「……?」
まったく意味が分からない、と言うかのように朱羅は首を傾げた。
それから数分経ち、ようやく顔の赤みが引いてきたイレーネは朱羅を連れてある場所へ向かった。そこは、まるで警備隊の目を免れるかのように設置された場所……地下カジノの、その入り口だった。
「で、ここがカジノだ。カジノはここ以外にいくつかある。ここはその中でも、あたしがたまに来る店だな。ポーカーやルーレットとか、結構揃ってるぜ」
「へぇ。やっぱり、実際のお金が動いてるの?」
「そりゃあな。この街を取り仕切ってるマフィアみたいな連中がいるって事はついさっき話しただろ? 歓楽街のいくつかのカジノは、そいつらの重要な収入源になってるんだ。だからこそ実際の金を扱う必要があるんだよ。ま、あまりに違法な事をやり過ぎたらさすがに警備隊にかぎつけられる可能性があるから、そこの所は連中は慎重に行動してるみたいだがな」
「なるほどね……。ちなみに、このお店ってセーフ? アウト?」
「どちらかと言うとセーフだな。ってか、アウトだったらまず来ねえよ。そういう店は、イカサマとかを平気でしてくる連中が経営してるからな。さすがのあたしも、カモられに来る趣味は持ってねぇ。それ以前に、そんな店は叩き潰すしな」
「ふーん……って、もしかして君が昨日襲われてたのって……」」
朱羅がジト目でイレーネを見ると、彼女はうっと気まずそうな声を出した。それからポリポリと頬を掻きながら、
「い、言っとくけど先にイカサマしてたのはあいつらだぞ。あたしはどっちかって言うと被害者だ。それに店だって叩き潰してはいねぇ。ただ、店員の奴らをちょっと痛めつけただけで……」
「いやもうそれアウトコースでしょ! 確かにイカサマをするのは僕もどうかとは思うけど、恨みを買うほど叩きのめしたの!?」
イレーネがレヴォルフ黒学院で第三位の実力を持っているというのは、彼らも知っていたはずだ。しかしその恐怖を知ってもなお、彼らはイレーネを襲おうとしていた。一体、イレーネは彼らをどれほどボコボコにしたのか、朱羅はとても気になって仕方なかった。
朱羅の言葉にイレーネは両耳を両手で塞ぎながら、まるで朱羅の言葉を遮るように大声で言った。
「い、今はそんな事どうでも良いだろ!? さっさと入ろうぜ! この店はイカサマもやってねぇし、喧嘩だってそうは起きねぇ! 上手くすりゃ一攫千金だ! 行くぞ!」
「ちょ、ちょっと待ってよイレーネ! 僕は別に一攫千金だなんて……!」
だがそんな叫び声をあげる朱羅を無視して、イレーネはカジノの中へと入って行ってしまう。朱羅は深いため息をつくと、イレーネの後を追いかけるのだった。
そして、日がすっかり暮れた二時間後。
「お前、何者だ?」
「え? 何が?」
カジノから出てきた自分と一緒に出てきた朱羅を、イレーネが疑惑のこもった眼差しで見る。きょとんとした表情を朱羅が浮かべると、イレーネは叫ぶように言った。
「とぼけんな! スペードのロイヤルストレートフラッシュなんてあたしも見た事がねぇぞ!? イカサマ使ってるようには見えなかったし、どんなトリック使ったんだテメェ!?」
イレーネがここまで叫ぶのにはある理由がある。
二時間前、カジノに入った朱羅とイレーネは最初はスロットなどを楽しんでいたのだが、イレーネに誘われてポーカーなどのカードゲームに参加した結果、思いもよらない事が起こった。
何を仕掛けたのか、朱羅はポーカーで勝ちまくり、最後には滅多に見られないスペードのロイヤルストレートフラッシュをかましたのだ。どれぐらい凄まじいかと言われると、ロイヤルストレートフラッシュが出る確率が一般的に約六十五万分の一と言われている。それだけで、朱羅が何をやらかしたのか分かるだろう。
その後もブラックジャックでは、ディーラーを相手に連勝していた。あの時の世界の崩壊を目の当たりにしたようなディーラーの顔を、恐らくイレーネは一生忘れる事ができないだろう。
しかも恐ろしいのは、朱羅がイカサマなどを一切していない事である。イレーネ自身イカサマを何回か見破った事があるので分かるのだが、恐ろしい事にこの少年はただ単純に実力のみであれだけの事をやらかしたのである。これで気にならない方がおかしい。朱羅は歩きながらあははと笑い、
「別に良いじゃない。勝った分のお金だって、ほとんどはイレーネにあげたんだし」
ポーカーやブラックジャックで勝利を重ねた結果、朱羅は結構な額の大金を得たが、本人はそれを独り占めするような事はせず、七割をイレーネに渡していた。だが、イレーネもそれで誤魔化す事ができるような性格の持ち主ではない。
「それとこれとは話が別だ! 良いから答えろよ!」
それを聞くと、朱羅は渋々話し始めた。
「別に難しい事はしてないよ。ポーカーの場合は、相手がどんな手札を持っているかとかを論理的に考えて、単純に自分が不利な場合はチップを少なくしたり、逆に有利な時はチップを増やせば、案外簡単に勝てるよ。あとは自分が有利な手札を持っているように見せかけたり、相手の様子を見て自分の不利を悟ったりかなぁ……。あ、言っとくけど今日のスペードのロイヤルストレートフラッシュは完全にまぐれだよ。流石に僕でもあんな事は狙ってできないからね」
「そうなのか……。じゃあ、ブラックジャックは?」
「ブラックジャックはちょっと頭を捻るね。カウンティングって知ってる?」
突然出てきた単語に戸惑いながらも、イレーネは自分の記憶からそれに該当する知識を引っ張り出す。
「確か……すでに使ったカードを記憶して、まだ使っていないカードの山の中にどんなカードがどれほど残されているか読む技術……まさかお前、できるのか!?」
そんな事ができるのであれば、もはやカジノでは敵なしである。イレーネは思わずく目を剥くが、朱羅は何故かあははと笑った。
「さすがに全部は覚えられないよ。僕にできるのは精々半分のカードを記憶する事。それ以上は難しいし」
「じゃあ、何で……」
「半分覚えられるって事は、まだ見てない半分のカードを予測する事はできるって事。ディーラーもやられっぱなしを阻止するためにシャッフルとかして防ぐんだけど、シャッフルにも個人の癖のようなものはあるんだよ。たくさんシャッフルする人もいるし、逆にそれほどしない人もいる。その癖のようなものが分かればどのカードがどの位置にあるかは何となく分かるんだ。イレーネも練習すればできるようになるよ」
「………そうかぁ?」
朱羅が言うと簡単そうに聞こえるが、いくら何でも練習だけでそんな芸当ができるようになるとはとても思えない。自分としては、個人の才能とやはり運が関わってくるのではないかというのが正直な意見である。
しかし、それにしてもやはり朱羅の強さは尋常ではない。それが少し気になって、イレーネは朱羅に尋ねた。
「だけど、そうだとしても随分ギャンブルの仕方を分かってるんだな。お前もしかして、一流のギャンブラーか何かか?」
「………別にそういうわけじゃないよ。ただ理由があって、それで色んな訓練をしたらそういう事が得意になっただけ。あれは副産物みたいなものだよ」
「……? じゃあその理由って、一体」
何なんだよ、と言いかけたイレーネの言葉が途中で止まった。何故なら朱羅の顔に一瞬ではあるが、深い悲しみの表情が現れていたからだ。昨日知り合ったばかりとはいえ、彼のその表情を見てイレーネは、何故か自分の胸が強く締め付けられたように痛むのを感じて、彼への質問を止めていた。
「イレーネ? どうしたの?」
朱羅が不思議そうな目で自分の顔を見つめているのを見て、イレーネは自分が道の真ん中で立ち止まっている事に気づいた。それから朱羅の顔を見ると、先ほどまでの表情はもうどこかへと消えてしまっていた。
「な、何でもねぇよ。それより早く帰ろうぜ」
「……?」
すたすたと自分の前を素早く歩くイレーネを見て、朱羅は首を傾げた。
それからしばらく歩き続け、さらに外縁居住区を通るモノレールに乗った二人はようやく居住区へとたどり着いた。二人は歩きながら他愛ない会話を交わしていたが、イレーネの住むマンションの前まで来るとそこで別れの挨拶を互いにする。
「じゃあまたねイレーネ。今日は楽しかったよ」
「ああ。これで、貸し借りは無しだな」
「あ、そっか……そうだよね」
と、少し残念そうに朱羅は言った。今日彼女が自分に街案内をしてくれたのは、彼女が絡まれていた所を自分が助けた借りを返すためだ。今日の街案内で彼女の自分に対する借りは無くなったので、これで彼女と自分は赤の他人に戻るという事になる。すると、イレーネがそんな朱羅にこう言った。
「んな顔すんなよ。街ならまた案内してやる」
「え? どうして?」
貸し借りはもう無くなったはずである。朱羅が尋ねると、イレーネは気まずげに目を逸らしながら、
「あー、それはあれだ……。認めるのは癪だけど、今日はあたしも久々に楽しめた。だから、暇だったらまたどこかに連れてってやるよ。お前がいれば、金も入ってくる事が分かったしな。それだけだ。他意はねぇよ」
「………」
彼女の説明を聞いて朱羅はきょとんとしていたが、やがてくすりと笑った。
何故なら、良かったと思ったからだ。
これで彼女との縁が切れるわけではないと決まったわけではないのが。
「何がおかしいんだよ?」
「ううん、別に何でもないよ」
「ったく……。ま、良いか。じゃあな朱羅」
「うん、また……え?」
突然奇妙な声を上げた朱羅に、イレーネは怪訝な瞳を向けながら尋ねた。
「今度は何だよ?」
「いや、だって今名前……」
それにイレーネは、ああと彼の言っている事に気づくと、気軽な口調で告げる。
「別に良いだろ? 何か文句でもあんのか?」
「いや、無いけど……」
「じゃあ、それで良いじゃねぇか。……またな」
そこでイレーネはポリポリとどこか恥ずかしそうに頬を掻きながら、最後の部分を小さい声で言った。
「………うん。またね、イレーネ」
朱羅は一瞬驚いたように目を見開いていたが、やがて柔らかい笑みを浮かべるとイレーネに言う。その表情を見てイレーネも柔らかい笑みを浮かべると、彼に背を向けてマンションの中へと入っていく。そして朱羅も、自分が住む学生寮へと帰っていくのだった。
「――――ってわけでよ、すごいんだぜあいつ。ポーカーでロイヤルストレートフラッシュ出す奴なんて、あたしは初めて見たよ。あんな事、狙ってできるような事じゃないんだぜ?」
「へぇ、そうなんだ」
夕食を準備して自分を待っててくれていたプリシラと一緒に食卓に着いていたイレーネは、今日の出来事を妹に楽しそうに話していた。プリシラもイレーネの話に耳を傾けながら、クスクスと楽し気に笑っている。
「……だけど、良かった。お姉ちゃん、朱羅さんと友達になったんだね」
「え? いや、そりゃあ一緒に街を歩いたりしたけど、友達ってわけじゃ……」
妹の言葉をイレーネが否定すると、プリシラは穏やかな笑みを浮かべたまま首をふるふると横に振る。
「ううん。もうお姉ちゃんと朱羅さんは、お友達だと思う。だって今のお姉ちゃん、すごく楽しそうに話をしてるもの。そんなお姉ちゃん、私すごく久しぶりに見たよ。きっと、お友達と一緒に歩いたからだって私は思う。だから、もう朱羅さんとお姉ちゃんはお友達なんじゃないのかな?」
「……あたしと、あいつが?」
うん、とプリシラは頷いた。イレーネはしばらく考え込んでいたが、ふっと笑みを浮かべると呟いた。
「……そうか。あたしとあいつは、友達なのか……」
今まで自分に友達などいなかった。持つ暇も、持つ余裕もないと思っていた。
だが、これが本当に友達を持った結果抱く事の出来る感情だと言うのならば。
それは、確かに悪くないかもしれないとイレーネは思った。
「……また」
「うん?」
「また明日、朱羅とどこかに行ってくる。悪いな、プリシラ。帰りが少し遅くなるかもしれない」
しかしプリシラはにっこりと笑顔のまま、
「ううん。私は大丈夫だから気にしないで。それよりもお姉ちゃん、お友達は大切にしなきゃだめだよ? あと行く場所にも! 歓楽街は危ないし、せめて商業区に行く事! 朱羅さんが一緒なんだから、喧嘩なんてしない事! あとそれから……」
「ああもう分かってる! 分かってるから大丈夫だよプリシラ!」
妹の注意にそう返しながら、イレーネは笑う。
また会える少年の笑顔を、そして彼とこれから過ごすであろう日常を、思い描きながら。