学戦都市アスタリスク black trickster 作:白い鴉
五月十五日。有真朱羅は一人でレヴォルフ黒学院の食堂へ小走りで向かっていた。彼の手には大きめの円柱サイズの水筒のような容器――――ご飯容器やおかず用の容器など、様々な容器が詰められているランチジャーが握られている。
朱羅は食堂へ入ると、辺りのテーブルを見回す。テーブルにはいかにも不良といった外見の少年達が座っているが、その中に彼の捜している人物達はいない。朱羅が歩きながらきょろきょろと視線を巡らしていると、彼に声がかけられた。
「おい、こっちだ朱羅」
朱羅がその方向に視線を向けると、そこにはひらひらと手を振っているイレーネと、朱羅にぺこりと軽く頭を下げて挨拶をするプリシラの姿があった。二人はすでにテーブルに座っており、彼女達の目の前にはそれぞれ弁当箱が置かれている。朱羅が近づいてくると、イレーネがやや怒っているような口調で言う。
「遅ぇよ、朱羅。こっちは腹が減って死にそうだったぜ」
「ごめんごめん。ちょっと先生の手伝いをしててね」
「そんなもん断ってこいよ、ったく……」
「お姉ちゃん!」
「う、ごめんプリシラ……」
怒るプリシラがしゅんとなったイレーネが謝る光景を見て、朱羅はあははと笑った。口ではなんだかんだ言うものの、それがイレーネの本心ではない事は良く知っている。彼女と知り合ってから一か月経ち、朱羅もイレーネの性格がよく分かってきたのだ。
朱羅が席に着くと、イレーネが嬉しそうに笑う。
「さてと、飯だ飯! さっさと食おうぜ!」
「もう、お姉ちゃんったら……」
イレーネが自分の弁当箱を開けると、中に入っていたのは色とりどりの食材が詰め込まれたサンドイッチだった。サンドイッチの他にはミニトマトなどの野菜が入っている。
「んじゃ、いっただきまーす!」
元気に言いながら、イレーネは中にあるサンドイッチをぱくつき始めた。それを見て苦笑していたプリシラも両手を合わせていただきます、と言うと自分もイレーネと同じサンドイッチを食べ始めた。朱羅もそれに合わせていただきますと言ってから、容器の中からご飯用の容器やおかず用の容器、さらにはスープ用の容器と箸セットを取り出していき、蓋を開けた。
ご飯用の容器に入っていたのはほかほかと湯気を上げる白米と梅干。おかず用の容器の中にはミニトマトにキュウリ、卵焼きなど色とりどりのおかずが見る者の目を楽しませ、スープ用の容器には豆腐やネギといったオーソドックスな具が入れられた味噌汁が入っていた。ちなみに全て朱羅の手作りである。朱羅は箸を手に取ると、自分も昼食を口に運び始めた。
朱羅が気を失ってイレーネのマンションに運び込まれた日の後、朱羅はイレーネに言われた通りたびたび彼女達と一緒に夕食を取るようになった。またそれだけでなく、いくら何でも家事をプリシラだけに任せるのは悪いという理由で食事などのウルサイス家の家事も手伝うようになった結果、朱羅はすっかりイレーネとプリシラと打ち解けた。今ではもう三人で一緒に食事を取る事がすっかり当たり前になってしまっている。どれぐらい当たり前かというと、もう朱羅がいちいちプリシラにイレーネのマンションに行く事を伝えていない状態でマンションに行っても、すでに彼の分の夕食が出来上がっているぐらいである。今ではほぼ毎日イレーネの家に向かい、彼女達と一緒に夕飯を取っている。
なお、三人分の食費はプリシラが払ってくれているのだが、いくらなんでもそれは悪いと思い朱羅が自分の分の食費ぐらいは出すとプリシラに言ったのだが、彼女は笑顔でそれをやんわりと断っていた。しかしさすがに朱羅も簡単には引かず、話し合った結果プリシラは朱羅の食費を受け取る事になった。そのため、現在では朱羅は安心してウルサイス家の食事に招かれている。
だが、彼は知らない。
プリシラが朱羅には内緒で、彼からもらった食費を貯めている事を。そして時が来たら、全額を朱羅に返そうとしている事も。
朱羅もなかなか強情だが、プリシラはそれ以上に我慢強かったのだ。
そんな事を露知らず、朱羅は味噌汁を飲んでいたが、そこである事を思い出した。
「そう言えば二人って、誕生日はいつなの?」
突然の朱羅の質問にプリシラは思わずきょとんとした表情を浮かべ、イレーネは「はぁ?」と怪訝な表情を浮かべた。
「あたしは十二月六日で、プリシラは九月六日だけど、それがどうしたんだよ」
「いや、二人には世話になってるし、誕生日が近かったら何かプレゼントでも送ろうかなって……」
するとイレーネはサンドイッチを咀嚼しながらはっと笑った。
「別にそんなのいらねぇよ。プレゼントが欲しくて一緒に飯を食ってるわけじゃねぇしな。ま、どうしてもって言うなら、またカジノに付き合って………じょ、冗談だって!」
隣で笑顔を浮かべているプリシラから放たれる怒気を素早く察知して、イレーネは慌てて謝った。プリシラはまったくもう……と言いながらため息をつくと、朱羅の方を向いて尋ねた。
「そう言えば、朱羅さんの誕生日はいつなんですか?」
「五月二十三日だよ」
「二十三って……来週じゃねぇか!」
イレーネが驚いた声を上げ、そのせいで周りで食事を取っていた生徒達の視線が一気に三人に集まるが、朱羅とプリシラはともかくイレーネはまったく気にしていない。突然のイレーネの行動に朱羅は思わず飲んでいた味噌汁をこぼしかけたが、プリシラはそれにまったく動じておらずそれどころか両手を合わせてこんな提案をした。
「そうだ! なら朱羅さんのお誕生日会をやろうよ! 私、ご馳走作るね!」
「良いな、それ! あと定番だとケーキとかか……」
「あ、あのー……」
朱羅が恐る恐るといった感じで言葉を発するが、ウルサイス姉妹は聞いていない様子で朱羅の誕生日会についての計画を楽しそうに練っていた。どうやら聞いてくれなさそうだと悟った朱羅は、ため息をついてから昼食を再び食べ始めた。
「まさか、誕生日の話で昼休みが無くなる事になるなんて思わなかったよ……」
「あはは……」
授業終了後、学生寮へと向かう未知の途中でイレーネとプリシラと一緒に歩いていた朱羅が呟くと、プリシラは苦笑を浮かべた。結局あの後二人の話し合いはさらに続き、そのまま昼休みは終了したのだった。
すると、イレーネが何故か気まずそうな表情を浮かべながら口を開いた。
「な、なぁ朱羅……。もしかして、迷惑だったか?」
「え?」
「いや、突然だったからあたし達だけで盛り上がっちまったけど、今考えたらお前にとっては迷惑だったかもしれねぇなって思ってな……。もしもお前が嫌だって言うなら、その……」
歯切れが悪いイレーネを見て、朱羅はイレーネが何を思っているのかに気づくと、にっこりと明るく笑った。
「迷惑じゃないよ。ただ、少し意外だったから驚いただけだよ」
「……? 意外ってなんだよ」
「だって、イレーネってあまり人の誕生日を祝うような性格じゃないし。どっちかって言うと、面倒くさいって言いそうだったからさ。だからちょっと意外に思ったんだよ」
「ああ、そういう事か。そりゃああたしだって赤の他人の誕生日なんざ別になんとも思わねぇよ」
「え? じゃあどうして僕の誕生日会の話にあんなにノリノリだったの? プリシラのご馳走が食べられるから?」
「いや、だってそりゃあ、その……」
するとイレーネは何か困ったような表情を見せながら、ポリポリと頬を掻く。
「?」
「あーもう! 別にんな事どうだって良いだろ!? そんな事より、来週は盛大に祝ってやるから予定空けとけよ!」
「あ、うん………」
怒りのせいか、顔を赤らめているイレーネに頷きながらも、朱羅は彼女の意図がよく分からず思わず首を傾げた。そんな二人を見て、プリシラは何故かニコニコと笑っているが、どうしたのだろうか。今日の学校での生活はいつも通りの一日で、自分の誕生が判明した以外は特にこれといった出来事は起こらなかったはずなのだが。
そうこうしているうちに、三人は朱羅の学生寮の前に辿り着いた。朱羅はいつもは学生寮に鞄などの荷物などを置いてから、イレーネのマンションに向かっているのだ。なお、プリシラもレヴォルフの女子の学生寮に住んでいるので、基本的にイレーネと二人はここで一旦お別れという形になっている。
「じゃあ、またあとでね。お姉ちゃん、朱羅さん」
「ああ」
「じゃあね、プリシラさん」
そう言ってプリシラは女子の学生寮の方へと歩いて行き、やがてその姿を消した。朱羅はそれを確認してから自分も学生寮へと向かうために、イレーネの方に向き直る。
「じゃあ、僕も行くね。イレーネ」
「いや、ちょっと待ってくれ朱羅。お前には話しておきたい事がある」
「……話しておきたい事?」
ああ、とイレーネは真剣な表情になってから頷いた。それを見て、朱羅は眉をひそめる。わざわざプリシラがここから立ち去った後に彼女がこんな表情になって自分に話を持ち掛けるという事は、恐らく彼女には話す事ができない話があるという事だ。朱羅が話を聞く態勢になった事を確認すると、イレーネが口を開く。
「この前、ディルクに呼び出された」
「ディルクって……レヴォルフの生徒会長?」
朱羅が尋ねると、イレーネはコクリと頷いた。
ディルク・エーベルヴァイン。非『
星脈世代ではないもののその知略は並大抵のものではなく、ついた二つ名は『
朱羅も一度その姿を見た事があるが、その時の彼は常に不機嫌そうな表情を浮かべており、いかにも悪名高そうな外見をしていた。第一印象としては絶対に気を許す事ができない人間と言った所である。
「最近レヴォルフの一部の不良共の動きが妙だから、精々注意しておけだとよ」
「え、それだけ?」
イレーネの話を聞いた朱羅は思わず拍子抜け、と言いたそうな表情を浮かべる。あのディルクがイレーネを直々に呼び出しているから、何やら大変な事が起こったのかと思ったが、話を聞いてみればあまり大した事のようには思えなかった。大体レヴォルフの不良の動きが奇妙な事とイレーネに、一体何の関係があるのだろうか。
すると朱羅の考えを察したのか、イレーネは腕を組みながら続ける。
「確かにあいつがただの忠告で人を呼び出す事なんて普通はない。あいつがあたしを呼び出したのは、その不良と関係があるからだ。……あと、お前にもな」
「僕にも?」
朱羅は驚きながら、思考を加速させる。自分はイレーネのようにディルクからの仕事を請け負っているわけではないし、裏世界に積極的に関わっているわけでもない。なのに彼女がその不良達が自分に関係があると言い切っているという事は、少なくとも自分とその不良達に過去に接点があるという事だ。その接点に心当たりがあるという不良達と言えば……。
そこまで考えて、朱羅はあっと声を上げてからイレーネに確認するように聞く。
「……もしかして、前に僕が倒したグループ?」
すると、イレーネは正解と言うように頷いた。
「前にお前が叩きのめしたから、ようやく諦めたってあたしも少し安心してたんだけどな。ディルクの話によると、どうも水面下でおかしな動きをしてみたいだぜ。こそこそと人を集めたり、あたしとお前の情報を集めてるような素振りを見せてるらしい。もしかしたら、お前やあたしを闇討ちするつもりかもしれない」
「そんな……」
そう言った直後、朱羅はある事に気づいて表情を強張らせた。
「ちょっと待って! じゃあ、プリシラさんも危ないんじゃ……!」
彼らが自分達を闇討ちするつもりという事は、自分達のそばにいるプリシラも危ないかもしれない。しかも彼女は自分やイレーネと違って、戦う術を持っていないのだ。もしも彼らがプリシラに狙いを定めたら、彼女のみにも危害が及ぶ可能性がある。
が、イレーネは何故かそれを否定するように首を横に振った。
「その心配はねぇよ。プリシラには『猫』がついてる」
「『猫』?」
「お前は知らないかもしれねーけど、アスタリスクの六学園にはそれぞれの情報工作機関があるんだよ。クインヴェールのベネトナーシュや、六導館の影星って具合にな。で、レヴォルフの諜報工作機関は『
「なるほど、それで猫なんだ……」
納得したように朱羅が呟くが、そこである疑問が浮かんで首を傾げる。
「あれ? でもどうして、その黒猫機関がプリシラさんを護ってるの?」
「ディルクとあたしの契約の一つでな、あたしがプリシラのそばにいない時は猫がプリシラを護ってるって事になってるんだ。そこら辺の奴じゃ猫には傷一つつけられないだろうから、プリシラの心配はしなくて良い」
「そっか、良かった……」
ほっと朱羅は安心したように息をつくが、そんな彼に反してイレーネはまるで苦虫を嚙みつぶしたような顔をしている。
「……だけど、悪い事に情報を仕入れたのも猫の連中なんだよ。奴らの情報が間違っていた事は、あたしの知る限り一度も無い。前に叩きのめした連中があたし達を闇討ちするとは決まったわけじゃねぇが、一応頭に入れといてくれ。……下手したら、お前の弱点も知られてるかもしれねーしな」
「………」
朱羅の弱点というのは、言わずもがな戦闘の最中にかつて人を殺してしまった感触が蘇り、気分を悪くして最悪倒れてしまうという事だ。この前の数ならばぎりぎり何とかなるかもしれないが、それ以上の数で来たらかなり危ない。その点は確かに、注意すべき点だろう。
朱羅が頷くと、イレーネは安心したような笑みを浮かべながら言う。
「ま、そういうわけだ。何かあったら連絡をくれ。じゃあまたあとでな」
「うん、またねイレーネ」
そう言って手を振ってから、朱羅はイレーネと別れて学生寮へ向かう。
そして、二人を見つめる影が複数あった事も、当然知る由も無かった。
朱羅の誕生日である五月二十三日の前の二日前、五月二十一日。
この日彼はいつも通りイレーネのマンションに向かったのだが、運悪く食材が足りなくなってしまったという事で朱羅がスーパーへと買い出しに行く事にした。何故彼がそんな事をしているかと言うと、いつもほとんどプリシラに調理を任せていたので、これぐらいは男の自分がしなければならないと自ら志願したからである。なお、少女にも見える顔立ちの朱羅のその言葉を聞いたイレーネは思わず笑ってしまっていたのだが、運良く朱羅には見えなかった。
朱羅は買い物袋を手に持ちながら、一人商業エリアのスーパーへと小走りで向かっていた。向かっていると言っても、彼が通っているのはいつも通っている道ではない。少しでも近道をするために、薄暗い裏路地のような道を通っている。無論、周りに人の姿はない。
しかし、今の朱羅にはそんな事を気にしていられるような心の余裕など無かった。急いで食材を買い、早くマンションに戻らなければならない。食材を買うのが遅れるという事はそれだけ料理が遅れるという事であり、そうなると妹の料理を楽しみにしているイレーネの怒りが自分に向けられるのははっきりしているからだ。しかも今の時間帯はちょうどタイムセールの時間だ。食材を少しでも安く買いたい学生達が食品コーナーに集まる。朱羅自身自炊しているためスーパーをよく利用しているのだが、その時間帯のコーナーはまさに戦場。弱肉強食が当たり前、食材を取れない方が悪いという過酷な世界。その世界で少しでも安い食材を手に入れるために、有真朱羅は少しでも早くスーパーに辿り着かなければならないのだ!
(かと言って、走っていくのも駄目なんだよねー。そうなったらまずコーナーでの体力が無くなっちゃうし……。相手も同じ星脈世代だから油断できないし……)
相手が一般人ならば少しは楽なのだが、そうなると相手を怪我させないように気を使わなければならない。やれやれとため息をつきながらさらに歩く速度を上げたその時だった。
「………!」
突然、背後から自分に敵意を向けられるのを感じて、朱羅は思わず立ち止まった。彼は一流の剣士ではないが、それでもこれぐらいの敵意を感じ取れないほどのボンクラというわけではない。朱羅が振り返ると、そこにはレヴォルフの制服を着崩したガラの悪い三人ほどの少年達が立っていた。その少年達は、前にイレーネを襲おうとしていた少年達の内の三人に違いなかった。
朱羅はため息を吐くと、少年達に向かって口を開く。
「何の用かな? 悪いけど用事があるから、手短に済ませて欲しいんだけど」
「んなもん、言わなくても分かるだろうが。この前の借り、返しに来たぜ」
そう言うと少年達は懐からナイフを取り出した。
参ったな……と朱羅は思う。
周りに人の姿はなく、逃げようにもこの周辺は彼らの縄張りのはずだ。逃げようとしてもすぐに追いつかれる可能性の方が高い。とすると、残された道は一つだ。朱羅はちらりと少年達にバレないように、すぐ近くにあったビルの上に視線を向ける。
幸いビルの高さはそれほどでもない。これならばどうにかビルの壁を一気に駆け上がって屋上に向かう事ができるだろう。とすると、まずは少年達から身を隠さなければならない。
朱羅がそう考えていると、少年達が何故かにやにやと笑っている事に気づいた。それに朱羅が眉をひそめると、少年の一人が口を開いた。
「それより、良いのか? 俺達の方ばっか向いててよ」
「な――――」
に? とは続かなかった。
突然肩に激痛が走った直後、体中にまるで雷が直接落ちたような衝撃が走ったからだ。
「がっ………!?」
突然の衝撃に朱羅の全身が震えると同時に、体から力が抜ける。地面に倒れる前に後ろを向くと、そこには銃のような物を持った少年が立っていた。
(しまった……彼らは囮だったのか……!)
あれほど露骨な敵意も、これ見よがしにナイフを取り出したのも、全ては朱羅の目を自分達に向けるための囮。
その囮に、自分はまんまと引っかかってしまったというわけだ。
(しかもあれはテーザー銃……。まさか、そんな物まで出すなんて……)
テーザー銃というのは、簡単に言えば銃の形をしたスタンガンのようなものだ。ガス圧で二本のワイヤーが接続された電極を発射し、それを相手に突き刺す事で相手の体内に直接電流を流し込む。日本では基本的に流通されていないはずだが、こうして彼らが持っている所を見ると恐らく何らかのルートを通して手に入れたのだろう。しかも星脈世代の朱羅を昏倒させるほどの威力を持っている所を見ると、何らかの改造が施されている可能性が高い。
(ごめん……イレーネ。帰りが……遅くなり……そう……)
自宅で自分を待っているはずの少女に心の中で謝りながら、朱羅の意識は闇に落ちて行った。
朱羅がスーパーへ向かってから一時間後、イレーネのマンションではイレーネが椅子に座りながら、眉間にしわを寄せて何かを考え込んでいた。そんな姉を見て、同じように椅子に座って料理本を呼んでいたプリシラが口を開く。
「さっきから何を悩んでるの? お姉ちゃん」
するとイレーネはため息をついて、先ほどから考えている事を言った。
「明後日朱羅の誕生日だろ? だから、何か贈ってやろうって思ってるんだけど……。中々思いつかなくてさ……」
プリシラの誕生日ならばともかく、今まで他人の誕生日とは無縁だったイレーネには朱羅の喜ぶ贈り物というのが中々思いつかない。イレーネが悩んでいると、プリシラが本をテーブルに置いて困ったような表情を浮かべて、
「うーん。確かに難しいね。朱羅さんなら、よほど酷い物でも送らない限り何でもありがとうって言いそうだし」
「そうだよな……。だけど、できる事ならあいつが本当に喜ぶ物を送ってみてぇし………」
イレーネがそう言うと、プリシラが少し驚いたような顔でイレーネを見つめた。
「……こんな事言うとお姉ちゃんに失礼だけど、ちょっと珍しいね。お姉ちゃん、今まで他の人にそんな事しなかったのに……」
「……そんなに意外か?」
朱羅に似たような事を言われたのを思い出したイレーネが尋ねると、プリシラは少しためらいがちに頷いた。だがプリシラがそんな事を気にする必要など無いとイレーネは思う。実際自分はプリシラ以外の人間にあまり興味は無かったし、ましてや誕生日などどうでも良いと思っていた。だから、朱羅やプリシラがそう思うのも無理はないと思う。
イレーネは椅子にもたれかかりながら、独り言のように話し始めた。
「まぁ、出会うきっかけがあいつのお節介だったとはいえ、こうして一緒に飯を食う仲になったし、何か物を送るのも悪くないって思ったのもそうだし……。あとは、そうだな……。あいつには、幸せになって欲しいって思ったんだ」
「………」
イレーネの独白を、プリシラはとても真剣な表情で黙って聞いている。イレーネはどこか自嘲しているような笑みを浮かべながら、話を続けた。
「自慢するわけじゃないけど、あたし達もそれなりに過酷な過去を過ごしてきたわけだろ? だけどあたしのそばにはプリシラがいてくれた。それだけであたしは良かった。……でもあいつはずっと一人で過ごしてきたんだ。ずっと一人で誰にも弱音なんか吐かないで、ずっと走り続けてきたんだ。だからその分、あいつには幸せになって欲しいって思うんだよ。……笑っちまうよな、あたしは今まで誰かの事なんてどうでも良いって思ってたのに、こうして誰かの幸せを祈るなんざ……。ごめんな、プリシラ。くだらねぇ事話しちまって」
しかし、プリシラはそれを否定するように首を振って、
「くだらなくなんて無いよ。誰かの幸せを祈る事がくだらない事だなんて、そんな事は無い。お姉ちゃんがそんなに朱羅さんの幸せを祈るって事は、それだけ朱羅さんの事を大切に思ってるからだよね? きっと朱羅さんも同じ気持ちだよ」
「あいつも?」
「うん。朱羅さんもきっとお姉ちゃんの幸せを祈ってる。……私は嬉しいよ、お姉ちゃん。お姉ちゃんの事を大切に思ってくれる人が増えてくれたのも嬉しいし、お姉ちゃんが大切に思う人ができたのも嬉しい。だからそんな事言っちゃ駄目。それはお姉ちゃんを大切に思ってる朱羅さんにも、朱羅さんを大切に思ってるお姉ちゃん自身にも失礼な事だから。またそんな事言ったら、今度は怒るからね」
そう言ってから、プクリと頬を膨らませた。その顔が可愛らしくて、イレーネは思わず苦笑を浮かべながらプリシラの柔らかい髪の毛を撫でてやる。
「そうだな……ごめん、プリシラ。もう二度と言わないからさ」
「うん!」
彼女の髪の毛から手を離すと、イレーネは朱羅の誕生日プレゼントについて再び考え始める。
そしてそれからすぐに、彼へ送るプレゼントが決定した。少し安上がりかもしれないが、恐らくこれならば彼もきっと喜んでくれるに違いない。プリシラの励ましを受けたイレーネには、そんな自信があった。
と、ふと時計に目を向けたイレーネは眉をひそめてからプリシラに言う。
「……朱羅の奴、少し遅すぎないか?」
「そう言えばそうだね……。いつもなら、もう帰ってきてる頃なのに……」
その直後、イレーネの携帯端末が電話の着信を鳴らし始めた。まさか朱羅か? と思いながらイレーネは携帯端末を取り出すと、空間ウィンドウを呼び出す。そして空間ウィンドウを見て、思わず眉間にしわを寄せた。
いつもならば朱羅の顔が映し出されるウィンドウには、真っ暗な画面に『SOUND ONLY』とだけ表示されていた。そしてその直後、明らかに朱羅のものではない声がウィンドウから発せられた。
『……イレーネ・ウルサイスだな?』
「テメェは……」
その声には聞き覚えがある。前に自分と朱羅を襲った不良達のリーダー格だ。
だが、重要なのはそれではない。何故朱羅の携帯番号から、この少年の声が聞こえてくるのだろうか。
いや、そんな事は分かり切っている。その答えを知りながらも、イレーネは自分でも驚くほどの静かな声でウィンドウに向かって声を発する。
「……朱羅はどうした?」
『安心しろ。命は奪っていない。ただちょっと眠ってもらってるだけだ』
相手の声に嘲笑うような声音が混じる。それから少年は続けて、
『あいつの命が惜しかったら、この後に送る地図の場所に一人で来い。もしも来なかったり他の人間を連れてきたりしたら、あいつの命はないと思えよ。ああそれと、
その直後、ウィンドウから笑いをかみ殺しているような気配が伝わってきた。人質を取っている上に、イレーネの強力な武器である覇潰の血鎌も使えなければイレーネに勝ち目はないと考えているのだろう。イレーネはふんと鼻を鳴らすと、ウィンドウの向こうの相手に言う。
「ずいぶんと調子に乗ってるじゃねぇか、雑魚が。不意打ちで朱羅をさらった奴が何を言ってやがんだ」
『な、何だと……!?』
するとあっさりと相手はイレーネの挑発に引っかかった。馬鹿が、とイレーネは心の中で相手を笑いながら、さらに言葉を続ける。
「その場にいなくても分かるっての。朱羅がテメェらみてーな雑魚にやられるはずがないしな。どうせ雑魚らしくこそこそとくだらねぇ策でも考えたんだろ? はっ、真正面からやり合う度胸もねぇ腰抜け共がよくそんな口を利けるな」
『て、テメェ! 立場が分かってんのか!? こっちには人質がいるんだぞ! ちょっとでも俺達の機嫌を損ねたら、あいつの命なんざ……』
「……やってみろ。その瞬間、テメェら全員生まれて来た事を後悔する目に遭わせてやるよ」
放たれた言葉には、絶対零度の怒りが込められていた。自分の声を聞きながら、人は本気で怒るとこんなに頭の中が冴えわたるんだなとイレーネは他人事のように思った。
そんなイレーネの殺意が伝わったのだろう。ウィンドウの向こうの少年はひっと怯えた声を出すと、すぐに虚勢を張るかのように大声を出す。
『そ、そんな生意気な言葉を吐けるのも今の内だ! 今日こそは覚悟しておけよこのアバズレ女!』
「そっちこそそれが遺言って事で良いんだな? 精々首を洗って待ってろよクソ共が」
そして、通話が途切れた。その直後、携帯端末に少年の言った通り地図が送信されてきた。場所を確認してみると、そこは少年達の根城である再開発エリアの一画だった。ここを指定してきたという事は、少しでも自分達の有利となる場所でイレーネを叩き潰したいのだろう。
イレーネは身を焦がすような怒りに感じながらも、必死に感情を制御しながら横に視線を向ける。するとやはりそこには、心配そうな目で自分を見つめているプリシラの姿があった。
プリシラは不安そうな表情を浮かべながらも、絞り出すような声でイレーネに尋ねる。
「お姉ちゃん、行くの?」
「……ああ。悪いプリシラ。少しの間だけ待っててくれ。すぐに朱羅を連れて帰ってくるから」
そう言いながらイレーネは妹の頭を優しく撫でる。まさか、この自分が誰かのためにプリシラを置いて危険地帯へと赴くとは、と心の中で苦笑する。
だが、イレーネに後悔はなかった。
自分にとって、今囚われているはずの少年は決して失いたくない大切な存在なのだ。プリシラには本当に申し訳ないが、ここで行かなかったら自分は絶対に後悔するという確信がある。
何故彼にそこまでの感情を持つに至ったのかは、正直分からない。彼の境遇に同情したのか、それともそれ以外に理由があるのか、今の自分には分からない。
けれど……朱羅を失いたくないという感情だけは、紛れもなく自分の心の底からのものだった。自分の心に背くわけには決していかないのだ。
一方のプリシラはまだ不安そうだったが、やがてその表情を消して真剣なまなざしをイレーネに向けると、力強い声で言った。
「うん、分かった。私待ってるから。食材を買って、お姉ちゃんと朱羅さんの好きな物を作って待ってるから。だからお姉ちゃん、絶対に朱羅さんと一緒に帰ってきてね」
「ああ。……だけど、別に料理は良いんじゃねぇのか?」
イレーネが苦笑すると、プリシラは首を横に勢いよくぶんぶんと振った。
「ここで三人でご飯を食べる事は、もう私にとっての当たり前だから。だからそれをサボっちゃうわけにいかないよ。……帰ってきたら、また三人で一緒にご飯を食べよう。約束だよ、お姉ちゃん」
そう言って、プリシラはイレーネの両手を握った。プリシラの顔を見つめながら、イレーネは力強く頷いた。
「ああ、約束だ。三人でまた一緒に飯を食おう。……行ってくる」
「……行ってらっしゃい」
妹の言葉を受けて、イレーネはリビングを出て玄関の扉を開けると、勢いよく走り出す。
エントランスを抜けて歩道に出ると、その場から高く跳躍して近場にあるビルの屋上に着地すると、そのまま屋上から別の建物の屋上へと次々に跳躍していく。この方が普通に歩道を走って行くよりもはるかに近道になるからだ。走る時に生じる風で、イレーネが着けているマフラーがなびく。
(……待ってろよ、朱羅)
心の中でそう思いながら、イレーネは朱羅が囚われている場所へと急ぐのだった。