学戦都市アスタリスク black trickster   作:白い鴉

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第五話 護りたいモノ

 

 

 

 

 

 朱羅をさらったグループの一人から連絡を受けたイレーネは数十分後、再開発エリアの廃墟ビルの前にいた。

 再開発エリアはかつてアスタリスク市場でも他に類を見ない大事件『翡翠(ひすい)黄昏(たそがれ)』の舞台となった場所だ。事件は幕を下ろしたものの被害は甚大であり、事件の後始末と責任問題の追及から復旧予算の編成は遅々として進まず、そうこうしているうちにレヴォルフ黒学院を中心とした不良学生達がそのエリアを根城として占拠。警備隊との小競り合いを繰り返すようになると、やがて各学園の退学者や都市外の犯罪者なども集まりはじめ、今では立派な暗黒街となっている。

 とはいえ再開発エリアの全域が犯罪者の温床というわけではなく、外側に位置している歓楽街などは比較的治安も落ち着いており、スラム化している一帯に踏み込まなければそれほど危険というわけではない。実際イレーネがついていたのもあるとはいえ、朱羅が不良に絡まれた事は一度も無かった。

 また、一部の建造物は崩壊の危険もあるため近寄る者もなく、そういった廃墟があちこちに点在している。だからこそ、朱羅をさらったグループは、その場所に来るように指定したのだろう。

(それにあたし達も任務によっちゃここを使う事があるからな……。警備隊の見回りもあるから正直誘拐に向いてる場所じゃねぇが、今回の奴らの目的はあくまでもあたしだ。長居するつもりはねぇって事だろうな)

 少年達の意図について考えながら、イレーネはビルに足を踏み入れた。

 イレーネが足を踏み入れた場所はエントランスだった場所のようだが、あちこちに柱が立っているせいで死角が多い。放置された廃墟は崩壊の危険もあるため監禁には向かないのだが、このビルはしっかりと補強されている。これならば、ここで戦闘を行っても崩壊の恐れはまずないだろう。

 イレーネは足を止めると、暗闇に向かって声をかけた。

「お望み通り来てやったぜ。さっさと姿を現しな」

 ここに入った時から、すでに人の気配は感じていた。それも、一つや二つではない。

 するとイレーネの声に応じるように、柱の陰などから複数の少年達がぞろぞろと現れた。その数は、前に朱羅が相手した数を優に超えている。その数を見て、イレーネはチッと舌打ちした。

(思ったより多いな……。覇潰の血鎌(グラヴィシーズ)無しだと少しきついが、泣き言は言ってられねぇ)

 ここで自分が負ければ、朱羅の命も危うい。イレーネが拳を強く握ると同時に、彼女の前に一人の少年が現れた。少年はにやにやと笑みを浮かべながら、

「よう、吸血暴姫(ラミレクシア)。ちゃんと来てくれて嬉しいぜ」

 そんな事を言う少年の声は、紛れもなくあのウィンドウから聞こえてきた声だった。イレーネはふんと鼻を鳴らすと、少年を睨み付けて低い声で聞く。

「んな事はどうでも良い。それより……朱羅はどこだ?」

 その声を聞いて少年は命の危険を感じたのか少し顔を引きつらせるが、この場では数で勝る自分達が遥かに有利だと思ったのか、無理やり強気な笑みを浮かべる。

「安心しな、あのガキは無事だ。ま、お前が覇潰の血鎌を使ったりすればどうなるかは保証しねぇけどな」

 はっきり言って、この少年の発言はハッタリだった。朱羅を閉じ込めているのは本当だが、イレーネが覇潰の血鎌を使ったからと言って朱羅の身に危険な事が起こる事は無い。というよりも、見張りに回る人間がいるならばイレーネを潰す方に回したいというのが少年の本音だった。何せ、相手はレヴォルフ黒学院で第三位の力を誇る実力者だ。下手に手を抜けば、逆にこちらが叩きのめされる可能性もゼロではない。

「……随分と余裕だな。腰抜けのテメェらの事だから、あたしが手を出せばあいつを殺すとか言うかと思ってたぜ」

 イレーネの減らず口に少年達がかすかに殺気立つが、少年が彼らを睨むとその殺気はすぐに収まった。少年はクックッと笑い、

「別にそれでも良かったんだがな。だがこっちには、お前に恨みを持ってる奴らがたくさんいるんだよ。無抵抗なお前をボコボコにするのはあまりにつまらねーし、どうせならあのガキを取り戻そうと必死になるお前をボコる方が面白いと思ってな。人質を取り返す事も出来ず、今まで自分が見下してきた奴らに散々殴られて唾を吐きかけられる方がテメェのプライドを滅茶苦茶にできる。どうだ、面白いだろ?」

 しかし、それにイレーネは何の反応も返さない。ただ俯いて、少年の言葉をじっと聞いている。

 それに少年は怪訝な表情を浮かべると、イレーネに近づく。するとその直後、イレーネがクックックと低い笑い声を漏らした。

「ああ、本当に面白れぇな。だけど、それよりも面白い事が一つあるぜ」

「なん……?」

 少年の言葉は最後まで続かなかった。

 顔を上げたイレーネの鉄拳が、少年の顔面に直撃したからだ。

 その速度はまさに一瞬で、少年の顔面に直撃したイレーネの拳には冗談抜きで彼の鼻の骨を砕いた感触が伝わってきた。少年は吹き飛ばされると、数メートル地面を転がってからようやく停止する。その鼻からは大量の鼻血が流れ、顔はぴくぴくと痙攣していた。

「……テメェら雑魚共が、あたしに勝てるって思ってる事だよ。良いぜ? かかって来いよ。テメェら如き、覇潰の血鎌抜きで十分だ」

 イレーネがそう言うと、仲間をさっそく一人潰された少年達は一気に怒りの表情を顔に浮かべると、それぞれ煌式武装を展開させる。それに対してイレーネは徒手空拳だが、イレーネ自身の体術のレベルはかなり高い。そうでなければ、覇潰の血鎌があるとはいえレヴォルフ黒学院の第三位などになれはしない。

「……ぶっ殺せ!!」

 少年達の一人がそう叫んだ瞬間、少年達が一気にイレーネに殺到する。

 イレーネは足を地面に叩きつけると、一気に加速して集団へと突っ込んでいった。

 

 

 

 

「……ん」

 何か大きな音を聞いたような気がして、有真朱羅は目を覚ました。

 目を開いて最初に気づいたのは、自分が何やら薄暗い部屋の中にいるという事だ。とりあえず立ち上がって周囲の様子を窺おうとしたが、そこで自分の体が妙に動かしづらい事に気づく。

「何だ……?」

 自分の手足に目を向けてみると、そこには縄で縛られて自由を奪われた自分の両手両足があった。どうしてそんな事になったのかを考えた朱羅が、そこでようやく自分がテーザー銃によって気絶させられた事を思い出す。

(って事は、ここは彼らのアジトって所かな……?)

 しかし、そうだとしたら少し奇妙である。アジトにしては、この部屋を見張るべきである見張りの気配がない。自分を誘拐した以上は見張りの一人ぐらいは配置しておくべきである。そうでなければ、人質である自分が逃げ出してしまう可能性があるのだから。朱羅は床に視線を落とすと、自分をさらった連中について考え始める。

(どうして彼らは僕をここに放置している? 僕がいつ逃げ出しても構わないって事か? って事は目的は僕じゃない。僕をここに閉じ込めて、彼らに何か得があるって事なのか? じゃあ、その目的は……)

 そこまで考えて、朱羅は頭の中が真っ白になった。

 彼らの目的は今の自分ではない。だが、もしも彼らが自分達が朱羅をさらった事を誰かに言ったとするなら?

 そしてその人物が自分を助けに来るとしよう。自分に関係があり、なおかつ少年達の目的となる人物。

 そんな人物は、自分の知る限り一人しかいない。

「………イレーネ……!」

 呻くように朱羅は少女の名前を口に出した。これはあくまでも推測でしかないが、少年達が自分を拉致した理由はおびき寄せるための餌だろう。そして彼らから自分を拉致したと聞いたイレーネは、自分を助けに来る。それを少年達全員で袋叩きにするというのが彼らの狙いだろう。イレーネが助けに来ているかは今の朱羅には分からないが、餌である自分が逃げないか見張る人間がいない所を見るときっとイレーネはすでに来ているはずだ。餌である自分に逃げられては、イレーネをおびき寄せるという目的を果たせないはずだからだ。

 とりあえず、一刻も早くここから逃げ出さなければならない。朱羅が部屋を見渡してみると、部屋の隅に飲み物のビンの破片のような物が散らばっているのが見えた。恐らくここでたむろしている少年達が、自分達が飲んでいたビンを不注意で割ってしまったのだろう。朱羅はずりずりと体を引きずるように破片に向かって進むと、自分の手を切らないように破片をそっと掴む。手首が拘束されてはいるが、戦闘中の瞬時とも言える武器の交換を得意とする朱羅にとっては苦ではなかった。

 破片を掴み取ると、切っ先で手首を拘束している縄をゆっくりと切断していく。カッターやナイフのような刃物ではないので切るのに少し時間がかかったが、それでも根気よく続けるとついに縄を切断するのに成功する。

 ここまで来るとあとは簡単だった。手に煌式武装のナイフを取り出すと、そのナイフで足首の縄も切断する。ようやく自由になった朱羅は扉にゆっくりと近づくと、ドアノブに手をかけて慎重に開ける。空いた隙間から外を観察してみるが、少年達の仲間らしき人物たちの姿はなかった。朱羅は扉を勢いよく開けると、廃墟の廊下を一気に走り抜ける。

 本当ならばすぐにでも脱出したいところだが、廃墟の廊下は結構入り組んでいる。ここから脱出するにはそれなりの時間が駆るだろう。それに、イレーネがここにいるかもしれない以上自分一人だけ脱出するわけにはいかない。

 やがてしばらく走り続けると、何やら人の怒号と人を殴り倒すような音が朱羅の鼓膜を揺らした。耳を澄ましてみると、どうやら音は下から聞こえているようだ。近くにあった階段を下りて聞こえてきた方向に走ってみると、音はだんだん近づいてくる。そして朱羅はついに、さび付いた扉の前に辿り着いた。扉の向こうからは、明らかに少年達の怒号が聞こえてきている。

「………」

 汗が額を流れるのを感じながら、朱羅は少しだけ扉を開けて隙間から向こう側を観察する。すると扉の向こうには、やはり怒号を上げる少年達とイレーネ・ウルサイスの姿があった。

「おらぁ!」

 バキィ、という音と共にイレーネのアッパーが少年の一人の顎を砕く。だが、それを見ても朱羅の胸の内は未だ不安で渦巻いていた。確かに彼女の体術のレベルはかなりのものだが、それでも少年達の数が多すぎる。イレーネから聞いた話の通り、彼女に恨みを持つ少年達をかき集めてきたのだろう。

 それに、イレーネは彼女が所有するという純星煌式武装を使っていない。恐らく使うと、自分の命がないとでも少年達に言われているのだ。彼女の体術が優れているとしても、この数相手ではあまりに不利すぎる。

 ならば、自分が参戦するしかない。そうすれば彼女の武器を使えるし、何よりも自分と彼女の二人ならばこの状況を打開できるかもしれない。

 そう思って朱羅が煌式武装を手にしたとき、彼の脳裏に過去の最悪の記憶がよぎった。

 自分にかかる生温かい血液。

 包丁の刃が人間の肉を貫くあの感触。

 それらを思い出した時、朱羅に吐き気が襲い掛かってきた。

「………っ!」

 口元を抑えて、朱羅はその場にうずくまる。

 これでは、戦えない。借りに戦ったとしてもすぐに倒れて、イレーネの足手まといになるのがオチだ。彼女はこうして、自分を助けに危険地帯へ駆けつけてきてくれたというのに。

 立ち上がろうとしても、足が震えて立ち上がれない。

 武器を握ろうとしても、手が震えて武器を握る事ができない。

 ギリッ、と朱羅は悔しさで奥歯を砕きかねない強さで噛み締める。

 情けない自分に、強烈な怒りを抱きながら。

 

 

 

 

 

「おらぁ!」 

 イレーネの拳が少年達の一人の顔面に突き刺さり、少年は後方へと思い切り吹き飛び床を転がる。

 しかしそうしても焼け石に水だ。イレーネが打ち倒すべき少年達はまだまだいる。

(くそっ、キリがねぇ……! マジでどんだけいるんだよこいつら……!)

 少年達を睨み付けながら、イレーネは内心舌打ちをする。

 今まで少年達には何回か囲まれた事のある彼女だが、今日の数はこれまでの比でない。下手をすれば五十人かそれ以上はいるかもしれない。一体自分はどれだけの人間に恨みを買っていたのかと、自分の事ながら呆れてしまう。

 だが、ここで諦めるわけにはいかない。こんな窮地、自分はいつだって一人で乗り越えてきたのだ。こんな烏合の衆ぐらい、余裕で乗り切って見せる。そう思ってイレーネが立ち上がった瞬間だった。

 彼女の肩に何かが突き刺さった直後、イレーネの全身を凄まじい電撃が襲い掛かった。

「が、がぁああああああああっ!!?」

 絶叫を上げながら、イレーネは地面へと倒れこんだ。激痛で浅く息をしながら後ろを見ると、そこにはテーザー銃を構えた少年が自分に向かって銃口を向けていた。

(なるほどな……! 朱羅もあれにやられたってわけか……!)

 いくら相手が大勢だったといえ、あの朱羅が逃げる事も出来ず連中に簡単に捕まってしまった事にイレーネは疑問を抱いていたが、テーザー銃を持っている少年の姿を見てその謎が解けた。しかも自分をも昏倒させるほどの威力を持っている所を見ると、銃自体に違法レベルの改造が施されているのだろう。イレーネはどうにかして体を動かそうとするが、あまりの痺れと激痛で体を少し震わせる事しかできなかった。

「はっ、良いザマだな。吸血暴姫」

 そう言いながら少年の一人が倒れているイレーネに近づくと、その顔面をまるでサッカーボールのように蹴り飛ばした。その蹴りを食らい、イレーネの口の中に鉄の味が広がる。それでも悲鳴を上げない彼女を見て、少年はさらに彼女の腹に蹴りを入れた。

「ぐっ……!」

 するとさすがに効いたのか、彼女の口から苦悶の声が吐き出される。その声を聞いて満足げな笑みを浮かべると、少年はイレーネの髪の毛を無造作に掴んで顔を無理やり上げさせた。

「しっかし、俺達をあんなに手こずらせた吸血暴姫も、人質を取られたらただの女か。つまんねぇ結末だなぁ、おい」

 だがイレーネは何も答えない。ただ殺意がこもった目で、少年の顔を睨み付けている。

「だけど分からねぇな。あの悪名高い吸血暴姫が、ガキ一人を助けるためにここまでボロボロになるなんざ。そんなにあのちんちくりんのガキが大切なのか? だったら驚きだなぁ! テメェにそんな特殊な性癖があったなんてな! テメェに恨みを持ってる他の連中が聞いたら、爆笑もんだぜ。なぁ!」

 少年が周りを囲んでる少年達に言うと、周りの少年達もそれに合わせるように笑い始める。それから少年は何か思いついたのか、残忍な笑みを浮かべながらイレーネに言った。

「なぁ、こういうのはどうだ? あのガキを俺達にくれよ。世の中にはそんなテメェを越える性癖持ちのくせに金を持ってる変態共がいてよ。そいつらにあのガキをくれてやったらきっと良い金になるぜ! あのガキを俺達に渡したらテメェのやった事はチャラにしてやるし、分け前もくれてやる。どうだ? テメェにとっても悪い話じゃねぇだろ?」

 そんな残忍な話を聞いたイレーネは、何故かぼうっとした目で少年を見つめながら口を開いた。

「――――」

「ああ? 何だって?」

 それに少年がイレーネの口元に耳を寄せたその時だった。

 ぺっ、と。

 イレーネは少年の顔面に血の混じった唾を吐き出した。突然の彼女の行動に呆然としている少年の顔を見て、イレーネはにやりと笑う。

「お断りだって言ったんだよ、ゴミ野郎」

 その直後、少年の表情が一気に怒りの色に染まり、イレーネの腹に強烈な拳を叩きつけた。

「がはっ……!」

 しかもその一発だけではなく、何回も彼女の腹を強く殴る。最後に彼女の腹に膝蹴りを食らわすと、イレーネの体は吹き飛び床を転がった。彼女に近づきながら、少年は怒りのこもった声で言う。

「そうかよ……なら交渉は決裂だ。ここで落とし前をつけてもらうぜ。……精々、死なないように頑張るんだな」

 心にもない事を言いながら、少年はゆっくりとイレーネに近づいてく。彼の姿を見ながら、イレーネはぼんやりと思った。

(……チッ、ここまでか……)

 前までの自分ならば、容赦なく朱羅を彼らに差し出していただろう。前の自分にとっては、プリシラだけが大切だったから。それ以外はどうでも良いと思っていたし、関わろうとも思わなかった。

 だが、イレーネは彼らに朱羅を差し出す事を拒んだ。

 理由は、とても単純だ。

 彼の事を、妹のプリシラ同様大切に思ってしまっていたからだ。

 自分がどんなにキツイ事を言っても、彼は笑顔で自分のそばにいてくれた。

 自分がどんな人間かを知っているのに、彼は自分の事を信頼してくれていた。

 だからこそイレーネ・ウルサイスは、有真朱羅の事を心の底から信頼し、大切に思うようになっていた。

 実際はそれ以外の感情もあるかもしれないが、今のイレーネにその事を考える余裕はない。

 目の前の少年がひとたび号令をすれば、周りの少年達は一斉にイレーネに群がり、彼女を袋叩きにするだろう。

 そうなればもう意識を保てる自信がない。それどころか、命の危険すらあり得る。

 しかし今のイレーネの思考に自分の事など微塵も存在しなかった。あるのは、自分の身近にいる二人の大切な存在についてだけ。

(……プリシラ。約束、守れなくて悪いな……。朱羅……。できればで良いから……早く逃げてくれ……)

 そしてイレーネがそう思った直後、少年が大声で周りの少年達に命令する。

「テメェら、こいつを……!」

 そう少年が言い切ろうとした、その時だった。

 どこからか飛んできたナイフ形の煌式武装が少年の肩に突き刺さり、少年の言葉を途中で止めた。

「があっ!?」

 予想外の一撃を食らった少年は肩を抑えながら尻餅をつき、地面をのたうち回る。それに少年達とイレーネがナイフの飛んできた方向を見て、そこにいる人物を見て目を見開く。

 そこには。

「朱……羅……?」

 ナイフを投げた体勢のまま少年達を睨み付けている、有真朱羅の姿があった。

「………」

 朱羅は自分に視線が向けられている事を察すると即座にその手に剣型の煌式武装を起動し、自分の眼前にいる少年達目がけて走り出す。それに反応した少年達はそれぞれの武器を手にして迎え撃とうとするが、一瞬の足止めにすらならず少年達は地面に斬り伏せられた。次々と少年達を斬り伏せた朱羅はようやくイレーネの下に辿り着くと、素早く彼女の背を向けてから二丁拳銃を持ち、周りの少年達に向けて銃弾を連射する。数発の弾丸が少年達に直撃し、銃弾を警戒した少年達は一斉に後ろへと下がった。

「……お待たせ、イレーネ」

「……はっ、おせぇよ馬鹿」

 銃弾を連射しながらも振り返ってイレーネに柔らかい笑みを向ける朱羅に、イレーネも笑みを返しながら言う。しかしイレーネがそう言うと、何故か朱羅の笑顔が曇った。

「……うん。遅れちゃって本当にごめんね、イレーネ。僕のせいで……」

 それにイレーネはふんと鼻を鳴らすと、

「別のテメェのせいじゃねぇよ。あたしが勝手にやった事だ。それより、テメェの方こそ大丈夫なのか? またぶっ倒れるんじゃねぇだろうな?」

 口調はぶっきらぼうだが、朱羅は前に戦闘直後に顔を青くして倒れてしまっている。今回もそうなるのではないかというイレーネなりの気遣いの言葉なのだが、それに朱羅はあっさりと頷く。

「うん、前ならもう気持ち悪くなってるんだけど、今は全然大丈夫だよ。……イレーネのおかげだよ」

「はっ? なんでそこであたしが出て来るんだよ」

 イレーネが怪訝な表情で言うと、朱羅は銃弾をすり抜けて襲い掛かってきた少年の一人を剣で叩き伏せてから言葉を続ける。

「だって、さっきイレーネはあんなにあいつらに殴られたのに、僕の事をあいつらに売らなかったでしょ?」

「……見てたのかよ」

 イレーネが気恥ずかしそうに呟くと、朱羅はあははと困ったように笑いながら、

「あれを見て思ったんだ。ここでトラウマを引きずってイレーネを見捨てたら、僕はこれから先ずっと後悔するって。そう思ったら、気持ち悪いのとか、人を殺した時の感触とかどっか行っちゃったんだよね」

 そこで一旦言葉を切ると、朱羅は再び口を開いた。

「それとね、イレーネ。僕、決めたんだ」

「……? 何をだ?」

「うん。イレーネは僕やプリシラさんを護るために今まで戦ってきたけど、肝心のイレーネはそうじゃないなーって。こんな事僕が言うのもあれだけど、今のような生き方をしてたらその内本当に死んじゃうよ。実際にたった今殺されかけてたしね」

「……まぁ、そうだな」

「だから決めたんだ。……僕が、イレーネを護るよ。例えどんな敵が来たとしても、それこそ統合企業財体みたいな敵が襲い掛かってきたとしても……僕がイレーネを護る。どんな目に遭っても、僕は君のそばにいて、君を護り続ける」

 それを聞いて、イレーネは思わず呆然とした表情で朱羅を見上げた。

 護るなど、今まで誰かに言ってもらった事は一度も無かった。プリシラ以外の人間から自分に向けられた感情は、敵意と悪意だけだった。

 だからだろうか。

 彼に自分を護ると言ってもらっただけで……、こんなにも胸が暖かくなったのは。

 しかしそれを朱羅に知られるのもなんとなく嫌なので、代わりにイレーネは呆れたような笑みを浮かべてこんな事を言う。

「ったく、前から思ってたが、お前って相当変わりもんだよな。こんなあたしを護るなんざ、どんだけ暇なんだよ。それにその言葉、前にあたしが言った言葉とほとんど同じじゃねぇか」

「あはは、バレた?」

 朱羅は笑いながら、武器を二丁拳銃からナイフに切替(スイッチ)する。しかもナイフの数は一本だけではなく、両手の指の間にナイフを握っているような状態なので、合計六本。それらを一斉に少年達に投げると、再び剣を構えながら苦虫を嚙み潰したような表情で言う。

「でも、さすがにこれだけの数は一人だとちょっときついかな……」

 少年達は今は朱羅達の周りを取り囲み、少人数ずつ襲い掛かってきているものの、それはあくまで様子を探っているだけだ。その気になれば、その人数で朱羅を一気に押しつぶす気だろう。

「……なら、二人だ」

 え? と朱羅が振り返ると、イレーネが朱羅の肩に手をかけて立ち上がる所だった。彼女はペッと血を地面に吐き出すと、覇潰の血鎌の発動体を取り出しながら凶暴な笑みを浮かべる。

「だ、大丈夫なの? もう動いて」

「序列三位を舐めんな。これぐらいで動けなくなるほどやわな体してねぇよ。……後ろは任せたぜ、朱羅。さっさとこいつらを片付けて帰るぞ。プリシラが飯を作って待ってるんだ」

「……なるほどね。だったら確かに、早く帰らなくちゃね」

 言いながら二人が背中を合わせて真正面の少年達を睨み付けると同時に、イレーネが純星煌式武装を起動させる。

 次の瞬間、イレーネの手にはその身長を超えるほどに長く巨大な鎌が顕現していた。

 紫色のその刃は禍々しく、不気味な雰囲気を纏っている。

 その大鎌の名こそ、覇潰の血鎌(グラヴィシーズ)

 重力を操る力を持つ、悪名高いレヴォルフの純星煌式武装だ。

「さぁ……かかってこいよ雑魚共!!」

 イレーネが叫んだ直後、怒号を上げながら少年達が襲い掛かる。

 相手がどれだけ強くても、数はこっちの方が多い。戦闘というのは基本的に数が多い方が有利だ。ならば、自分達が一斉に襲い掛かれば相手はなすすべなく押しつぶされるだけ。

 そう、少年達は思っていた。

 しかし。

「はぁあああああああああっ!!」

「おらぁああああああああっ!!」

 朱羅とイレーネの二人の前に、少年達は一方的に蹴散らされていた。

 朱羅は派手ではないが堅実な剣筋で少年達の攻撃を防御しながら、的確に少年達を地面に斬り伏せていく。さらには武器を剣から戦斧に瞬時に切り替えると、両手で豪快に薙ぎ払って数人を一気に吹き飛ばす。そんな朱羅を背後から少年が不意打ちをしようとするが、当然朱羅には気づかれている。朱羅は片手に三本のナイフを持つと、背後の少年をナイフで攻撃し、さらに左手のナイフを少年達に向かって投擲する。放たれた三本のナイフは外れる事無く、少年達に直撃した。

 圧倒的な戦闘を繰り広げる朱羅だが、イレーネも負けてはいない。

 イレーネは大鎌で少年達を吹き飛ばしながら、自分の戦闘センスを生かした体術で少年達を次々と地面に叩き伏せていく。それからにやりと笑みを浮かべると、挑発するように叫んだ。

「おいおいどうした!? 威勢が良いのは最初だけかよ!!」

 そして大鎌を片手で振るうと、紫色のウルム=マナダイトが一際強く輝き、その輝きが自分の相手をしていた少年達が立っている地面に伝わっていく。

 するとその瞬間、少年達がまるで見えない手で上から押さえつけられたように地面に倒れこんだ。覇潰の血鎌の能力である重力操作で、少年達が立っている辺りの地面の重力を強めたのだろう。

「可愛がってくれた礼だ、受け取りな! 十重壊(ディアス・ファネガ)!」

 イレーネが大鎌を振るった直後、その周囲に濃い紫色をした球状の物体が出現した。大きさは一抱えほどはあり、それが全部で十個ほど、イレーネの周りを漂っている。

「――――行け!」

 掛け声と共に、重力球が少年達に向かい、倒れ伏している少年達を吹き飛ばす。

 朱羅とイレーネの攻撃は数で勝っていたはずの少年達の数をどんどん減らしていき、気が付けば五十を超えるほどいたはずの少年達の数はすでに半数を切っていた。

「な、何だよ……なんで俺達がこんなにおされてるんだよ!? 数はこっちの方が上なのに……!」

 少年の一人が狼狽したように言う。少年がこう言うのには、少年達の数が多い以外にもう一つあった。

 基本的にレヴォルフは個人主義が強い学院であり、生徒達の一種の特徴にもなっている。そのため王竜星武祭(リンドブルス)はともかく、チームプレイやコンビネーションが重要になる鳳凰星武祭(フェニクス)獅鷲星武祭(グリプス)では目立った成績を残した事が他の学園に比べて非常に少ない。

 だからこそ、少年達は例え朱羅とイレーネが二人で戦ったとしても簡単に叩き潰せると思っていた。コンビネーションができていない標的を叩き潰す事など、自分達にとっては赤子の手を捻るようなものだと、そう思っていた。

 だが、目の前で繰り広げられている光景は予想外のものだった。

 イレーネの背後から彼女を不意打ちしようとした少年を、それに気づいた朱羅が右手に持った拳銃で撃ち抜く。

「大丈夫!? イレーネ!」

「おう! サンキュ……おらぁ!」

 返事をしたイレーネが大鎌を振るった直後、重力球が一つ出現し朱羅に向かうが、朱羅は眉一つ動かさない。一方重力球は朱羅のわきを通り過ぎて、背後から彼に襲い掛かろうとしていた少年を吹き飛ばした。

「テメェも油断してんなよ!」

「ごめん!」

 互いに声を掛け合いながら目の前の少年達を倒し、さらには死角からパートナーを攻撃しようとする敵を一瞬で倒す

 その光景を見て、少年の一人がテーザー銃を出して銃口をイレーネに向けた。朱羅とイレーネを昏倒させたその銃を使えば、確実に敵が一人減る。そう確信した少年だったが、その前に朱羅が左手にナイフを持ちテーザー銃目がけて素早く投擲した。

「ひぃっ!?」

 ナイフは見事にテーザー銃の銃口に突き刺さり、テーザー銃をただのスクラップへと変えた。

「これでもその銃は使えないね」

 そう言って朱羅は少年との距離を詰めると、テーザー銃を切り裂くと鳩尾に拳を放ち少年を失神させた。

 少年達の予想に反して、朱羅もイレーネもレヴォルフの生徒でありながら、高いコンビネーションで少年達の数を着実に減らしている。このまま順当にいけば、間違いなく少年達を全滅させる事ができるだろう。

 しかし、

「ぐっ……!」

「イレーネ!?」

 突然イレーネがその場にうずくまり、朱羅は目の前の少年を蹴り飛ばしてからイレーネに駆け寄る。彼女は膝をつきながら、額に汗を浮かべて荒い息をついていた。

「くそ……! こんな時に……!」

「一体どうしたの!?」

「覇潰の血鎌の副作用だ。こいつは能力の代償として血液を要求してくるんだ。だけど燃費が悪くてな……、普通に使ってたんじゃすぐに干からびちまう。だから使い手の体を変質させて、外部からそれを摂取できるようにしてやがんだ。いつもなら再生能力者(リジェネレイティブ)のプリシラから血をもらってるんだが……。チッ、傷が響いたか……!」

 再生能力者とは『魔女』や『魔術師』の一種で、その名の通り自分の傷を回復する事ができる能力者の事だ。他人の傷を癒す事ができる治癒能力者ほどではないが、かなり珍しい部類の能力だとされている。

 しかもイレーネの口ぶりからすると、プリシラは恐らく傷の修復だけではなく失った血液まで再生できる最高クラスの再生能力者なのだろう。そうなると、欠損部位さえ再生できる可能性が高い。

 だが、今重要なのはそんな事ではない。今ここにいつもはイレーネのカバーをしているプリシラがいないという事は、イレーネの能力を十分に発揮できないという事だ。

 能力の燃費の悪さの上に、少年達に殴られたせいでイレーネは体内の血液を大分消費してしまっていた。覇潰の血鎌の副作用が早く表れてしまったのは、そのせいだろう。そんな状況でプリシラがいないというのは、絶体絶命の状況に逆戻りという事を意味している。

 荒い息をつくイレーネを見て、朱羅は尋ねた。

「要するに、血があれば良いんだね?」

「……? ああ」

「なら、僕の血を飲んで」

「なっ!?」

 イレーネは思わず目を見開いて、目の前の少年の顔を見る。悪い冗談かと思ったが、朱羅の目は真剣そのものだ。朱羅はその首を露にすると、焦った口調でイレーネに言う。

「早く! 彼らがすぐに襲い掛かってくる!」

 見てみると、確かに朱羅の言う通り少年達がじりじりと距離を詰めてきていた。その気になれば、朱羅とイレーネをあっという間に押しつぶすだろう。どうやら議論している暇はなさそうだ。

 イレーネは決心すると、朱羅を抱き寄せて言う。

「……悪い。できる限り、飲み過ぎないようにする」

「はは、お手柔らかにね」

 朱羅はイレーネの言葉に苦笑しながらも、イレーネを心の底から信頼していた。

 そんな彼の期待を、自分が裏切るわけにはいかない。

 イレーネはごくりと唾を飲んでから、朱羅の首に牙を突き立てた。

「くっ………!」

 イレーネの牙が自分の首の肉を突き破る痛みに、朱羅の口から苦悶の声が漏れる。その首から鮮血が滴り落ち、地面に赤い斑点を形作る。

 一方で、朱羅の生暖かい血の味が口の中に広がるのをイレーネは感じていた。

 今までプリシラの血液を飲んだ事はあるが、他人の血を飲むのは初めてだ。

 そして気のせいかもしれないが……彼の血の味は、とても甘く感じた。

「血を補給してやがる!」

「させるか! ぶっ潰せ!」

 怒号と共に、少年達が一斉に朱羅へと襲い掛かる。

 が。

 その瞬間朱羅とイレーネの周りに大量の重力球が出現し、襲い掛かってきた少年達を弾き飛ばす。イレーネは朱羅の首から牙を離すと、残った少年達を睨み付ける。

「テメェら……こいつに、手を出してんじゃねぇよ!!」

 大量の重力球が少年達に向かって飛んでいき、少年達を吹き飛ばす。

 朱羅は首筋を抑えながら、ゆっくりと立ち上がった。それを見て、イレーネはにっと笑う。

「わりぃな。飲み過ぎないつもりだったが、美味くてつい飲みすぎちまった」

「はは、勘弁してよもう……」

 軽口を叩きながら、朱羅とイレーネはある方向を睨み付ける。

 そこには、ついに一人だけ残ってしまった不幸な少年が残っていた。手と足はガタガタと震えている。額は汗で濡れ、派手な金色で染め上げられた髪の毛は見事に乱れてしまっている。

 朱羅とイレーネが剣と大鎌を構えると、それでついに恐怖が頂点に達したのか少年が叫び声を上げた。

「ひっ、うわぁあああああああああっ!!」

「……ったく、逃げんなよ。テメェらが売った喧嘩だろ?」

 叫びながら逃げる少年を見て呆れたようにぼやくと、イレーネは駆け出して少年の後を追いかける。朱羅もため息を吐くと、イレーネと一緒に少年の後を追いかける。

 そして少年が後ろを振り返ると、そこには剣を構えた少年と大鎌を構えた少女が自分に向かってそれぞれの武器を振りかぶろうとしていた。

 その光景を見た直後、少年の意識は暗闇へと落ちて行った。

 

 

 

 

 

 最後の少年を倒すと、朱羅は周囲を見回した。

 辺りには意識を失った少年達がゴロゴロ倒れている。イレーネが前もって倒しておいてくれたとはいえ、よくもまぁ二人だけでこれだけの数を相手にできたものだと、自分の事ながら呆れてしまう。

「なるようになるもんだねぇ……」

「ああ、そうだ、な……」

 そう言って、イレーネは尻餅をついた。どうやらさすがの彼女もこれだけの数が相手では、かなり疲れてしまったらしい。

「大丈夫? また血飲む?」

「要らねぇよ。大体これ以上飲んだらお前マジで死ぬぞ。んな事より、さっさと帰ろうぜ。………っ」

 しかし、立ち上がろうとしたイレーネは再び地面に座り込んでしまった。どうやら彼女の予想以上に体力を消耗してしまっていたらしい。イレーネが悔しそうに舌打ちをするのを見て、朱羅は苦笑を浮かべるとしゃがみこんで彼女に背を向けた。

「さっ、乗って」

「……乗れって、まさかお前……」

「背負って帰る。そうした方が良いでしょ?」

 当たり前でしょ? と言わんばかりの表情を浮かべている朱羅に、イレーネは慌てた表情で言う。

「ちょ、ちょっと待て! お前、あたしに背負われろってか!? 吸血暴姫(ラミレクシア)のあたしに、まるでガキみたいに背負われて帰ろと!?」

「そうだよ」

「やなこった!」

「イレーネ。我がまま言わないの」

「ぐ……。そ、それでもあたしは……」

「イレーネ」

「う……。……わ、分かったよ……」

 子供と母親のような会話の応酬の末、イレーネは渋々と朱羅の背に乗った。自分の膝の下の彼の腕が差し込まれるのを感じながら、プリシラがもう一人増えたみたいだとイレーネは心の中で思った。

「よいしょっと」

 朱羅は軽々と立ち上がると、廃ビルを出てイレーネが待つマンションへと向かう。頭上にはすでに月が出ており、自分が誘拐されてからかなり時間が経った事を朱羅に悟らせた。

 しばらく無言で歩いていると、後ろのイレーネが朱羅に言った。

「……なぁ。朱羅」

「何?」

「……さっきの、あたしを護るって話、本当か?」

「そうだけど……どうして?」

 そこで一度イレーネは躊躇うように言葉を区切ってから、静かに続ける。

「あたしは今まで散々汚い事をやってきた。全部が全部そうだってわけじゃねぇけど、人から軽蔑されてもおかしくねぇ事がほとんどだった。プリシラを護るためとはいえ、その道を選んだのは誰でもないあたしだ。……そんなあたしを、本当にお前は護るのか?」

 そんな事を言うイレーネに、朱羅は前を向いたまま返した。

「さっきも言ったよね? 僕は君を護るって。確かに僕は君が何をしてきたか知らないし、君がどんな過去を送ってきたかも知らない。……だけど、それでも君を護りたいって思ったんだ。だから、僕は君を絶対に護る。誰が相手になっても、君を絶対に護るから」

 朱羅がそう言うと、背後から吹き出したような声が聞こえてきた。

「ったく、お前って本当にお人好しだな」

「む、悪かったね」

「誉めてんだよ」

 イレーネが言った直後、朱羅の背中に何かが強く押し付けられた。どうやらイレーネが自分の顔を朱羅の背中に強く押し付けたらしい。朱羅が思わず振り返ろうとすると、その前にイレーネの声が朱羅の行動を押しとどめた。

「振り向くな。振り向いたら殺す」

 背後から聞こえて来た、かすかに涙混じりの声に、朱羅はうんと柔らかく微笑んで返事をしながら歩き続ける。

「……朱羅」

「何?」

「――――」

 聞こえて来た声はとても小さなものだったが、それでも朱羅の耳にははっきりと聞こえた。

 彼女の、とても嬉しそうな。

 ありがとう、という言葉は。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一週間後の朱羅の誕生日。朱羅とイレーネ、プリシラの三人はアスタリスクの公園へと来ていた。

 一週間前に不良を撃退した朱羅とイレーネは無事にマンションへと帰り、涙を浮かべたプリシラの抱擁を受けた。翌日、二人の体を心配したプリシラに病院へと半ば強引に連れていかれたのだが、星脈世代である事が幸いして二人共軽い治療を受けただけで済んだ。そして朱羅の誕生日である本日、何故か公園へと朱羅は連れてこられた。

 空は快晴であり、足元には緑色の芝生が広がっている。その芝生の中央辺りで、プリシラが三脚を置いてその上にカメラを着けていた。

 その様子を眺めながら、朱羅が横にいるイレーネに尋ねる。

「ねぇイレーネ。どうして写真を撮るの?」

「決まってんだろ。お前への誕生日プレゼントだよ」

「僕の?」

 ああ、とイレーネは首肯してから、

「写真ならいつでも見れるし、ずっと残るだろ? そんなプレゼントの方がお前には良いかもしれねーなって思ったんだよ。……言っとくけど、文句があっても聞かねぇぞ」

 そんなイレーネの言葉を朱羅はきょとんとした表情で聞いていたが、ふっと柔らかい笑みを浮かべると言った。

「文句なんてないよ。誕生日プレゼントありがとう、イレーネ」

「はっ、どういたしまして」

 すると、カメラを三脚に着けていたプリシラが大声を上げた。

「撮るよー!」

「おう、早く来いプリシラ!」

「うん!」

 プリシラは急いでイレーネの横に来ると、カメラの方を向く。それに朱羅とイレーネもカメラの方を向くと、イレーネが何故かにやりと笑って、

「よっと!」

「うわっ!?」

「きゃっ!」

 突然イレーネがプリシラと朱羅を片腕で抱き寄せ、彼女の行動に朱羅とプリシラが驚いた声を上げた。

「笑え、お前ら!」

「まったく、イレーネったら……」

「あはは!」

 イレーネの言葉と同時に、朱羅とプリシラは言われた通りに笑顔を浮かべる。

 その直後、カメラのシャッターが自動的に切られた。

 映し出された写真には、嬉しそうな笑みを浮かべた、二人の少女と一人の少年が映っていた。

 

 

 

 

 

 この時三人は、こんな日常がこの後もずっと続くのだと信じて疑わなかった。

 だが、三人は知らない。

 この日常に潜む強烈な悪意を。

 その悪意が悲劇を起こし、イレーネ・ウルサイスという少女の心に深い傷を残すのだという事を。

 三人はまだ、何も知らないでいた。

  

 

 

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