学戦都市アスタリスク black trickster 作:白い鴉
朱羅の誕生日からさらに時間が経ち、季節は夏に入った。
現在は六月であるが、梅雨にはまだ入っていない。その代わりと言わんばかりに熱気を放つ太陽が、アスタリスクの上空を占拠する日々がほぼ毎日続いていた。しかしニュースによるとあと数日ほどで梅雨に入るとの事なので、そうなったら太陽もしばらくの間はその姿を雲に隠すだろう。とは言っても、六月の夏特有の湿気が纏わりつく暑さは消えないだろうが。
そしてそんな六月のある休日、レヴォルフ黒学院のトレーニングルームでは、太陽の熱に負けない熱気がその場を支配していた。
「おらぁっ!」
イレーネ・ウルサイスの叫び声と共に、覇潰の血鎌の横薙ぎの一撃が有真朱羅の首を刈るように放たれる。
しかし朱羅はその一撃を一歩後ろに下がってかわすと、逆にイレーネとの距離を詰めて剣撃を放つ。イレーネは大鎌の柄でその攻撃を防ぐと、反撃と言わんばかりに大鎌の鋭い一撃を放った。が、その一撃すらも朱羅はその場に屈みこんでかわすと一旦距離を取って体勢を立て直す。
(くそ、ちょこまかとやりづれぇ……!)
剣を正眼に構えて自分を観察するように見つめる朱羅を睨みながら、イレーネは心の中で毒づく。
男子高校生としては小柄な体格の朱羅だが、その分素早い上に小回りがかなり効く。しかもそこに彼独特の、派手ではないがその分堅実な剣術が噛み合うせいで、防御を突破する事がまったくできない。先ほどから攻撃しても、彼に一撃すら入れる事ができないのが良い証拠だ。
一撃を入れる事ができていないのは彼も同じだが、それでも一撃を入れられそうになった場面は先ほどから何回かあった。もしも気を一瞬でも抜けば、その瞬間彼の一撃は自分の体を捕らえるだろう。
さらに、厄介なのはそれだけではない。
朱羅はこの戦闘で、彼が得意とする高速の武器の切り替え――――『
つまり彼は、狙っているのだ。イレーネが決定的な隙を見せ、その隙を自分の瞬時切替が衝くのを。
彼の瞬時切替は第三者から見たらただの手品に見えるかもしれないが、こうして相対してみると分かる。彼の瞬時切替はもはや手品のレベルではなく、神業の領域にある。冗談ではなく、自分が一瞬でも隙を見せようものならばそれが敗北に繋がりかねないのだ。
だからこそイレーネは、彼の剣だけではなく彼の両手にも注意を向けなければならない。彼の瞬時切替は確かにすさまじいが、それは必ず両手を使って行われる。相変わらず武器を
だがそれは朱羅自身もよく分かっている。現にさっきから彼は瞬時切替を一度も使っていない。自分の特技がイレーネに警戒されている事を彼も理解しているのだ。だからこそ、こうしてまだ決定打に至る事ができていない。
そしてそんな状況で、勝つためにイレーネが打つ手はただ一つ。
(瞬時切替を出される前に、とっととケリをつける……!)
そう考え大鎌を自分の腰のあたりで止めると、強力な一撃を加えるために両腕に力を込める。そして次の瞬間、地面を蹴り朱羅目がけてまるで弾丸のように突進した。
その速度に朱羅はかすかに目を見開くが、あまり動揺しているようには見えない。確かに速い事は速いが、いくら何でも馬鹿正直すぎる。これならどれほど強力な横薙ぎの一撃を放たれたとしても、先ほどのように体全体をかがめるか、後ろに一歩下がるだけで攻撃をかわす事もできる。
しかし朱羅は、その攻撃を体全体を屈めてかわす事にした。あの速度ならばイレーネも急には止まれないだろうし、イレーネとの距離を急速に詰めてしまえば自分が遥かに有利だからだ。そう考えて朱羅が攻撃を待ち構えようとしたその時。
イレーネの口角が、にやりと凶悪に吊り上がった。
「甘ぇよ、朱羅」
そう告げた直後、大鎌が横薙ぎの態勢から急に地面へと下げられた。重力を操る大鎌の刃がガリガリガリ!! とけたたましい音を立てて床とこすれ、オレンジ色の火花を散らす。
イレーネの狙いに気づき、朱羅は今度こそ目を大きく見開いた。彼女が狙っていたのは横薙ぎの強烈な一撃なのではない。それを予測して待ち構えた自分を逆に倒すための、まったく予想外の方向からの一撃。
「おおおおおおおおおっ!!」
叫びと共にイレーネが下段に構えた大鎌を一気に振り上げ、大鎌の刃が唸りを上げながら朱羅の校章へと放たれる。しかし顔をしかめた朱羅は間一髪後ろに軽く跳ぶ。そのおかげというべきか、トレーニングウェアを軽く切り裂かれはしたものの攻撃をどうにかかわす事に成功する。
だが、ここで終わるようならばイレーネ・ウルサイスという少女は、アスタリスクの中でも最も序列争いが激しいと言われているレヴォルフ黒学院の序列三位の座についていない。
イレーネは鎌の刃を完全に振り上げると、くるりと手首を返して刃の切っ先を下に向ける。刃の切っ先には無論、朱羅の体があった。
「これで終わりだ!!」
自らの勝利を確信したイレーネが叫びながら
そう思われた、次の瞬間だった。
「……甘いよ、イレーネ」
朱羅は小声で告げた直後、腕を思いっきり伸ばして剣の柄の部分を勢いよく大鎌の刃の根元の部分に叩きつけた。ギィン! という金属音が響き、大鎌の刃の切っ先は朱羅の校章の数センチ手前で止まる。
「何っ!?」
「はぁっ!」
イレーネが驚愕の声を上げると、朱羅が気合の声と共に大鎌を上方に弾く。その結果大鎌が上に跳ね上げられ、大鎌を持っていたイレーネの体もバランスを崩して後ろにのけ反ってしまう。
「くそっ!」
悔し気な声を上げながら、イレーネがすぐさま体勢を立て直そうとする。
だが。
「……僕の勝ちだよ、イレーネ」
ようやく体勢を立て直した彼女に向かって、朱羅が笑みを浮かべて言った。彼の剣を握る右手とは反対の左手には、
「……チッ」
舌打ちをすると、イレーネは
「だー! また敗けた! これで五敗目かよ!」
「そんなに悔しがる事は無いと思うよ? 最後の攻撃には、僕も焦ったし」
「はっ、何だそりゃ? 勝者の余裕か? 生憎、そういうのが一番ムカつくんだよ!」
「い、痛たた! やめてよイレーネ!」
朱羅の首に右腕を回して強く締めると、彼から苦しそうな声が漏れた。
言葉だけ聞いてみると機嫌が悪そうに聞こえるが、言葉に反してイレーネの顔には笑みが浮かんでいる。彼女も本気で怒っているわけではなく、悪ふざけのつもりなのだろう。朱羅もよく見てみると、苦しそうではあるもののどこか困ったような笑みを浮かべている。
そんなじゃれ合いをする二人に、トレーニングルームの端で二人の戦闘を見ていたプリシラが声をかけた。
「お姉ちゃん! 朱羅さん! そろそろ休憩にしよう!」
「っと、確かにそうだな。少し休もうぜ、朱羅」
「うん」
そう言うとイレーネと朱羅は、二人揃ってプリシラの方に向かって歩いて行った。
二人がプリシラの前に辿り着くと、プリシラはスポーツ飲料の入ったボトルを二人に手渡した。イレーネは飲み口に口をつけてスポーツ飲料を飲むと、ふーと一息つく。
「だけど、このあたしが覇潰の血鎌の能力を使っていないとはいえ、こうまで負けが続くとはな……。やっぱ体術ももっと鍛えておいた方が良さそうだな……」
「でも、イレーネは体術のセンスが元々高いから、そのままでもそこら辺の相手には負けないと思うよ?」
「へっ、嫌味にしか聞こえねぇっての。大体、体術を鍛えてねぇからこうしてお前に負けてるんだろうが」
イレーネはそう言ってから、ボトルの飲み口に再び口をつけた。
二人が訓練をしているのはレヴォルフ黒学院のトレーニングルームだった。いや、正確にはイレーネ専用のトレーニングルームといった所だろう。そのため、三人以外には誰もいない。ちょっとした体育館ぐらいの広さがあるが、無論誰にでもこのような空間が与えられているというわけではない。学園の中でも指折りの強者である、『
では何故、休日の朝から二人がこんな場所で戦っているかというと、簡単に言えば今よりもさらに強くなるためだ。
先月朱羅がイレーネを敵対視するレヴォルフのグループに拉致された際に、覇潰の血鎌を使っていなかった事に加え相手がテーザー銃という武器を持っていたとはいえ、一時イレーネは地面に倒れ伏せ、危うく少年達に半殺しにされかねない所だった。自分のトラウマを克服した朱羅が加勢してくれたから良かったものの、また同じような事にならない保証はどこにも無い。そのため、今よりももっと強くなるために二人はたびたびここで訓練をするようになった。ちなみに模擬戦闘の際は二人共いつものレヴォルフの制服ではなく、トレーニングウェアである。
ただし、訓練を行う上で二人は条件を付けて戦っていた。イレーネは覇潰の血鎌の能力は使わず、朱羅は自らの得意とする
イレーネの場合は、いくら訓練とはいえ能力の燃費が悪い覇潰の血鎌を使うわけにはいかなかったからだ。再生能力者のプリシラがいない訓練では圧倒的に朱羅の方が有利だし、いくら何でも訓練で妹のプリシラを傷つけるわけにはいかないといった理由からだった。
イレーネはその事を朱羅に伝えると、彼はその条件を快く承諾してくれたものの自分も一つの条件を出した。それは、訓練中の瞬時切替の使用を三回までに限定するという事だった。
瞬時切替は確かに朱羅の得意技だが、戦闘では何が起こるか分からない。何かのアクシデントで、瞬時切替が使えなくなる事だって充分に考えられる。朱羅はイレーネの提案を承諾する条件として、その事をイレーネに言ったのだ。
最初イレーネは渋っていたが、こういう場面では朱羅は結構頑固な一面を持っている。そしてこういった事も自分とイレーネのために必ずなるという朱羅の言葉を受けて、イレーネは渋々その提案を承諾したのだった。
それから二人はこれまでに五回ほど訓練をしていたのだが、イレーネは朱羅には一度も勝てなかった。
剣術の腕や体術が卓越しているわけではない。確かにそれらの腕はかなりのものだが、彼よりも高いレベルの剣士などは、この学園都市にはかなりいる。
にも関わらず、イレーネはこの童顔の少年に勝つ事が一度もできずにいた。その実力の高さはもちろん、何か奇妙なやりにくさがあって、どれほど戦闘で優勢だったとしても最後には必ず自分が負けているのだ。
イレーネは飲み口から唇を離すと、プリシラから受け取ったタオルで汗を拭いていた朱羅に尋ねた。
「だけどよ朱羅。真面目な話、どうやってお前はあたしに勝ってんだ? お前と戦ってると、どうもやりにくく感じるし……。何かタネがあるのか?」
すると朱羅は、タオルで汗をぬぐいながらあっさりと言った。
「そりゃああるよ。そうじゃなかったら僕はとっくの昔にイレーネに負けてる」
「じゃあ、それは一体なんだってんだよ」
「関節」
「関節?」
イレーネが怪訝な声を出すと、朱羅はうんと頷いてから、
「僕達
「こいつの?」
イレーネは
「そもそも大鎌っていうのは剣や斧に比べると、使いやすい武器とは言えないんだ。元々鎌は草を刈り取るために使われてた武器だし……。突き刺したりするなら話は別だけど、それは鎌の場合だからね。覇潰の血鎌のような大鎌の場合だと振り回したりするのに力がいるから、相手に突き刺すだけでも一苦労なんだ。もちろん使いこなしたりした人なら大鎌でも十分に戦えるけど、それでも剣の達人とかが相手だと少し分が悪いかもね」
「……じゃあ、あたしがお前に勝てないのは、武器の相性のせいだって言うのか?」
「負けてる原因が全部それだとは言わないけど、近距離での戦いとなるとやっぱり大鎌を使ってるイレーネの方が不利になりがちなのは確かだね」
ふーん、とイレーネは覇潰の血鎌の発動体を見ながら相槌を打つ。今まではそういった事を気にした事は無かったが、確かに朱羅の言う通りなのかもしれないと思う。実際に朱羅との白兵戦では、かなりやりづらい気がしてならない。彼の言う関節以外に要因があるならば、それは間違いなく自分の大鎌と彼の剣との相性のせいだろう。
「相性の差を埋める何か良い手とかはねぇのか?」
「単純だけど、今よりも大鎌を操る腕を磨く事ぐらいかな? あとは仮に実戦で能力を使うなら、覇潰の血鎌の能力を今よりうまく使ったり、能力を使わないなら自分の得意な間合いを取り続けたりとか……」
「だけどよ朱羅。お前だって槍を使ってるとき、近距離になったら柄を短く持って対応してるじゃねぇか」
「あれは一時しのぎみたいなものだよ。あのまま戦っても、剣の達人とかが相手じゃすぐに破られる。だから一応の対応策とかは必要だけど、それでもやっぱり自分の得意な間合いを取り続けた方が勝つ可能性は高くなる。だからイレーネも、そういう風に戦った方が良いんじゃないのかな?」
話を締めるように、朱羅は言った。つまりは訓練あるのみと言った所だろう。
上等だ、と話を聞いてイレーネは思う。今回の戦いで自分の課題がいくつか見つかったが、それは要するにまだまだ自分は強くなる事ができると言われているのと同じ事だ。自分にできる事は全て行い、誰にも負けないぐらいの強さを身に着けなければならない。
イレーネは心の中で強く思うと、ドリンクをがばりとあおってから朱羅に言う。
「だけど、お前も相当強いよな。いくら覇潰の血鎌の能力を使ってないとはいえ、あたしに五回も勝つなんざそうそうできる事じゃねぇぜ? どうやったらそんぐらいまで強くなるんだ?」
今日改めて模擬戦闘を行って改めて分かったが、朱羅の戦闘能力の高さの秘密は瞬時切替だけではない。相手の攻撃を的確にさばく堅実な剣術。そして相手の行動を予測し、その隙を素早く衝く高い洞察力。どれもこれも、一朝一夕でできるような芸当ではない。一体どのような事をしたら、そこまで強くなる事ができるのだろうか。
しかし朱羅は自分の強さを誇るような態度を見せず、あっさりと返した。
「別に大した事はしてないよ。何回も剣を振ったり、走りこんだり、あとは瞬時切替の練習。それだけを繰り返しただけだよ」
「……たったそれだけで、あそこまで強くなる事ができるのか?」
イレーネは怪訝な表情で彼に尋ねる。何か特別な訓練などせず、ただの反復練習であそこまでできるようになるものなのだろうか。すると朱羅は、どこか悲しそうな笑みを見せた。
「たったそれだけしかできなかったんだよ、イレーネ。僕と戦って分かったと思うけど、僕の剣術や槍術は、この学園にいる一流達と比べたら遥かに見劣りしちゃうんだ。真正面から戦ったら、間違いなく彼らが勝つよ」
「………」
「どれだけ鍛えても、僕は凡人だからね。一生懸命頑張っても彼らの領域には到達できない。だから、色んな事を必死に学んだんだ。一つの事を極める事ができないなら、せめてたくさんの事を覚えて鍛えようって。で、その結果できた僕なりの戦術が、こんな器用貧乏な戦い方だって事。結構大変だけどね」
そう言って朱羅は、あははと笑った。
だが、イレーネは笑う事ができなかった。
朱羅は器用貧乏だと笑っていたが、あれほどの武器を自由自在に操る様はとても器用貧乏などというレベルではない。しかもそこに瞬時切替という、戦況を変えるだけではなく戦況を作り出す事すら可能にする朱羅特有の
それは、彼の言う一つの事を極めた人間からすれば節操が無いと言われる戦術かもしれない。
だがそんな事は、朱羅には関係なかった。
全ては、自分が護りたいと思う人を助けるために。そのために彼はひたすら自分にできる事を反復練習し、その結果あらゆる武器を操る力と高い洞察力、そして瞬時切替という
それは紛れもなく、あらゆる事を貪欲に吸収し、鍛錬し続けた朱羅だからこそ身に着ける事ができた力だ。他の誰にも笑われる筋合いなど無い。
だから、イレーネは朱羅に言った。
「……良いじゃねぇか」
「え?」
「……お姉ちゃん?」
突然そんな事を言ったイレーネに、朱羅と話を聞いていたプリシラが目を若干見開いてイレーネの方を向く。イレーネは真剣な表情で、朱羅に言った。
「別に器用貧乏だって良いじゃねぇか。どんな戦い方だろうと、戦闘で勝ったらそいつの戦い方の方が強かったって事だ。現にさっきからの模擬戦闘だって、お前のその戦い方の方が強いからあたしは五回も負けたんだ。馬鹿にされる理由なんてどこにもありゃしねぇよ。もしそんな奴がいるとしたら、あたしがぶっ潰してやる」
そう言ってイレーネは再び飲料を飲んだ。朱羅は少し驚いたような表情でイレーネを見ていたが、やがておずおずと彼女に尋ねた。
「それって……誉めてくれたの? フォローしてくれたの?」
「両方だ馬鹿。少なくとも、お前のその器用貧乏な戦い方は、十分に強いってあたしは言ってんだよ」
「そっか……。ありがとう、イレーネ」
イレーネの励ましの言葉を聞いて、朱羅が柔らかい笑みを浮かべる。不意打ちとも言えるその笑顔に、イレーネは自分の笑顔が真っ赤になるのを感じて慌てて顔を背ける。
朱羅の厄介な所が、こんな風に真っすぐに感謝の言葉を伝える事ができる所だとイレーネは考えている。彼の柔らかい笑顔と優し気な声を聞くだけで、自分の心臓が狂ったようにバクバクと高鳴るのだ。朱羅と知り合ってからそういった事はたまにあったが、この前朱羅と一緒に窮地を切り抜けてからはこう言った事が多くなったように思う。まったくこれは一体何なんだ、とイレーネは自分の胸に手を抑えた。
ちなみに、自分から顔を背けたイレーネの事を朱羅は不思議そうな表情で見ており、一方のプリシラは何故かとても嬉しそうな表情でイレーネを見つめていた。
「ん、んな事より朱羅! 覇潰の血鎌の能力を今よりもっとうまく使うってなんだよ」
「あ、うん。イレーネの覇潰の血鎌の重力制御の能力を見て考えたんだけど……。ただ相手を押しつぶしたり、重力球を生み出すだけっていうのは、ちょっともったいない気がしてね」
「一応相手を浮かす事もできるぜ?」
「あ、そうなんだ。だけど僕の言いたい事はそういう事じゃなくて……」
「……?」
それからイレーネは朱羅の助言に耳を傾けてから、それを早速実践してみる事にした。
まずは覇潰の血鎌の発動体を起動。すると瞬時に大鎌が形成され、血の色の刃が妖しく輝く。
それからイレーネが大鎌を軽く振るうと、彼女の腰の辺りに大きめの重力球が出現した。それを確認してから、イレーネは朱羅に視線を戻す。
「おい、これで良いのか?」
「うん。じゃあとりあえずやってみてよ」
「ああ」
そう言うと、イレーネは軽く跳躍して重力球の上に飛び乗る。重力球はその場で弾ける事無くイレーネの体を支えるが、重力球に乗っているイレーネの体は見るからに不安定そうにふらふらしていた。
「っと、やべ、結構むずいぞこれ……!」
「ど、どうにか耐えて! 君の体のバランスの良さを考えると、コツを掴めば簡単にできるようになるはずだから……!」
「そ、そうは言っても……おうわぁ!!」
悲鳴の直後、バランスを崩したイレーネの体が床に投げ出され、ドスンという痛そうな音を響かせる。その音に、朱羅と姉の様子を見守っていたプリシラは思わず両目を瞑った。
一方、背中を強く打ち付けたイレーネは顔をしかめながら、体をゆっくりと起こした。
「いてて……」
「だ、大丈夫?」
「ああ、なんとかな……。だけど、お前の言う事ができるようになるには、少し慣れが必要だぜこれは……」
「みたいだね……」
イレーネの感想を聞いた朱羅は少し残念そうな声音で言った。
朱羅が提案した事とは、イレーネが攻撃の際に生み出す重力球をうまくコントロールすれば、空中を駆ける事も可能なのではないかという事だった。空中を駆ける事ができるようになれば空中を飛ぶ事ができる魔女や魔術師に対抗する事ができるようになるし、何よりも空中に逃げる事ができるようになればすぐに体勢を立て直す事も可能になるかもしれない、という事だった。
それを聞いてイレーネは確かに戦闘の助けになるかもしれないなという考えと、面白そうというほんの少しの好奇心で、それに挑む事にした。しかし通常生み出している重力球では、使い手であるイレーネにダメージを与えかねない。空を駆けるようにするためには、重力球そのものの力を少し変えてやる必要があった。
そう考えイレーネが重力球の力を少し調節した結果、元々の重力球ほどの威力は持たないものの、使い手であるイレーネが乗ってもダメージを負わない重力球が完成した。これならば空中を駆ける事ができるかもしれないと思われたが、別の問題が生じた。
そもそもこの重力球に乗るのが難しく、少しでもバランスを崩せば今のように地面に投げ出されてしまうのだ。これでは実戦ではまったく使う事ができない。仕方がないので、完全に使いこなす事ができるようになるまでは練習を繰り返す事となった。
一方、ふと現在の時刻が気になって持ってきた時計を見たプリシラが、あっと声を上げた。
「朱羅さん、お姉ちゃん。そろそろお昼時だよ。今日の所はここで切り上げて、お昼ご飯食べない?
「そうだね……。あ、そうだ。いつもプリシラさんに作ってもらってばっかりは悪いから、今日は僕が作るよ。プリシラさん、良い?」
するとその言葉に、プリシラがえ? と驚いたような顔で朱羅を見つめる。
「私は別に大丈夫ですけど……良いんですか?」
「うん。それにプリシラさん、食事だけじゃなくて家事もほとんど一人でやってるんでしょ? 今日のお昼ご飯ぐらい、誰かに任せてもバチは当たらないと思うよ?」
朱羅の言葉にプリシラはしばらくうーんと深く考え込んでいたが、やがて結論が出たのか朱羅に言った。
「じゃあ、折角ですし、お言葉に甘えても良いですか?」
「うん、任せてよ。プリシラさんほど美味しいご飯ができるかは分からないけど、頑張るからさ」
「おいおい。あたしもお前が作った飯を食うんだぜ? 今からそんな事を言うのはやめてくれよ」
「あ、ごめんごめん!」
そんな風に軽口を叩き、笑いあいながら三人はトレーニングルームを出た。
それから三人は一旦分かれるとそれぞれの控え室に備え付けられているシャワールームで汗を流し、トレーニングウェア姿からいつものレヴォルフの制服を着た姿に戻ると、学園を出て昼食の食材を買うために地下鉄に乗り、商業エリアへと向かった。
商業エリアに辿り着き、朱羅とプリシラ行きつけのスーパーへと向かっていると、イレーネが忌々し気に呟く。
「くそ、暑いな。まだ六月に入ったばっかりだっていうのに、この暑さはマジで冗談じゃねぇな」
「確かにね。だけどあと数日したら梅雨に入るから、そしたら少しはマシには……ならないか。どっちみち、ジメジメっとした暑さが続くだけだね……」
「それに梅雨に入ったら雨が多くなるから、洗濯物も乾きにくくなっちゃいますしね」
「だけど無かったら無かったで、雨量不足で野菜の値段が高くなっちゃうかもしれないんだよね。僕は六月はそれが一番怖いよ……」
「あ、それ何となく分かります」
朱羅とプリシラは二人共料理を作る身のため、そういった事に関しては二人共思考が似通っていた。実際に料理の事となると二人共結構話が合い、長い間話し込んでしまう事も多い。ちなみにその間食べる専門のイレーネは話に入る事ができないので、仲間外れにされた気分を味わいながら二人の会話が終了するのを待つだけである。
しかし今回は珍しく話はそこまで長くはならなかった。話をしていた朱羅が、何かを思い出したのか唐突に料理に関する話題を打ち切ったからだ。
「あ。そう言えば、八月って確かあれだよね?」
「ん? ああ、
朱羅が何を言いたいのか察したのか、イレーネがその単語を口にした。
その特徴は、同じ学園に所属する者同士がペアを組み戦うタッグ戦。
ペアの間の相性や戦術が勝利の鍵となる戦いである。
この星武祭を最も得意としているのは六導館学園だが、近年はあまり成績が振るわず、前年の成績は総合五位。最下位であるクインヴェールは総合順位を度外視しているので、実質上最下位と言える順位である。
「レヴォルフでも誰か出るのかな?」
「出ると思うぜ? 有力な奴を挙げるなら、序列十二位『
「へぇ……。あれ? レヴォルフの有力選手って、それだけなの?」
「あー、どうだろうな。だけどそいつら以外に鳳凰星武祭で良い成績を残した奴らってのはあまり聞いた事がねぇしな。今回はそいつらぐらいじゃねぇの?」
「ふぅん。あんまり力を入れてないんだね」
「そりゃあまぁな。うちが力を入れてるのはただ一つ、
「絶対王者?」
「おいおい、さすがに名前ぐらいは知ってるだろ? ……『
「ああ、そうだそうだ。そんな名前だった」
呆れ混じりに放たれた名前に、朱羅はポン、と掌を打った。
オーフェリア・ランドルーフェン。星武祭が世界から注目を集めるこの世界で、知らないものはほとんどいないとされる人物だ。
レヴォルフ黒学院が誇る、史上最強とも言える『
「お姉ちゃんは、オーフェリアさんに会った事があるの?」
話を聞いていたプリシラがイレーネに尋ねた。戦闘に参加する機会がないとはいえ、オーフェリアは最強の魔女だ。同じ星脈世代として、プリシラも気にある所があるのだろう。
しかし、イレーネは何故か苦虫を噛み潰したような表情を浮かべると、
「見た事はある。……だけど、ありゃあ別格だ」
「別格って?」
「文字通りだ。星脈世代は普通の人間とは違うが、その中でもあいつは別格なんだよ。同じ星脈世代でも、あたし達とは根本的に違う。……忠告しとくが、あいつとは関わらない方が良い」
イレーネの言葉に、朱羅は思わず唾を飲みこんだ。
レヴォルフ黒学院序列三位の実力を持つイレーネに、そこまで言わせるほどの実力の持ち主。一体、どんな人物なのだろうか?
朱羅がイレーネの話を聞いて考え込んでいると、何故かイレーネがふっと笑って朱羅の頭をくしゃっと撫でた。
「ま、普通に生きてたらあいつと関わる事なんて無いだろ。今はそんな事より、さっさと飯にしようぜ! で、何を作ってくれるんだよ朱羅」
「あはは……。それはできてからのお楽しみだよ、イレーネ」
朱羅は笑いながら、食いしん坊な少女にそう返した。
それから一時間後、デパートで買い物を終えた三人はイレーネの住むマンションへと戻ってきていた。イレーネとプリシラはリビングでテレビを見ており、朱羅は台所を借りて昼食を作っていた。
イレーネが頬杖をついてテレビを見ていると、隣に座っていたプリシラがイレーネに尋ねた。
「何作ってくれるんだろうね、朱羅さん」
「さぁな。ま、美味いものって事だけは確かだな」
朱羅は謙遜しているが、彼の料理の腕は男子高校生としてはかなり高く、プリシラに勝るとも劣らないほどである。前に朱羅が作ったという弁当のおかずを食べさせてもらったのだが、その味は普段二人分の料理を作っているプリシラと彼女の美味しい料理で舌が肥えているイレーネが太鼓判を押すほどである。不味いという事はあり得ないだろう。
なお、その時にあまりに美味しくてイレーネが朱羅のおかずの半分を食べてしまい、彼女はプリシラから怒られる事となった。
二人がテレビを見ながら静かに待っていると、台所の方から待ちに待っていた声が聞こえて来た。
「できたよー」
「おっ! 待ってたぜ!」
イレーネが嬉しそうな声を上げると同時、エプロンを身に着けた朱羅が茶碗を両手に持ってリビングに歩いていてきた。そして茶碗を一度テーブルに置き、再び台所に戻ってからもう一つの茶碗や皿などをテーブルに並べていく。
やがて全ての料理を並べ終えると、三人共テーブルに着く。茶碗の中にある料理を見て、イレーネが言った。
「なぁ朱羅。これって……」
「うん。冷やし茶漬け」
朱羅の言う通り、茶碗の中に入っていたのは冷やし茶漬けだった。冷ましたご飯に出汁がかけられており、さらに刻み海苔、白ごま、ほぐした鮭、キュウリが入っている。
そう言えば、とイレーネが改めて見てみると、テーブルの上のさらにはどれもみょうが、トマト、大根おろし、梅干しなど様々な具材が入っている。どうやらこれらはお茶漬けに入れる用の具材らしい。
「今日は暑いし、これなら食べやすいかなって思って作ったんだ。本当は氷を入れようかなって思ったんだけど、これぐらいで十分かなって思って入れなかったんだ。必要なら入れるけど……」
「いいや、あたしはこれで良いぜ」
「私もです。わぁ、お茶漬けなんて初めて……」
「え、作った事無いの?」
「はい。こういったものはあまり作った事が無くて……」
「そうなんだ……」
料理好きなプリシラがお茶漬けを作った事が無いという言葉は朱羅にとっては意外だったが、考えてみればイレーネとプリシラは元々外国で生まれた姉妹だ。それにプリシラが作る料理もどちらかと言うと洋食が中心なので、お茶漬けを作った事がないというのもなんら不思議ではない。
「じゃあ二人にとっては初めてのお茶漬けだし、そろそろ食べようか」
「ああ、そうだな。いただきますっと」
「「いただきます」」
三人はそれぞれ手を合わせて言うと、茶碗の前に置かれているスプーンに手を伸ばした。箸にするかスプーンにするか迷ったが、食べやすい方が良いだろうという理由で朱羅がスプーンを選んだのだ。
イレーネはスプーンを持つと、さっそくご飯をすくって口に運び、もぐもぐと噛む。
「む………」
イレーネは少し目を見開いてご飯を飲みこむと、ポツリと呟いた。
「美味い……」
「そう? それは良かった」
そう言う朱羅も、自分の分のスプーンで自分が作ったお茶漬けを美味しそうに口に運ぶ。どうやら作った彼が食べてみてもお茶漬けは会心の出来だったらしい。
また、それはプリシラも同様だったようで、美味しそうに笑いながら言う。
「この出汁、すごく美味しいです。今度作り方を教えてもらっても良いですか?」
「うん、良いよ。でも、自分で言うのもなんだけどやっぱり美味しいなぁ。夏は食欲が湧かない時もあるからお茶漬けを作る事は多いんだけど、不思議な事にお茶漬けだと結構食べられるんだよね」
「本当ですね。すぐにお代わりできちゃいそう」
二人がそんな会話をしていると、イレーネが空の茶碗を朱羅に差し出した。
「お代わりくれ」
「もう食べちゃったの?」
「別に良いだろ? あれだけ動き回ったんだし、腹減ってるんだよ」
仕方ないなぁ、というように苦笑しながら朱羅はご飯を茶碗によそってイレーネに渡してやる。そのやりとりがどこか微笑ましくてプリシラは思わずくすりと笑ったが、二人はそれに気が付いていないようだった。
一方のイレーネは出汁をご飯にかけると、その上に皿に入っていた具材を入れて食べる。まず手始めに入れたのはトマトだった。トマトと茶漬けを食べながら、イレーネは嬉しそうに言う。
「中々合うんだな、トマトと茶漬けって。さっぱりして食べやすい」
「梅干しも美味しいよ、お姉ちゃん。ちょっと酸っぱいけど……」
様々な具材を入れてお茶漬けを楽しむ二人を見て、朱羅は喜んでもらえて良かったと思いながら自分の茶漬けの上にきゅうりを入れて食べ続ける。
そして、それから三十分後。
「ごちそうさまでした、と。はぁ、
「あはは、喜んでもらえて良かったよ」
食事を終えて体を伸ばすイレーネに、朱羅は笑顔で言った。
この暑い日に朱羅の作ったお茶漬けは非常に食べやすく、プリシラは一杯、朱羅とイレーネは二杯ご飯をお代わりする結果となった。朱羅とプリシラは空になった茶碗などを台所に運び、それから朱羅が食器を洗おうとすると、それを見たプリシラが言った。
「あ、朱羅さん。私も手伝います」
「え、いいよ。今日は僕が作ったんだし……」
「美味しいご飯を食べさせてもらったんですし、これぐらいは大丈夫です。さ、早く終わらせちゃいましょう!」
プリシラはいつもは基本的に穏やかなのだが、一度決めると動かない意思の強さを持っている。そしてそういった人間の意見を翻させる事は非常に難しい事だと、朱羅は知っていた。何せ、自分もそういった種類の人間だからである。
プリシラのその言葉に負けて、朱羅はプリシラと一緒に食器を洗い始めた。食器は三人前だが横にプリシラがいてくれるので、この速さならすぐに終わるだろう。食器を洗う手を動かしながら、そういえばイレーネは何をしているんだろうと思いふと彼女の方向に目をやる。
すると、
(………?」
イレーネは椅子に座ってテレビを見ながらも、ちらちらと朱羅とプリシラを見ていた。しかし朱羅がその視線に気が付くと、イレーネは慌てて二人からテレビに視線を戻し、何事も無かったかのように装う。その行為に変なのとは思いはしたが、後で彼女に聞いてもきっと何も答えないだろうなと朱羅は思い、そのまま洗い物を続ける。
ちなみに、イレーネが二人の事をちらちらと見ていたのは、洗い物をしている二人がまるで夫婦のように見えてしまったからである。その光景を一瞬ではあるが羨ましく思ったのと、二人だけに家事を任せて自分だけテレビを見ている事に罪悪感を覚え、イレーネは心の中で家事を覚えようと密かに誓った。
その後二人は洗い物を終えると、椅子に座ってイレーネと一緒にテレビを見る事にした。こういった事も、最近のウルサイス姉妹と朱羅の日常となっている。朝から訓練に励み、昼はこうして三人一緒に食事をし、夕食を済ませて時間が経ったら自分の学生寮へと朱羅が帰る。朱羅と二人が知り合って二か月経ち、これが三人にとっての当たり前となっていた。平凡かもしれないが、三人にとっては幸せな日常。
朱羅がテレビをぼんやりと眺めていると、不意にイレーネが尋ねた。
「そう言えばよ、朱羅。お前、鳳凰星武祭に参加する気はないのか?」
「へっ?」
その言葉に朱羅は呆気に取られたような表情を浮かべてから、
「無いけど……どうして?」
「どうして、じゃねぇだろ? ここに来る奴らの大半はそれが目的だろうが。そりゃあお前の場合は事情が事情だし、そういった事にはあまり興味はないかもしれねぇけどよ。それでも、叶えたい願いの一つや二つぐらい、あるんじゃねぇの?」
朱羅がここに来たのは、自分の意思というよりも厄介払いという形に近い。だがそれでも、彼ほどの実力者ならば星武祭で優勝して、願いを叶えてもらうというのも決して夢ではないはずだ。
一方、朱羅は少し考え込んでから
「……だめだ、やっぱり無いや。特に欲しい物も無いし、お金も十分にあるし、これと言った目標も無い。うわ、僕って無欲な人間だったんだ……」
「自分で言うかよ、それ」
朱羅の言葉に、イレーネとプリシラは思わず苦笑する。無欲と言われると、確かにそのような感じはするが、それを朱羅自身が言うとどこかおかしく感じてしまう。
「イレーネは参加しないの? 鳳凰星武祭で優勝すれば、結構な量のお金が手に入るんじゃない? それを借金にあてれば……」
「あー、そりゃ無理だ」
と、イレーネは何故かひらひらと手を振ってから答えた。何故かと朱羅が尋ねようとすると、イレーネは顔をしかめながら答えた。
「ディルクとの契約なんだよ。そのせいであたしは星武祭への参加は制限されているし、仮に優勝したとしてもその賞金を返済に充てる事は出来ない事になっているのさ。まあ、できるだけ長くあたしを手駒として使いたいんだろうな」
「……酷いなぁ」
「ホントだぜ。あいつには関わらない方が良いぜ、ロクな目に遭わねぇよ」
朱羅が顔をしかめて言うと、イレーネは頷いて肯定した。それから何故かにやりと笑って、
「でも、お前がどうしても参加したいっていうなら、お前のパートナーになってやってもいいぜ? ま、その分レンタル料は高くつくけどな」
「あはは。その言葉は嬉しいけど、お金が無いからやめとくよ」
「なんだ、つまんねぇの」
頭の後ろで手を組みながらイレーネがつまらなそうに呟くが、その直後何故か勢いよく身を乗り出してから言った。
「そうだ。なぁ朱羅、来週の日曜日またカジノに行こうぜ! 最近行ってなかったし、また大金稼ぎといこうじゃねぇか!」
「こらこら、お姉ちゃん。いくらお金が必要だからって言っても、日曜日にカジノに行くのはどうかと思うよ? 折角の日曜日なんだから、カジノよりも別の場所に行った方が楽しいんじゃないかな?」
さすがのイレーネもプリシラの言葉には逆らえなかったようだが、その代わり困ったような表情で髪の毛をくしゃくしゃと掻く。
「別の場所って言われてもな……。ここら辺の店は大体行き尽くしちまったし……」
「そうなんだよね……。……あ!」
突然プリシラはパン! と両手を合わせて音を鳴らすと、椅子から立ち上がってリビングから出て行った。それに朱羅とイレーネが一瞬顔を見合わせるが、トテトテという音と共にプリシラがすぐに戻ってきた。彼女の両手には一枚のチラシが握られている。プリシラは再び椅子に座ると、持っていたチラシをテーブルに広げた。
「何だ? こりゃ」
「商業エリアに新しいデパートが開くんだって。結構色んなお店が入ってて面白そうだよ。デパートの中のお店で使える割引券もあるし、二人で行ってみたら?」
「ふーん……。確かに色々あるみてぇだな……。だけど、こんなでかいデパート建てる必要あんのかよ? ただでさえ商業エリアには店がかなりあるってのに……」
チラシを見ながら、イレーネが呆れたような声を出す。朱羅もチラシを見てみたが、確かにデパートの規模そのものは商業エリアの中でもかなりのものだ。さらに展開される店舗の数も多数あり、下手をしたら全ての店を見回るだけで一日かかってしまうかもしれない。だが、その分時間を潰すには中々良さそうではある。
「でも確かに結構面白そうだね。ちょっと行ってみようよ、イレーネ」
「ああ? ……まぁ、お前が言うなら別に良いけどよ……」
「良し、決まりだね。あ、プリシラさんもどう? 一緒に行かない?」
するとプリシラは何故か困ったような笑みを浮かべながら、残念そうな口調で言う。
「申し訳ないんですけど、その日ちょっと都合があって、私は一緒には行けないんです。ごめんなさい」
「そうなんだ……。じゃあ、また今度三人でどこかに行こうか」
「はい、そうしましょう。ですから、日曜日はお姉ちゃんと二人で楽しんできてくださいね」
「うん、そうするよ」
何故か二人でという箇所を強調していたが、朱羅がそれに気づく事は無かった。一方イレーネはチラシをじっと見て、どこか暇を潰せるような場所はないかと観察していた。するとこれといった店舗を見つけたのか、イレーネがチラシのある部分を指差しながら朱羅に言う。
「おい、朱羅。ここなんてどうだ?」
「え、どこどこ?」
そんな風に楽しそうにチラシを見て相談する二人を、プリシラはニコニコと嬉しそうに眺めていた。
それから数時間後、日がすっかり暮れ、夕食を済ませた朱羅が帰った後、イレーネは未だにチラシを見続けていた。その顔には、どこか家族と一緒に遊園地に行くのを楽しみにしている子供のような笑みがあった。イレーネのそんなあどけない笑みが非常に珍しくて、それを見ていたプリシラは思わずくすりと笑ってしまう。
「ん? どうした? プリシラ」
「ううん。何でもないよ。それよりお姉ちゃん、来週は朱羅さんとのお買い物、楽しんできてね」
「ああ、分かってるよ。でも、なんか悪いな。あたし達だけで行くような事になっちまって……」
気まずげにイレーネが謝ると、プリシラは首を横に振った。
「私なら大丈夫だよ、お姉ちゃん。また三人でどこかに行こう、ね?」
「……そうだな」
どうやらプリシラは本当に気にしていないらしく、それどころか朱羅とイレーネが二人で出掛ける事が本当に嬉しそうな笑顔である。プリシラがこんな笑顔をしているのに、自分達がいつまでも悩んでいたら逆に彼女の笑顔を曇らせてしまう。そう考えてイレーネは、来週は朱羅と一緒に思いっきり楽しむ事にした。
と、イレーネがそんな事を考えていた時、プリシラが笑顔のままこんな事を言い放った。
「じゃあ、明日の放課後は一緒に服を見に行こうよ、お姉ちゃん」
「……は?」
突然放たれたその言葉の意味が分からず、イレーネは思わず怪訝な声を上げてしまう。それから妹の意図を知るために、彼女に向かってこんな質問を放った。
「え、どうして服を買いに行く必要があるんだ?」
「だって、折角のデートなんだし、お洒落した方が良いでしょ?」
あっさりと返されたその答えにイレーネは思わず呆然とした表情になったが、ようやくプリシラの言葉の意味を理解すると、顔を真っ赤にして叫んだ。
「で、でででデートとかそんなんじゃねぇよ!! ただ二人で色々と見て回るだけだろうが!!」
「……お姉ちゃん。世間一般ではね、そういうのをデートって言うんだよ?」
「ち、違ぇし! あたしと朱羅はそういう仲じゃねぇし! た、ただの腐れ縁だ腐れ縁!!」
「ふぅん。じゃあそれ、朱羅さんに言っても良いの?」
プリシラの冷静な言葉に、イレーネは思わずぐっと言葉に詰まった。勢いでそう言ってしまったが、イレーネ自身腐れ縁だとは思っていない。では何かと言われると、まず一番に先に浮かび上がってくるのは血の繋がらない家族という単語だ。しかしイレーネ自身、何故かその考えにはもやっとしてしまう。家族とは少し違うと言うか、できればもっと違う関係の方が好ましいと言うか……。まぁ、その違う関係とは何かと言われると困ってしまうのだが……。
そんな姉の様子を見て、プリシラはふぅとため息をついた。
(お姉ちゃんったら、まだ自分の気持ちに気づいてないんだ。今までの環境を考えると、それも仕方ない事だけど……。でも私としては、お節介かもしれないけど二人の関係を進めたいんだよね。朱羅さんなら、お姉ちゃんの事を大切にしてくれるだろうし)
朱羅が心優しい人間だという事はもうとっくに知っている。彼ならば、イレーネを幸せにしてくれるという確信もある。あとは、二人の仲を少しでも進展させるだけである。例えそれが自分のお節介だとしても、やはり自分を今まで護ってくれた姉には幸せになって欲しい。そのためならば、自分にできる事はどんな事でも全力で行おう。
プリシラはイレーネに背を向けると、むん、と胸の前で両手で拳を握り心の中で固く誓う。それから振り返ると、明るい笑顔でイレーネに言った。
「とりあえず、明日の放課後は一緒に洋服を見に行こうよ! もしかしたら、朱羅さんが可愛いって言ってくれるかもしれないよ?」
「か、可愛い!? いや、まさかあいつが……でも……」
プリシラから顔を背けてブツブツと何やら呟いていたが、やがて心が決まったのかゆっくりと振り返る。その顔には、嬉しいのを必死に誤魔化そうとしている笑みが浮かんでいた。
「ま、まぁあれだ。別にあいつになんて思われても構わねぇけど? あ、あいつの間抜けな顔を見るのも面白そうだしな。と、とりあえず見るだけ見る事にする。それで良いだろ?」
「うん、良いよ」
素直じゃないなぁ、と心の中で思いながらプリシラは笑顔で姉に言う。
朱羅とイレーネにとっては買い物、プリシラにとっては二人のデートとなる日は一週間後。
成功して欲しいなぁ、とプリシラはその日の事を想像して思うのだった。
同時刻。
「くそっ! なんで俺がこんな目に遭わなくちゃ……」
再開発エリアの道を、一人の少年が歩いていた。だがその姿は見るにボロボロだった。口元からは血が滲んでおり、金色の染め上げられた髪の毛と服はすっかり乱れてしまっている。少年は口元の血を乱暴に拭うと、ちくしょうと呟いてからゆっくりとした足取りで歩く。
この少年は先月、朱羅を拉致しイレーネを襲ったグループの一人だった。しかし今では、そのグループは存在していない。先月トラウマを克服した朱羅と彼に助けられたイレーネによってグループが壊滅状態になり、しかもあとで通報されたのかグループのメンバーが気絶している所を、アスタリスクの警察に殉じる組織である星猟警備隊《シャーナガルム》に見つかり、ほとんどのメンバーが捕まってしまった。捕まらないでいるのは、自分を含めて二、三人だけである。
捕まった少年達は時間が経てば帰ってくるだろうが、グループとしての再起はもう不可能かもしれないと少年は思っていた。自分達をこうまでした朱羅とイレーネに復讐をするために少年は捕まらなかった少数の仲間達に襲撃の案を出したが、誰からも賛成の言葉は出てこなかった。それどころか、もう彼らには関わりたくないというのが彼らの意見だった。それほどまでに、朱羅とイレーネの強さは彼らの脳裏に強く刻み付けられていたのだ。
しかし、このままでいられないというのが少年の正直な気持ちだった。たった二人にグループが壊滅させられたという噂はすでにレヴォルフの不良達に伝わっている。そのせいでグループの一員だった少年は、不良達からは腰抜けや負け犬と言った陰口を叩かれていた。
少年が怪我をしているのもそのせいだ。ついさっき同じような陰口を叩いていた三人ほどの不良達を見つけ、その一人に掴みかかったものの、序列入りするほどの実力を持っているわけでもない少年は三人にあっという間に叩きのめされてしまった。悔しさと怒りで奥歯を噛み締めながら、少年は一人呟く。
「これも全部あいつらのせいだ……! 今に覚えてろよ、吸血暴姫にあのクソガキが……!!」
その言葉には、聞くものが背筋に寒気を覚えるほどの憎悪が込められていた。
そして、一週間後。
この少年の憎悪が引き金となり、ある事件が起こる事になる。
しかしその事を、まだ誰も知らなかった。
食事の時の描写が結構難しいです……。