学戦都市アスタリスク black trickster   作:白い鴉

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第八話 序章の終わり

 どしゃぶりの雨が降り注ぐ中、プリシラ・ウルサイスは傘を差して全速力で走っていた。

 星脈世代とはいえ、姉と姉の友人と比べると彼女は戦闘などをあまり得意としていないせいか、体力が二人に比べて低く、そのせいで先ほどから息切れを起こしている。

 しかし、彼女が足を止める事は無い。

 今は一刻も早く、ある場所に辿り着かなければならなかったからだ。

 そして息を切らしながらも走り続けて十分後、彼女はその場所に辿り着いた。

 そこは、アスタリスクにおける医療拠点……治療院だった。

 彼女がここに駆けつけたのは、数十分前にかかってきた電話が原因だった。

 電話の相手はプリシラの姉であるイレーネだった。しかしその電話がかかってきた時、プリシラは最初彼女から電話がかかってきた事に疑問を感じた。何故ならばイレーネは今日、彼女の友人である朱羅と新しくできたデパートに出かけていたはずだからである。それなのに何故、イレーネは自分に電話をかけてきたのだろうか。

 そんなプリシラの疑問はイレーネの話の内容で、跡形もなく吹っ飛んでしまった。

 イレーネの話によると、自分と朱羅が帰る途中に、一台のトラックが自分達目がけて突っ込んできたらしい。イレーネは朱羅に突き飛ばされる形で助かったため怪我などは無いものの、朱羅はトラックに巻き込まれ、意識不明の状態でアスタリスクの治療院に運ばれたという事だ。

 そう話すイレーネの声音は、まるで別人のように静かだった。

 それを聞いたプリシラは通話を切ると、急いでマンションを飛び出して治療院に向かったというわけだ。

 治療院に向かう途中で、プリシラは何度もこれが性質(タチ)の悪い夢だと思いたかった。

 今日は、姉と姉が大切に思っている人の楽しいデートだったはずだ。彼らにとって宝物となる、大切な一日だったはずだ。それが、そんな悲劇で終わるはずがない。

 そう思いながらようやく治療院に辿り着いたプリシラは施設に入ると、朱羅が運び込まれた部屋へと向かう。部屋番号はイレーネから聞いていたので、迷う心配はない。

 やがて部屋に辿り着くと、部屋のすぐ近くで誰かが項垂れるように床に直接座っているのが見えた。

 長い髪の毛で表情を伺う事は出来ないが、プリシラには分かる。

 その人物は。

「………お姉ちゃん」

 プリシラの実姉である、イレーネ・ウルサイスだった。

 妹の声に反応したのか、イレーネがゆっくりと顔を上げてプリシラの顔を見る。

「………っ!」

 顔を上げた姉の顔を見て、プリシラは思わず息を呑んだ。

 いつもは快活な表情を見せるイレーネの顔は、悲しみと絶望が入り交じった表情で彩られていた。その瞳は、どこか虚ろである。この様子では、プリシラをきちんと見れているのかすら怪しくなってしまう。

 今まで見た事もない姉の様子にプリシラが絶句していると、部屋から老人が出てきた。かなり低い身長に鉤鼻、頭はほとんど禿げ上がってしまっているが口元には真っ白な髭が豊かに蓄えられている。

 プリシラはその老人を見て、それが誰かが即座に分かった。

 ヤン・コルベル院長。アスタリスク治療院の最高責任者にして世界最高の医師と呼ばれる人物である。落星工学の医療技術への転用を積極的に推し進め、そのモットーは『死にたてだったら連れ戻す』だ。

 だが、彼が現れた事にプリシラは顔を青くした。彼は普段はより重篤な患者にかかりっきりのはずだ。その彼が、この場にいるという事は、まさか朱羅は……。

 コルベル院長はプリシラをじろりと見ると、不機嫌そうな声音で言った。

「患者の容体について説明をする。ついてこい」

「あっ、はい……」

 プリシラが返事をすると、それに反応するようにイレーネが立ち上がった。彼女はそのまま言葉を発する事もなく、プリシラの横を静かに過ぎるとどこかへ歩き去ろうとする。そんな姉の背中に向かってプリシラが声を掛けようとすると、コルベル院長が言う。

「放っておけ。今は何を言っても無駄だ」

 その言葉は聞いてみるだけではぶっきらぼうだったが、どこかイレーネをそっとさせておきたいという気遣いがこもっているように、プリシラには感じられた。それだけ言うと、コルベル院長は部屋の中に入る。プリシラもその後を追うように、病室の中に入った。

 病室は白色で統一された個室だった。中は当然ながらシンプルで、ベッドや医療機器の他には何もない。ベッドには、一人の少年が横たわっていた。

「……朱羅さん……」

 プリシラが声をかけるが、朱羅は目覚めない。着ている服は今日デートで着ていたであろう私服ではなく、病院の寝間着だ。口元には酸素マスクが取り付けられ、腕には点滴の針が刺さっている。横にある機械には心電図が表示され、ピッピッピッと規則正しい音を鳴らしている。

「トラックとの衝突の際に星辰力(プラーナ)で体を護ったのか、幸い命に関わる外傷はない。ただ頭を強く打ったようで意識が戻らん。……できる限りの手は尽くしたんだがな」

「……意識がいつ戻るか、分かりませんか?」

 プリシラがかすれた声で言う。しかし、プリシラ自身その答えは分かっているはずだった。コルベル院長がここにいるという事は、暗にそういう事だと言っているようなものだからだ。

 案の定、コルベル院長はガリガリと頭を掻きながら、

「現時点では分からん。明日か、来月か、来年か……。最悪の場合、一生このままという事だって考えられる」

「………っ!」

 告げられた最悪の事実に、プリシラは唇を噛み締めた。昨日まで一緒にご飯を食べていた少年が、もしかしたら一生目覚めないかもしれない。そんな残酷な現実に耐えきれなくて、今にも崩れ落ちそうになる。それなのに必死に耐えようとしているのは、自分の大切な姉の事を考えての事だろう。彼女は朱羅が傷つくその瞬間を、目の当たりにしているのだ。もしも自分が先に折れてしまったら、姉まで折れてしまうかもしれない。

 すると、プリシラの様子を見ていたコルベル院長が息をつきながら言った。

「……だが、はっきり言って重傷なのはあの娘も同じだ」

「えっ……?」

 プリシラは思わず、振り返ってコルベル院長の顔を見た。あの娘というのは、間違いなくイレーネの事だろう。しかし一見、イレーネには外傷は無さそうに見えた。だがそこでプリシラは、つい先ほど見たイレーネの目を思い出した。

 悲しみと絶望を混じり合った、何の希望も映していない眼。今にも崩れ落ちてしまいそうな弱々しい姿。そう、確かに目に見える傷はないかもしれない。だが、悲劇を目の当たりにしたイレーネの心は一体どうだろうか。その心がまったく傷ついてないと、誰が言えるだろうか。

 するとプリシラの考えを察したかのように、コルベル院長が言った。

「あの娘は患者とは逆に、心に傷を負っている。お前さんが来る前にあの娘にも患者の容体について説明をしようとしたが、上の空状態だった。だからお前さんを呼んだんだ。お前さんなら、患者の容体について冷静に聞く事ができると思ってな」

「じゃあ、お姉ちゃんは朱羅さんの容体の事は知らないんですか?」

「いや。説明は聞いていないが、それでも容体については察しがついているんだろう。何せ人一人がトラックの突進に巻き込まれたんだ。いくら星脈世代で体が少しは頑丈とは言っても、その身が人間である事に変わりはない。必ず何らかのダメージが体に残る。この小僧の場合は、いつ目覚めるか分からない意識喪失だったという話だ」

 コルベル院長の言葉に、プリシラは再び朱羅の顔を見た。こうして見ているだけならば、ただ気持ちよさそうに眠っているだけの表情。しかし実際はいつ起きるか分からない、下手をすれば二度と目覚めないかもしれない眠り。彼のために何かしようとしても、ただ彼を目の前にして無力感を噛み締める事しかできない。

 プリシラはその事実に、強く唇を噛み締めた。

 

 

 

 

 

 

 病院を出たプリシラは雨が降りしきる中、傘を差して一人マンションへと向かっていた。あちこちに水たまりができている歩道を歩きながら、空を見る。今日の朝は綺麗に晴れていたのに、今では雨雲のせいで青空がまったく見えない。まるで、今日の自分の心をそっくりそのまま映しているようだ。いや、正確にはもう一人の心も映しているのかもしれない。

 ようやくマンションに辿り着いたプリシラは自分達の部屋の前に着くと、鍵を差し込んで施錠を解除しようとする。しかし鍵を回した時、施錠が解除されている事に気づいた。きっとイレーネが先に戻ってきているのだ。

 プリシラは扉を開けると、中は真っ暗だった。だが玄関にはちゃんとイレーネが今朝履いて行った靴が置かれているので、もしかしたらリビングにいるのかもしれない。プリシラが靴を脱いでリビングに向かうと、そこにはやはりイレーネが明かりもつけずに一人座っていた。着ている服は今日着ていった服ではなく、普段来ているラフな私服を着ている。

「お姉ちゃん、ちゃんとシャワー浴びた? 着替えただけじゃ、風邪引いちゃうよ?」

 プリシラが心の底から心配した声でイレーネに言うが、イレーネは何の反応も見せない。縁起でもない言い方だが、まるで悪魔のような得体のしれない存在に魂を抜かれてしまったようである。プリシラはそんな姉の姿を見て心を痛めながらも、ぐっと拳を握って話を続ける。

「お姉ちゃん、朱羅さんなら大丈夫だよ。きっと良くなる。また三人でご飯が食べられるよ」

 根拠など無かった。コルベルでさえ、朱羅がいつ目覚めるか分からないと言っていたのだ。生きている事は生きているが、いつ目覚めるか分からない永遠の眠りに陥っている。それが今の朱羅の状態だった。

 すると朱羅という単語に反応したのか、イレーネの肩がピクリと動く。それにプリシラが気づくと同時に、イレーネがかすれた声でこんな事を言った。

「………今日、あたし達に突っ込んできたトラックの運転手、朱羅をさらったグループの一員だったんだ」

「え……」

「あとで星猟警備隊(シャーナガルム)に聞いた話だと、あいつはグループをぶっ壊された恨みで、ずっとあたし達に復讐するチャンスをうかがってたらしい。それで今日あたし達が一緒に買い物している姿を見て、近くにあったトラックのロックを解除してあたし達を襲ったんだとよ」

「そんな………」

 プリシラはイレーネの話を聞いて、あまりに理不尽すぎると思った。だって彼女の話が本当ならば、それは逆恨み以外の何物でもないからだ。そんな理由で朱羅とイレーネが傷つくなんて間違っている。

 だが、イレーネは何故か組んだ両手を自分の額に当てると、苦しそうな声で言う。

「……あたしの、せいだ」

「……そんな事、ないよ」

 イレーネの言葉にプリシラが反論するが、イレーネは力なく首を横に振ると、まるで自分を傷つけるようにさらに言葉を続ける。

「あたしがあいつと出会わなければ、あいつはあんな目に遭わずに済んだんだ。あたしがもっと早くあいつとの繋がりを切っていれば、あいつは今も平和に過ごしていたはずなんだ。……あいつの幸せも生活も、全部あたしが奪ったんだ」

「違うよ。朱羅さんもお姉ちゃんも全然悪くない。だから、それ以上自分を責めるのはやめようよ、ね? そんなな事聞いたら、朱羅さんもきっと悲しむよ」

「……あたしのせいで、悲しむ事もできなくなっちまったけどな」

「お姉ちゃん!!」

 何を言っても自分を責めるのをやめないイレーネに、プリシラは思わず大声を上げた。それで問題が解決するわけでもなく、しかも下手をすればさらにイレーネの心を傷つけてしまうかもしれないという事はプリシラにだって分かっている。だけど、それでも今のイレーネを放っておいてしまったら、取り返しのつかない事態になってしまうかもしれないという不安が今のプリシラにはあった。

 イレーネは妹の叫び声を聞いてビクリと体を震わせると、ギリッ、と奥歯を噛み締めてから言う。

「……ごめん、プリシラ。だけど、今回の事件だって本当なら防げたはずなんだよ。前のあたしだったら、付けている奴にとっとと気づいて朱羅を護れたかもしれない。それが、このざまだ。……お前とあいつとの生活が幸せ過ぎて、いつの間にかあたしは人の悪意を感じ取る能力が鈍っちまってたんだ。……どうして、忘れてたんだろうな。力が無ければ、大切な物を護る事なんてできやしないって。そんな事、とっくの昔から分かってたはずなのに……」

 その顔を悲し気に歪めながらも、イレーネは涙を流さない。いや、流せない。涙の流し方など、とっくの昔に忘れてしまったのだから。

「何がレヴォルフ黒学院序列三位だ……。何が吸血暴姫(ラミレクシア)だ! そんな無駄な肩書があっても、あたしはあいつ一人護れてねぇじゃねぇかよ!!」

 まるで血を吐くように、イレーネは叫ぶ。そんな姉の姿をプリシラはただ黙って見つめている事しかできない。 コルベルの言う通りだった。今の彼女に何を言っても、その言葉を心にまで響かせる事は出来ない。そんな事ができるとすれば、つい最近まで自分達と一緒に過ごしていたあの少年だけだろうが、彼は昏睡状態に陥っていしまっている。つまりは、完全な八方塞がりの状態だった。

 その後、イレーネとプリシラは一緒に夕食を取った。だが、何故かその料理の味を二人は感じる事ができない。

 調理法を間違えたわけではない。食材もプリシラが厳選したものを使っている。それなのに何故か、今日の料理は味が無くつまらないものだった。今までは、こんな事は一度も無かったのに。

 いや、原因など分かり切っている。

 最近は朱羅と三人で食事を取っていた。だからこそ最近の食事は楽しかったし、料理も美味しかった。だがその朱羅がいなくなった事であの楽しかった雰囲気も共に消え去り、料理も味気ないものになってしまった。

 朱羅がいなくなったという事は、状況だけ見れば朱羅と出会う前の生活に戻っただけだ。言ってしまえばそれだけなのに、今の二人には料理がとても味気ないものになってしまっている。つまりは、それだけ有真朱羅という少年が彼女達にとってかけがえのない存在に変わっていたという証明だった。

 だが、彼が昏睡状態に陥ってしまった以上、また三人でこの食卓で食事をする事ができるという保障はどこにも無い。それがさらにこの場の雰囲気を重くしてしまっている。

 二人はそんな雰囲気の中、何かを話す事もなく、ただ味のない料理を口に運び続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから二人の生活は、朱羅と出会う前の生活に戻った。朱羅と出会ってから作っていた三人分の料理は二人分に戻り、学校の放課後朱羅と一緒にショッピングなどに出かけていたイレーネは一人でカジノに向かうようになった。

 だが生活が戻ったと言っても、二人の心や行動なども一緒に戻ったわけではない。

 その証拠にプリシラはたまに三人分の料理を作ってしまうし、イレーネは来る事のない待ち人を待つかのように校門の前で黙って立つ事が多くなった。さらに前まではカジノによく通っていたイレーネが、滅多に使わない寮の自分の部屋で一人でぼーっとする事も多くなった。

 そしてプリシラは、学校の放課後に治療院で眠る朱羅の見舞いにたびたび訪れるようになった。しかし朱羅の部屋に向かったとしても、朱羅が短い間だけ目覚めるなどという甘い現実は待っていない。そこにあるのは、穏やかな表情で永遠かもしれない眠りにつく一人の少年の姿だけだ。

 だがそれでもプリシラは朱羅の病室に通い続け、眠る朱羅に学校であった事などを明るく話し続けた。そうすれば、いつかは朱羅が本当に目覚めてくれるかもしれないという一縷の望みを懸けて。

 しかし一方で、イレーネは一度も朱羅の病室に足を運ばなかった。プリシラが学校の授業が終わった後に彼女のクラスに彼女を迎えに行っても、教室に彼女の姿は無かった。まるで、プリシラと一緒に朱羅への見舞いに行くのを避けているかのように。

 それでもマンションで夕食などを一緒に食べる時に、プリシラは何回かお見舞いに行こうとは言っているのだがそのたびにはぐらかされてしまい、結局一緒に病室に行く事は一度も無かった。だからお見舞いに行くのは、決まってプリシラ一人だけとなった。

 それでもプリシラは諦めなかった。今は一人でも、近いうちに絶対にイレーネを説得させて一緒に朱羅のお見舞いへ行こう。そうすれば朱羅も目覚め、また三人であの食卓でご飯を食べられるかもしれない。淡い希望かもしれなかったが、それでもプリシラにとっては確かな希望だった。

 だが、そんなプリシラとイレーネを嘲笑うように、更なる事件が起こった。

 きっかけは朱羅が昏睡状態に陥ってから一ヵ月後の七月の半ば、イレーネがカジノへ向かった時だった。

 彼女はそこでいつも通りカードゲームをしていたが、その日は運が悪くまったくイレーネの勘が当たらなかった。そのため持ってきた金がほとんど無くなってしまい、イレーネは思わずチッと舌打ちしながら椅子に座ったままガッとポーカーテーブルを蹴飛ばした。そのせいでディーラーが怯えた表情でビクリと体を震わせたが、イレーネにディーラーをどうこうしようとする気はない。流石の彼女も、自分の負けを相手のせいにするほど短慮ではないからだ。

 イレーネは髪をくしゃくしゃを掻きながら、かつて別のカジノでカードゲームをした時に大勝ちをした時の少年の笑顔を思い出す。その笑顔を思い出すとどうも胸が苦しくなってしまい、さらに髪をくしゃくしゃと掻く。

 正直言って、こんなに苦しい想いをするぐらいならば忘れてしまう方が良いのではないかと思う。

 こんなに苦しい思いをするぐらいならば、始めからあの少年と出会わなければ良かったのではないかと思う。

 が、

(……んな事、できるわけねぇだろ)

 確かに有真朱羅と出会ったから苦しい思いを味わっているのかもしれない。

 だがあの少年と出会った事で、自分はそれ以上にたくさんのものをあの少年からもらう事ができた。

 あの少年との出会いを否定するという事は、それらをも否定するという事だ。そんな事は絶対にできない。自分がどれだけ苦しい思いをしようとも、それだけは絶対にしてはいけない事なのだ。

「………くそ」

 一人呟きながらイレーネが立ち上がろうとした時、彼女に声が掛けられた。

「よぉ、吸血暴姫」

 彼女に声をかけてきたのは、にやにやと笑みを浮かべる、明らかに第三者から不良と思われる格好をした少年だった。少年のそばには彼と同じような笑みを浮かべている少年二人が立っている。そして三人の胸には、レヴォルフ黒学院の校章が着けられていた。イレーネには見覚えが無かったが、彼らが自分に声をかけて来た事にあまり驚きはない。自分はレヴォルフの序列三位だからアスタリスクではどちらかと言うと有名人だし、それに彼らのような人種を何回もぶちのめしてきた事だってある。有名人だから知っているのか、それとも過去に自分に倒されたから知っていたのかは定かではないが、正直言ってどちらでも良い。今のイレーネに、彼らに対するそこまでの興味はなかった。

 少年が隣に腰かけると、イレーネが低い声で少年に言う。

「……何の用だ」

「なぁに、あの吸血暴姫がどうも寂しそうな顔をしてたからよ。気になって声をかけてみたのさ」

 それから少年がイレーネに近寄って耳に口を近づけると、小さな声でイレーネに言う。

「……聞いたぜ? 連れの男がトラックに突っ込まれて意識が戻んないだろ? しかも犯人は俺達と同じレヴォルフの学生だってな。お前がそんな寂しそーな顔をしてんのも、その男が戻ってこないからか?」

「……テメェには、関係ねぇだろ」

「まぁそう言わずによ。なぁ吸血暴姫。男に飢えてるんなら、俺と組まないか?」

 ピクリ、とイレーネの肩が動く。それに気づかず、少年は下卑た笑みを浮かべながらさらに言葉を続ける。

「あんなガキみてぇな奴と一緒に歩いてたって事は、よっぽど男に飢えてたんだろ? あんな奴と切ってよ、俺と付き合っちまおうぜ。あいつと夜過ごすよりも良い想いをさせてやる。どうせ夜も満足させる事ができなかったんだろ? まぁそうだよな。あんなガキにそんな事できるわけねぇよな。お前も内心じゃ、あいつが事故に遭って良かったって思ってるんじゃねぇの?」

 彼の言葉に、彼の付き添いの少年二人も一緒に下卑た笑い声を上げる。どうやら小さい声ではあるものの、彼らには聞こえていたらしい。だがそんな彼らとは対照的に、イレーネはまったく何の反応も見せなかった。

「なぁ、どうだ? テメェは手が先に出るって有名だが、それを除いたらかなり良い女だ。これでも前から目をかけてたんだぜ? どうだ? 俺の女になるって言うなら、その分良い思いだって十分にさせてやるよ。だから……俺の女にならないか?」

 そう言いながら、少年はイレーネの体にゆっくりと手を伸ばす。

 するとその瞬間、イレーネはゆっくりと立ち上がって少年と真正面から向かい合った。ただしその顔は髪に隠されて、表情を伺う事ができない。しかし何を勘違いしたのか少年は満足そうな笑みを浮かべると、立ち上がってさらに言葉を紡ぐ。

「そうか! なら早速よ、良いホテルがあるんだよ。そこで朝まで……」

「………ぞ」

「え?」

 イレーネが何を言ったのか、彼女に顔を近づけたその時だった。

 

 

 

「殺すぞ」

 

 

 

 次の瞬間、少年の顔面にイレーネの拳がめり込んでいた。

 イレーネの拳に少年の鼻の骨が折れる感触が伝わってきて、さらにそのまま吹き飛ばされた少年は台に派手に激突する。鼻が折れたせいで鼻血が盛大に流れ出している少年は、誰がどう見ても気絶していた。

「このアバズレが!」

「ぶっころ……」

 仲間を潰された少年二人が激昂してイレーネに襲い掛かろうとするが、それよりもイレーネの方が早い。彼女は即座に一人の少年との距離を詰めると、拳を握って少年二人を殺意のこもった目で睨み付ける。

「死ぬのは」

 そして渾身のアッパーカットが一人の少年の喉仏に炸裂する。少年は喉を抑えながら白目を剥いて地面に倒れ伏し、もう一人の少年はイレーネに殴りかかろうとするものの、すでに遅い。

「テメェらだよ」

 ぱぁん! という音と共にイレーネの回し蹴りが少年の側頭部に炸裂し、その少年ももう一人と同じように白目を剥いて地面に倒れた。その直後、どたどたという音と共にイレーネを黒服の男達が取り囲む。恐らくこのカジノのガードマン達だろう。それぞれが隙のない構えで、イレーネを取り押さえようとしている。

 だがイレーネはこきり、と首を鳴らすと黒服の男達を睨み付けた。

「良いぜ。むしゃくしゃしてんだ。……全員、ぶちのめしてやる」

 この後自分がどうなるかなど、今のイレーネにはどうでも良かった。

 ただ、朱羅を侮辱されたこの怒りを何かで晴らしたいというどす黒い感情だけが彼女を支配していた。

 犬歯を剥き出しにしてイレーネは目の前の黒服の連中を殺意のこもった目で睨み付けると、イレーネは床を強く蹴って目の前の黒服の男達に襲い掛かった。

 ――――数分後、散々暴れたイレーネは駆けつけてきた星猟警備隊によって捕まる事になる。

 だがその代わりと言うべきか、暴れたカジノは全壊状態でそれ以後の営業は不可という末路を迎える事になった。

 

 

 

 

 

 カジノを壊滅させたイレーネはその後、レヴォルフにある懲罰教室に入る事になった。

 懲罰教室は目に余るような行為に及んだ生徒が、制裁のために入れられるいわば牢獄のような場所である。つまり、レヴォルフの中でも凶悪凶暴な学生ばかりが集められている場所というわけだ。

 カジノを壊滅させたにしては少し軽く思われるような処分だが、裏で何らかの手回しがあったのだろうとイレーネは思う。自分はレヴォルフの生徒会長であるディルクの駒だ。あまり罪が重すぎると、いざという時の行動に支障をきたすと考えて彼が手を回したのだろう。非星脈世代でありながら生徒会長の座についただけあって、そのような手回しが彼は恐ろしいほどに上手い。

 現在イレーネがいる部屋は三畳程度の広さの室内だ。部屋の中には明かりが無く、部屋の中にあるのは壁から伸びた手枷ぐらいである。その手枷に、イレーネの両腕は繋がれていた。

 イレーネは壁に寄りかかりながら、暗い天井を見上げていた。

 あのカジノで暴れまわった事に特に後悔は抱いていなかった。だが、爽快感なども無かった。残ったのは、言いようのない虚しさだけである。どれだけ黒服の男達を叩きのめしても、物を壊しても、彼女の中のどす黒い感情が消える事は無かった。ただその感情が、虚しさに変わっただけである。

「………チッ」

 苛立ち混じりに舌打ちをすると、どこからか足音が聞こえてきた。足音が自分のいる部屋の前で止まると、突然イレーネの目の前の壁が透き通るようにして消えていく。ナンバープレート自体は消えずに宙に浮いたままになっているので、どうやら壁そのものが消えたわけではなく、あくまで透過機構が働いただけのようだ。

 壁の向こう側に立つ人物を見て、イレーネは不機嫌そうな声を出した。

「……あんたがこんな所に何の用だ、ディルク」

 壁の向こう側にいるのは、レヴォルフの制服を着た青年だった。

 色のくすんだ赤髪に、背が低く小太りの体型。いかにも不機嫌そうに顔を歪めているが、これはいつもの事だ。イレーネですら彼が笑った所は見た事が無いし、もしかしたら学園の誰も彼の笑顔など見た事が無いのかもしれない。

 ディルク・エーベルヴァイン。レヴォルフの生徒会長であり、『悪辣の王(タイラント)』という二つ名を持つ青年。いくつもの陰謀を巡らせ、人を盤上の駒のように動かす事を何よりの得意としている男。

 そして……イレーネとある契約をし、彼女とプリシラがこの街に来るきっかけを作った男でもある。 

 ディルクは不機嫌そうな目をイレーネに向けると、低い声で彼女に言った。

「ずいぶんとつまらねぇ事をしでかしたな。一体どういうつもりだ?」

「どういうつもりもねぇよ。あっちが腹の立つ事をやってきたからな。売られた喧嘩を買ったまでだ。悪いか?」

 肩をすくめながらそう言うのと同時に、イレーネはディルクの顔を鋭く睨み付ける。しかしさすがはこのレヴォルフの生徒会長と言うべきか、その視線をディルクは軽く受け流すとふんと鼻を鳴らし、

「テメェが好き勝手やってこんな掃き溜めにぶち込まれるのは一向にかまわねぇけどな、俺が扱える人間が少なくなるのは気に食わねぇんだよ。契約の事を忘れたわけじゃねぇだろ」

「ああ、忘れちゃいないさ。ただ、あんたには使える駒なんざいくらでもいるだろ。あたしがここにぶち込まれてる間は、そいつらを使えば良い。どうせここから出たら、またふざけた事を命令する気だろうしな」

 実際にこの青年はそれをするという確信があった。イレーネとディルクはある契約の下に成り立っている関係だ。どんな事があったとしても、自分はその命令を遂行しなければならない。いつかその契約を完遂させる、その日までは。

 だからイレーネがこんな場所にいたとしても、ディルクには正直どうでも良い話だろう。ここから出た後にまた新たな命令を下せばいいし、その気になれば任務のためにここから出す事だって可能なはずだ。それなのにこんな所まで来てわざわざ話をするのは、彼にとっては嫌がらせのようなものだ。本当に、嫌な男である。

「言いたい事がそれだけなら帰れ。あたしはこれから寝るからな」

 そう言ってイレーネがこれ見よがしにディルクに背を向けて寝転がろうとする。

 だが、そんな時だった。

「……そんなに、あの有真朱羅(・・・・)とかいうガキが大事か?」

 ガバッ! という音と共にイレーネが素早く起き上がり、ディルクの顔を目を見開いて見つめた。

「テメェ……どうして……」

「忘れたのか? こっちには『猫』がいるんだぞ。その気になりゃ、情報なんざすぐに手に入る。『餌代』はかかるがな」

 ギリ……とイレーネは思わず歯を噛み締めた。猫とはレヴォルフ黒学院の諜報機関である『黒猫機関(グルマルキン)』の事だ。確かにディルクの命令であらゆる任務を遂行する彼らならば、朱羅の情報を集める事など簡単だろう。そして、カジノでイレーネが暴れた理由を調べる事も。ディルクは鼻を鳴らして、

「ったく、あのガキ一人に何をそこまで気にしてやがんだ。そもそも、あいつがああなったのはあいつの単なる自業自得(・・・・)だろうが。馬鹿が馬鹿やって病院送りになっただけの話……」

 ディルクの言葉は最後まで届かなかった。

 ガンッ!! という音と共に、ディルクの目の前にある透明な壁が殴られたからだ。

 透明な壁に叩きつけられたイレーネの拳からはポタポタと鮮血が床に落ちて行き、その拳を放った本人であるイレーネはディルクを殺すような目つきで睨んでいた。しかしその目つきにもディルクはまったく動じていない。実際に、拳がディルクに向かって放たれた時も、壁があったとはいえ彼は眉一つすら動かなかった。

「……どうやら、根本的に勘違いしてるみたいだな、テメェは」

「……何だと?」 

 ディルクの口から放たれた予想外の言葉に、イレーネは拳を引くとディルクの顔を見つめた。ディルクは相変わらずつまらなさそうな顔で、

「有真朱羅が病院に送りになった原因には、テメェも含まれてるって事だ」

 その言葉を聞いて、ビシリ、とイレーネの動きが止まる。まるで、言われたくない言葉を正面から言われてしまったかのように。

「……その様子からすると、どうやら薄々気づいてたみてぇだな。イレーネ。俺とテメェは陰の側の人間だ。そしてあいつは陽のあたる側の人間。本来ならば異なる側にいる人間同士は干渉しあうもんじゃねぇんだよ」

 ディルクはイレーネを睨み付けながら、笑みすら浮かべず冷徹に続ける。

「その結果がこれだ。互いに踏み入れてはならない領域に干渉した結果、有真朱羅は二度と目覚めないかもしれない世界に叩き込まれ、テメェはこんな薄汚ぇ場所に叩き込まれる羽目になった。……そもそも、テメェがさっさとあのガキとの繋がりを切ってりゃ、こんな事にはならなかったんじゃねぇのか?」

「………テメェに、何が分かるんだ……!」

 ディルクの冷たい眼光に怯む事無く、イレーネは怒りを露わにして言った。しかし、やはりディルクの表情は変わらない。ただつまらない物を見るような目でイレーネを見つめている。

 いや、実際に彼にとってはつまらない事なのだろう。彼は有真朱羅の事など何も知らないし、イレーネについても自分の命令通りに動かせる手駒ぐらいにしか思っていない可能性が高い。だから今回の件は彼の言葉を借りるならば、『馬鹿が馬鹿をやっただけの話』なのだ。それがイレーネには、無性に腹立たしかった。

「分からねぇし、分かりたくもねぇよ。馬鹿のやる事なんざな。……しばらくはこの掃き溜めで頭を冷やしておけ。そして、これに懲りたらあんなガキの事なんざとっとと忘れるんだな」

 そう言ってディルクがイレーネから視線を外すと、透明になっていた壁が元に戻りディルクの姿が見えなくなる。それからコッコッコッ、という足音が部屋の前から遠ざかって行った。イレーネは奥歯を噛み締めると、再び目の前の壁を力任せに殴りつける。拳に激痛が走り血が流れるが、この程度の傷ならば星脈世代の自分ならばすぐに治るだろう。

 イレーネは壁に背中をつけてどっかりと座り込むと、苛立たしげに呟いた。

「そんな事、できるわけがねぇだろうが……!」

 朱羅の事を忘れる事などできるはずがない。自分は彼からたくさんのものをもらった。

 彼がいてくれたから、今まではつまらなかった放課後が楽しくなった。

 彼がいてくれたから、三人で囲む食卓が楽しくなった。

 彼がいてくれたから、誰かに護られるという事を嬉しく思う事ができた。

 本当に朱羅からもらったものは多い。だからこそ、そんな簡単に忘れる事などできるはずがない。

 だが、その一方でイレーネの中の冷静な部分がこんな事を彼女に告げていた。

 その幸せを朱羅から奪ったのは誰だ?

 その生活を失ったのはどうしてだ? 

「うるせぇよ……!」

 両手で頭を強く抱えながらイレーネは憎々し気に呻く。

 しかし、それでも彼女の頭の中の声は止まらない。

 その幸せを奪ったのはお前だ。

 生活を失ったのはお前に力が無かったからだ。

 全部、お前のせいだ。

 お前がいたから、朱羅は全てを失ったんだ。

 ゼンブオマエノセイデ。

「うるっせぇええええええええええええええええええええええっ!!!」

 ガンッ!! という音と共にイレーネは自分の額を壁に叩きつけた。文字通り割れるような痛みが額を襲うと同時に、鮮血が額から流れる。が、それでも彼女の頭の中の声は止まらなかった。

「……うるせぇよ。全部、分かってんだよ……! あいつが眠ったのが、全部あたしのせいだって事ぐらい……分かってんだよ……!」

 ずるずると床に崩れ落ちながら、イレーネは呟く。

 まるで、罪人が聖職者の前で行う懺悔のように。

「だけど、結果的にそうなっちまうって分かってても……。あたしはあいつと一緒にいたかったんだ……! あいつがいれば、どんな事だって乗り越えられるって思ったから……! あいつと一緒にいる事が本当に楽しいって思えたから……! だから、例え異なる側にいる人間だとしても、あいつとずっと一緒にいたいって思ったんだよ……!」

 しかし、その自分の考えがきっかけで、楽しかった生活は崩壊した。全て、自分のせいで。

「……ごめん、朱羅。あたしが……あたしみたいな人間が、お前に関わって良いはずが無かったんだ……!」

 暗闇の中で、イレーネは今にも泣きだしてしまいそうな顔で言う。

 だがその言葉は、誰にも届かないで暗闇の中へと消えて行った。

 

 

 

 

 

 

 ちょうど同じ頃。プリシラは治療院の朱羅の病室で座っていた。その表情は沈んでいるものの、視線だけはまっすぐベッドに横たわっている朱羅に向けられている。

「……朱羅さん。お姉ちゃんが、カジノで大暴れして、レヴォルフの懲罰教室に入れられてしまったんです。でもお姉ちゃんが何の理由もなくそんな事をするなんて思えないから、きっと理由があると思うんです。だから、きっと早く出られると思います」

 そこまで言うとプリシラは、膝の上で拳を握って唇を噛み締めた。その目は、今にも涙をこぼしそうに潤んでいる。

「……だけど、やっぱり寂しいです。朱羅さんが入院して、お姉ちゃんまで懲罰教室に入っちゃって……。私一人で食べるご飯なんて美味しくないです。本当なら、また元のように三人でご飯を食べたいです。……でも、私には何もできない……!」

 そしてついに、今まで耐えてきたプリシラに目から涙がこぼれ落ちた。涙がプリシラの手に落ちると、それに続いて涙が次々と手に落ちて行く。かすれた声で、プリシラは再び眠る少年に語り掛けた。

「朱羅さん……。私は、どうしたら……」

 が、その声にも朱羅は答える事は無い。

 重い沈黙を破るのは、静かに泣く少女の涙の音だけだった。

 

 

 

 

 少年は眠り、一人の少女は暗闇に閉じ込められ、一人の少女は深い悲しみに陥った。

 だが、まだこの三人の物語は終わらない。

 ここで終わったのは、三人の物語の序章(プロローグ)に過ぎないのだから。

 物語の続きは一ヵ月後。

 鳳凰星武祭(フェニクス)が始まる八月に、三人の物語は再び始まる。

 

 

 

 




次回から、本格的に本編に入ります。

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