「はい、オッケーです!」
アシスタント・ディレクターがメガホンで叫んだ。野太い声が辺りに響く。
撮影現場特有のぴん、と張り詰めた空気。それが、一瞬で緩む。周りのスタッフや演者たちの表情も、途端に和やかなモノになった。
季節は初秋、9月の中頃。
時刻は、ちょうどお昼を過ぎた頃。
神奈川県は三浦半島南東部。映画や、ドラマ。また、テレビ・コマーシャルのロケ地としてよく選ばれる三浦海岸に、私はいた。
シーズンを過ぎた海岸には、海水浴に興じている客などいない。
海の方から吹く風。それには、もう若干の肌寒ささえ感じられる。そんな砂浜にいるのは、何人かの散歩しているらしい人影と、私たち撮影クルーだけだ。
そんなシーズン・オフの海岸に何故私がいるのかといえば、ドラマの撮影だ。先週から放送が始まった番組で、縁あって私も出演させて貰っているドラマでもある。
OKが出たのは、丁度私が演じるシーンだった。
海岸線の堤防沿い。その道を、他の俳優と一緒に歩くシーンだ。
リハーサルから始まり、撮影を始めてNGが2回出た。3回のテイクで、ようやくOKが出た。それで、今日の分の撮影は折り返しとなる。
スタッフや他の出演者に挨拶をして回って、楽屋代わりのテントに戻った。そこに備え付けられた折り畳みのベンチに座って、私は小さく溜息を吐く。
目の前では、次のシーンの撮影の為に多くの人が忙しそうに走り回っている。収音マイクに入らないように、音楽プレイヤーなど持ち込まれていないこの現場では、波の音とトンビの鳴き声がBGMの代わりだ。それを遠くに聞いていると、肩にカーディガンが掛けられた。秋口らしい栗色のカーディガンだった。
「お疲れ様です。三船さん」
「あ……プロデューサーさん、お疲れ様です。コレ、ありがとうございます」
「昼間とはいえ、今日は少し寒い位ですからね。身体冷やさないようにしないと」
「助かります。私、何にも準備してきてなくって」
「いいんですよ、三船さんは撮影に集中してください。緊張気味ですか?」
「ええ……そりゃあ、緊張だってしますよ」
はは、とプロデューサーは笑った。
彼が淹れてくれたコーヒーを受け取りながら、私は唇を尖らせる。
ライブのステージだって、ドラマの撮影だって緊張しなかったことなどない。その緊張感が、私を毎回新鮮な気持ちにさせてくれる。むしろ、緊張しない人間がいるとすれば、一体どんな人間なのだろう。逆に、私が教えて欲しい位だ。
「じゃあ、午後からもよろしくお願いしますね」
そう言って、プロデューサーはテントを出て行こうとする。きっと、緊張を察して気遣ってくれているのだろう。
しかし、私は反射的に立ち上がっていた。
「あの!プロデューサーさん!」
「はい?どうかしましたか?」
「あの……次の撮影って……」
私の言葉に、プロデューサーは腕時計を見ながら答える。
「ああ。えっと、次の出番は夕方からですね。スケジュール通りなら16時半からです。あの監督のことでしょうから押すでしょうけど」
「結構、ありますよね」
「そうですね。どうしますか?そのへんで喫茶店でも探して、ゆっくりしてますか?」
普段なら、願ってもない提案だ。
でも、私は首を縦には振らなかった。
「いえ。ちょっと、行きたい所があって……」
◇
「そこに何か、あるんですか?」
その言葉に、私は助手席で小さく頷いた。
プロデューサーがハンドルを握るセレナが、国道134号線から横須賀三崎線通称〝県道26号〟に入る。そのまま、向ヶ崎町を抜けて晴海町へ。そして、城ケ島大橋へと差し掛かる。車に揺られながら見る水面は、太陽を反射して金箔でも散らしたようだ。
何台かの車とすれ違う。
カー・ステレオから流れてくるのは《君に逢いたくなったら》
窓を全開にすると、一気に風が吹き込んで来た。優しくて、どこか懐かしい。でも、ちょっとだけ悲しい――そんな、風。
「寒くないですか?」
「はい」
橋を渡った先にあるのは、離島だ。そのメイン・ストリートを、二人を乗せたセレナはゆっくりと走る。
メイン・ストリートと言っても、そんなに栄えているわけではない。洋品店に金物屋。小さなスーパーに美容室。そんな、どこにでもあるような店舗が点在しているだけ。
陽光の下で、町はひっそりと眠りについているように静かだった。
漁港の駐車場を抜ける。
「あ、あれです」
私は前方を指さす。それは、ここ城ケ島にある、浅い岩礁地帯だ。
その付近まで車を回して貰い、私は一人で車を降りた。
「すみません。すぐ戻って来ますから」
「分かりました。一応、携帯の電源は入れておいてくださいね」
「はい。ありがとうございます」
私は、一人で車を降りる。
プロデューサーは、ここに来たいという私に何も聞かなかった。きっと、聞かずにいてくれたのだろう。私は、胸の内でもう一度頭を下げた。
岩礁に掛けられた遊歩道を歩く。流石に今は平日昼間だ。私の他には誰もいない。
風に舞い遊ぶ髪の毛を鬱陶しく思った私は、取り出したヘアゴムで髪を縛る。もう一度、歩き出す。
しばらく歩くと、岩礁の突端に出ることが出来た。
そこで、私の心に白いさざ波が立った。
眼前に広がる海原。遠くに見える大きな船。何もかも、あの日と変わらない光景。その中に、あの人がいた。私は時が経つのも忘れて、その人のことを見つめ続けた。
◇
私と、楓さんは同じ事務所の先輩、後輩だ。
どこにでもある、分かりやすい関係。同世代、ということもあって仲の良い話相手でもあり、プライベートでもお酒を一緒に飲むような仲だった。
彼女は歌も上手くて、ルックスも抜群。私が事務所に入った時には、トップ・アイドルの階段を駆け上がっていた。周囲が彼女を見る目も、日に日に熱を帯びて行ったように思う。
入りたての新人が、そんな彼女に惹かれるのは当然だった。画面を通して見ていても分かる輝き。他の誰にもない〝彼女らしさ〟に、私は惹かれた。
一度だけ、勉強のために楓さんのドラマの撮影を見学できる機会があった。そのロケ地が、今私が立っているこの場所だった。今日と同じような、少し肌寒い日。
楓さんは、この場所で何度も何度も台本を繰り返し読んでいた。一行読むごとに、首をかしげる。あるいは、頷く。 そんな風にして、黙々と一人で台本を読んでいた。そんな彼女から、私は目が離せなかった。一心不乱に台本を読み込む姿に、私の胸は熱を覚えた。それ以来、楓さんの存在はとても大きくなって行った。
事務所でも、現場でも。彼女の姿を見る。その度に、私は胸に苦しさを覚えた。痛みにも近かった。
何度か一緒に仕事をする内、度々一緒にお酒を酌み交わす内、胸の苦しさが〝恋〟だと気が付くのに時間は掛からなかった。
今なら断言できる。それは、間違いなく恋だった。
だが、それから彼女とはあまり仕事でも顔を合わせることは少なくなった。会う機会と言えば、大規模なライブの時くらい。元々、私が所属しているシンデレラ・プロジェクトには、彼女は入っていない。
今をときめくトップ・アイドル――高垣楓。当然と言えば、当然だった。
そんな、彼女が私の視線の先にいる。
あの日と同じように、台本を読みながら。頷きながら、あるいは、首を傾げながら。
「美優さん……?」
先に声を出したのは、楓さんだった。咄嗟のことで声が出ない。
楓さんは不思議そうな顔をして、近づいてきた。
「お久しぶりです。どうしてここに?」
「あ……お、お久ぶりです。楓さんこそ、どうして?」
どうにか絞り出した私の声を聞いて、楓さんは笑う。
「連れて来てもらったんです。コレのために」
楓さんは胸の前に台本掲げた。その表情は、少し恥ずかしそうだ。
「おかげさまで、役を貰えることになりまして。その練習です」
「ここで?」
「ええ」
言葉少なに肯定した楓さんは、くるりと背中を向けた。背中に腕を組んで、彼女は続ける。
「ここ、よく来るんです。最初に役を貰った場所だから」
懐かしむような視線の先には、何があるのだろうか。私には分からなかった。
二人の沈黙の間を、海風が通り抜けていく。
私は、少し身震いをした。目の前の女性が、秋を連れてやってきたようだった。
◇
「お待たせしました」
「ん……ああ、お帰りなさい」
「プロデューサーさんもお疲れですね」
「すみません。ウトウトしてました」
そう言って目頭を揉むプロデューサー。彼は、緩んでいたネクタイを直しながら続けた。ネクタイの色は、抜けるようなスカイ・ブルーだ。
「もう、いいんですか?」
「はい。もう、大丈夫です」
私の言葉に、プロデューサーは頷いた。車のエンジンが掛けられる。取り付けられたナビゲーション・システムに通電し、地図と時間が表示された。
時刻は、14時をちょっと過ぎた頃。後2時間もすれば、また撮影が始まる。控えている撮影のシーンは、ドラマのラスト・シーン。その中で、私は、相手役の俳優に〈大好きです〉と伝えるのだ。
仕事でなら、何度も言ってきたこのセリフ。なぜ、あの人には言えなかったのだろう。
もし、その一言が言えたなら――私の人生は、また違うものになっていたのだろうか。
ゆっくりと速度を上げるセレナの中で、私はそんなことを考える。隣のプロデューサーは、何も言わずにハンドルを握っている。
車が橋に差し掛かった所で、彼は口を開いた。
「そうそう、事務所に美優さん宛てのファンレターが沢山届いてますよ」
「ファンレターですか」
「ええ。それはもう沢山」
「ありがたいです」
そう言って、私はまた車の窓を開ける。今度は、少しだけ。
「次は、狙え大河の主役!ですかね」
プロデューサーが、明るい口調で言った。その言葉に私は頷く。
「頑張ります」
「頼もしいです。そういえば、高垣楓のマネージャーと会いましたよ。高垣も一緒に来て、灯台の方に言ったと聞きましたが……会いませんでしたか?」
その質問に、私は一瞬言葉を詰まらせた。
だが、息を吸ってはっきりと答える。
「いえ。会いませんでした」
「そうですか。高垣は言い出したら聞かないと困ってましたよ」
いかにもあの人らしい。連れて来てもらったとは言っていたが、そんなところも変わっていないようだ。駄々をこねる彼女の姿を想像して、私は一人で噴き出してしまった。プロデューサーは不思議そうな顔をしている。
「どうかしました?」
「ごめんなさい。あの、プロデューサーさん」
「はい。なんでしょうか?」
「私、楓さんには……これから、会いに行きますから」
シート・ベルトを握る手に力を込めて言った。
隣で、合皮に巻かれたハンドルが、ぎゅ、と音を立てた。
「……これから、ですね」
バック・ミラー越しに見えなくなっていく景色。それは、彼女が最初に役を貰った場所。私が、高垣楓を好きになった場所だ。
この気持ちは、もう少しだけあそこに置いておこうと思う。いつの日か、私があの人に追いつけた時。その時まで。
やがて、灯台が見えなくなったところで、プロデューサーがカー・ステレオのボリュームを少し上げた。
流れていたのは《素直に言えなくて》だった。