あくまで序文でしかなくて、続きもぼんやり考えていたりします。
そんなわけで気が向いたら続けるかもしれませんが、期待はしないで下さい。
当時「ゲーム」と言えば、ブラウン管モニタ(そのほとんどは家庭用のテレビだ)に映し出された、粗いドット画の世界だった。解像度も256×240しかなければ、滲むブラウン管の発色ではクリアな画像など望むべくもない。だがクリエイターたちはその特性をこそ駆使して豊かな発色の世界を作り出し、ゲームに埋没した子どもたちはその粗いドット画の向こうに広大な別世界を見ていたのだ。
さらなる
そこまでいかなくとも、たとえば基本8色パレットから選べるものの、8ドットごとに2色ずつしか使えない。そんな奇妙な制限のついた汎用機も有ったという。
黎明期のRPG、やりこみゲーの元祖とも言える某迷宮探索RPGの線画の世界に、古びた石壁や天井からしたたる水滴、耳障りに軋む扉、血埃に塗れた革鎧の悪党、錆びついた剣を突きつけてくる骸骨を幻視した戦士たちは数え切れないほど居たのだ。
もちろん、彼らも当時は子供だった。世界を知らず、社会を知らず、生活を知らない子供たちの想像力などたかが知れている。だが、だからこそゲームの世界を「作り物」と見下すことはなかった。自分の好き勝手にできる玩具として乱暴に振る舞った子供たちも大勢居たが、そこにもう一つの世界を見出した子供たちもいた。そして彼らは無意味な悪行を好むことはしなかった。ゲームのルール内でできることは何でもしたが、後でその善悪について考える子供たちも確実に居たのだ。
そして、そうした豊かな想像力を持ち続けた子供たちは、大人になってもゲームの中のもう一つの世界を旅することを好んだ。世界を知り、社会を知り、生活を知ったかつての子供たちは、より豊かな別世界をそこに見出し、自らの手によって紡がれるその物語を愛したのだ。
それから半世紀。
VRという技術はまず若者たちに受け入れられた。ゲームと言えば若者の娯楽。若さと新しさこそが正義という経済理念そのままに展開されたVR技術は、しかしあるターニングポイントを経て、そのシェアを老人たちに侵略されることになる。
そしてかつて「天才」「鬼才」「怪物」と称された世界中の老エンジニアたちが大同団結した。懐かしき前世紀末、世界中に張り巡らされたインターネット社会の大正義として掲げられた集合知。それがまさに立証されたのだ。彼らはVR端末の機能を爆発的に向上させ、入出力時にプレイヤーの身体能力の差異を埋め潰すパッチを開発した。
そうしてVRの中でなら、老いも若きも男も女も、皆平等に自分のキャラクターの能力そのままに行動することが可能となった。残るは純然たるプレイヤースキル。最適解を選ぶ
無論、それでも老いによる不利は否めない。
脳機能の衰えもある。
体力だって十全とはいい難い。
だがそこは老人という社会的立場がものを言う。
VRゲームはボケ防止にも大いに役立つとあって、
かつては
かくしてVRMMO――大規模オンラインゲーム――のフィールドに大量の老人プレイヤーが溢れるようになった。
当初は若者と老人との間に諍いも有ったが、攻略掲示板などを中心に「同じゲームを愛するもの」として交流が生まれ、次第に互いを仲間と見なすようになっていった。若者にしてみれば口うるさい年長者の、更に上の世代にある権威者が「大いにゲームを楽しめ」と太鼓判を押してくれる。老人にしてみれば老いさらばえ、邪魔者、厄介者と見なされるようになった自分たちを、仲間として対等に扱ってくれる友人ができた。
正にウィン・ウィンの関係であった。
今日もまた、同じゲームを舞台に切磋琢磨し合う、若者と老人たちの熱い戦いが繰り広げられている。