我等が女王に、跪け。 作:白蛆
プロローグ1〜我が物語に、始まりを。〜
一日は三十時間。
サービス残業は当たり前。
一週間は土月火水木金土で7日。
俺の仕事ぶりを語るとすれば、そんなありきたりな悲劇みたいなものになってしまう。本当に、捻りも面白みもあったものじゃ無い。そんな話をつらつらと並べ立てても、今時流行らないであろう。
残念ながら俺にはその実態をリアルに語るような才能は無いし、そのつもりもない。はっきりとものを言ってしまえば、思い出したくもないというのが正直なところである。
ただ一つだけ言えるのは、日々、カップ麺とコンビニだけが、俺の命を繋いでいた。早く、手軽に、そして美味しい。文明の素晴らしさを感じたのは、それがせいぜいだった。
それが俺の、日常。
そんな俺に対して、世間の風は尚も冷たい。それは物理的なものであり、同時に社会的なものでもあった。木々も凍える一月のある朝、昨夜運良く自宅に帰り着いたために、早朝の電車で会社に出勤することになった俺は、僅かな焦りを抱いていた。
いつも通りならば、余裕を持って電車に乗ることができるくらいの時間に家を出た筈だったのだが、しかしどうもいつもと比べて明らかに駅が混んでいる、よく考えれば、駅周辺の道も混んでいたような気がしないでもない。少しでも疲れを抜くためにギリギリに家を出てきたことも相まって、このままでは電車に間に合わない危険性さえあった。
ちなみにこれは後に知った話だが、この日はどうやら、何かのゲームの発売日だったようで、この微妙な混雑はそのゲーム――モンスターハンターとか言ったか――を早朝買いした連中によるものなのだろう。我々社会人としては迷惑な話である。
そんなことを頭の片隅で考えながらも、連日の疲労によってフラフラと寝ているのか起きているのかわからないような状態で、人混みを掻き分け駅のホームへと走る。側から見れば酔っ払いに見えなくもないので、こんな朝っぱらからと、周囲の視線は冷たいものだ。
ああ、一つだけ言っておくが、この時の俺は普段と比べてさして調子が悪いわけではなかった。寧ろ、会社で夜を明かしていないだけ、まだマシとさえ言えた。
だからそれは、ただ単純に「運が悪かった」だけなのだ。
もちろん、それで俺が許される事などあろうはずもない。許されようとも思わない。
だが、それは紛れも無い「不幸な事故」であった。
比較的大きい駅であるからか、人が多いことも相まって、俺が駅のホームへの階段を降りている時には既に電車が駅に入ろうとしていた。
まずい、このままでは……――後々になってよく考えれば、その時それほど慌てるような緊急性は無かったように思われるが、疲労によって思考が鈍っていた俺には、そのことに気付くほどの精神的余裕さえ存在しなかった。
急いで階段を駆け下り、駅のホームを駆け抜ける。
それはまさにその時だった。
ドンッ!
手に持ったバック越しに、そんな鈍い衝撃が伝わってきた。まるで人にでもぶつかったかのような、……否、ようなではない。それは紛れもなく、人にぶつかった時の衝撃そのものだったのだ。
すこし焦りすぎたかと、ぼんやりした思考を冷やしつつ、ぶつかってしまった人に謝るために慌てて後ろを振り返る。
「すいませ……」
―――
……目の前の光景が、酷く非現実的に感じられた。
俺にぶつかったと思わしき美しい少女が、そのまま駅のホームから、今まさに電車が来ようとしている線路へと、真っ逆さまに転落していったのだ。
俺はその瞬間を、まるでスローモーションの映像でも見ているかのように、とてもゆっくりと感じた。
電車はもうすぐそこまで来ている。
落ちたら少女は死んでしまう。
………"助けなければ"
俺はその一心で、気づけば前に手を伸ばしていた。
落ちていく少女。それを追いかける俺のゴツゴツした手。
その全てがスローモーションであった。
………"助けなければ"
その一心で手を伸ばしたのは、紛れも無い事実である。
だがしかし、もう少しで手が届くというその瞬間、俺の心の醜い部分が、なんの前触れもなくヒョッコリと顔を出した。
……"何故?"
それは問いであった。
即ち、何故自分が、なんの関わりもないこの少女を、危険を冒してまで助けなければならないのかという。
仮に彼女を無理に引っ張り上げたとして、その反動で今度は自分が飛び出してしまったらどうする?今度は誰も手は差し伸べてはくれないだろう。
いや、そもそも、今から引き上げて助かるものなのか?電車との距離はもう十メートルとない。どう考えても時間が足りないだろう。自分が余計な怪我をするだけだ。
そんな思考が頭の中を支配する。
本当に、自分の醜さが自分で嫌になる。
人間というのはいつだって卑怯だ。何をするにも理由を欲しがるし、理由が無ければやらない。リスクとリターンを考え、釣り合わないのならば行動を起こそうとはしない。
この前だってそうだった。
近所でガラの悪そうな男数人に追いかけられていた少女を見かけた時、「助けなければ」「警察に通報しなくては」と心の中では思いながらも、結局は俺は「自分が事件に巻き込まれる」のを恐れて、俺はなんら行動を起こそうとはしなかった。
結果としてそれは何人かが死亡するという大事件に発展し、そしてそれをニュースで知った時の俺の感想は何だった?
……「ああ、やっぱり巻き込まれなくて良かった」
巫山戯るな。
結局は俺は、あのガラの悪そうな男達や、部下を家畜のごとくこき使う上司と、何ら変わりない。同じ穴の狢だ。
卑怯で、小心で、狡猾と言えるほどの頭もなく、建てる建前さえ存在しない。
言葉にする価値さえもない愚者なのだ。
それは、一瞬の迷いだった。
1秒にも満たない、刹那の躊躇い。
たったそれだけで、触れようとしていた俺の手と少女の腕は、遥か遠くに距離を引き離されてしまった。
俺は、固まっていた。
動くことが出来なかった。
いや、動く気さえ、起きなかった。
電車が、けたたましい急ブレーキ音を鳴らしながら、線路へと突っ込んで来て……、
……俺の目の前を通り過ぎていった。
どんな音がしたのか、それは良く覚えていない。
ただ、俺の体に、大量の真紅の泡沫が飛び散り、川辺に揺れる彼岸花の如く、灰色のキャンパスに堂々と咲き乱れた。
それは、電車に攫われた俺の右腕と……
グチャグチャに砕け散った少女だったものから飛び出した、命の潮であった。
―――一瞬、世界から音が消えたかのような感覚に陥った。
それぐらい、目の前の光景は非現実的な、非日常だったのだ。
「―――あ、」
そんな中で、一番に聞こえたのは、肺から空気が抜けるような、マヌケな声だった。
それを皮切りに、世界に音が戻っていく。
意識が現実へと、引き戻されていった。自分が、名前も知らない少女を、殺してしまったのだという現実に。右腕を、失ったのだという現実に。
残酷な事実を、ただ淡々と突き付けられた。
――その声が慟哭へと変わるのに、それほど時はかからなかった。