我等が女王に、跪け。 作:白蛆
赤点が鬼畜なテストは消えて欲しいの……。
ティガレックス修羅種は、遅ばせながらに知った。
この生物に手を出してはならないのだと。
それは、勝てるとか、勝てないとか、こちらの方が強いとか、弱いとか……そんな単純な土俵では語れない、理屈抜きの"禁忌"なのだと。
––––––ザッ……!
それは、ある種の敗走。そう、ティガレックス修羅種の選んだ選択肢は、紛れも無い"逃走"だった。
それは、本来
逃走を決めてからの行動は、素早い。
それもそのはずだろう。女王領域で生存するにおいて最も重要な事柄は、他でもない"逃げること"なのだから。
女王領域のモンスターは、その90%が逃走の達人であるという事実からも、それがよくわかるだろう。
……で、あるからこそ、問題となるのは、"どれだけ素早く逃げたか"ではない。
"如何に逃げるタイミングを見誤らなかったか"
それが重要な因子ファクターとなる。
即ち、どれだけ素早く逃走することが可能であろうと、逃げるタイミングを見誤ったその時点で、既に運命は決まってしまうのである。
……そして、このティガレックスは、引き際を見誤った。
……見誤ってしまったのだ。
彼が何も出来ずただ棒立ちしているその間、この目の前の"ちっぽけな悪意"が、何もしなかった筈が無いのだから……。
その時、ティガレックス修羅種は、突如として、目の前の『敵』を見失った。
何処を見回しても、そしてお得意のエコーロケーションを用いても、その姿を知覚範囲内に収めることが出来ない。
代わりと言っては何だが、自分の眼前に
……ちょっと待て。
……『敵』とは、何のことだ?
……?
自分はさっきまで、何かと戦っていたのか?
ティガレックス修羅種は、覚えの無いその感覚に、酷く困惑する。
いや、戦っていたのは確かだろう。
自分が何者かと戦闘していた記憶はあるし、現に自分の周囲にはやや軽めの戦闘痕が残っている。
それに、その戦闘でやられたのかは分からないが、いつの間にか右脚が欠損している。ただやられたにしてはヤケに再生が遅いが、そういう敵もいるだろう。
しかし、その肝心の『敵』の姿が思い出せない。
忘れてはいけない筈なのに、どうしても思い出せないのだ。
飛竜か?鳥竜か?牙獣か?牙竜か?海竜か?
どのくらいの大きさだった?どのくらいの強さだった?
逃げたのか?隠れたのか?殺したのか?
何も分からない。
それが、ただひたすらに恐ろしい。
……そういえば、つい先程の自分も、"何か"に対して恐れを抱いていたことを思い出す。
自分が恐れをなすくらいだから、修羅種の中でも少なくとも『中の下』くらいの力は有しているのだろうが、周囲にそんな相手の気配は見当たらない。
隠密性の高い相手……というのは恐らく違うだろう。
隠密性が高く、同時に自分に恐怖を抱かせるくらい強いとなれば、自分はとうの昔に殺されている筈なのだから…。
では、もうその"敵"の姿が見当たらないのは、自分が勝ったということなのだろうか……?
お世辞にもあまり知能が高いとは言い難い轟竜とはいえ、修羅種化の過程である程度の知的レベルを獲得していたティガレックス修羅種だが、しかしどれだけ思考を巡らそうともその答えには辿り着くことが出来なかった。
……何故だ、何故"思い出せない"!
……っ!
……と、そこでティガレックス修羅種は一度思考を止め、大きく後ろに飛び退いた。
先程から自分の丁度目の前にあった謎の禍々しい粘液の塊が、ゆっくりと此方の前脚に迫って来ていたからである。
今度は先程とは違い、右後脚が無いことを前提とした動きであったため、転ぶようなことは無かったが、それでも多少バランスは乱れる。
非常に不便だが、しかし自分の再生力を持ってすれば明日には戻っているだろうというのが、ティガレックス修羅種が経験則からはじき出した答えだった。
それにしては全く再生が進まないが、まぁ、そういう時もあるだろう。
再生を阻害して少しずつ此方の体力を削いでくる敵も、これまでで当然いた。その時は相打ち覚悟の特攻で勝利を手にしたが。
……それにしても、先程から目障りなこの物体は一体なんであろうか?
少なくとも、愉快なものでは決して無いのだろうというのが、ティガレックス修羅種の正直な見解であった。
それはそうだろう。見ているだけでも沸沸と破壊衝動が涌き出でる物体が、危険で無い筈がない。
それでもティガレックス修羅種が目の前の物体に攻撃しようとしないのは、偏にまだ覚えてもいない『敵』の存在を警戒しているからであった。
下手に攻撃して隙を晒せば、相手はそれを確実に突いてくる。
他でも無い自分が、そうしてきたように。
……と、それから僅か数秒の後、ふと気付いた時には、目の前にあった物体が、いつのまにか忽然と姿を消していた。
ティガレックス修羅種はそのことにそこはかとない不信感を抱きつつも、しかしいつ現れるかも知れない『敵』を、その場でじっと警戒し続けていた……。
…………ただ、じっと、警戒し続けていた。
あと一二話くらいでタネ明かしします。