その日、夏休み前日。
「うぇへへ…………」
竹中家の一室で、普段のバスケ部キャプテンとしての頼もしい姿からは想像も出来ない程に締まりのない顔でだらしない声を漏らしながら、夏陽は布団の上で仰向けに転がっていた。
時刻は十時を少し回った所。普段であれば就寝前に軽くフットワーク等を行う所ではあるが、今日はそれをする事もなく夏陽は夕食を終えると、早々と風呂に入って就寝の準備に入った。
その余りの行動の速さに、彼の妹二人の『明日からの長期休暇にかこつけて兄とゆっくり戯れよう大作戦』というささやかな計画は一歩目を踏み出す前に挫折した。
現在二人は、手始めにと準備していたレーシングゲームの全国対戦を涙ながらに黙々とこなしているが、そんな妹達の事など知る由もない夏陽は九時を半分ほど回った頃には布団に入ったのだが……
「うぇひひ……」
寝付けなかった。全くと言っていいほど寝付けなかった。
にも関わらず、夏陽は傍目から見て気持ち悪いくらいにご機嫌だった。
少し首を動かして、壁に掛けたカレンダーを見やる。
涼しげな海を写した写真の下の日付の中、夏休み初日。即ち翌日の箇所には、これでもかというくらいに赤ペンで印がつけられ、その下に予定が書きこまれていた。
『夏合宿』
「―――いぃぃぃやっほぉぉぉぉぉぉううぅぅぅっ!!」
夏陽のテンションは天元突破していた。
家族に聞こえない程度に抑えられ、しかし溢れんばかりに沸き立つ気持ちを解放する勢いで夏陽は声をあげて布団を飛び出し、床をゴロゴロ転がった。
その喜びは、翌日から始まる夏休みを喜んでいる訳ではない。
担任の篁美星から今日手渡された通知表の成績が過去トップクラスだったからでもない。
合宿である。
幼馴染である真帆の別荘で行われる女子バスケットボール部の合宿――と銘打った海水浴――に、自分と進も誘われて同行する事となったのである。
海水浴、つまりは水着。
合宿、つまりは泊まり込み。
しかも以前行われた球技大会の強化合宿とは異なり、今回は完全に息抜きを目的としたものである。
つまり、だ。
その強化合宿の時の様に、秘密特訓にかこつけるよりも余程容易に、ひなたと仲良くなる絶好のチャンスなのである。
これでテンションを上げるなという方が無理な話だ。
だから夏陽は自重せずゴロゴロと床を転がった挙句、机の脚に頭をぶつけて激しく悶えてもその顔はまるで締まらなかった。
「っ痛ぅ………うぇへへ、そろそろ寝ないとな」
明日は朝も早い。別荘までは美星の車で向かう為、一度学校前に集合しなければならないのだ。まかり間違っても寝坊した、等という失態をおかす訳にはいかない。
夏陽は緩みに緩み切っていた顔を二、三度平手で叩いて締め直し、いそいそと布団に潜り込んだ。
明日からの合宿の為にも、疲労は極力取っておきたい。
「ん……ぐぅ…………すぅ……」
そう思うと寝付くのが驚くほど速いのは子供特有の業か。
あっと言う間に眠気に包まれた夏陽は、そのまま意識を手放した。
◆
ハーフタイムにも関わらず、会場の喧騒は一向に収まる気配を見せない。沸き立つ興奮を抑えきれない観客を煽る様に、両校の応援合戦は激しさを増している。
「……ん?」
疲労を取る為に濡れタオルを頭から被っていた夏陽は、そこでふと奇妙な違和感を覚えた。まるで今の今まで小学生であった自分が、気づけば高校生になっているかの様な感覚である。
だが、十余年を数える付き合いになる自分の体躯の成長具合は誰よりも自分が一番良く知っている。一昨年からメキメキと伸びた身長は今では部内トップクラスであり、それを存分に生かす量の筋肉もまだ十二分に動けると疼いているのが手に取る様に分かる。
「どうしたの? 夏陽」
何よりも、初等部からの付き合いになる親友が随分と様変わりしているにも関わらず自分の中に動揺がまるでない事が、その違和感を霧散させた。
「何でもない、というか、お前もしっかり休んでおけよ」
「あはは、夏陽が言うんだそれ」
軽く笑いながらも忠告に従ったのか、親友―――水崎進はぐっと肢体を伸ばして全身を解した。この数年で驚く程にあどけなさが抜けたにも関わらず、今も急速エネルギーチャージが売りの固形飲料を咥える様は何処となく子供っぽい。
こんな奴が大会の歴代最多得点記録更新中だというのだから、世の中というものは本当にどうなっているのか良く分からない。
しかし―――と、夏陽は思う。
「泣いても笑っても、あと十分か……」
「……うん」
夏陽の言葉に静かに頷き、進もまた夏陽と同じ様にコートを見やった。
長かった様な気がするし、あっという間だった様な気もする。
初等部の六年、そして中等部の三年、更に高等部での三年……それだけの時間を積み重ね、そしてその多くを費やしてきたこのバスケとも、あと十分でお別れとなる。
「夏陽もプロテスト受ければ良かったのに……」
「いいんだよ、俺は」
昨年の夏季大会終了後、二人は日本リーグのチームから入団テストに誘われた。
その話を夏陽は断り、進は受けた。
自分の限界を見定めた、等と知った風な口を聞く訳ではないが、少なくとも夏陽は、自身の実力が一流のそれに到達する事はないと漠然と悟ったのだ。
少なくとも、今自分の隣で空になった固形飲料の容器を咥えている彼の全力中の全力、本気を尽くした本気に、終ぞ夏陽は敵う事はなかった。その事実だけあれば十分だし、その結果に夏陽は悔いを残す事はなかった。
「ま、俺の分までとは云わないけど、お前も頑張れよ」
「うん」
言って、進は手元でチェーンを通したリングを弄った。
「―――ひなの分も、頑張らないとな」
は?
いや、ちょっと待て。
「折角今日の決勝も見に来てくれたんだ。しっかり勝って、そのままプロテストも合格しないとな」
「いや、進? その、ひ、ひな、って?」
何なのだこの感覚は。
進とひなたが最早学校公認の鴛鴦夫婦顔負けラブラブカップルなんて事は随分前から慧心学園の常識ではないかという当たり前の認識と、いや二人はまだ小学生だしそもそも付き合っていないだろうという奇妙な認識がせめぎ合っている。
「ん? もしかして夏陽気づいていなかったの?」
「うぇ?」
「ひなだけじゃなくて、みんな応援に来ているよ……ああ、長谷川コーチと湊はハーフタイムだからどっかでイチャついていると思うけど」
多分体育館通路の死角にでもいるんじゃないかなー、とか、興奮してそのまま盛ってなければいいけど、等と呑気に言う進の姿に、いよいよ夏陽の脳内に警鐘が鳴り響く。
いや、何でお前はそんなに冷静なんだ。あのロリコン野郎と湊が付き合うのに一番反対していたのはお前じゃないのか。
そして冷静に観客席の方を見ているんじゃない。何で頬を緩ませているんだお前も俺も。
進の視線に釣られる様に見やれば、其処にはベンチ入りを果たせず必死に声を張って応援する部員達に混じって、女バスの面々――初等部からの付き合いになる四人――の姿がある。
そして、その中の一人。高校生となり、来年には大学生となるにも関わらず今尚天性の無垢さを輝かせる現生の妖精―――ひなたは、首からチェーンを通したリングを手に持って幼子の様にはしゃいでいる。
――――――チェーンを通したリング?
ちょっと待て。
ちょぉっっっっっっっとぉ待て。
何だそれは? あれか? 所謂一つのペアリング的なアレか? 給料三カ月分と言われるアレの意味を兼ねたアレか? アレアレか?
「っと、そろそろ時間だ。いくぞ夏陽」
「えっ、ちょ、おい」
「ひなが応援してくれているんだ。例えどんなに苦しい状況だって、もう何も怖くない」
「いや、いきなり何言いだしてんのお前!?」
「―――夏陽、実は俺、この試合に勝ったらひなにプロポーズするんだ」
「いや、ホントにお前何言いだしてんの!? 全力で死亡フラグ立ててんじゃねぇよっ!! つぅかプロポーズって何!?」
「すすむーっ!! がんばってーっ!!」
「うわ今まで聞いたことのないくらい大きなひなたの声、って待て待て待て待てぇぇぇぇぇっ!!」
シートベルトを装着せずに発射されたロケットの内部で振り回される宇宙飛行士ばりに視界がぐるぐると回る中、夏陽は目一杯声を張った。
◆
「――――――ファッ!?」
夏陽は目覚めた。体育館でも結婚式場でもなく、自分の家の自分の部屋の自分のベッドの上で。慌てて上体を起こして自分の体を見やり、今なお成長途中の小学生の体躯をしっかりと確認した。
次いで暫し呆然とした後、先ほどまで見ていた夢の内容を思い出して夏陽は激しく悶絶した。
稀に余りにもはっきりと夢の内容を覚えていると、目が覚めた瞬間の現実とのギャップに戸惑う事がある。
今の夏陽は、正しくそんな状態だった。
「な、なんという悪夢……」
あんまりな夢の内容に、夏陽の背筋を寝汗以上に冷汗が伝う。
夢は人間の深層心理を表すと以前美星が授業中の雑談で話していたが、まかり間違っても自分があんな夢を望んでみたとは考えられない。
と、なれば。
「……警告なのか」
今のまま―――ひなたと“友達”という立場に甘んじていれば、いずれあんな未来が訪れるぞという脳内心理が働いた結果なのだろうか。
夏陽は特に超人的な直感を持ち合わせている訳ではないが、今回の夢見に関してはどこぞの機動兵器のパイロットクラスの確信を持つ事が出来た。
――――――求めよ、されば与えられん。
夏休み初日。
竹中夏陽は、一つの覚悟を抱いて起床した。