手を差し伸べていれば、何かが変わったのだろうか。
声をかけていれば、或いはこうはならなかったのではないか。
智花が父親に連れて行かれそうになった時、昂は一瞬、ほんの一瞬、声をかけるのを躊躇ってしまった。
どうして智花の父親が、こうも頑なにバスケに対し―――そして、それをする仲間に対して嫌悪感を露わにするのか。
冷静に考えれば、自ずと答えには辿りついた。
嘗て智花は、バスケが元で学校を転校する事になった。
勝ちに拘る余り周囲から孤立し、友達を失い……その過程で、彼女の父親が今まさに危惧しているであろう“つらい経験”がなかった筈がない。
小学生は純粋であり、同時に残酷だ。
自分とは違う存在、価値観を嫌い、恐れ、そして排除しようとする。
智花が―――そして、今しがた向こうの方へと彼女を連れて駆けて行った進が経験したそれは、昂の様な第三者が安易に想像がつく様な単純なものではない。
そして、それを冷静に受け止められる様な思考を、まだ十代にさしかかったばかりの彼ら彼女らに求めろというのは、余りにも酷だ。
「………………」
ふと顔を上げると、参道に軒を連ねる屋台の灯りが、酷く色褪せて見える。
前を往く智花の父親―――湊忍の背を追いながら、昂は遠雷の様に響く花火の音を聞いた。
◆
「水崎、くんっ……! 痛い、よっ!」
手が白む程に強く握られたまま、ずんずんと前を往く進に声を荒げると、唐突に立ち止まった進の背に智花は思わずそのままぶつかってしまった。
ぎゅうっと握られた手はまだ離されず、かといって無理やり解こうにも、智花の脳内は未だ混乱していてそれも上手く出来そうにない。
どうすれば、と考えた矢先。
「……なんで」
ポツリ、と進が呟いた。
「なんで、何も言わなかったんだよ」
「……水崎くん?」
訝しむ様な智花に向き直り、進は目にいっぱいの涙を浮かべて声を荒げた。
「バスケの事、みんなの事……あんな風に云われてっ! なんで何も言わないんだよっ!!」
抑えきれない苛立ちをぶつける様に、進は怒鳴った。
「湊も! コーチ、もっ! バスケの事バカにされて、っ、くやしくないのかよっ!!」
智花からは、俯く進の表情を正確に読み取る事は出来ない。
けれど、声を震わせて、折れそうなくらいに手をぎゅっと握る進の姿は、まるで迷子の赤子の様に、何かに縋りつく様に必死だった。
「なんで……なん、っで……!!」
――――――違う。本当に言いたいのは、そんな事じゃない。
智花は、進の声ならぬ叫びを聞いた気がした。
やり場のない苛立ちを、答えの見つからないもやもやとした感情を吐き出す様に、進は喉を震わせた。
「……嫌いだ」
あの時、自分ではなく昂を見た智花が。
「嫌い、だ……!」
智花が求めた助けに応えなかった昂が。
「全部、ぜんっ、ぶ……!!」
―――そして、そんな風に考えてしまう自分自身が。
「だい、っ、きらいだっ……!!」
絞り出す様に言って、そのまま。
智花の手を握り締めたまま、進はポロポロと涙を零し、嗚咽を洩らしていた。
◆
「……まさか」
「はい?」
「まさか、君だったとは。驚いたよ」
前を往く忍が、独り言の様に呟いた。
「君は既に知っていると思うが、智花は以前、バスケが原因で辛い思いをしている」
「それは……」
昂は、その話に聞き覚えがあった。
女バスと男バスの試合の折、智花が話してくれた事。小学生とは思えない程に素晴らしい実力を持っていた智花が、市内のバスケットチームではなく、慧心学園のバスケットボール部に拘っていた理由。
大切な仲間と一緒にバスケがしたい―――そんな、無垢で純粋な言葉に心を打たれたからこそ、昂はコーチを引き受けた。
「私は、もう二度とあんな風に悲しい思いをさせたくはない。その為なら、例え娘に恨まれる事になっても構わない……そう思っていた」
「………………」
「―――だが、あの子たちを見て、その考えを改めなければならないと分かったよ」
言って、振り返った忍はふっと表情を崩した。
体勢を崩した自分に駆け寄り、心配そうに声をかけた愛莉と紗季。心底から智花を案じてその後を追いかけた真帆とひなた。
誰もが皆、智花の事を大切に思っている様子がひしひしと伝わってきたのだ。以前の様な事にはならない。絶対にさせないという想いが、例え事情を知らずとも雄弁に語られていた。
そして、あの子もまた。
「……長谷川くん」
「は、はいっ」
「あの子は……水崎、進くんと言ったか。彼は一体、智花の“何”なのかね」
問うた忍から、昂は妙なプレッシャーを感じ取った。
自分に非礼を働いたから、というだけの理由ではあるまい。これは何処となく“それ”っぽい何かを考えているであろうと昂は直感的に理解した。
―――いや、男女の仲的な意味合いではなく。
「……進も、水崎くんも、智花さんと似た様な経験をしています」
「やはりか」
忍の言葉には、納得という感情が滲み出ていた。
多くは語らずとも、昂の言った言葉だけで、忍は理解に及んだ様に口を開いた。
「以前、何かの記事で見た覚えのある名だったから、もしかしたらとは思ったのだが…………そうか、彼が」
得心がいった様に、忍は小さく頷いた。
と、何を思ったのか。忍は薄く笑みを浮かべてくっくっと喉を鳴らした。
昂が小首を傾げると、忍は再び昂に背を向けて歩き出しながら口を開いた。
「長谷川くん」
「はい」
「私はご覧の通り、娘からも怖がられる程度には強面だ。以前の学校でも、保護者が参加する行事には、殆ど花織だけに行かせていた程だ」
自分が行くと、何故か初対面の子供にすら怯えられ、酷い時は泣かれてしまう事もあったな、と、忍は当時の様子を思い出して―――そして、先程の様を思い出して、忍は笑みを零した。
「初めてだよ。初対面で怯えるどころか、私に怒鳴り、蹴りを入れてくる子供に出会ったのは」
ああも突き抜けた行動をされると、却って清々しいくらいだ。
ましてやその理由が、智花の事を案じてというのだから。
最早忍には、進を怒る事など出来そうにはなかった。
何しろ忍は、彼の事を―――
「…………むっ」
「湊さん?」
いや、しかしまだ智花には聊か早いのではないだろうか。小学生の内から“そんな事”にうつつを抜かしていては、勉学も習い事も疎かになりかねない。とはいっても、無理やりに引きはがしてまた智花に嫌われてしまうというのは余り宜しくない。此処はやはり定番の交換日記や文通から始めるべきでは…………いやいや、先ずは智花の気持ちの確認が先だろうか。しかし古来より男女の仲というものは――――――
「うぅむ」
「あ、あの……湊さん? とりあえず、二人を探さないと」
―――結局、忍はそのまま路上で考えに耽り、終いには頭から煙が出ている幻覚が昂にははっきりと見えた。
◆
参道から少し外れた竹林の傍に、涼や休憩の為に設けられたスペースがあった。
木製の簡素なベンチの上で、遠雷の様に響く花火の音を聞きながら、智花と進は並んで座ったまま、随分と無言の時を過ごしていた。
「………………」
「………………」
あの後、進が落ち着くのを待っている間に、智花は進が素足であった事に漸く気づき、その手を引いてこの場所までやってきた。
そして近くにあった水道でハンカチを濡らし、これ以上迷惑をかけたくないとでも言いたそうに「……や」と口を尖らせる進の意見を無視して、足に付いた砂利や泥を丁寧に拭った。
まるで、手のかかる弟の世話を焼く姉の様に。
「………………」
進は、いっそこの薄暗さに紛れて消えてしまいたかった。
ガキの様に怒鳴って、喚いて、逃げて、走って、泣いて……これ以上、情けない姿を見せたくなかったし、見たくもなかった。
小さくとも、進は男の子だ。当然、見栄やプライドだってある。
だが、今は先程までとは逆に、智花に自分の手をしっかりと握り締められていて逃げようがない。
いや、正確に言うのであれば、その手は振りほどこうと思えば振りほどく事も、そのまま逃げ切る事も充分に可能だったのだが、進は心の何処かで躊躇いがあり、それが出来そうになかった。
「……花火、終わっちゃったね」
何時の間にか、遠雷の様に響いていた花火の音は消え、祭りの賑わいも遠く感じられた。
進の耳には、木々の間を抜ける風に混じり、虫の囁きが幾つも届いていた。
「…………ごめん」
誰彼となく、進は呟いた。
それに応える様に、智花は繋いだ手をほんの少し、強く握った。
「……ごめん、なさい…………っ」
その温もりが、どうしようもない程に温かくて。
「ごめん、な、さい……っ!」
繋いだ手を、ずっと離したくなくて。
「ごめんなさい……っ!」
「―――大丈夫だよ」
智花の言葉に、進は弾かれた様に顔を上げた。
竹林の上に広がる、夜の闇に包まれた空―――その向こうにあるであろう、無数の星を見つめながら、智花はあやす様に言った。
「またみんなで、一緒に見に行こう?」
「――――――ッ!!」
その笑顔を見て。
儚く、今にも壊れてしまいそうで、けれど。
雨上がりに咲く花の様なその笑顔を見て、進は胸の奥が締めつけられた。
―――ああ、そうか。
進は、熱の集まった顔を隠す様に俯いた。
鼓動が逸り、息が苦しくなって―――けれど、ずっとこのまま、二人でいられればと、心のどこかがそんな事を願っていて。
―――だから僕は、湊の事を。
夏の夜は、満天の空に星が輝くという。
その光と同じくらいに膨れ上がり、その存在を主張し始めた感情を抑えつける様に、進はぎゅっと胸倉を掴んだ。
―――叶わないと、分かっていても。
「……湊」
「なに?」
―――貴女の事が、本当に。
「あり、がとう……っ」
「……うん」
涙と共に、想いの全てをぶちまけられれば良かった。
泣きわめく事しか出来ない子供らしく、感情を素直にぶつけられれば良かった。
……だが、それをした所で、結局は智花を困らせるだけだから。
心根の優しい彼女に、これ以上迷惑をかけたくなかったから。
――――――大好きでした。
同情でもなく、尊敬でもなく、漸く辿りついた真実の想いは、しかし言葉にされぬまま、伝えられぬままに閉じ込められた。
◆
祭囃子が遠くに聞こえる中、愛莉はそんな二人の姿を遠くに見止めた。
寄り添う様に、支え合う様に近いその姿に、心の内に眠っていたドロドロとした感情が、まるで開いた穴から洩れでる様に滲み出て、じんわりと胸の内に広がっていく。
―――どうして、智花ちゃん“なんか”と
「ッ!?」
何の前触れもなく胸中を過ったそんな言葉に、愛莉は自分自身が酷く恐ろしく、そして醜い何かに思えてならなかった。
ぎゅうっと、身体を抱く様に両腕を抑えたその仕草に、一緒に二人を探しにきていたひなたが驚いた様に駆け寄り、心配そうに自分の顔を覗き込む。
ひなたの瞳越しに、愛莉は酷く青ざめた自分の顔を見出し、怯えた様に喉を引き攣らせて声を上げた。
膝から崩れ落ちた自分の背中を擦りながら、ひなたが普段からは想像も出来ない程に声を荒げ、心配そうに何度も愛莉の名を呼ぶ。
その声も耳に入らぬまま、愛莉は肩を抱いて身体を震わせた。
「……っ!」
誰だ、今のは。
あんな醜い何かを、愛莉は今まで一度も見た事がない。テレビでたまにやるホラー番組が稚拙なものにしか見えなくなる程に、あの怪物は醜悪で、凶悪で。生理的な嫌悪さえ覚えた。
「っ、ぁ……! は、ぁっ……!!」
呼吸が上手く出来ない。
世界がぐにゃりと歪んで、誰かの焦った様な声が聞こえて。
「……す、む……ん」
そうして、まるでフィルムを切り取られたビデオの様に唐突に、愛莉の記憶はそこで途絶えた。