どうしてこうなったorz
カーテンが日の光を遮る暗い部屋の中で、棺桶の様なベッドの中に蹲りながら、愛莉はただぼんやりと、濡れ痕の残る枕元を見ていた。
本来であれば、今日から夏休みが明け、新学期初日として登校しなければならなかったのだが、体調がすぐれない旨を両親に話し、彼女は朝からこうしてベッドの上で無為に時間を過ごしていた。
「………………」
チッ、チッ、と鼓膜を震わせる時計の音を嫌う様に、愛莉は身体を丸めて布団の中に潜る。
暗くて、何処か冷たい世界の中で、けれど、愛莉は瞼を閉じない。閉じようとは思わない。
目を閉じれば、また“あの光景”が蘇ってくるのは、想像に難くないからだ。
「…………っ」
すっかり冷たくなってしまった机の上のおかゆも、可愛らしいウサギの形に切り揃えられたリンゴも、すっぽりと何かが抜け落ちてしまった愛莉の胸を満たす事はなかった。
まるで、あの日、あの夏祭りの会場に―――意識と共に失ってしまったかの様に。
「……すすむ、くん」
呟く。
唯一と言って良い、同い年の異性の友達。そして、自分の大好きな友達である智花の事を、きっと大切に想っているであろう男の子。
愛莉は、こんなにも異性の誰かを意識した事はなかった。
幼い頃に水に対するトラウマを刻んだ兄は血縁もあって異性と見る事はなかったし、成長に関わるコンプレックスは相手の男女を問わず感じてきた。それ故に、特定の“誰か”を“異性として”其処まで意識する様な事は今までなかったのだ。
「水崎、進くん」
呟く。
大好きな友達の智花と、ギュッと手を繋いで、とても親密そうにしていた少年の名を呟き、その光景を思い出し―――愛莉は、きゅぅっと心臓が締め付けられる様な感覚を覚えた。
そうして、また胸の中に去来した一抹の感情。
―――どうして?
主語も目的語もない疑問が、ふっと過っては消えていく。
心地の悪さを覚えて、暗闇の中で愛莉はくしゃっと表情を歪めた。鏡を見なくても、酷い表情をしている事が分かる。
こんな顔、とてもではないが誰かに見られたくはない。
ましてや“彼”に見られでもしたら―――そう思った瞬間、愛莉は胸の奥を鷲掴まれた様な痛みを覚え、思わず嗚咽を洩らした。
「ぁ……え?」
驚いて、どうしてと自分に問い掛ける。触れてみれば、指先が俄かに濡れているのだ。
考えてみても、分からない。
―――それは、御伽噺の中でしか知らず、現実には見た事がないから。
慌てて目元を拭い、もぞもぞと身体を起こす。暗がりの部屋の中をぼんやりと見回し、ふと、机の上に広げたままになっているノートが目にとまった。
「……そうだ。宿題」
本来なら今日の内に提出しなければならないそれを、忘れない内に鞄にしまおう。
もう一度目じりを拭って、愛莉はベッドから降りて明日の支度を整える。
ノートや鉛筆と一緒に、先程までのもやもやとした感情に蓋をする様に、愛莉は鞄の口を硬く締めた。
◆
「五年生でチーム作ったらいいんじゃない?」
帰り道を夏陽と並んで歩きながら、やや後ろの方にいるミミに向かって進がそんな提案をした。
「ミミと袴田と、あと夏陽の妹二人と……もう一人、誰か探してチームを作りなよ」
「ススムは一緒にしてくれないのですか?」
「僕が入ると、ミミが湊と出来なくなっちゃうからね」
ゴール下のリバウンドならば愛莉が立ちはだかるだろうが、それ以外の局面で智花以外の相手が自分を止められるとは思えない。
そんな自信を言外に含ませながら、進は指の間で縫う様に器用に小さいボールを転がしながら歩く。
「えっ、あの……私もしなくちゃいけないんですか?」
何時の間にかチームメンバーに含まれているかげつが最もな疑問を口にするが、
「ダメですか?」
「い、いえっ、そんな事は全然ないですよっ!?」
五秒と持たず陥落。
更にそれを後押しする様に、夏陽が口を開いた。
「そういやかげつ、時々ひなたとバスケの練習をしているらしいな」
「あ、それ僕も聞いた。どんどん上手になっているって、ひなたが嬉しそうに言ってたよ」
「そ、そうなんですか……」
呟き、かげつは嬉しそうに表情を綻ばせた。
「だからさ、勝負してひなたを驚かせてあげようよ。そうしたら、ひなたもきっと喜ぶと思うよ」
「な、なるほど……!」
敬愛する姉の笑顔が脳裏に浮かび、かげつはグッと握り拳を作って決意を固める。
「ちょっとちょっと!」
「ボク達はどーなのさ!」
と、進達とミミ達の間に割り込む様に椿と柊が声を上げながら乱入した。
そして双子らしく、鏡合わせの様に同じポーズでビシッと進を指さしながら、怒気も露わに声を荒げた。
「大体、なんでお前が仕切ってんだよ!」
「そーだ! にーたんなら兎も角、お前にあれこれ言われる筋合いはない!」
「あのなぁお前等……!」
妹二人の態度に、いい加減夏陽の堪忍袋が逃げ出しそうだった。
が、
「じゃあ勝負しようよ」
前を歩いていた進がふと足を止め振り返り、手に二つのボールを握りながら言った。
「もし僕に勝てたら、もう何も言わないであげる。その代わり、僕が勝ったら二人とも大人しく言う事を聞く……これでどう?」
「ふん! 望む所だ!」
「にーたんとの特訓の成果、見せてやる!」
「進……それに二人も……ああっ、もうっ!」
頼むから、時々でいいから少しは自分の言う事を大人しく聞いてくれ、と言う事すら出来ず、さっさと近場のコートに向かって歩き出す三人の背中を見て夏陽は頭をガシガシと掻きながら苛立ちを露わにする。
「あれはまさしく“ケットウ”……! やはりススムは、サムライの心を持つモノノフでしたか……!」
そして何故か目をキラキラ輝かせながらそんな事をのたまうミミと、その隣で
長い休み明けの夕方という事もあり、コートがある公園には人影はなかった。
簡易なフェンスに囲まれ、ゴール二つと申し訳程度のラインが引かれたコートの傍に荷物を置いた進は、バスケットボールを弾ませながら感触を確かめた。
表情は常と変わらず何処か緩やかで、夕陽を浴びて佇む姿は今少し背丈が高ければ絵画の様にも見えただろうが、その光景を踏み荒らす様に息まきながら椿と柊がゴールを背に進の前に立ちはだかった。
「にーたんが見てくれているんだ。もう何も怖くない!」
「こんな勝負さっさと終わらせて、にーたんと一緒に帰るんだ!」
気合十分な二人の姿に、進は口元に僅かに笑みを浮かべた。
「じゃあ始めよっか……と言っても、別にミニゲームをする訳じゃないよ」
「へ?」と疑問符を浮かべる二人に向かって、進は人指し指をピッと立てた。
「指一本でもボールに触れたら、君達の勝ちって事にしてあげる」
その言葉に。或いは、その表情に。
完全に舐められている、という事を理解した二人は、次の瞬間顔を真っ赤にして飛びかかった。
だが、
「―――ほら、遅い遅い」
二人には、まるで陽炎を掴む様に見えただろう。
何の事はない単純なバックステップで、進は息巻く二人を尻目に余裕綽々な表情のまま言葉を続けた。
「バカ正直に正面からボールを奪いに行ったって、取れる訳ないじゃん」
「なにおうっ!」
「こんにゃろおっ!!」
怒りを全身から滲ませながら進に襲いかかる二人は、しかしボールは愚か進に指一本を触れる事さえ叶わぬまま腕をブンブンと振り回す。
手を伸ばせば届く範囲に居ながら、しかし実際に触れる事は叶わない。細かいステップと身体の動きだけで二人を翻弄する様をフェンス越しに見つめながら、ミミは興奮した様に声を上げた。
「あれは……まさか、ニンジュツ!? ススムはサムライでありながら、ニンジャでもあったのですか!」
「え、忍者って火を吹いたり生き物を呼び寄せたりするんじゃないの?」
「どっちもちげぇよ」
それは忍者ではなく別の何かだ。
ツッコミを入れつつ、夏陽もまたコート上の進に視線を向ける。
「ああ、もうっ!」
「ちょろちょろ逃げるなっ!」
すっかり頭に血が上り切っている二人は、先程の進の言葉もとうの昔に忘れたらしく、がむしゃらにボールを奪いにかかって良い様に翻弄されている。
まるで散歩でもする様な軽やかなステップでコート半面を悠々と舞う進の動きは、決して早いものではない。
ただ、巧いのだ。
なまじ夏陽と一緒にバスケの練習をやっていたから、椿も柊もある程度の動きには反応する事が出来る。進は足の動きや身体の動きでそれらを誘い、自分が避け易い様に二人を誘導している。
とても、一朝一夕で身に付く技術ではない。
少なくとも夏陽は同じ事をやれと言われても、無理だと断言出来る。進と互角の実力を持つ智花でさえ、あれは難しいだろう。
「はぁ……はぁ……」
「はぁ……ふぅ……」
五分か、十分か。
決して少なくない時間を費やしながら、しかし椿も柊もボールは愚か、進に触れる事すら未だに出来ていなかった。
「ほら、もう降参する?」
汗の一つも滲ませない余裕の表情のまま、進はそう問い掛けた。
既に彼我の実力差は歴然たるものだ。例えこれから一時間かけたとしても、二人がボールに触れる事は叶わないだろう。
だから夏陽は、いい加減止めさせようとした。
止めさせようと、口を開きかけた。
「……まだ、まだだ!」
「まだボク達の攻撃は、終わってない!」
決然たる意思を込めて、二人がそう叫ばなければ。
諦めを促しかけた夏陽は口を噤み、コートの上に立つ妹達を見やる。
西日もすっかり傾き、少し肌寒くなってきたというのに汗をダラダラと垂らし、肩で洗い息をしながら、それでも二人は己の足で立ち上がり、聊かも衰えぬ闘志を滾らせた双眸で進を睨みつけた。
それが単純に敵意であろうと、或いは、敬愛する兄の前で諦めたくないからという意地であろうと―――若しくは、進にひけをとらぬ負けず嫌い故の頑固さであろうと。
進にとって、二人の覚悟を認めるのには十分な言葉だった。
「…………うん。いいね」
一人、得心が行った様に進は小さく呟き、二人から距離を取った。
追いかける気力もなく、しかしゴールを背に立つ椿と柊を見据え、進は初めて腰を落として“構えた”。
「じゃあ、ラスト一本」
「―――っ!」
空気がガラリと変わった。
先程までとは桁外れの、肌を突き刺す様な威圧感を前に二人は言葉を失い―――しかし、直ぐに気を持ち直してコースを塞ぐように構える。
来る、と、
「―――えっ?」
「―――なっ」
動き出した瞬間は、確かに捉えた。
だが次の瞬間に進の姿は消え、気づいた時には後ろの方でボールの弾む音が耳朶を打つ。
まるで時間を切り取ったかの様に、進は二人を抜き去り、そして悠々とゴールへとボールを放った。
◆
「態々試合してやる意味があったのか?」
ベンチの上でへばっている妹二人を一瞥してから、夏陽は美味しそうにドリンクを飲み干す進にタオルを差しだしながら問い掛けた。
「ん、ありがと…………意味、ね」
そこで言葉を区切り、進は柔らかく微笑みながら夏陽を見つめた。
「夏陽も、分かっているんじゃない?」
「まぁ、な」
少し照れくさそうに、夏陽は進から視線を外した。
進が二人と勝負した意味に、見当がつかなかった訳ではない。
恐らくは、自分以外の言う事を聞かない二人をチームに引き込むため―――それと、二人の実力を確かめるため。
「最後の構えは悪くなかったし、動きも段々良くなっていったから、あと十分も続けていたらボールに触れたんじゃないかな」
「触れた、ね…………」
取られる、と言わない辺りが彼らしい。
普段はそうでもないのに、ことバスケにおいては人が変わった様に動き、喋る。
「まぁ湊相手は無理でも、三沢や永塚くらいなら抑えられる様にはなるかな」
「あの二人が? 真帆と紗季を?」
散弾銃を見せられた鳩の様に目を丸くして夏陽が問うと、やたら確信めいた声音で進は言った。
「勿論、今のままじゃあ無理だけど」
「…………何か作戦でもあるのか?」
「とりあえず、あともう一人集めないとどうしようもないかな」
「もう一人、ね……」
充てがない訳ではない。そして試合に引き込む事も、決して難しい事ではない。あの妹二人を相手にするよりは、楽な作業だ。
頭の中でこれからの行動を考えていた夏陽の耳に、夕暮れ時の蝉の声に混じって声が届く。
―――バスケは、五人いなくちゃ出来ないんだから。
そう呟いた進の横顔は、何処か嬉しそうであり。
そして何処か、寂しそうでもあった。