夏休み初日。
学生と名のつく児童生徒その他関係者であれば、睡眠欲の欲するままに惰眠を貪りたいその日の、早朝。
慧心学園の正門前に、一組の男女の姿があった。
「……夏陽、アンタ大丈夫なの?」
心配そうな面持ちを浮かべる少女の名は永塚紗季。
慧心学園女子バスケットボール部が誇る頭脳派であり、実家でもあるお好み焼き屋の看板娘である。
「……ああ」
眼の下に隈を作っている少年の名は竹中夏陽。
慧心学園男子バスケットボール部の頼れるキャプテンであり、紗季ともう一人、今は一足先に合宿所となる別荘に居る三沢真帆の幼馴染である。
「もしかして、あんまり眠れなかったの?」
「……ああ」
「……夏陽、私の話聞いてる?」
「……ああ」
「…………」
「……ああ」
凄まじい不安が紗季の脳内を支配していた。
目の前の幼馴染が、まるで夢遊病者の様にハイライトの消えた瞳で虚空を見つめながら、虚ろに「……ああ」と呟いている。
不気味を通り越して、最早怪奇現象的ですらある。
―――いや。だからといって、今更作戦を中止する訳にはいかない。
むん、と紗季は一人気合いを入れた。
自らが考案した一大プロジェクト――――――『夏陽。をプロデュース!』大作戦は、この合宿で一気に追い込みをかける算段なのだ。
そう、時は今こそ桶狭間。
きっと先日社会科の授業で習った日本の偉人、織田信長が今川義元に奇襲をかける時だって、一大決心をしたに違いない。
それと同じ―――否、それ以上の覚悟がなければ、このプロジェクトは完遂しえないのだ。
雨が降ろうと槍が降ろうとバスケットボールが降ろうと、立ち止まる訳にはいかない。
だからこそ紗季は目が死んでいる夏陽の頬を両手で挟みこみ、無理やり自分の方を向かせた。
「夏陽! この合宿にアンタ達を誘った本当の目的、分かっているわよね?」
ジッと夏陽の双眸を覗き込む様に見つめながら、紗季は言葉を続けた。
「私はアンタの初恋を全力で応援してあげるって決めたの。でも私に出来るのはあくまでも“応援”だけ。その後押しを受けて“実行”出来るかどうかは、アンタ次第なのよ?」
徐々に光を取り戻す夏陽の瞳を更に力強く見つめて、紗季がトドメとなる一言を言い放った。
「ひなの事が本当に好きだって言うなら、行動して見せなさいよ!! このままじゃアンタ、本当にひなを水崎に取られちゃうわよ!?」
「―――ッ!?」
ビクンッ! と全身を電流が駆け巡った様に夏陽の身体が震えた。
まるで今朝方の悪夢を思い出した様に夏陽の顔色が青白く染まったかと思えば、次の瞬間紗季の両肩をがっしりと掴んで夏陽がまくしたてた。
「ぷぷぷぷろぽーずなのか!? やっぱりプロポーズなのかぁっ!?」
「ちょ! な、夏陽!?」
「指輪か!? 三カ月か!? それともフラグなのかぁっ!!」
「ちょ―――落ち着けぇっ!!」
目をぐるぐる回しながら迫る幼馴染に、割と本気で身の危険を感じた紗季が怒声を張り上げる。
尚も勢い止まらぬ夏陽に焦れた紗季が頭部一閃、渾身の頭突きを叩き込むと、「きゅぅ」と目を回したまま夏陽は仰向けに倒れる。
ふぅ、と一仕事やり終えた職人の様な面持ちだった紗季は、ふと何の気なしに振り返った。
振り返って、見つけてしまった。
「…………」
見つけた、というより見られた。
目の前で鮮魚を咥えた猫を追いかける裸足の主婦を見た様に目を丸くした進が、日よけ用の麦わら帽子を被って旅行用の鞄を下げたまま自分達を見ているのを、紗季は見てしまった。
「……あ―――」
何か言わないと、と思い口を開いた瞬間。
サッ、と進は目を逸らした。
「見てないよ」
「いや、あの、進? あ、あのね?」
「それでも僕は見ていない」
「あああなたはじじじ重大なかかかかかんちがいをしているわうんこれはキスとかいちゃこらとかそんなんじゃなくて作戦会議と言うかなんというかとにかく違うのよぉっ!?」
まるで浮気現場を目撃された人妻の様に、必死に言葉を尽くす少女が其処にいた。
というか、紗季だった。
◆
真帆の「そうだ、海に行こう!」という発案の元企画された慧心女バスの旅行に、送迎兼監督者として美星が選ばれた時点で、昂は何となくこうなるんじゃないかと予想していた。
前者はともかく後者の役割に関しては大いに不安があり、また発案者の真帆を始め、智花達女バスの面々が是非にと誘ったので、男子で高校生ながらコーチである昂も今回の旅行に同行する事となった。
当初は昂の監視役を自ら勝手に買って出た葵も来る筈だったのだが、数日前から夏風邪を拗らせてしまい欠席を余儀なくされた。
尚、その電話口での最後の言葉は地の底から這い寄る混沌の如き声音での「旅行に託けて変な事したら許さないわよ」だった。
そんな事はしない! と声を大にして言いたかったが、考えてみると前科持ちに近かった昂は大人しく黙る事にした。
小学生の女の子五人と体育館で一緒に練習したり、同じ宿舎で寝泊まりしたり、水着姿で水泳の指導をしたりバスケをしたり……少し思い出しただけでも、出る所に出れば一発でアウトなものばかりである。
実際は諸々事情があるのだが、自分が高校生で相手が小学生なだけに可能性を生んだだけでもアウトなのだ。
そんな中で更に前科を重ねる訳にはいかず、また事情を良く知らない者から妙な視線を向けられない為にと、紗季が提案した「夏陽と水崎も連れて行こう」という話に一も二もなく飛びついたのである。
それはもう、世紀の大泥棒ダイブをかます勢いで。
で。
「よし、みんな集まったな」
集合時間十分前に昂が到着すると、待ちかねたとばかりに見慣れた面々が顔を揃えていた。
「……ん?」
と、何故か智花や愛莉が半笑いだったり進が何時も以上に無表情だったり、紗季がやたら苦笑いだったり若干見慣れない表情が揃っていた。
「どうしたの?」
「な、何もないですよ!? ええ何もないですとも!!」
昂が問い掛けると、やたら紗季が声を張った。
どう見ても何かあったとしか思えなかった昂ではあったが、公道を爆音を上げながら疾走する赤紫の車体を見止めて口を閉じた。
直後、校門前に急停止した車の運転席を蹴飛ばす勢いで集合時間ジャストに到着した運転手兼女バス顧問―――篁美星は、世界一有名なチェシャ猫ばりの笑みを湛えて現れた。
「よーっし全員集まってるなー? 感心感心、んじゃさっさと荷物後ろに載せて出発するぞー!」
一人スーパーハイテンション状態な美星につられる様に、ひなたが「おーっ」と声を上げる。それに合わせる様に愛莉や智花も若干気恥ずかしそうにしつつ、前者二人と同じ様に拳を天に突き上げた。
オールウェイズ天使な少女と女子小学生を除けば、そのまま世紀末覇者の最期を名乗れそうなポーズである。本人の人間離れした身体能力的な意味で。
◆
で。
「どうしてこうなった…………」
『昂が何処に座るのか』という極一部にとっては致命的過ぎる大問題で一部水面下の頭脳戦が繰り広げられた結果、『サービスエリアに入る毎に席を交換しよう』という何だか良く分からない案が何時の間にか採用され、気がついた時には自分は二列目中央に固定され、助手席を含む回りの席をみんなが順番に座る事になっていた。彼自身何を言っているのか良く分からないが、じゃんけんとかあっち向いてホイとかそんなちゃちなものではなく、もっと恐ろしい何かの片鱗を垣間見た気がするのであるから仕方ない。
だが、とある女王が目論んだこの『偶然席が隣同士になっちゃった(はーと)大作戦』は、美星の車が高速道路に入って間もなく瓦解する事となる。
「み、水崎くん……大丈夫?」
「…………うん」
「すすむ、アメさん舐める? いちごと、りんごと、みかんがあるよ?」
「……ありがと。でも今はいい」
進は 車酔いに なった!
普段乗りなれない車に乗った時にかかる、車内の独特の空気とか慣れない振動に呼吸器やら何やらがひっくり返ってしまうアレである。
女バスの面々がやたら和気あいあいとしていたから、余計に言いだせなかったのだろう。
気がついた時には、進は顔を真っ青にして今にも倒れてしまいそうな雰囲気だった。
慌てて最寄りのサービスエリアに寄って衛生面や精神面的な意味でのグロッキーは避けられたのだが、その後も不安が残る為進は最後尾に移動、隣に昂が座り、何か異変があれば即座に反応出来る様に注意を払っていた。
「……すみません」
「水崎が謝る事じゃないさ。乗り物に酔う事なんて、誰にだってあるって」
「そうだよ。水崎くんは悪くないよ?」
本気で悪い事をしてしまったと云わんばかりに意気消沈した様相の進を何とか励まそうと、後部座席に座った昂と智花が声をかける。
その前列――車内三列中の二列目――に座るひなたは後ろを向いて進の様子を眺めており、隣に座る夏陽は夏陽で普段とは変わり果てた友人の姿に気が気でない様子。
そんな光景を隣で見つめながら、紗季は進を心配しつつも、
「ぐぬぬ……」
作戦が失敗して微妙に不服そうだった。