「早くしなさいよ馬鹿真帆! 水崎の試合が終わっちゃうでしょう!?」
「だから待ってって言ってんじゃん!! あとちょっとなんだから!!」
言って、「ふんぬーっ!!」と力んだ真帆が身体を捩る。
歯を食いしばり、顔を真っ赤にして踏ん張って、しかし中々“それ”は出てこない。
「真帆ちゃん! ファイトだよっ!」
「おーっ! まほ、リズムが大事。ひっ、ひっ、ふー、ひっ、ひっ、ふー」
「ひ、ひなっ!? それは違うものだからねっ!?」
クラスメイトでありチームメイトである仲間の声援やら助言やらツッコミやらをBGMに、真帆は更に力を込めて踏ん張る。
もう顔は半分出しているのに、中々出てこない。真帆が幾ら身体を捩っても、手足の指を丸めて力を込めても、そのほんの少しが出てこない。
乙女として、余り時間をかけ過ぎてもいけない。
迅速に、且つ優雅にしなければならないが、今はそんな体面を気にしていられる余裕はない。
「ふぁいとぉぉぉぉぉっ!! いっぱぁぁぁぁぁつ!!」
一人で大の大人二人分の気合いを込めて、真帆が渾身の力を振り絞り―――!!
「真帆、中でレモンを握っていたら、何時まで経っても手は抜けないよ?」
「え? あ、ほんとだ!」
「上の蓋が取り外せる様になっていますね。真帆様、私がやりましょう」
「やんばるはいいって! これはあたし達がすっちーの為に作った差し入れだもん!」
「ああもうっ! いいから久井奈さんに貸しなさいよ! そんなのに拘ってたせいで結局こんなに遅れているんだから!」
昨夜、進が試合に臨むと聞いて、彼が寝入った後に女バスの面々で作ったレモンの蜂蜜漬けの筒を真帆から奪うと、紗季は尚もぎゃあぎゃあと喧しい幼馴染を無視して聖にそれを渡した。
自分たちでこっそり作って、激励代わりに……と考えていたのだが、真帆がレモンを丸ごと筒の中に突っ込んだりひなたが蜂蜜をよく喋る小熊の様にぺろぺろ舐めてしまったり愛莉がゲン担ぎの為と小豆缶を開けたり、諸々のハプニングを終えて寝たのが夜中の十一時過ぎ。
こっそりその様子を見守っていた美星を含め、関わっていた全員がぐっすりと眠ってしまった為にその事を知らなかった進は、聖が用意してくれた朝食を食べ、保護者兼監督として同行する昂と共に早々に出かけてしまった。
そして、女バスの面々の中で一番早く起きたのは愛莉。その時刻、9時58分。
『…………ぇ』
―――そこからのドタバタは、昂がいれば二次元恋愛ゲームの
そして、只今の時刻、10時28分。
「お待たせいたしました、サキ様。落とさない様、お気をつけ下さい」
「はい。ありがとうございます」
「ほらサキさっさと行くよ! すっちーのコートまで全速前進だ!!」
「だから待ちなさいっての馬鹿真帆! あんたそんな格好で外出るつもりなの!?」
ビシッ、と紗季が真帆の服を指さす。
先程まで蜂蜜がたっぷり入っていた筒と格闘していた所為だろうが、真帆は手やら服やらあちこちに蜂蜜を飛ばしていた。特に服は、室内用に白のワンピースしか着ていなかった為に、蜂蜜が飛んだ胸元やらおへその辺りに飛んだ蜂蜜が服と一緒に肌にぴったりと張り付いて、とてもではないが外に出られる様な格好ではなかった。
「真帆はさっさと服を着替える! ひなは寝癖を直しなさい! 愛莉は靴下が左右別々になってる!」
「えー」
「おー」
「は、はいっ!?」
「えー、じゃないっ!!」
うがーっ! と雄叫びを上げるチームメイトを余所に、ふと智花は考えた。
(……あれ? そういえばレモンの蜂蜜漬けって……丸ごと入れるんだっけ?)
――――――後に智花は、同様の手法で制作したレモンの蜂蜜漬けを実食し、こう回顧する。
『レモンの風味が良くない方向に変貌を遂げ、体中をまさぐられる様な不味さでした……』
◆
進の攻撃だったが、結局大輝にボールを奪われてゴールを決められ、得点は2―1で大輝の攻撃に移る。
このまま大輝にゴールを決められてしまえば、そのまま勝敗は決する―――このまま、何もなければ、の話だが。
大輝は、今目の前で相対する進を見やる。
両手をだらりと下げ、大きく息を吸って、吐いて……顔から滴る汗も、照りつける日差しも、何もかもを感覚から遮断した様にただ真っ直ぐに自分を見つめる双眸に、聊かの焦りも、油断もない。
『見せてあげるよ大輝。“今の”僕の全力を』
この1 on 1が始まる前、進が言っていた言葉が頭を過る。
あの言葉通り、最初に見せられたダックインは、昨日のそれを遥かに超える衝撃だった。
―――だが、決して反応できないものではない。
どれだけ巧みなフェイントであれ、どれだけ鋭いドリブルであれ、ボールが消えた訳でも増えた訳でもない。確かにボールは其処にあり、そしてバスケは、ゴールにボールを決めて、初めて勝てるものだ。
何より、大輝は自分自身のバスケセンスが彼に劣っているとは聊かも考えていない。
それがどの様な仕掛けによるものであろうと、人の手による、人の技術の結晶であれば、打ち破れない道理は何処にもない。
ましてや体格も
――――――にも関わらず、この空気は何だ?
喉を通る唾の音が、やけに大きく響く。
肌を伝う汗が、言葉にし難い悪寒となって背筋を流れる。
目の前に立つ進は、決して獣の様な獰猛さを放っている訳ではない。むしろ笑顔さえ浮かべて、先程よりもリラックスしている様子さえ見受けられる。
「……ッ」
手の動き、足の動き……その一つ一つをつぶさに見極め、ドリブルのタイミングを見極める。僅かな動作から理想のコースをイメージし、それを現実とする好機を窺う。
得手とする右側から、身体をねじこんで強引に切り込む。それには追いつかれるだろうから、シュートコースを塞ぐ為に足を止めた瞬間、クイックターンでかわして―――
「―――!?」
ほんの少し上げた視線が進と重なった瞬間、大輝は咄嗟に攻めかかっていた体躯を半歩下げた。
防がれる―――どころではない。
切り込んだ瞬間にボールを失う己自身の
自分の様に、威嚇する様な眼差しなどではない。
ただ自分を見て、ボールを見て、どのタイミングでも主導権を奪える様に用意しているのだ。
今ならば分かる。
“この”進ならば、どのタイミングからでも、一瞬で
「……ッ…………!」
得体の知れない恐怖が大輝を襲う。
その一瞬の躊躇いを見計らったかの様に、進の手が恐るべき速度でボールに迫った。
「ッ、チィッ!!」
躊躇っている暇などない。
兎に角これを交わして、直ぐに攻めなければ―――この圧迫感から逃れなければ、“負ける”。
「―――ねぇ、大輝」
すれ違いざま、誰かの声が大輝の耳朶を打った。
この緊迫感にそぐわない、やけに呑気で、落ち着いた声。
「今、“負ける”って考えたでしょう?」
壁をぶち抜いて、コースを走ろうとして――――――大輝は、目の前が真っ暗になった。
普段であれば、どこを走れば良いのかが瞬時に分かる筈の瞳に映ったのは、照りつける太陽の熱に焼かれたコートだけ。
ゴールまでの道筋が、何一つ見えてこない。
「――――――“負ける”って考えたら、その時点で負けているんだよ」
―――次の声が聞こえた時、大輝の手からボールは消えていた。
◆
全身から汗が引いた気がした。
周りの暑さも、潮の香りを纏った熱風も、何一つ五感を阻害しない―――空調設備が完備された室内で、コンディションが万全の状態で行う最初の数十秒が、ずっと持続している様な感覚だった。
呼吸も、心音も、笑えるくらいに整っている。
しかし一度動き出せば、それらは即座に
手足の指先の神経、その一本一本がはっきりと自覚して動かせる。
頭の中で思い描くビジョンを、リアルタイムで寸分の誤差なく再現できる程に。
―――進がこんな感覚に陥る事は、実は初めてではない。
記憶になくとも、身体はしっかりと憶えている。
秋季新人戦。
経験の乏しい低学年の選手にとって、数少ないチャンスであるその大舞台において、進は無意識的にこの状態に“入った”事があった。
五分五分だった試合を一気に覆し、圧倒的大差で勝利に貢献。その大会の最多得点記録を叩きだし、一躍レギュラー入りを果たす事となった。
だが、それから進がその状態になる事は一度もなかった。
身体の感覚だけを頼りに、その状態を何時でも発揮できる様にと練習を積み重ねてきた。その甲斐あって、学年を重ねるごとにぐんぐんとバスケの技術は向上し、反射神経も敏捷性も、同年代の選手では及ぶ者など数える程しかいなくなった。
――――――まだ、遅い。
それでも、思い描く理想の姿にはほど遠かった。
なまじその感覚を身体が憶えてしまっていたが為に。そしてそれが、己の身体能力を最大限活かせば再現できると思ってしまったが為に。
バスケに対して何よりも真摯に向き合い続けたが為に、その感覚が進に再び訪れる事はなかった。
……ありえもしない“もし”を語る事が許されるのなら、そこには一つの可能性があった。
一年前の全国大会準決勝。
彼と対峙した時、“もし”自分がこの状態に“入って”いれば、或いは――――――
「…………ふぅ」
数瞬の内に幾つものパターンが再生された脳内の幻影を振り払う様に、進は大きく息を吐いた。
終わってしまった過去の事を悔いても始まらない。
ありえもしない“if”を語っても、何の意味もない。
今、自分の目の前には大輝がいる。
自分のポテンシャルを最大限に引き出しても尚、喰らいつこうとする強敵がいる。
水崎進は、年頃の男の子だ。
宿題はあまり好きじゃないし、クラスで気になる女の子も一人くらいはいる。勉強するよりはバスケをしていたいし、大人に言わせてみればとても現実的とはいえない夢だって持っている。
―――そして何よりも、こういう少年漫画にありがちな熱血的展開を前に、心を躍らせずにはいられないのである。
「行くよ、大輝」
だから進は、絶対に手を抜かないし、油断もしない。慢心なんて以ての外だ。
『全力で1 on 1をする』という約束を果たす為に――――――何より、鳴りやまぬこの胸の高鳴りに応える為に!
「ッ!?」
大輝の目が驚愕に見開かれる。
一瞬前まで確かにそこに存在していた筈の進が、一瞬後にはその姿を完全に消していた。
抜かれる―――負ける。
一秒が十数秒に引きのばされた世界の中で、大輝の脳裏にそんな言葉が過った。
(負ける……俺が?)
地元の悪ガキ相手に喧嘩で負けた事のない自分が。
チームとしては兎も角、個人の実力であれば一体一では負けた事のない自分が。
このまま、負ける―――のか?
(………ざ…んな)
認めない―――認められない。
このまま何も出来ずに負けるなどと、そんな事が、認められるものか。
これはアニメじゃない。
ボールが突然消える事も人がいきなり消える事も空から人が降ってくる事もない。バスケはゴールにボールを決めなければ、成立しないのだから―――だから!
「ふざっ、けんなぁっ!!」
殆ど直感だった。
野性的なまでの本能が、進とゴールの間のコースに大輝の身体を滑り込ませた。
進の目が、俄かに見開かれる。
こんな見た目からは想像も出来ない程にバスケが上手い……いっそ、元は同じ運動神経を持って生まれた小学生なのかどうかも疑わしい奴を相手に、自分はまだ、脅威たりえる存在だったのか。
胸中に去来した優越感は、しかし一瞬を待たずに掻き消される。
「あああぁぁぁぁぁああぁぁっ!!」
最早殴りつける様な勢いで腕を振り抜き、ボールを叩きだす。
ゴールポストから少し横にそれたラインを割る―――その一瞬の判断が、大輝の足を止めた。
だが、進は止まらなかった。
「なっ!?」
――――――バスケは、ブザービートが鳴り終わるまで終わらない。
―――ましてや今は、ボールがラインを割らなければ、終わらない。
一瞬でボールを確保した進は、しかしその勢いを殺す事は出来ない。コート外に足をつけてしまえば、そこでゲームセット。
ならばとばかりに、進の足はコートを蹴った。
ゴールポストの横を身体が通っていく。最早どれだけ足掻いても、シュートを決められる筈はない――――――そう、見ている誰もが思った。
だが、進の眼にははっきりと見えていた。
ゴールの裏からでも、その眼の光は、確かにコースを読み取った。
理屈ではない。
ただ本能的に、ボールを放った。
◆
『おやゆび、人さしゆび、中ゆび……』
『ん? どうしたんだ■』
誰かの声が聞こえた。
温かくて、優しくて……自分の全てを包みこんでくれる様な、そんな声。
『あっ、■■!』
その声の主に、誰かが抱きついた。
小さな身体で目一杯に喜びを表現しながら、声の主の手を引いて問い掛けた。
『ねぇ■■、どうやったら■■みたいにじょうずにゴールができるの?』
『お、なんだなんだ? ■は俺みたいになりたいのか?』
『うん!』
幼子の言葉に、声の主は喜びを露わにしてその頭を撫でた。
そして「見せて」とせがむ声に応え、足元にあった柔らかいボールを手にとる。
『いいか■、ボールを打つ時に大事なのは』
『三つのゆび!』
男性の声に、親指、人差し指、中指をびしっと立てて、元気よく幼子は応える。
『そう。その三つの指でボールを操るんだ』
『あやつ、る?』
『ははっ、■にはまだ難しかったかな?』
困った様に笑いながら、男性は再び幼子の頭に手を乗せた。
『うーん……そうだな。ボールをゴールに入れる為の大切な事、って言うのかな。なんて言うか、こう……』
『うー?』
『そう! ボールと友達になる、っていうか……』
『ともだち?』
『うん……そうだな。友達だ。ボールと友達になれば、どんな時だってゴールを決められる様になるぞ』
言って、その人は優しく幼子の頭を撫でる。
その手をギュッと握って、幼子は顔を上げた。
『じゃあパパ、もし僕がボールとともだちになれたら、パパみたいにバスケットがじょうずになれる!?』
『ああ、きっと物凄く上手になれるぞ』
『ほんと!? ほんとにほんと!?』
父親の手を掴み、飛び跳ねながら問い掛ける我が子に、彼は優しく微笑んだ。
『ああ。パパがバスケの神様に、ちゃんと約束させる』
『かみさま……? あっ! “おすかーろばーとそん”さんと!?』
『おおぅ…………ここでジョーダンと言わない辺り、やっぱ俺の子か』
やけにリアルな息子の“神様”に軽く慄きつつも、男性はしゃがみこんで幼子と目線を合わせると、小指を立てて指切りを求めた。
それに応える様に、笑顔の幼子が小さな小指を父親の小指に絡める。
『じゃあ約束だ“進”。パパがバスケの神様に、進がもっとバスケを上手になる様にお願いする。だから進は……』
『ボールとともだちになる!』
言って、幼子―――谷口進は、
◆
「真帆、早くしなさいよ!! もう11時になっちゃうじゃない!」
「ああんもうっ、紗季が一々せかすからだろっ!!」
「ひ、ひなちゃん!? スカート、スカートめくれちゃってるよ!?」
「おー、くまさんが見えちゃった。よいしょ」
「ね、姉さまっ!? はしたないですよっ!!」
玄関口で慌ただしい面々を見やり、淡いピンクのワンピースに麦わら帽子を被った智花が乾いた笑みを浮かべた。次いでにいえば、一連の言動の中でかなり際どいものがあり、同じく玄関口に立っていた夏陽はそっと目を逸らしていた。
あの後、真帆の着替えを待つ間に寝癖を直してもらう為に洗面台に向かう道すがら、台所で手にべっとりとつけていた蜂蜜を舐めていたひなたがポタポタと蜂蜜をあちこちに零してしまったり、顔や手に蜂蜜をつけたままのひなたの着替えを手伝っている間に自分も蜂蜜まみれになってしまった愛莉が更に着替えたり、台所で片付けに勤しんでいた紗季とかげつがうっかり水を自分にひっかけてしまい着替える事になったり…………気がつくと、智花と夏陽以外の全員が服を替える事態になっていた。
「こいつら……」
「あ、あはは……」
呆れた様に夏陽が額に手をやり、手に提げた袋に『丸ごとレモンの蜂蜜漬け ~小豆を添えて~』を持った智花が苦笑する。
「ほら、早くしなさいよ! もう終わっちゃってるかもしれないのよ!?」
「うっさいなもうっ! もしかしたらコートに空から羽を生やした女の子が落ちてきて、まだやってないかもしんないだろっ!?」
「何よその超局地的大事件は!? 微粒子レベルの可能性も存在しないわよっ!!」
「もう終わったよ」
「ほら見なさい! もう終わっ……って」
漸く靴を履き終えた真帆が、立ち上がりながら紗季と口論する。が、その無茶苦茶すぎる可能性を即座に斬って捨てた紗季が玄関口を指さすと、随分と落ち着いた声が間に入った。
その場にいた全員が声のした方を振り向く。
見ると、玄関前にある数段の階段を上ってきた進と昂が其処にいた。
「って、み、水崎っ!?」
「みんなしてどうしたの?」
「あー……応援?」
驚きに目を見開く紗季を余所に、進が誰彼となく問い掛ける。すると頭を掻きながら、夏陽がお茶を濁す様にそれっぽい返答をした。
「応援?」
夏陽の言葉に、進は更に小首を傾げる。
と、そんな進にはお構いなしに真帆がずずいっと進に駆け寄った。
「すっちー! 勝った!?」
「引き分け」
「えー、引き分けかよ……ま、いっか!」
一瞬落ち込んだものの、直ぐに回復して見せた真帆が「もっかんもっかん!」と智花を呼び寄せた。
「試合で頑張ったお疲れのすっちーに、あたし達からプレゼントだっ!」
「プレゼント?」
「そーだぞっ! 昨日あたし達がココロを込めて作ったんだから、ありがたく受け取れよなっ!」
薄い胸を張りながら偉そうにふんぞり返る真帆に一瞥もくれず、進は智花から恭しく袋を受け取った。
「ありがとう、湊」
「い、いえ……どういたしまして」
「ぶー。すすむ、ひなも頑張ったよ?」
「うん。ひなたもありがとう」
わーい、とはしゃぐひなたの隣で、愛莉が何か言いたそうにモジモジとしているのを見止め、進は更に視線を愛莉に向けた。
「香椎も、ありがとう」
「ふぇっ!? え、あぁ、ありがとうございますっ!」
「愛莉がありがとうを言ってどうすんのよ……」
何故か90度近く腰を折って頭を下げる愛莉の姿に、呆れた様に紗季が呟く。
と、その紗季にも顔を向けて進が言った。
「永塚も、ありがとう」
「なっ……ま、まぁ私はちょこっと、ちょこぉぉっっっと手伝っただけなんだからね。か、勘違いしないでよねっ!」
何故其処でツンデレた。
そんな周囲のツッコミを知る由もない紗季は、一人で顔を赤らめながらそっぽを向いた。
と、夏陽が不意に視線を奔らせ、妙な違和感に気づいた。
「……って、あれ。お前リストバンドはどうした?」
夏陽の言葉に各々が視線を向けると、進の手首にあるブルーのリストバンドが、左手首の分だけない。
「ああ、これ」と、進は手首に奔る傷跡を特に気にした様子もなく、少しだけ表情を緩めて答えた。
「約束してきたから」
「約束?」
「うん」
―――今日の決着を、何時かつける為の証として。
進は、剥き出しの左手首をジッと見つめる。
手首を中心に幾筋も奔る傷跡は、今もその爪痕の深さを物語っていて―――けれど、古傷は“ただの”古傷だ。
「そういえば何を作ってくれたの?」
「あ……えっと、レモンの蜂蜜漬け……かな?」
「ひろー回復肩こりよーつうに良く効くこと間違いなしっ! ほら、早く食べて食べてっ!」
「おー、試合を頑張ったすすむには、ひながあーんしてあげます」
「ひ、ひなちゃんっ!?」
「ね、姉さまのあーんなんて羨ましい……じゃなくて、ずるい、でもなくて、えっと、えっと……と、とにかくダメですっ!!」
やんややんやと騒がしい面々を微笑ましく感じて、胸の中がほっこりしつつ昂は進の手元にある袋を覗き込んだ。
「お、ボトルタイプの容器なのか。進、俺が開けるよ」
「あ、はい。お願いしますコーチ」
ひょいと進から容器を受け取り、昂は何の躊躇いもなくボトルの口をあけて―――刹那、笑顔のまま硬直した。
「コーチ?」
腰のあたりにある進の頭がコテンと傾くが、それを気に留める余裕は昂にはなかった。
なぜレモンが丸ごと入っているのか。
なぜ蜂蜜の中に小豆が浮いているのか。
なぜコンデンスミルクをぶち込んだ様な甘ったるい香りがするのか。
「隠し味は、アイリーンの小豆とヒナのコンデンスミルクだぜっ!」
「蜂蜜に漬けただけではすっぱいかと思ったので、ちょっと工夫をしてみました!」
幼馴染`sが薄い胸を張ってそんな事をのたまい、事態を把握した夏陽は表情を凍らせ、進は「へー、そんな作り方もあるんだ」等と呑気に感心している。
いや、そんな作り方は存在しない。
(どうする……!? いくら可愛い女の子の手作りとはいえ、明らかに地雷でしかないこれを食べさせていいのかっ!?)
子供と言うのは時に残酷なモノで、思った事を素直に口に出してしまう生き物だ。
もしこれを食べて「不味い」などと言ってしまえば、確実に進と女バスのみんなの間に修復不可能な亀裂が入ってしまう。もしこれが昂相手であったのなら、オールウェイズ天使なひなたの不思議パワーが作用して奇跡的に美味しいかもしれないし、或いは愛莉の純情さにほだされた味覚がこれを美味と捉えるかもしれない。しかし進にこの境地を求めるのは余りにも酷だ。
そうなれば、美星が考案した『水崎進友人計画ver.Ⅲ』が計画倒れしてしまう。
どうする…………一体どうすれば!?
「あー……でも今はそれより喉渇いたかも」
天は昂の腰元に舞い降りた。
「あ、そうだよね。外はこんなに暑かったし、疲れちゃったよね」
「おー、ひなもお水が飲みたいです」
「じゃあやんばるに頼んでジュースでも飲もっか。行こっ!」
「ああもうっ、真帆! スカートでそんなに走るんじゃないのっ!」
瞬く間に子供達の関心はボトルからジュースへと移り、あっという間にその姿はリビングの方へと消えていった。
一人ポツンと玄関口に残った昂は、手元のボトルに視線を落とし、次いでリビングに消えた子供達の背中を見て、長い長いため息をついた。
夏合宿(アニメ時間軸一期)、これにて完結で御座い。