あまり手をつけられていない古びたタンスに隼一は手を伸ばして開ける。いつ以来の来客であるだろうか、と考えながら、お客様用に常備しているコップを手に取る。埃が少し付着していたので台所で水で流す。さっと水気を除き、既に用意されている茶をそこに注ぐ。
「ど、どうぞ……。」
震える手からコップへと振動が伝わり、カタカタと小さな音を立てる。レオはその小さな手を優しく包む。
「さっきは驚かせてしまってすまない。最初は敵だと思っていたが、誤解はもう解けたよ。」
レオは笑顔を作る。それを見て、やっと隼一は心を落ち着かせたみたいだ。レオは手渡されたコップを口元に近づけ、まずは1口飲む。苦味と香りが口に広がり、それと同時に喉の渇きを潤わす。
「それで……。レオさんは本当に悪魔じゃないの?」
「ああ。俺は外の世界の普通の人間さ。」
それを聞いた隼一はがっかりした。自分が呼ぼうとしたのは悪魔なのに、結局は無関係な人間を巻き込んでしまったからだ。
「こちらとしても、ここに来れたのは良かったが……。そうだな、俺で良ければ妖怪退治をしようか?」
レオの本心としては、偶発的に『楽園』に来れたのはちょうど良かった。隼一と言う名前の少年の願望に少し付き合いながら、この『楽園』を自由に探索できる。
「えっ!? そんな事できるの? 妖怪は人間よりずっと力持ちで、狡賢いんだよ。」
「ああ、できる。自慢ではないが、俺も少し特別な力を持っていてね。」
隼一の瞳は輝き始めた。これは子供特有の光だな、レオはコップに少し残っている茶を飲み干す。
「ただいま、隼一。」
突然家の扉が開き、隼一のその輝きは一種にして暗んだ。大方こんな珍事を犯して、きっと保護者に怒られるのを恐れているのだろうとレオは察する。
「あ、お、おかえりなさ〜ぃ……。」
隼一の声はどんどん小さくなる。
「ん? ただいま。…客人用のコップが出とるが、さっきまで友達が来とったんか?」
老人の意外な反応に、隼一は咄嗟にレオが先程まで座っていた椅子を見る。そこには何故かレオの姿がなかった。窓も裏口も閉まっており、文字通り姿が消えてしまっていた。
「うん。僕が貸してたノートを返しに来てくれたんだよ。さっ、じっちゃん。速く食べに行こうよ。」
「そうだな。隼一もあれだけ楽しみにしておったからな。よし、行こうか。」
勢い良い隼一の返事をして、2人はすぐに扉を開けて外に出た。もしかしたら、特別な力と言うのは本当みたいだ。隼一は胸の興奮を抑えながら老人の後を歩く。外はまもなく太陽が隠れようとしていた。少し薄暗い橙色で幻想郷の空は染まっていた。
夜の山は日中の都市部と比べるとかなり寒い。レオは人知れず遠い山へと向かっていた。
「何とか切り抜けたが……。兎に角、『濃い地点』から調査するとしよう。」
道中の平野は極力避け、できるだけ山の中を走っていく。他の誰かに見つかり、声をかけられるのは非常に厄介だ。『楽園』の空は星が沢山輝いている。今まで見てきた夜空とは比べ物にならない程美しい。しかし、その美しい光は森の中までは入ってこない。暗い視界でもレオは目的地へまっすぐ進む事ができるので、あまり困る事は無かった。途中、霧がかかった湖を素通りした。その近くには赤い洋館が建っていた。さらに北へ進んでいくと、目的地である大きい山―『妖怪の山』の麓まで辿り着いた。
「この山から、大量の『マナ』を感じ取れる。もしかしたら、ここに何かがあるのかもしれない。」
世界中を任務で飛び回った事もあるレオでさえ、妖怪の山から感じ取れる量のマナをレオは1度も体験した事が無かった。
『マナ』―神代が終わりを告げた頃から、地球から衰退していったと憶測される非科学的エネルギー。そのエネルギー源は人の感情―これ故に、今でも謎が多い。それが地球上から衰退した原因は主に科学の発達と言われている。自然現象、例えば雷を昔の人は神と想像したのは有名な話だ。科学は、その人間の想像物を根底から否定した。『現実的』と『非現実的』な物の境目は、おそらく『科学的』、『非科学的』な物と言い換えができる。人はいつしか科学を信じ始める。そうして、現在の世界は進展していった。人の信頼―エネルギー源を失ったマナは、秘境と呼ばれる場所などで稀に感知する事ができるといった規模でしか存在しなくなってしまった。隊長の目的とはこの『マナ』である事は用意に想像できる。
「おい、そこの人間! こんな夜遅くに妖怪の山へと来るのは自殺行為だぞ。」
暫く妖怪の山でウロウロしていると、早速他人に見つかってしまった。人型ではあるが、第一声からしておそらく妖怪であろう。
「妖怪の山? …ってのはここの事か。」
「なんだ、その変な格好と言い、お前は外から来たのか。ならくれぐれも気をつけるんだな。夜は数多くの妖怪が活発な時間帯だからな。」
変な格好と言われたのにレオは納得いかなかった。当のその声をかけた男はと言うと、全身水色の作業着の様な服を着ていたからだ。
「……それを言うならあんたの格好の方が変だ。袖口から糸が出ているぞ。」
レオはその男に指摘する。咄嗟に男が袖口を凝視するその瞬間に、レオは『特殊な力』の1つを使って姿を遠くの木の陰に隠す。素早い動きながらも物音は一切立たなかった。なので、目の前にいた作業着の男は全く気づいていない。
「……って何もないじゃないか! と、どこに行ったんだよ。全く、盟友だから親切に教えてあげたのに…。」
遠くから男を観察していると、どうやらその男はどこか気を落としたようにも見える。そして、反対方向に進んで行った。レオは周りをもう1度確認してから、山を登っていく。その山の空気ですら『マナ』が微量に含まれている。登っていけば行くほどそれはどんどん濃くなっていく。先を急ぐようにして、頂上を目指していく。
「? 何やら物音が…?」
登っていくと、少し遠い所から灯が見えた。微かだが風の音に紛れて数人の声が聞こえてくる。レオはすぐにその光源へと向かう。そこでは3人の男―容姿は人間らしくない―俗に言われる妖怪達が酒を飲んでいた。その盛り上がっている声と共に何やら血なまぐさい臭いが漂っていた。
「今日は宴だ! こんな肉付きの良い人間が捕まったからな!」
1人が大声をあげる。それに合わせるように他の2人は唸る。中心には焚火と―縄に縛り上げられて気を失っている男が。先程の作業着の男が指していたのはこの事だろう。
「…『楽園』でもこんな事が頻発していりゃ、妖怪退治を望む少年も出てくるだろう。」
正義のヒーロー気取りでは無いが、レオはあの男を助ける事にした。縛られている男の服装を見る限り、おそらくあの家があった集落の人間らしい。助けた事をきっかけに『楽園』の情報を聞き出せる絶好の機会だ。レオは自分の気配を消し、気づかれない最低限の距離を測る。手薄であろう後方へと回り込む。妖怪達はその動きに全く気づいておらず、酒に呑まれていた。レオは手元に得物であるクナイと手裏剣を取り出す。
まずは手裏剣を3個同時に投げ飛ばす。目標は先程大声をあげたリーダー格。手裏剣は音すら立てずに真っ直ぐに飛ぶ。それはすぐに何かに刺さる鈍い音を出す。リーダー格らしき妖怪は突然、後頭部から血飛沫をあげて倒れる。後ろから衝撃を受けたその体は前へ倒れ込む。その先には焚火が待ち構えていた。意識が既に消えて、肉塊へと変貌したそれは勢い良く燃え上がる。
「っ!? 誰だ!!」
1人は声を荒らげる。もう1人はリーダー格であった肉を焚火から救い出し、様子を伺った。リーダー格は既にピクリとも動かなかった。確認した方の妖怪は急に顔を青ざめる。声を荒らげた方の妖怪の方に目を向けると―自分の顔にはそいつの血が吹きかかった。
「ひ、ひぃぃいい!!?」
悲鳴を上げ、逃げようにも足が何故かおぼついてその場で転ける最後の妖怪。レオはその妖怪の前に姿を現す。手にはクナイを構えている。
「お前はもう逃げられない。焚火の光でお前の影は縫わせてもらった。」
理解できなかったその妖怪は自分の影を凝視する。影にはいくつかクナイが刺さっていた。常人からするとただ地面に刺さっているだけのものであるが、異常なまでに精神が追い詰められていたその妖怪はさらに大きな悲鳴をあげる。
「た、助けてくれぇ。 もうそいつは逃がしていいからさ。頼む、頼む!」
咄嗟に命乞いを始めた。レオは優しい声をつくってその妖怪に語りかける。
「分かった。俺の質問に答えてくれたら助ける。」
「ほ、本当か!?」
レオは無言で頷く。少し落ち着いたのか、青ざめた顔はましになっていた。
「そ、それで、話って?」
「…大気中までに漏れだしているまでに異常なこのマナは一体何処にあるのか聞きたくてね。」
質問を受けたその妖怪は、顔をポカンとする。
「し、知らねえ。なんだよマナって。」
「そうか…。ご協力どうもありがとう。」
レオはそう言ってその妖怪にクナイで胸を切り込む。その妖怪はまた悲鳴をあげる。切り傷からは赤黒い血が大量に溢れ出す。
「な、なんでだよ…。お、助け…る、と…。」
意識が薄くなっていく中、その妖怪はレオがニコリと笑ったのを見る。それには偽りはなく、まるで心の底から笑っているのかと疑い、恐怖する。
「ああ、言ったとも。お前を殺す事で生きるという苦しみから助けたまでだ。」
痛みに苦しみ、もがいていたその体もすぐに動かなくなる。レオはそれをしっかり確認してから、束縛されている人間の方へ歩く。その人間は事の一部始終を見ていたらしく、目を大きく開けて驚いていた。レオは縛っていた縄をクナイで切断すると、その男は体の自由を取り戻し、自分の足で立つ。
「助けてくれたのはありがたいが…。貴方は、一体何者ですか?」
動揺しない辺り、どこか慣れている気がする。レオは足元に転がっていた肉塊に刺さっている自身の手裏剣を抜き取り、血糊を拭く。
「厳密に言うと人間では無い。が、今は人間と騙っておこう。そうだな…。俺は忍者と呼ばれる暗殺者だ。」
「あ、ああ…。」
何を言っているのか理解できないと顔で表している。
「そ、そうだ! 助けてくれたお礼がしたい。何か、私に手伝える事は無いか?」
「俺の質問に答えて頂きたい。ここは何処なのか、何故こんなにも文明が遅れているのか、山ほど聞きたい事がある。あんたの家まで送りながらだがよろしいか?」
「いやいや、とんでもない! 家まで送って頂けるのはありがたい事です。」
2人は、その死体を残して人里の方向へと進む。
「もお、じっちゃん飲み過ぎだよ。」
隼一はじっちゃんの手を握り、支えてあげる様に寄り添い歩く。いつもより温かいその手は冷たい夜風に当たり冷えていた体を温めてくれる。
「んー…。すまんな、迷惑かけて…ヒック。」
じっちゃんの顔は真っ赤に染まる。人座の中では酒に強い方だが、子供の目からでも分かる程飲みすぎだ。瓶を何本開けたことやら。
「今日は楽しかったから問題無いよ。久しぶりにじっちゃんとゆっくりお喋りできたからね!」
普段は仕事から帰るのが遅い事が原因で夕食を共に食べれない日が多い。偶に一緒に食べれる時があっても、時間が遅く隼一は眠くなってあまり長居できなかった。
「ほら、もう家だ。じっちゃん、鍵!」
「…あいよ。」
じっちゃんはズボンのポケットから自宅の鍵を取り出し、隼一に手渡す。受け取った隼一は扉の鍵穴にそれをはめ込み、解錠の方向に回す。ドアノブを一回転させて開けた事を確認してから扉を引く。じっちゃんは自分で家に入り、靴を雑に脱いで自室へと向かう。ズシンと倒れこむ様なその音はベットへとダイブしたからであろう。隼一は2人の靴をきちんと並べてから隼一の個室へと向かう。明日もまた寺子屋があるので、もう寝なければ朝を時間通り起きる事が難しくなるだろう。
レオは2人が寝た事を確認してから、その家に入る。テーブルの上に置いてあったコップを手に取り、台所へと向かってそれを洗う。
「電化製品は無いのに水道は通っているのか。手を出せば出すほど不思議な場所だな、ここは。」
電気すらついていない家からは、暫く水が勢い良く流れ出る音が聞こえた。
「無事にレオの野郎を幻想郷へと向かわせましたよ、社長《ボス》。」
突然の声にびっくりする皇とは対照的に、社長は全く動じなかった。2人だけしかいなかったこの空間に新たな1人がやって来た。それも、ドアや窓を一切開けずに。物理的には不可能であるが、彼が概念《コンセプト》故にそれができた。
「良くやったな『悪魔』。異変の方も順調かね?」
「はい。『魔界』の奴らは純粋な種が少なくて助かりました。1人手強そうな奴とその取り巻きさえ除けばあとは雑魚ばかりですからねえ。」
『悪魔』と呼ばれた男はニヤリと笑う。彼は『マナ』―非科学的エネルギーから生み出された生命体。生物と定義されている生命とは違った力を持つ。それらを概念《コンセプト》と呼称していた。皇はその人とはかけ離れた容姿を持つ『悪魔』を凝視する。
「お前が『手強い』と言うのなら実力は相当だろう。決して油断するな。障害となるならその『魔界』とやらにも『あれ』を送り込んでも良い。」
「了解しました。それでは私はこれで。まだ仕事が残っていますので。失礼します。」
「……『異変』とは、一体何ですか?」
2人の少しの会話から聞こえてきた単語には複数意味が分からなかったものがあった。まず、皇は『異変』について質問する。
「そうか、皇にはまだ説明してなかったか。『異変』とは我々の工作作戦の名前だよ。それが終われば、事の全てが分かるようになる。」
「は、はぁ……。」
まだいまいち分からず皇は暫く考え込む。社長は吸い終わったタバコを灰皿に残し、また懐から一本を取り出す。
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