ありもしなかった影のはなし。   作:ナナホシテントウ

4 / 6

 青年となった双子と、弓の競技会のお話。
 そして『叙事詩』は徐々に変化の兆しを見せる。

※前半:ヴィヴーティ視点 後半:カルナ視点
 ドゥルヨーダナ他FGO未実装キャラの性格・口調ねつ造
 カルナさんのコレジャナイ感と微少なヤンデレ疑惑あり


第三話・王族と御者

 

 さて、私が引くほど嬲られ、濾され、壊されかけた時「いっそ殺してやった方が良いのでは? と本気で思案した」と、現場に居合わせてしまったアルジュナの十割が善意でできた同情の言葉を貰った第三の試練から年は過ぎ、養父母に実子……つまり私たち双子に血の繋がらない弟たちが生まれ、私も兄上も青年といって差し支えない年齢になった。

 あれから暫く兄上は私の傍を離れず、また神々の試練も行われなかったのには少しだけ笑ってしまった。まぁ、後者に関しては半月も経たない内に決行され、例の如く地獄を見たが、それは今は置いておこう。

 

 本題に入ろう。あれから後、さらに三度の試練を終えるほど月日を重ね、青年になった私たちはクル族が主催する弓の競技会に参加していた。

 競技会は事前申告が必要なので私が二人分申請していたのだが、私は嫌がらせの延長で、兄上はドローナ師の策略で申請が無かったことにされていたので飛び入り参加だ。

 すまないドローナ師。貴方はパーンダヴァ五兄弟に脚光を浴びせたかったのだろうが、兄上はこう見えてこと武芸に関しては積極的だ。

 私だけならば手を引いたのだが……だなんて内心で申し訳なく思いながら、弓を引く。

 すでにメインである五王子の競技は終わっている。

 会場全体に鳴り響いていた拍手喝采だったが、それも私たち双子の登場で霧散し、飛び入りの何某かに対する困惑へと取って代わっていた。

 先ほどまで名声を欲しいままにしていたパーンダヴァ五兄弟からの視線が痛い。特にアルジュナと下の双子、ナクラとサハデーヴァの視線が私に刺さる。

 理由は解っている。彼らは何を間違えたか知らないが、何ゆえか私の身を案じてしまっているのだ。

 これまでは視線を貰うばかりで私にも兄上にも触れなかった五兄弟だったが、神々の試練を受け始めてから五兄弟の内末の双子と三男のアルジュナが私に接触してきた。

 修練場を共にする以外に関わりのない彼らは私が試練を受ける様を見聞きして何を考えたのか、双子は剣の修練場を使う際は常に付かず離れずの距離で鍛錬を始め、私に向かう幼稚な嫌がらせを牽制しだし、三男のアルジュナは通りすがる度にそれとなく私の頭からつま先までを検分し、怪我の有無を確認するようになった。

 おそらく双子は試練を課した父から、アルジュナは前述した通り自分の眼でその様を見て、生きている事が不思議でならない有様に抱いた興味をはき違えたのだろうと結論付ける。

 一応、私とお前たちは敵対とは言わないまでも険悪な仲であったはずなのだがと首を捻るが、直接当人に問いただすことはしなかった。

 故に今も彼等の心裡は憶測に頼るのみで真贋は解らず終いだ。

 しかし、今なおあの不可思議な気遣いの視線は私を射抜く。

 パーンダヴァの長男と次男は憎々し気な目をしているが、三男以下は悔しさを滲ませつつも私の所作に歪みがないか……つまり、どこか怪我を負ってはいないかと緊張を孕んだ眼をしているのだ。

 おい下三人、兄二人を見習え。でないとこの奇妙な胸の疼きが納まらないのだが。

 勿論今の私に怪我はない。黄金の鎧の強度は兄上以下だが、回復速度は兄上以上なのだ。怪我など昨日の内に治っている(・・・・・・・・・・)

 

 また派手にやらかしてしまったからどこぞで噂にでもなったのだろう。

 一日前の瀕死の重傷など忘れたように上腕を引けば、アルジュナ達の視線が強くなる。あと、兄上の視線も強くなった。なんだ兄上、捩じ切れかけた(・・・・・・・)腕はもうこの通り自在に動くぞ。だからそんな不安そうな目で見てくれるな心が痛む。

 出場前に家で多少もめた事もあって後ろめたく思う気持ちを抑え、呼吸を整える。

 人々の歓声は今やしんと潜み、誰もが固唾を呑んで私たち双子の弓術を見ていた。

 自分を道具と一体に見るのではなく、身体機能の延長として見るようになってから貫通力を増した弓で的の中心を貫き通す。弓の引き方は和弓に近いが、引き終えた後はアーチェリーに近いだろうか。射終えた弓を握り込んだままにせず、手の中でくるりと回してもう一度と矢を番えて、打つ。

 連射を考えない、一射の速さに重きを置いた矢は涼やかな音を立てて――先ほど四度矢が通り抜けた穴を貫いた。

 上がるどよめきの傍ら、静かな私の弓と違って確りと弓を握り込んだ兄上が矢を五本番えて弦を引く。

 あまりに無謀な引きにどよめきが大きくなるが、兄上はまっすぐと射るべき的を睨んでいる。

 それから数瞬もしない内に兄上の手が矢を放った。獣が唸るような、あるいは天高く舞う鷹が獲物に向かって急降下するような音を立てて飛翔した矢が、兄上の狙い通りに的の中心を喰い破った。

 競技会で一人に用意される的は五つ。

 五つの的の中心を五つの矢で一度に射抜いた兄と、一つの的の中心をひたすらに貫き通す弟。

 パーンダヴァの五兄弟への称賛に満ちていた会場に驚嘆の声を響かせる。

 普段は罵詈雑言の声の只中にいる私としては、賞賛の声と視線には若干どころではない居心地の悪さだ。思わず肩をすくめて俯けば、高揚している時でも平然としているように見える兄上がさっと顔を強張らせる。

 もしかして不甲斐無い弟だと思われたのだろうか。衆目を気にして尻込みする私の姿は情けないものだったのだろうかと、こちらもざっと血の気の失せた顔をする。

 

「どうしたヴィヴーティ。やはり昨日の負傷を引き摺っているのか……だから止めろと言っただろう。お前のように自分の身体も満足に管理できない者に武を競う資格は無い」

 

 潜められた声は、他者に私の(ありもしない)怪我が悟られる事を気遣ってのことだろう。しかし兄上、流石の飾らなさだ。顔のこわばりが失望ではなく心配であったことは素直に嬉しいのだが、無駄に耳の良い五兄弟の顔も私たち双子に勝るとも劣らない速さで変化したことに気付いてほしい。

 基本的に善性であるらしいパーンダヴァ五王子は兄上の言葉足らずと虚飾を排除する在り方をしらない。

 だからこそ兄上の言葉は万人の真実を白日に晒した上で刺し貫く。

 今の台詞も私には「昨日大怪我をしたばかりなのだから、治ったと言っても無理せずに今日はおとなしく養生しろ」と兄上が意図した通りの意味で伝わるが、そうと知らない彼らの耳には兄上の言葉は……まぁ、身体の不調をものともせずにそれなりの弓術を披露した弟を貶している、という風に取られたのだろう。

 すっと視線を滑らせる。理解できないものを見る眼で兄上を見る五王子を視界に納めて、やはりか。と息を吐く。

 

「心配は無用だ。私の鎧は兄上よりも脆いかもしれんが、こと回復にかけては兄上を超えると知っているだろう」

「だがお前の無謀は今に始まった事ではない。どうせ残照の如く沈むならば、そのまましおらしく伏せていろ」

 

 これはフォローせねばなるまいと口を開くが、兄上はさらに煽ってきた。勿論五王子をだ。私にはちゃんと兄上が私を案じている様に聞こえている。だからその眼を止めるんだ五王子、兄上越しに見えるお前たちの眼は私の胃を壊したぞ。

 特に双子、その「双子なのにあんな言葉を半身に投げかけるのか?」と雄弁にのたまう目を閉ざせ。出来なければせめて反らせ。お前たちの眼は他以上に抉るのだから。

 

「それでもなお死に急ぐつもりならば言え。俺がこの手でお前を沈めてやろう」

 

 おっと兄上、それ以上はいけない。私の胃が先ほどから穴が開いては閉じるを繰り返している。

 畳みかけられた気遣いに、思わず眼が死んだ感覚がした。

 「強制的に休ませるぞ」という駄々っ子な弟を宥める兄の言葉が「ぶっ殺してやる」という身内でも目障りならば容赦なく殺す、という鬼畜の言葉に聞こえる言い回しはいっそ褒めるべき才能だろうか。

 気を抜けば胃腸の辺りを摩りそうになる手を宥め、現実逃避がてら自然な動作を心掛けて弓の調子を労わる。

 公平を期すためと競技会側で用意された弓は粗悪ではないが並の域を出ない代物だと、手指を這わせて全体を触診をして損傷を確かめる。

 技量があれば武具を選ばずとも十全な戦働きが出来る。そう信じる私だが、それでもやはりこの時代では武具の性能は馬鹿にならない。ただの剣と神性を持つ剣はやはり違うのだ。それは単純な切る・突く・殴る・穿つ・射る以外の権能染みた性能によるものが大きく、それによって命拾いした先達の例は数多い。

 特に弓に不具合が無い事を確かめて、息を吐く。武器を選ばない私にとっては凡百の武具も貴重な得物だ。どんなものであれ大事に扱いたいが、自身の膂力に耐え得る弓は早々無いことも知っている。

 そもそも戦嫌いの私が言えた事ではないがと思いながら兄上の弓を受け取ろうと手を伸ばす。

 武具の手入れは武人の習い。己の武器は自分で手入れし、管理することが当然であるが、手芸を嗜んでいる事が功を成してか手指の感覚は私の方が兄上より鋭い。

 だからこそ修練場で兄上が扱う武具の選別は私が請け負う事が多く、兄上個人の武具でも時折最終確認だと私の手に渡る事もある。

 今回もそのように受け取り、検分して弓の損傷具合から兄上の技量がどれほどか計ろうと思ったのだが……。

 

「いや、此度はまだ終わらない。俺はまだ高みを目指す――勝負だアルジュナ、お前に戦士の誇りがあるのならば、俺の挑戦を受けるがいい!」

 

 轟、と兄上が吠えた。

 思わず目を丸くし、伸ばした手をそっと降ろす。闘争に燃える兄上の美しい青緑の瞳がきらめく様に呑まれながら、兄上が強い視線を向けたアルジュナへと私も目を向ける。

 先ほどまでさんざん私を哀れんでいたアルジュナの眼は、しかし兄上の咆哮を耳にした途端、兄上に負けず劣らずの闘争を宿す。

 どこでその因縁を培ってきたのか、睨み合う両雄に遠慮や常識といった文字は皆無であった。

 しかし、普段の修練場ならばまだしも、此処はクル王族主催の競技場で、多くの衆目を集める場でもある。

 故に、王家直属の武芸師範であるクリパという男からの横やりは当然の物であった。

 睨み合う兄上とアルジュナの視線の間に、筋骨隆々とした益荒男が割り込む。

 徒人であればその視線だけで心臓を止めるだろう強力な眼力に身体を晒してなお平然と立つ男に、知らず背筋が伸びて一挙一投足を注視する。身体のみを用いて戦う術を会得する者の職業病だ、達人の所作はただそこに在るだけで得難い教本になるのだから、何も見て取れぬならば損をする。

 冷静に場を理解し、その上で貪欲に何事かを得んとする私に、クリパが僅かに微笑む。

 けれど、一瞬で微笑を消したクリパは深い皺と傷を刻んだ体躯に相応しい重厚な声で場を制した。

 

「待たれよ。此処は崇高なるクル王主催の競技会である。御両人の弓の腕は確かに我が身をして驚嘆せしめるものであるが、物事に道理があるように、この国にも規則がある」

 

 先ほどの兄上にも負けない大音声。しかし炎のように圧倒するのではなく、ただ静かに熱気を抑えようとする意図で発された声は物理的な加重を感じる程に重々しい。

 

「弓術のみならず、王族と一騎打ちが許されるは王族以上の身分を持つ者のみ。アルジュナ王子に挑まんとする若者よ、汝の身分を明かすが良い」

 

 勿論、兄上は答えられない。何せ私も兄上も御者の子なのだ。生まれが神の子であろうと王族の落胤だろうと、今この場で問題と成るのは現在の身分である。血筋は五王子に劣らない、どころか彼らの異父兄であるのに、それを証明する物も者も無い以上、兄上はこの場でアルジュナに挑めない。

 クリパの誰何に沈黙で以て答えた兄上に、会場に集った人々も兄上の身分が王族で無い事を理解したのだろう。先ほどまでの歓声とは裏腹に、心無い罵声が一拍の間を置いて溢れ出した。

 

「身の程知らずの無礼者め! 如何に弓の腕が優れていようとも、お前の卑しさには全てが台無しだ!」

「なんの身分だ? ええ? 商人(ヴァイシャ)か、奴隷(シュードラ)か? まさか不可触賎民(アチュート)ではないだろうな?」

「赤髪の臆病者がいるではないか、貴様何故そこにいる? さっさと立ち去れ、この阿婆擦れめ!」

「戦士ですらない者が弓を取るなど、恥を知れ!」

「誰かと思えば、お前『女人の御者』ではないか! 弟が弟ならば兄も兄だな!」

「お前が握る弓を置け! それはお前などが手にしてよいものではないわ!」

 

 まるで嵐の河のように鳴り響く声、声、声。

 余りにも多くの人々の口から出てくるものだから、もはや意味のある言葉に聞こえない。

 時折混じる私への罵倒の言葉すら、誰かの言葉に呑まれて別の言葉にとってかわる。

 

「すごいな兄上、まるで獣の群れの中にいるようだ。意味こそ伝わるが、一人一人の言葉が聞き取れない」

「ヴィヴーティ、すまない。俺の激情にお前まで巻き込んだか」

「否、兄上が謝罪すべき事など何一つ無い。むしろ私が兄上に謝らねばなるまい。私の至らなさが兄上にまで飛び火している」

「それこそ否だ。お前が恥じ入るべきは生き急ぐ無謀さであって、事実無根の聞くに堪えない罵声ではない」

「お前たち、この状況で言うべきはそれか……?」

 

 「少なくとも『女人の御者』は的を射ている。『阿婆擦れ』は初耳だが」といえば「あれは槍の修練で見知った顔だな……よし」と兄上が弓を握る手に力を込めたので、「やめろ兄上、私は気にしていないのだから言わせておけばいい」と窘める。無論、これで完全に窘められた気はしない。

 五王子の方から何か釈然としないような声が聞こえたが、大勢の言葉に呑まれて消えたため、空気読んで特に反応する事は無かった。

 さて、この狂乱をどうするか。噴出する人々の悪意の総量が思った以上だったのか、虚を突かれたように息を呑むクリパを視界に納めて思案する。

 いっそ、いつぞやのように圧倒的な力を見せつけて無理やり場を収めてしまおうか。

 理性的な対処など焼け石に水ほどの効果も期待できないだろう群衆の悪意に向けて、叩き付ける騎獣(ちから)の選別を脳内で行う――が。

 

「鎮まれ」

 

 鮮烈なほどに鋭い声が、熱狂を切り裂く。

 気負いのない言葉で鮮やかに民衆を切って捨てる声に、聞き覚えがある。

 思わず身体ごと声のした方を向けば、案の定、その男は――カウラヴァの長、百王子の長兄ドゥルヨーダナは、シニカルに笑いながら王族の席を立ち、ひょいひょいと身軽に降りて来ていた。

 数年前、兄上の飾らなさすぎる物言いと、そのフォローに奔走する私の姿が面白いと関わってきた悪辣な男の姿に、今度こそ私は胃の腑を抑え、僅かに回復力を上回ってせり上がってきた血液を飲み下す。

 悪い男だが、憎めない。迷惑千万極まりないが、赦せてしまう。そんな稀有な愛される才覚を持って生まれた男は、私のその様を見てより一層笑みを深め、それから兄上に視線を移してやたらと親し気に笑いかけた。

 

「これほどの弓術を持つ身でありながら、身分が実力(それ)に釣り合わないのでは余りにも不遇であろう。物事に道理があるのならば、その不遇こそ道理に合わないのではなかろうか――故に、だ。彼には余の所有する国を一つ与えて一国の王とし、彼の実力、そして余の信頼と友情を以ってその王権を認めよう! これより彼は王の身分を持つ者である! これならばアルジュナに挑むことに何の不都合もあるまい!!」

 

 失礼な事を言ってしまうが、許せ。

 実に、実に胡散臭い顔である。思わず二度見三度見してしまう程に胡散臭い笑顔だ。

 真顔になった私の心を見抜いたのだろうドゥルヨーダナの顔が微妙に引き攣る。口元がひくりと揺れている事から、私の間抜けさを笑いたかったのか。つくづく良い性格をしていると思う。

 だが正直、彼からの支援は助かった。彼はその場限りの嘘で兄上を立てるのではなく、正々堂々と兄上がアルジュナと戦える場を用意してくれたのだ。打算に塗れているとはわかっていても、差し出された手を嬉しく思わないのは、それこそ嘘になる。

 兄上もドゥルヨーダナの手助けに感激したのだろう。常の無表情を崩して目を丸くし、何事かの決意を秘めた眼でドゥルヨーダナを見つめ返した。

 

 かくして両雄の勝負は仕切り直し、いよいよ雌雄を決する時か――そう誰もが思った時、観衆の中から一人の男が姿を現した。

 何を隠そう、我らが養父アディラタその人である。

 実はこの会場には養父も居た。ついでに養父の実子である弟たちもいた。

 否、居たというより、競技会に参加を申請する時、私たちの出自と身分を証明する者として名と身分を明かしたのは養父である。故に養父は私たち双子が意地の悪い悪意で申請を無かったことにされた事も知っている。

 だから、これは仕方のないことだった。

 私たちの弓術に喝采を送り、会場に満ちた罵倒に憤り、拾い上げられた栄誉に感極まった養父が、高揚した心のままに兄上を抱擁し、兄上を我が子(・・・)と呼んで褒め称えたのは仕方のない事で、それでいてとても嬉しい事だった。

 ただ一つ間が悪かった事を除けば、それはありふれた、美しい家族の絆でしかなかったのだから。

 

「よく頑張ったなぁ、カルナ! 俺に似ないで立派になった! それでこそ我が子だ! ヴィヴーティ、お前も素晴らしい腕前だったぞ! うんうん、カルナが王になるのなら、お前は俺と同じで王の御者になんてどうだろうか。お前は弓の腕も素晴らしいが、御者の腕は既に俺をしのぐからなぁ」

 

 歓喜にむせびながら私たち双子の背を叩く養父。兄上も私も養父の言葉は誇らしかったが、周囲の人間はそうではなかったらしい。

 

「御者の息子? おい聞いたか、御者の息子だとよ」

 

 最初に届いたのは、そんな言葉だった。

 

「はぁ? そんな生まれの奴が王族に勝負を挑むだなんて、もはや笑い話にもならんな」

 

 ドゥルヨーダナによって晴らされた筈の不名誉が、もう一度と首をもたげる。そこには腕一つで立身出世を果たした兄上への嫉妬も多大に含まれていたのだろう。

 先ほどより密やかに、けれど確かに侮蔑の感情が織り込まれた言葉が私たちの周囲を取り巻いていた。

 

 あまりにも大きな悪意。けれどあまりにも害意の薄いそれは、私の琴線をかき乱す程でもなく。

 しかし、確かに私の心を酷く揺さぶるものがそこにあった。

 悪意でもなく、まして害意でもない視線は、この空間では酷く異質なもの故に自然と目はそちらを向く。

 

 ――果たして、その視線の先にあったのは。

 

「――はは…………ぅ、え…………?」

 

 喧騒から隔絶された一角。競技会の主催者たるクル王とその一族が座す席に、そのひとは、いた。

 日に焼けた健康的な黒い肌ではなく、屋内にいる者特有の蜜のように滑らかな肌。美しく整えられた黒髪は艶やかで、同じ色にけぶる睫毛は長く美しい。赤い宝石を多用した豪奢な衣装と飾りは王族の階級に相応しく誂えられて、細い首筋や手首、秀でた額を鮮やかに彩る。

 美しいひとだった。嫋やかで、艶めかしくて、品のない言い方をすれば肉感的な体躯の貴族らしい女性だった。

 きっとその瞳は五王子と同じように、水に濡れたような美しい黒色をしているのだろう。

 けれど、私を見るその眼は。私と見つめ合う、その瞳は。

 

 狼狽えるように泳ぎ、そして迷わず、私を瞼の外へと追い出した。

 

 確かに合わさったはずの視線が途切れる。

 青ざめた顔で、何かに怯える顔で――事の次第を理解した顔で、それでもなおクンティーは、自ら意図して目の前の現実(わたし)を締め出し、顔ごと目を反らして私たち双子を『否定』した。

 

 生まれた時と同じように、黄金の鎧を纏った私たちを、自らの『子供』だと認めながら――『母親』であることを、拒否する動作。

 

 棄てられた、と思った。悲しいでも、寂しいでもなく、ただ棄てられたと思った。

 それからつきりと胸が痛んで、穴が開いたような物足りなさに見舞われる。痛みは増すでも減るでもなく、同じような程度で、一定の間隔でつきりつきりと胸を刺し貫いていく。

 奇妙に重たいその感覚だけが明瞭で、後の全てが霞んでしまう。感情の一切合切が置いてけぼりになったようだった。

 何故か怒りも湧いてこない。常に感じていた憎しみも今は何処か遠くて、何故か今私が此処に立っている事すら現実味が薄く感じられる。

 もしかして自分の足下に地面はないのではないか。そんな事を考えながらただただ一途に(クンティー)を見詰める。

 

 それでも彼女は私を見なかった。どころか、気分が悪そうにクッションにもたれかかり、組んだ腕に顔を埋めるようにして私たちどころか五王子たちをも視界から追い出した。

 

――すてられた。

 

 この時、私は一体どんな顔をしていたのだろう。

 兄上に伸ばされた腕を殆ど反射で掴んだことは覚えている。

 けれど、その後の事はよく覚えていない。何事かを喋っていた気もするが、定かではない。

 気が付いた、というより、『今』に焦点が合ったのが競技会が日没で有耶無耶になった帰りの道のことだった。

 その道中、背中に触れたり、肩を抱擁したりしながら私を気遣う養父や弟たち、そして酷く苦し気な顔をしながらも決して私の手を掴んで離さない兄上がいた。

 

 夕暮れに伸びる影が一つになって、砂利道に揺れている。

 その光景が何故だかとてもうれしくて、だからこそ、心の奥で何かが軋んだ音がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

side:カルナ

 

 まずい事になったなと、独り言ちる。

 先ほどまでの心地よい緊張感も戦いへの高揚も今や霧散し、当事者の自分のみならず、その場にいる誰もが負の感情をまき散らしてただ佇んでいた。

 ちらと視線を軽く動かすだけで、それなりの人間が己の抱えた闇をどうしたものかと思案していた。

 助け舟を出してくれたドゥルヨーダナは己の言葉を真に理解しない民衆に苛立ち、武術指南役のクリパは王子の言葉を理解するが故に王子の決定に否を吐き散らかす民衆に唖然としている。

 五王子は……アルジュナ以外が俺が御者の子だという事を嘲っているのだが、アルジュナは戦いが有耶無耶にされそうな雰囲気に若干不満そうに佇んでいる。

 嬉しい事に俺たち双子の成長と他者からの承認を言祝いでくれた養父は、己のしでかした事に青ざめて俯いてしまっている。

 勿論、俺も現状に不満が無い訳ではない。例え俺が御者の子だろうが、養い育ててくれた養父にも、その職業に恥じ入る事など何一つない。それを踏まえてドゥルヨーダナは俺を王族の身分に引き上げてくれたのに、民衆は以前の肩書を重視するばかりで現状を見ない。その事に対して、アルジュナと同様の理由で若干の不満がある。

 だが、俺の苛立ち以上に双子の弟であるヴィヴーティの沈黙の方が深刻だった。

 

 つい、と横目で弟を見る。

 俺と同じ身長、俺と同じ顔、けれど首も肩も俺より華奢で、隣り合えば一回り小さく見えてしまう弟の顔はどこか茫洋としていて、何処を、いや、何をみているのか定かではなかった。

 俺よりも長い髪が横顔にかかるから、よく見えるのは常以上に白く青ざめた耳朶のみ。

 視線を下げると、その手は細かく震えていた。さらに視線を降ろすと、弟が踏みしめた大地が少しずつひび割れている。後ろに伸びる影に時折光るものが見えるのは、ヴィヴーティの感情に反応した騎獣たちの眼光だろう。弟が死に体で絆を結んだ騎獣たちは、己に対して無関心の気があるヴィヴーティの穴を埋めるように総じて過保護かつ心配性だ。どれほどの理不尽に苛まれても苦笑一つでいなした弟の珍しい有様に過剰に反応するのも無理はない。

 まるで今にも折れそうな小枝だと感じた。この手で負荷を掛けずとも、僅かばかり風に煽られでもすれば容易く折れてしまいそうな儚い風情――そう空想した途端、心臓が嫌な音を立てた。

 この時、俺の苛立ちは霧散した。今はただ、これ以上ヴィヴーティの折れそうな心を痛めつける何事かが起こらないようにすべきだと判断し、注意しだした矢先だった。

 武芸に優れてはいるが、短気で血気盛んと名高いパーンダヴァの次男、ビーマがやらかしたのだ。

 

「貴様、御者などという卑しい身分でありながら我が弟アルジュナに挑むなど恥を知れ! 貴様はアルジュナに殺される価値もないわ! 御者の子は御者の子らしく、弓ではなく鞭を握っていればよいのだ!」

 

 短気で脳筋の気があるビーマの直情的な物言いに、俺が不快感を感じる前にドゥルヨーダナの怒気が膨れ上がる。

 そしてビーマはといえば、弓を手放す素振りのない俺に焦れたのだろう。大股に俺に近寄ってきて、俺の持つ弓に手を伸ばしてきた――だが。

 

「なっ、貴様!?」

 

 傍らに佇んでいたヴィヴーティが茫洋とした目をしたまま手を伸ばし、弓に触れる寸前でビーマの手首をぎちぎちと音が鳴るほどに掴む。

 繊細を形にしたような手指が小動(こゆるぎ)もせずに岩の様なビーマの腕を留める様は、どこか奇妙なちぐはぐさがあった。

 ビーマも弟の繊手がこれほどの力を備えていたとは思いもよらなかったのだろう。痛みを感じるより先に驚愕を露わにしたその顔に汗が滲む。

 

「何をする、離せ! 御者の子風情が王子たる俺を止めるとは何事だ!」

「――よい、そのままそこの馬鹿の腕を留めていろ。余が許す」

「ドゥルヨーダナ、貴様ぁ!! くそっ、お前もこの手を離せ! 御者の子風情がふざけるなよ!」

「ふさける? 何を言うかと思えば――貴様こそ何をふざけている? ビーマ」

 

 憤るビーマに相対するように歩を進めたドゥルヨーダナが、劣悪な表情で嘲りを口にする。我が友ながら敵を作るのが上手い。

 

「余の言葉が聞こえなんだか? 余は彼を王の身分に引き上げたのだが……そうか、貴様には彼が、否、我が友カルナが未だに御者の身分にあると信じたいのだな? まぁ貴様の気持ちも解らんではないぞ。なにせカルナの弓の腕はアルジュナを超えんばかり、もしこのまま勝負をして弟が負けては……あぁ解るぞ、解るとも。余も余の弟たちが得意とする武芸で負ける様を見るのは心苦しい。想像するだけでも、だ。故に、貴様が弟可愛さでカルナに尻込みをする気持ちは理解しよう。汲んではやらんがな」

「貴様っ、我が弟を侮辱するか!」

「何を言う、余はなにもアルジュナが必ず負けるとは言っておらぬではないか。ただ、貴様が余の言葉を聞いていた上でカルナを御者の子だと呼ぶのならば、敢えて聞き流したかったのだろうと貴様の心情を慮ってやったのだぞ?」

「何が慮るだ、貴様のそれは配慮からではなく愉悦からくる言葉だろうが!」

「愉悦。愉悦と言ったか。そうさな、まぁ愉しくないといえば嘘になろう。何せお前は頭を使う事を覚えんからな、苛立ちを通り越してもはや愉快さを感じる始末。どうしてくれるのだ、お前の思慮に欠けた言動が余をこのような悪辣に育て上げたと言っても過言ではないぞ? それにだ、ビーマよ。貴様は御者の子、御者の子とカルナを罵るが、正直身分以外で下げる個所が見つからないから身分(それ)だけを口にするのだろう? 全く、それではカルナの武芸の腕前は一級品だと言外に言っているようなものではないか。五兄弟で最も血の気の多い戦士からの称賛は有難いが、もっと言い方はなかったのか?」

 

 なかば感心するようにその悪性を眺める。未だにヴィヴーティの顔が虚ろな様である事が気になるが、皮肉に顔を歪めたドゥルヨーダナが舌鋒鋭くビーマを攻撃する様が鮮やか過ぎて、ヴィヴーティを気遣いたいのに言葉を挟めない。

 他の五兄弟もビーマとドゥルヨーダナの舌戦に口を挟めず右往左往している。

 それでもなお続くドゥルヨーダナの流れるような迂遠且つ的確な煽り文句の数々に、狂乱していた観客や王族まで黙り込んで彼の言葉に聞き入っていた。

 ……いや、ちがうな。これは呆気に取られているのか。俺としては立て板に水、という風に連ねられる言葉よりも、それにぴくりとも反応しない弟の方が気になって仕方ないのだが。

 

「そも、王族の条件とは『血筋』『勇敢さ』『他の王を倒す事』の三つのうち何れか一つでも満たしていれば良いのだ。カルナは『血筋』こそ御者の身分(カースト)であるが、王子であるアルジュナに挑む『勇敢さ』がある。それから『他の王を倒す』だが……これは貴様ら五王子も知っての通りだろう? かのドルパダ王捕獲の事例があるではないか。聞くところによればカルナの活躍は貴様ら五人合わせた戦果に勝るとも劣らないものだったらしいではないか。ほれ、カルナは三つのうち二つも条件を満たしているぞ? ……ああそうだ、忘れてはいけないな。ほれ、今まさに貴様の怪力を留めているヴィヴーティも『勇敢さ』で言えば我ら百王子は勿論、貴様ら五王子が束になっても敵わんだろうよ。何せ彼は神々が課した試練を既に六つも乗り越え、その証左として神々の賛美と共に神の加護を持つ騎獣を得ているのだ。ならば治める国こそ持たないが、彼もまた王足りえる人物だろうよ――であれば、ビーマよ。カルナがアルジュナに挑むことに何の不都合がある?」

 

 王の条件の辺りでビーマがうっ、と怯み、勇敢さと他の王の打倒の辺りで五王子全員が目を反らした。

 それでも何か反論しようと五兄弟の長兄ユディシュティラが口を開きかけたが、ヴィヴーティに話が及んだ段階で完全に沈黙した。

 だろうな、と俺も納得する。勇敢だと言えばヴィヴーティは「これは勇敢さではなく、ただ向こう見ずな性分なだけだ。勇気で以て挑むのではなく、状況に即して動く。その過程で晒される危険を考えず、ただ結果を求めてうごくだけの『性分』だ」とでも言うのだろう。実際、俺が言われたのだから間違いない。

 思い出せば若干腹が立ってきた。何処までも徹底的に己に価値を見出さない弟の在り様は、正直に言って過剰に過ぎる。もはや歯がゆさを超えて呆れが先立つほどだ。

 知らず知らず眉根が寄る。考えていた事は弟の事なのだが、そうとは知らない……まさかこの状況で弟の事を考えているとは思わないビーマたち五王子は、俺の示した不快に煽られたように怒りも露わに俺を睨んだ。

 しまったと思うが、もう遅い。ビーマは羅刹(ラークシャサ)のような形相で己の腕を掴むヴィヴーティの腕を振り解こうと捕まれていない方の腕を弟に向けた。

 だが、何かに気付いたビーマの顔が強張り、風を唸らせて迫っていてた片腕がぴたりと止まる。咄嗟に矢を番えた弓ごしにその様子を見れば、ビーマは先ほどとは一転して困惑しきった顔で弟の様子を窺っていた。

 

「お、おい……御者の……いや、ヴィヴーティ、といったか? 一体何を――笑って、いる?」

 

 笑っている? ヴィヴーティがこの状況で?

 思わず胡乱な眼でビーマを見やれば、ビーマは救いを求める眼をして俺を見ていた。曰く「お前の弟だろう、こいつは一体どうしたのだ?」という事か。

 視線で急かされるように弟を見やる。ビーマの問いかけにも沈黙で返した弟は、確かに笑っていた。それも酷く見覚えのある笑い方で。

 

「あ……」

 

 あの顔だ、と思った。俺がヴィヴーティの心を抉ってしまう問いかけをした時の、あの酷く似合わない笑顔だと。

 誰かを憎んでいると叫んでいる。誰かに怒りを抱いていると吠えている。誰かに傷つけられたと泣いている。

 そして、それら全てが本心でありながら、決して心の底からその誰かを憎悪することが出来ずに、ただただ失望を重ねただけの諦め顔。

 それを無理やり笑みの形に歪めた、心の奥底を締め付けるような哀れな顔が、弟の顔に浮かんでいた。

 

「……ヴィヴーティ? 一体どうした。今度は何に――誰に、裏切られた?」

「は? 裏切り? おい、お前は一体何を言って……」

「黙れビーマ。俺は今ヴィヴーティに問うている。答えろヴィヴーティ。お前を苦しめるものはなんだ。また俺にすら言えないものなのか」

 

 横合いから入ってきたビーマを切り捨て、弟の腕を掴んでこちらを向かせる。

 その拍子にビーマを掴んでいた手は存外するりと外れ、そのまま弟の身体の横で二、三回無造作に揺れた。

 力の抜けた腕の様子にぞっとする。冷や汗を流しながら弟を見やれば、そこには相変わらずの笑顔があるばかり。

 再度、同じ問いを投げかければ、ようやく反応したのか瞳が揺れる。

 生気の失せた瞳は、黄昏時を思わせる不安定さで俺を映すが、何故だろうか、俺を見ているようで見ていない、そんな言葉が頭をよぎった。

 

「うらぎられ、た? いいや、ちがう。ちがう、ちがう、あれは、ちがう」

 

 虚空を見たままの弟の口から、拙い言葉が囁かれる。

 密やかに鳴るそれは、そよ風ほども音を生まなかったが、どうやら俺とドゥルヨーダナ、そして五王子の耳には届いたらしく、聞こえて来た声色の脆さに眼を見開いた。

 

「違うならば、何だ。今のお前の顔は……俺がお前の心を裂いた時と、同じ顔をしているぞ」

 

 「貴様、一体何をしている」とは誰も口にはしなかったが、声の聞こえた者は全て胸中で同じ言葉を吐いたように見える。何をしているか、などと、貴様らに責められずとも俺が一番己を責めている。

 

「なに、て……すてられた、だけ。また、すてられただけ。それだけの……そう、それだけのこと、だ」

 

 不意に去来した遣る瀬無さと罪悪感に囚われていると、ヴィヴーティが影を増した言葉を吐く。

 

――すてられた。

 

 この言葉の異質さに、五王子とドゥルヨーダナが怯み、俺と耳をそばだてていた養父が凍り付く。

 さもありなん。この言葉の意味するところを正確に理解するのは、俺たち双子と養父母の一族だけだろう。

 勿論、養父母は俺たちを捨てていない。むしろ彼らは捨てられていた俺たちを拾った側だ。ヴィヴーティが捨てられたと考えるのは、当然俺たち双子の生みの親だ。

 

 であるならば、弟は、俺の知らない生母の事を、知っている?

 

 不意に与えられた情報を、上手く飲み下せない。一転二転と変わっていく状況に、そして普段以上に打ちひしがれている弟の姿に、今が現実味を薄れさせていく。

 愕然とする俺の目の前で、心を軋ませた弟が寂しげにわらう。

 

「みたんだ、わたしを。めがあったんだ、わたしと。でも、あのひとはめをそらした――かおをあおくして、わたしの、わたしたちの『母親』であることを、すてたんだ」

 

 「どうしよう、あにうえ」。俺が掴んだ弟の腕が、小刻みに震える。「なぜだろうか、ここが、ひどくさむいんだ」。

 酷く狼狽えたような、途方に暮れた顔で「ここ」と胸に填まる宝玉を……正確にはその奥になる心臓を押さえるヴィヴーティに、先ほどまでとは比べ物にならない怒りが沸き起こる。

 

 気に入らない。不愉快極まりないと言っていいほどに、気に入らない――ゆるせない。

 

 顔も知らない母親だが、決して恨んではいなかった。何故なら彼女がいなければ、自分は決して生まれてはこなかったからだ。

 その辺りはヴィヴーティも解っているのだろう。だからこそ弟は生母の話題となると今にも死にそうな笑顔を浮かべながらも、彼女に対して罵倒の言葉を並べる事も死を願う事もなかった。

 育ててはくれずとも、産んではくれた母だから。

 その一点のみが繋がりであった俺は、その純然たる事実のみで生きていけると思っていた。

 しかし、ヴィヴーティは覚えていた。俺の覚えていない母を――きっと、俺たちを捨てた時の母の姿を、覚えていたのだ。

 だから弟は「また」と言った。弟だけが、明確に『生みの母に棄てられた』記憶を持っていた。

 俺にとってはおぼろげで、想像すらできない生母の存在がヴィヴーティの中では明確に形を持っている。

 一度目は荒れる川面の上で、二度目は罵倒される最中で、子供にとっては絶対の存在と言っても過言ではない親に、弟は二度も『棄てられた』という事実を突きつけられた。

 いくら親だとて、否、親だからこそ、生まれる前から共に居た半身の心を踏み躙る行為を赦せない。

 

 一体俺たちが何をした。この優しい弟が何をした? 

 恨むべき矛先を知りながら、それでも最後の一線で踏みとどまってしまうほど――無意識に母親(あなた)を愛していたヴィヴーティの対する仕打ちが、これなのか?

 

 ヂッ、ヂッと火花が散る。

 俺の怒りによって制御が緩んだ魔力が炎の形を取ったのだろう。心の奥底から湧き出る苛立ちは、理性が働いていなければ、いっそ会場全てを燃やし尽くしていたかもしれない。

 弟の言葉に絶句していた周囲が俄かに焦りだす。じりじりと熱気を増す競技場に違和感を感じたらしい観客の訝し気な声が囁かれ始めた。

 この中に俺たちを、ヴィヴーティを捨てた母がいる。

 そう思った瞬間、無意識に握りしめていた弓が矢ごと折れ砕ける。手のひらの内側でくぐもった音を立てて壊れた弓を見てドゥルヨーダナの顔がさっと青ざめた。

 

 先ほどとはまた違った意味で一触即発の雰囲気を醸し出す競技会で、誰もが狼狽えながら周囲に視線を泳がせ、何か打開策はないかと思考をめぐらせる。

 それはドゥルヨーダナは勿論、五王子達も同じだったらしく、俺たち以上に事情を知らない彼らは咄嗟の判断で王族のいる場所へと目を向けた。

 その視線を受けたクル王は最初こそ傍らで青ざめる妃を気遣っていたのだが、息子たちの視線を受けたことで会場の空気が一変している事に気付く。

 思わずのけぞりかけたのは、生き物として当然のことだったろう。何せ目の前には太陽の熱気を放ちながら怒る兄と、処理しきれない感情に戸惑う弟への義憤に駆られた神獣らの怒気が渦巻いていたのだから。

 それでも王族としての矜持から下がりかけた足を踏みとどまらせたクル王は、息子たちの視線を受けて己の成すべきことを判断した。

 こうして日没を理由に競技会の持越しを宣言した王の一声により、競技会自体が有耶無耶にされ、皆は帰路につくことになる。

 

 俺自身の怒りは未だに燻ったままだが、「もう今日はゆっくり休ませてやろう?」と養父と幼い弟たちがヴィヴーティを気遣う様に、一度大きく深呼吸をしてから足を出口に向けた。

 ドゥルヨーダナも長居すべきではないと判断したのか、それでも俺たち双子を労い、また明日と声を掛けてから立ち去った。

 手の中で墨になった弓の残骸を払い落とし、未だ焦点の合わない眼で己の足下に視線を落とすヴィヴーティの手を取る。腕を引いて促してもされるがままの弟の始めてみる姿に、飲み下しきれていない怒りが煽られる。

 会場を去る、その数歩前で俺は後ろを振り返り、困惑も露わに俺たちを見送る五王子を視界に納める。

 

「アルジュナ、俺たちの事情を持ち込んですまなかったな。今回はこのような幕引きとなってしまったが、いずれ貴様とは決着をつける」

「……お前がカウラヴァ側に付く以上、私たちが武を競う場面はこれからもあるだろうから、今回の事は気にしない。だが……その、お前の弟は……お前たちは……」

 

 何事かを言い辛そうに口籠るアルジュナに、自然と眉根が寄る。早くこの場から弟を遠ざけてやりたいのに、無意味に時間を引き延ばされるのは神経がささくれ立つ心地だった。

 そんな俺の心境を察したのか、アルジュナは一度強く目をつむると、常の如くの静謐な面持ちで「いや、何でもない」と背を向けた。帰っても良い、という事なのだろう。

 では俺たちも、と五兄弟に背中を向けて帰路に就く。アルジュナ以外の五兄弟の物言いたげな視線が背中に刺さったが、結局会場を抜けてからも彼等が口を開くことは無かった。

 

 夕暮れに赤く染まる砂利道を、家に向かって歩く。

 昼日中は活気のある街中も、もう夜に近い時刻だからか常の帰路以上に閑散としていた。

 俺たち家族も終始無言で家路を急いだ。けれどやはり常以上に覇気どころか生気が無いヴィヴーティの姿に、弟を慕う血の繋がらない弟たちが心配も露わに背や腕に触れ、多少なりとも兄を支えようとする。

 養父も夕暮れに紛れて溶けて消えてしまいそうな弟の肩を、何処にもやらないとばかりに強く抱く。

 俺もヴィヴーティの手を掴んで離さなかった。色々と考えるべきことも聞くべきことも多々あるが、悄然と打ちひしがれる弟以上に考える事などありはしないと、様々な事柄を一旦頭から追い出した。

 そうしてどれだけ歩いたろう。そろそろ家の灯りが見えるだろう距離になった時、ようやく弟の意識が回復した。

 競技会が終わってから今までの記憶があやふやだと混乱するヴィヴーティに、手を握る力が増す。

 

 守ってやらなければ、と思った。

 常日頃から無茶ばかりして悲惨な目に合いながら、それでも決して弱音を吐くことはなかった弟が初めて見せた傷口は、自分が思う以上に深く大きく、そして哀しいものだった。

 こんなものを抱えて今まで穏やかに笑っていたのかと、ぞっとした。

 そしてこんなものを抱えていた事に気付かなかった自分に、心の底から腹が立った。

 そうだ、あの時腹が立ったのは、何も二度も弟を捨てた生母にだけではない。誰よりも傍にいて、誰よりもお互いの事を熟知しているはずの弟の傷に気付けもしなかった自分にも怒りを抱いていたのだ。

 ヴィヴーティが己を蔑ろにして、誰にも心配をかけまいとする性分なのは知っていたはずだった。けれどその隠し事も大半は気付けるのだからと慢心していた。俺に弟の事で気付けないことも知らない事も無いと、驕っていた。

 ヴィヴーティにとって俺はそんなに信頼できない兄なのかと思った事もある。

 けれど違うのだ、ヴィヴーティは俺を信頼していないわけではない。ともすればヴィヴーティは俺以上に俺の実力を正確に把握して信頼している節さえある。

 ヴィヴーティは俺を信頼していないのではなく、単純に迷惑を掛けたくないと、どこか斜め上の思考を辿っているだけなのだと、だからこそ隠し事をしてしまうのだと、そう知っていたはずなのに。

 

 握る手の強さに驚き、そして一つに繋がる影を見て酷く嬉しそうに微笑むヴィヴーティに、とくんと音を立てて胸の奥に温かな感情が灯る。

 

 俺の弟は何を如何すればそうなるのか不思議なほどに、純粋だ。

 人の悪意を知りながら、それでも人の善意に目を輝かせる彼は、ただ単純に己の心に素直なのだろう。人の心を表裏で語る事のない有様は、あるがままを見聞きして受け止めるが故に、傷付きやすい。

 他人の立場に立って物を考えられて、なおかつ人の心に寄り添える。言葉であれ鍛錬であれ誰かを傷付ける事が苦手なのも、相手の感情や痛みに共感してしまうからだろう。自分だったら、自分がされたら、そう考えてしまう彼の性根は、いっそ哀れなほどに優しかった。

 そんなヴィヴーティが男に生まれたのは何の皮肉だろうかと、弟を馬鹿にするつもりはないが、偏に弟を想う気持ちからそんな事を考えてしまう。

 勿論、ヴィヴーティが己の弟であることに何の不満も無い。同じような実力で、けれどお互いに弱点を熟知しているが故に克服し合える最高の相棒だと言っても過言ではない。アルジュナも勿論切磋琢磨し合うにふさわしい武人であるが、俺にとってヴィヴーティは互いに打ち克ち合う高揚をもたらす相手ではなく、一心同体とでも言うべき心地よい感覚を齎してくれる存在だった。

 ヴィヴーティとであれば、俺は何処までも行ける。何にでもなれる。何処までも、何時までも、二人一緒ならば出来ない事など何もない。そう思わずにはいられない感覚を、どう言葉で説明したものか。

 だが、神々の試練に挑み、人々の悪意に晒されては傷つき血に塗れる姿を見ると、どうしても「何故」と憤る心が止められない。

 兄である自分のいない場所で、一人で足掻くしかない状況に置かれる弟。

 俺が気付くのも手出しできるようになるのも全て事が済んでからの事で、弟が辛い時ほど傍にいてやることすら出来ない現状は歯がゆい以外の何物でもなかった。

 だからこそ、もし弟が妹であればと夢想することがある。

 弟が妹であれば、理不尽な試練も無く、誰かを傷付ける事も傷付けられる事も無く、ましてや悪意の只中に置かれることも無かっただろう。

 弟が……ヴィヴーティが女であれば、俺は絶対にヴィヴーティを家から出さないだろう。あの安穏とした日溜まりが心安く在るままに、聖域に等しい木陰で穏やかに微笑むヴィヴーティを想像する。

 想像の中で女性らしくふるまうヴィヴーティには、鍛錬場で見る抜き身の刃を彷彿とさせる怜悧な美しさは欠片もないものの、ふにゃりと此方の心まで緩んで思わず笑ってしまいそうな、無防備な愛らしい笑みがあった。

 

 もしも弟が男ではなく女ならば。

 そんな勝手極まりない想像をしてしまったことに罪悪感を抱きながらも、控えめに握り返される指先の弱々しさを脳裏で反復する度にヴィヴーティの存在は「守りたいもの」としての色を強くする。

 きっと、この感傷は男でも女でも、相手がヴィヴーティである限り永遠に抱き続けるものなのだろう。

 

 ついに家の灯りを視認して、その向こうから漂う夕餉の匂いまで感じ取れるほどになる。

 この頃にはヴィヴーティの精神もすっかりいつも通りに持ち直して、心配をかけてしまったことを養父や弟たちに平謝りしていた。

 けれどやはり、一度気付けば察知は容易になるのか、養父らこそ誤魔化せてはいるが、俺の眼には弟が無理をして笑っているように見えた。

 

 あぁ、本当に守ってやらなければ、と思う。

 いや、正確には守りたい、だろうか。兄としての義務ではなく、カルナという一個人の感情として……俺はヴィヴーティを守りたい。俺が、ヴィヴーティを守りたいのだ。

 

 すとんと心に落ちて来た表現に、納得しながら満足する。

 俺が守りたかったのなら、今日の苛立ちも怒りも、守り切れなかった俺が原因だと判断した。

 

 少々機嫌が上向いた俺に気付いたのだろう。傍らの弟が不思議そうに小首を傾げるのを、いつになく穏やかな気持ちで愛しいと受け止める俺がいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが、守りたいと思っても、これから先も待ち受ける神々の試練に俺が介入する余地は限りなく零に近いのだと気付いた時、高揚したはずの俺の心は一気に底まで落ち込んだ。

 

 





  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。