【凍結中】その一握の気の迷いが、邪なものを生んだ(旧版)   作:矢柄

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「エステルお姉ちゃん、退院おめでとう!」

 

「ありがとうティータ。ティータは可愛いですねー」

 

「うわっぷ。お、お姉ちゃん、抱き付かないで…」

 

 

ティータから花束を受け取る。おおよそ3週間の入院の後、私は無事に退院することになった。

 

家族や友人たち、お世話になった人たちが駆け付けてくれて、病院の正面玄関はちょっとしたお祭りみたいな状況になっている。

 

何故か共和国の大使とか、軍の将校などの偉い人もいたが、まあそんなに堅苦しい雰囲気にはなっていない。

 

 

「エステルっ」

 

「うわっと」

 

「ひゃわっ」

 

 

エリッサが駆け寄って抱き付いてくる。絶妙な力加減をしているのか、ふんわりとした体当たりだけれども、さりげなく頬ずりしてくるあたりは平常運転と言える。

 

押しのけられたティオはそんなエリッサに苦笑いしていて、ヨシュアはそんな私たちを微笑ましそうに、どこか眩しそうに眺めている。

 

 

「ちょっと、エリッサ、恥ずかしいですよ」

 

「ダメっ、エステリウムを補給しなきゃ」

 

「その新元素はいつ周期表に乗るんでしょうね…」

 

「人類未発見元素なのよ。ちなみに普通の人には観測は不可能だわ」

 

「超対称性粒子なんですねわかります。標準模型にも載ってないですよそれ」

 

「愛がなければ見えないの」

 

「だったら機械では計測できませんねぇ」

 

「愛を計測するなんて野暮な話だわ」

 

「それには同意します。考えるな、感じろってやつですね」

 

「お前たち、いつまで二人でじゃれあっている」

 

 

エリッサとじゃれあっていると、お父さんが呆れたような表情でポンと私の頭に手を乗せて撫でてくる。

 

13歳になって子供扱いと言うのはちょっと恥ずかしいが、まあ良く考えれば私もまだまだお子様だということに気づき、だまって撫でられる。

 

 

「退院だな、エステル」

 

「はい、お父さん。心配かけてしまってすみません」

 

「全くだ。冷や冷やさせおって」

 

「父さんが一番落ち込んでいたけどね」

 

「ぬ、おいヨシュア…」

 

 

ヨシュアにからかわれてお父さんが少しだけばつの悪そうな顔をするヨシュアやエリッサといった家族は増えたけれども、それでもお父さんと私は特別だった。

 

それは血のつながりとか、あるいは私がお父さんの愛したヒトの唯一の忘れ形見だとかそういう意味もあるのだろうが、もっと言葉で言い表せないモノが確かにあった。

 

今回もしかしたら死んでしまうかもしれないという瀬戸際から帰還して、そういうお父さんの、おそらくはこの世界において最も強いヒトだろう彼の弱い部分というものを少し垣間見た。

 

それはあの戦役においても確かに目撃したのだけれど、あの時はお父さんに気を回す余裕など私には無かったから、そういう意味で少しばかり罪悪感のようなものを感じている。

 

あの夜に命を賭けたことについては後悔はしていないのだけれど、だからといって心が痛まないなんてことはない。

 

お父さんを残して私が死んでしまうというのは、きっと彼を酷く苦しめるだろうから。だからそういうわけで、私はお父さんに抱き付いた。

 

 

「どうしたエステル。今日は甘えたい気分なのか? 父としては男冥利に尽きるのだがな」

 

「勝手に言っていてください。でも、まあ、こういうことはもう起こらないようにしたいです」

 

「断言ではないんだな」

 

「すみません」

 

「まったく…困った奴だ。お前に何かあったらレナに合わす顔がないんだが」

 

「ということで、サービス終了です」

 

「ん?」

 

 

私はさっさとお父さんから離れ、ティータやシェラさんの所へ。シェラさんのおっぱいは順調に大きくなっており、抱き付き甲斐がある。

 

 

「お、おい、エステル、今のは感動的なシーンじゃなかったのか?」

 

「いや、私、ファザコンじゃないので」

 

「ふふ、エステル、先生のことあんまり邪険にしちゃだめよ」

 

「十分サービスしたんですがね」

 

「父親っていうのは、娘にいつまでも甘えて欲しいものなのよ」

 

「そして婚期が遅れると、孫はまだかとか文句言いだすんですね」

 

「分かってるじゃない」

 

「お前ら、たいがい酷いな」

 

 

 

 

 

 

「ふむ、相変わらずリベールの成長は凄まじいな」

 

「来月に締結される不法移民の取り扱いに関する条約、そして来年のリベールによるノーザンブリア自治州の併合が投資熱を一層加速させる要因になっていますわね」

 

「西ゼムリア大陸の三強時代の到来か。ふむ、表向きのパワーバランスを取る意味では好都合といえる。だが…」

 

「その辺りはお父様におまかせしますが?」

 

「はは、それを言うならそれは先生の専門だろう、マリアベル」

 

 

近代的なガラス張りのIBC本社ビルディングの総裁室において、一昔前では考えられない程の大きさを持つガラス窓を背に、質の良い黒皮のチェアに座る金髪の男は爽やかな笑みをデスクの前に立つ少女に向けた。

 

健康的に程よく鍛えられた身体を臙脂色のスーツに包むこの男は、ゼムリア大陸有数の資産家として知られている。

 

ディーター・クロイス。

 

彼は金融業を生業として世界に名を馳せる名家クロイス家の当主であり、また世界最大の国際金融機関IBCの総裁である。

 

そして彼の目の前で品の良い、しかしどこか不敵な印象を与える笑みを浮かべる、ブロンド髪を縦ロールに纏めた14歳ぐらいの少女は彼の娘であるマリアベルだ。

 

マリアベル・クロイスは若年ながらも素晴らしい才能を示し、父からもIBCの役員たちからも一目置かれる存在として、本格的ではないものの父親の仕事を助ける立場にいた。

 

そうした大陸随一の資産家である彼ら親子にとって、あるいはこの世界における重要な役回りを演じるだろう彼らにとって急速に経済発展を遂げるリベール王国は無視できる存在ではなかった。

 

何しろ金融機関のトップである以上、驚くべき成長を遂げるリベール王国経済は投資先として無視できるはずもない。

 

また世界最先端の導力技術を保有するZCFとその関連企業群は、現在の証券市場において最大の注目の的になっている。

 

そして彼らの今後の戦略においても、リベール王国という要素は大きなものになる事は明白だった。

 

 

「今まではエレボニア帝国とカルバード共和国という二つの大国がこの地域の主導権を争ってきた。だがそれはあまりにも不安定な体制だった」

 

 

つまり、この両大国はいつ全面戦争に突入してもおかしくはなかったのだ。

 

両国は互いに譲ることのできない係争地を抱え、また帝政と共和制という政治的なイデオロギーにおいて対立し、故に実際に互いを仮想敵国として考えていた。

 

軍事力は拮抗しており、そして両国は内政に大きな問題を、帝国は革新派と貴族派の対立、共和国は移民問題を抱え、それらの不満や軋轢を対外戦争によって誤魔化そうとする可能性も十分に考えられた。

 

そして彼らが限定的な戦争を行う場所として最も適している場所が、このクロスベル自治州という土地だ。

 

既に帝国は国境のガレリア要塞に戦略兵器たる列車砲を配備しクロスベル市全域を射程に収めており、共和国もまた盛んに国境付近で大規模な軍事演習を繰り広げている。

 

クロスベル自治州は市場としても、そしてこの世界の戦略資源である七耀石の産地としても、あるいは大陸横断鉄道が通る交通の要所としても魅力的な存在だった。

 

そしてこの地域を巡って古くから帝国と共和国が領有を主張しており、そのため両国の不安定なパワーバランスの上で自治州は急速な経済発展を遂げることになる。

 

つまり、両国にとってはある意味において法律や制度の抜け穴のような地域であり、そして都合の良い事に大陸横断鉄道がこのクロスベルを通ったことで両大国間の交易の要となった。

 

両大国の意向に翻弄される形で不安定になりがちな政治基盤をいいことに、不正な資金や資材をマネーロンダリングあるいは換金するための格好の場所ともなっている。

 

こうした裏経済の中心としての発展は、そのまま資本の流入を促し、これに上手く適応したクロイス家による銀行業の大成功によってクロスベルはゼムリア大陸の一大金融センターとして国際社会に認識されるようになる。

 

そして富の蓄積が増えるほどに、自治州は両大国にとっての甘い蜜を滴らせる利権となっていった。

 

こうして蓄積された自治州の実態に見合わないあまりにも大きな富と、そして両大国に翻弄される脆弱な政治基盤は裏社会を拡大させマフィアの跋扈を許すこととなった。

 

同時に両大国や他のゼムリア各国による恰好の諜報活動の場を提供した。大国の後ろ盾を持つマフィアの犯罪を自治州は有効に取り締まる事が出来ず、スパイたちの暗躍と暗闘は時に一般市民を犠牲にする。

 

そうした状況をクロスベル市民が変えることなど現実的には不可能であり、帝国人や共和国人の犯罪を裁くことも出来ない。

 

市民たちは帝国と共和国に対する不満や不安を、享楽的とも言っていい経済発展による富に酔いしれる事で目をそらそうとするが、多くの人間がこの状況を変えたいとどこかで願っていた。

 

ディーター・クロイスもそのような人間の一人だ。彼は大国によって翻弄され、正しさや美徳が失われつつあるこのクロスベルに強い怒りを覚えている。

 

彼は自分がクロイス家という家に生まれたことを運命的であると認識し、そして自分が考える正義をこの自治州、世界に実現したいと願っていた。

 

 

「だが、第三のプレーヤーであるリベールの存在が両国に強い警戒感を抱かせている。リベールは西ゼムリアの政治的状況を一変させてしまった。この状況では帝国と共和国は戦端を開くことが出来ないだろう」

 

「帝国と共和国が争えば、一人勝ちするのはリベールですものね。王国は中立政策をとっても、莫大な戦争特需がリベールには舞い込み、そして勝手に帝国と共和国は弱っていきます」

 

「ああ。そして帝国が有利となれば、リベールは人道的な保護と言う形で共和国の大部分を併呑する可能性がある。あるいは背後から襲われるかもしれない。共和国が有利なら、リベールは先の大戦の復讐戦と称して弱った帝国を南部から食い破り、豊かな穀倉地帯を切り取るだろう」

 

「そして、帝国は現状でリベールと戦争したとしても敗北する可能性が高いと認識している。そしてそれは共和国としても同じ。外交上では帝国と共和国が手を取り合う余地はなく、リベールとならば手を取り合う余地はある…と。両国が頭を抱えるのが目に見えますわね」

 

 

リベール王国は1000年以上の歴史を持つ由緒正しい王室アウスレーゼ家を有し、エレボニア帝国にとっても帝国の頭の固い貴族たちにとってもアウスレーゼ家は敬意を払うに値する相手だ。

 

対してカルバード共和国は百年程度の歴史しか持たず、しかも革命により共和政を打ち立てた全く異なる政治体制を持つ敵であり、帝国から見れば敬意を払うに値しない若輩の簒奪者である。

 

カルバード共和国にとってみれば、リベール王国は伝統的な友好国だ。

 

しかも部分的にとはいえ民主的な議会政治を採用しており、その民主的な制度の設立の過程において共和国と王国は親密な関係を築いた歴史もある。

 

当然、いまだ封建的な政治体制を維持する帝国と民主的な政治体制を取り入れたリベール王国とでは好感度において雲泥の差があった。

 

つまりリベール王国は、帝国にとっては伝統的な王室外交が可能な歴史と権威ある古王国として、共和国においては比較的近しい政治体制を持つ近代国家として認識されており、いわば同盟の余地すらある相手といえた。

 

今までは、かの王国は導力技術においては見るべきものがあったものの、しょせんは小国でしかなかったために大きな問題は起こらなかった。

 

だが、そんな戦略的な不利を技術力と言う分野で覆し、エレボニア帝国との戦争に勝利してからは風向きが完全に変わった。

 

手に入れた莫大な賠償金を元手に重工業化に成功し、ゼムリア大陸最大の工業国家へと脱皮を果たしたリベール王国は台風の目となった。

 

 

「リベール王国は今後さらに国力を増すだろう。技術力は超大国級、軍事力と経済力は既に大国入りを果たしている。文化面では先進国といって良く、内政も安定している。領土拡大については侵略ではなく、同意形成を全面に押し出して、ノーザンブリア自治州だけでなく、いくつかの自由都市を併合することに成功している」

 

「大陸各地の辺境にも接触を開始しているようですわね。大陸南部の貧困地域を始め、いくつかの国家を飲み込む可能性があるようです」

 

 

政治的に不安定な地域はいくらでもある。

 

導力革命が引き起こした経済・社会・情報伝達の変革は、いままで燻っていた辺境諸国家での貧富の格差、階級闘争、民族問題、部族間抗争に揮発油を注いだかのように問題を表出させはじめている。

 

今まで虐げられていることすら認識出来なかった人々が、自分たちがもっと豊かに、自由に、幸福になる余地がある事を知ってしまったからだ。

 

古い封建的な、あるいはさらに閉塞した政治体制を持つ国々では、既得権益を持つ支配者層と、先進地域の事物を知った権利や富を求める民衆との間で無視できない軋轢が生じるだろう。

 

その上、生産システムの導力化に成功した地域が安価で優れた余剰産物を生み出すようになれば、伝統的産業は破壊され、貧富の格差はますます大きくなる。

 

そして大国はそういった地域に触手を伸ばし、自国の影響下に置こうとする。

 

帝国、王国は水面下で活発に活動を開始しているが、最も有利に事を進めているのが優れた諜報組織を持ち、そして侵略性の少ないリベール王国だった。

 

このまま事が進めば、ゼムリア大陸の各地でリベール王国の強い影響下に置かれた国々が、悪い言い方をすれば経済植民地が誕生するだろう。

 

 

「あの女王陛下は分かってやっているのかね。どう思う、マリアベル」

 

「同じ政体の国へと導こうとしているようですから、噛んでいるのでは? 財界と軍の意向を上手く調整しているようですし」

 

 

弱小国家群は強力なリベール王国軍の傘に入ることにより安全保障を得ようとし、リベール王国は市場と資源を求めている。

 

リベール王国には侵略戦争の歴史もないため大国に比べて国際的な信頼性が高く、また人口の規模からして自国が完全に飲み込まれる心配がないという安心感があった。

 

そしてこれらの国々の支配者層は共和国のように既得権者が打ち倒される事態を危惧しており、民衆は帝国のような封建的政治体制の維持を望んでいない。

 

そういう意味で政治的近代化をソフトランディングにて成功させ、独立を維持し、さらに強国となったリベール王国に学ぼうとする王族や知識人、富裕層が増加している。

 

貴族などの現在の政治体制を維持したまま近代化を望む者はエレボニア帝国との接触を望む傾向にあったが、彼らは既得権益の保持にばかり気が取られて上手く動けてはいない。

 

工業化には古い産業や利権を切り捨て、国民の教育水準を引き上げる必要があるのだが、彼らはそれを望んではいないのだ。

 

そして既得権益層を打倒して新しい共和政を打ち立てたいと願う民衆のリーダーは共和国への接触を望む傾向にあったが、共和国自体の意思決定が鈍重であり、諜報機関も未熟であることから迅速で効果的な支援を受ける事が出来ていない。

 

また変革を主導する強力な指導者が必ずしも存在するわけでもなかった。政治への理解のある指導者を欠いた革命など、そんなものが起きればさらに醜悪な地獄を生産するだけである。

 

対して王国は急激な体制の崩壊が経済システム全体の破局をもたらす可能性を指摘するなどして、リベラルな思想を持つ者やインテリ層に食い込んでいた。

 

経済の正常な活動には法と秩序が必要であり、そのためには既得権益を持つ者たちが占める官僚を活用しなければならない。

 

急激な革命はこれら官僚組織の破壊をもたらす可能性が高く、しかし貴族制の維持は閉塞した法体系の継続を意味すると共に、人材の利活用に大きな不全を起こし、また腐敗を取り除くことができないだろう。

 

それはいくつかの失敗例が雄弁に物語っていた。

 

ある国では民衆による暴力的な革命により支配者層が打ち倒されたが、国家の基幹となるシステムそのものまでも破壊してしまい、国家運営に行き詰まり腐敗が横行することで極端な混乱が生じた。

 

ある国ではトップダウンによる政治体制を維持したままの近代化が模索されたが、それは過酷で醜悪な搾取へと変貌し、非効率で歪なシステムは民の希望と意欲を奪って早々に行き詰まりと破綻を生じさせた。

 

そうした中でリベール王国の外交官や工作員たちは指導者たちに取り入り、近代化を目指す中小国家の多くの王族や貴族の子弟、裕福な名家の子女、あるいは国家の改革を目指す指導者の卵たちがリベール王国を留学先に選んでいる。

 

それを表すように、各地の王族や知識人がリベールを訪れ女王に謁見を望んだ。そしてそれはクロスベルにおいても起こっている。

 

 

「一部の議員たちが親リベール王国派閥を形成しだしている。ハルトマン議長のような帝国派議員も、そして彼らと対立する共和国派議員もリベール軍の諜報部に弱みを握られ効果的にこれを掣肘できない。リベールは係争地であるこの地を勢力下に置く気はないようだが、いくらかの影響力を楔として打ち込もうとしている…か。やはり先生の言うようにリベールの協力を取り付けるべきだろう」

 

 

彼の情報によればリベール王国軍情報部は確実に帝国と共和国の両大国の国力を削ぐ方向で活動しており、帝国では貴族派や社会主義者に、共和国では民族主義者たちに密かに、あるいは間接的に支援を行なっているらしい。

 

同時に帝国と共和国で世論操作を行い、互いへの敵愾心をも煽っている節があるらしい。

 

そして今のリベール王国にとってクロスベルが国際社会における焦点になることはある意味において望ましい。この地域での混乱はすなわち帝国と共和国の衝突を誘発するからだ。

 

全面的な軍事衝突は両大国の軍事力を測り、戦訓を得ることが可能で、更に中立国として特需の恩恵を受け、そして可能ならば両国の国力を削ぐことも可能になるだろう。

 

そしてこの軍事衝突において敗北した側は世論の不満が大幅に蓄積し、内政上の問題に火をつけ、現政権の政策に対する批判を増大させ、反政府勢力の拡大、最悪の場合は内戦の誘発すら発生する可能性がある。

 

内戦が起こればリベール王国は自らに利となる勢力に加担すれば良い。

 

 

「ですが、リベールが政治的なリスクを犯してまでクロスベルに加担するには、さらなる利益を提示する必要がありますわ」

 

「国際資本のさらなる投資をリベールに行うように誘導することを提示しよう。IBCの、クロイス家のネットワークは大きいからね。東ゼムリア大陸におけるリベール王国製品の販路拡大にも協力できるさ。リベール王国企業への優遇も行えばいい。なに、損はしないさ」

 

 

 

 

 

 

力とは速度と質量によって規定される。

 

ならば質量がさして変わらない、いや、体重ならば若干ながら自分の方が重く、ましてや速度もまたさして変わらないと見える以上、彼我の力に差はそれほど生じないはずだ。

 

だというのに、どうしてこんなにも違いがあるのか。リィン・シュバルツァーには見当もつかない。

 

 

「基本はなっていますね。エリッサとヨシュアの言っていた通りですか」

 

「くっ」

 

 

相手は病み上がりの、一つ年上だとはいえ女の子である。

 

だが自分の振るう剣はまるで風に翻弄される花びらであるかのように軽くいなされ、そして時折思い出したかのように振るわれる彼女の、エステル・ブライトの剣撃はリィンの剣を弾き飛ばし、リィンの足はたたらを踏んで姿勢を崩す。

 

剣士としての格が違う…というのは分かるにしても、この理不尽な物理には理解が及ばない。

 

氣の扱いについても、確かにリベールに来たあの日の夜に見たあの龍の如き光を生み出したのが彼女であるにしても、今目の前で自分と手合わせをする彼女は手加減しているのかあるいは本調子ではないのか、それほど強力な氣を纏っている風ではない。

 

ただし、対面して感じるのは老師を前にして感じるのとよく似ていた。

 

エリッサさんのような業火を目の前にするようなものでも、ヨシュア君のような氷の刃を首筋に常に当てられているような感覚とも違う、故郷の最高峰の頂上で、雑音もなくただ風の音だけを耳にするような、そんな広大なまでの空白。

 

 

「剣を手にしてから一年と少しらしいですね。それにしては、中々に巧いと思いますよ」

 

 

汗もかかず、まるで午後に紅茶でも淹れて雑談するかのように、エステルさんはにこやかに俺の剣を評して話しかけてくる。

 

あいにくこちらはそんな余裕などなく、油断して手を休めれば、まるで気安い態度で挨拶するかのように強烈な剣を、俺がギリギリ受け止められる力加減で叩き込んでくる。

 

 

「それじゃあ、次で一段落にしましょうか」

 

「うわっ!?」

 

 

正確な突き。それが俺の剣の刃に突き立てられる。ほんの僅かなズレさえ許されない様な、恐ろしいほど精緻にして精密な一撃。

 

力のベクトルはいっさいブレることなく俺の剣に伝わり、押し込まれ、俺は弾かれるように後ろに突き飛ばされた。そうしてできた間合いは試合を行う際に向き合った時の距離と同じ。

 

 

「じゃあ、いきますよ」

 

「…っ、はいっ」

 

 

こちらの攻撃は全ていなされ、彼女は何の危なげもなく全てをさばいてしまっていた。だけれども、あまり無様な所ばかりは見せられない。出来うるなら、次こそは何かを掴めるように。

 

俺は静かに呼吸を整えて剣を構える。居合いでは駄目だ。端から速度が違いすぎて刃を合わせることも出来ない。故に正眼で。

 

 

「いち」

 

「ぐっ…はぁ!?」

 

 

視認すら困難なほどの一撃。

 

あまりにも分かりやすい上段からの袈裟切りは、先ほどの手合わせが嘘だったかのような猛烈な重量で、そして自分の過ちを即座に認識する。守りに入った時点で、全ては負けだったのだ。

 

そして信じられない事に、このことを認識した時にはもう、彼女は既に俺の背後にいて、次の一撃を放とうとしていた。

 

 

「に」

 

「つぁっ!?」

 

 

そして放たれた水平切りは、俺の剣を簡単に宙に弾き飛ばしてしまった。

 

そうしてエステルさんは「おや?」と言いたげな疑問符を頭に浮かべるようにきょとんとした表情になり、そして次に少しやり過ぎたかなというようにバツの悪そうな苦笑いをした。

 

それは俺の自尊心を打ちのめすのに十分な反応だった。

 

 

「ん、おかしいですね。三発は保つと思ったんですけれど」

 

「エステルって鬼だよね絶対」

 

「まあ、でもおおかたは理解できました」

 

「斬れば分かる…ってこと?」

 

「私は辻斬りか何かですか…」

 

「お主ら、なにをじゃれあっとるか」

 

 

ユン老師が腕を組みながら呆れるような表情で二人の少女を見下ろす。

 

エステルさんは照れたように笑い返し、エリッサさんはエステルさんと腕を絡ませたままだ。ヨシュア君は少し離れたところで穏やかに笑みを浮かべながら双剣の手入れをしている。

 

エステルさんが退院して三日が経った今日、俺は初めて彼女と剣を合わせる機会を得た。

 

とはいってもユン老師とのウォーミングアップの後と言う事だったのだが、老師と彼女の立ち会いは俺が今まで見てきた剣の試合とは次元の違うもので、何よりも場を支配した空気からして既に質が違っていたのだから、今の俺には届くはずもなかった。

 

 

「先生から頂いたこの古刀、かなり良いですね。名のある刀鍛冶が打ったものなのですか?」

 

「いや、旅先の中世の遺跡から拝借したものでな。知り合いの鍛冶師に治してもらったんじゃが」

 

「盗掘じゃないですか…」

 

「違うわい。遺跡を管理しておる村から、遺跡を占拠した魔獣を退治してくれと依頼があっての。見つけた宝物のいくつかを謝礼として渡されたんじゃよ」

 

「こうして貴重な考古学的資料が失われていくわけですね分かります。しかし、見たところかなり高度な技術で製造されていますね。おそらくは異なる素材を積層したものなんでしょうけど。複数の七耀石を含んだ層を重ねるとか、現在の技術でも相当難しいというか、不可能なんじゃないですかね」

 

 

ユン老師がエステルさんに渡した刀には木目のような独特の縞模様が浮かんでおり、それぞれの層が角度によって水に浮かぶ油膜のように虹色に変化し光を反射する。

 

なんというか不思議な雰囲気を持つ刀だ。そしてそんな初めて持つ刀であれほどの剣の冴えを実現する彼女もまた彼女なのだろうけど。

 

 

 

 

ユン先生から貰った太刀は複雑な縞模様がビスマスの人工結晶のように光を七色に反射してなんだかとっても綺麗。とはいえずっと見ていると酔うのだけれど。

 

太刀の長さは私の今の体の大きさには少し大きすぎるが、扱えないわけではない。まあ、今後の成長に期待するとしましょう。

 

 

「ところで聞いてませんでしたけど、銘は何ですか?」

 

「知らん。どこにも書いておらんからな。お主が名付けてみれば良いのではないか」

 

「んん。じゃあ、ポチで」

 

「本当にそれでよいのか?」

 

「ようし、お前は今日からポチだぞぉ。よぉ~~し、よしよしよしよし……。はは、冗談ですよぉ」

 

 

ああ、ヨシュアまで瞳からハイライトが…。冷たい視線に私は目をそらしつつ、私は新しいネーミングを必死に考える。

 

どうすべきか。中学二年生とかがノートに書き連ねるような意味もなく難しい漢字が並ぶのとか、あるいは良く分からないドイツ語とかイタリア語から引っ張って来たようなのとかがいいのだろうか?

 

 

「え、えっと、《虹蛇》というのはどうですかね?」

 

「南方の伝承にある龍か」

 

 

虹の神格化は世界各地で行われており、空の女神信仰が席巻しているこの世界においても、南部の熱帯や乾燥地帯において盛んに奉じられている。

 

ちなみに一神教のような排他的な特性を持たないエイドス信仰ならではの文化なのか、虹蛇に関する儀式が取り締まられることもほとんどない。

 

雨の象徴としての虹、空にかかる虹から連想される龍としての虹蛇は、Xの世界でも盛んに信仰されて来た。

 

その信仰形態はこの世界においても似通っていて、例えばある地域での雨乞いの儀式は、騒々しい音を立てる事によって乾季の間は眠りについている虹蛇を叩き起こし、雨を降らしてもらうという内容だったりする。

 

そういった地域では虹蛇は空の女神エイドスの遣わした神獣として扱われていたりして、七耀教会もまたその辺りを利用しているらしい。

 

学術面においては土着の宗教がエイドス信仰に取り込まれていく過程だとか、信仰とか文化の変容を理解する上で興味深い資料になっているそうだ。

 

 

「でも、なんでこの刀で斬ると、相手が石化したりするんですかね?」

 

「そんなのは知らんよ」

 

「石化ってよく考えるとすごく理不尽ですよね」

 

「そうか?」

 

「そうですよ」

 

 

石化現象というのは非常に奇妙なもので、石化毒や導力魔法によって引き起こされ、身体は石のように硬くなって動けなくなり、また衝撃を受けると致命的な損壊によって行動不能となる大怪我を負ってしまう。

 

このため非常に危険な状態異常であり、戦闘中に石化することは死に直結すると言ってもいい。

 

しかしながら肉体の構成元素が二酸化ケイ素や炭酸カルシウムになるわけではなく、また細胞などの分子構造や微細構造は保存され、七耀教会に伝わる塗り薬などを使えば即座に治癒することができるのだ。

 

こういった現象は科学的には極めて奇妙であり、その原理は長年謎とされて来た。

 

石化の原理が解明されたのは導力工学の進歩による観測装置の解像度の向上によってなのだが、要するにその正体は常温での凍結なのだという。

 

『地』属性による分子結合の制御に起因し、生体を構成する水分子が強力な水素結合により連鎖的にアモルファスを形成し、あらゆる生体の分子構造を保存したまま固まるのだ。

 

ちなみにXの世界のSF小説に登場する《アイス・ナイン》に似ているが、あれのように単独で触媒作用による水の固形化は起こさない。

 

あくまでも琥耀石(アンバール)に関わる特殊な導力的環境によって水分子の常温凍結が引き起こされるとされる。

 

 

「それで、リィンの奴についてはどう思う?」

 

「そうですね…」

 

 

そうして話が本筋に戻される。リィン君の殻。彼が破る事が出来ない、これ以上の剣の修行が行なえない理由。リィン君に視線を向けると、彼はまじめな顔で私に向き直る。

 

好感の持てる誠実な性質だ。二年を要さずに初伝に辿りつく実力はなかなかのものだと、先生も評している。ただし、その先に行くことが出来ない。

 

 

「リィン君は前に剣を握る理由について私に問いましたよね」

 

「は、はい」

 

「そして貴方はこうも言いました。自分の中にあるものに打ち勝つために剣を握る事は正しい事なのかと。最初、私はそれが心理的な、あるいは思想的なものだと思っていました。まあ、ある意味では間違いではないんでしょうが」

 

「……」

 

「恐れですね。貴方の剣からは恐怖を感じ取りました。間違いありませんか?」

 

「…おっしゃる通りです」

 

「ヒトを誤って殺した事が?」

 

「それは…まだありません……」

 

「ふむ…、『まだ』ですか。また、厄介なものを抱えていますね。これは予想外でした」

 

「何か分かったのか?」

 

「ええ、まあ。ちょっと、思っていたのとは違ったので戸惑っていますが」

 

 

想像していたのは、もっと心理的な枷だ。

 

ヒトを傷つける事への忌避感。暴力への嫌悪。何らかの原因で心的外傷を受け、自分が誰かを傷つけるという状況に恐怖を感じている。そういうものを想定していた。

 

だが、『まだ』ということは、つまり彼は殺人を犯す状況を己が理性でコントロール出来ない状態にある事を示唆していた。

 

 

「面倒ですねぇ。リィン君、貴方は何を抱えているんですか? 言いたくないのならば答えなくていいですが、それならば協力は出来かねます。貴方はその問題を一生一人で抱えることになるでしょう。まあ、そういう先送りは最悪の状況を招くことがあると理解すべきですが」

 

「……それは」

 

「私が信用できないのなら、ユン先生だけに話してはいかがです? 私は貴方と出会って間もないですし、信頼関係もさほど築いているわけではないですからね。ですが、問題というのは一人で解決できるとは限らないんですよ?」

 

「俺は…」

 

「あと一つ。目を背けるのは楽ですからね。無視を決め込むのも、時にはいいでしょう。貴方が八葉一刀流に求めたのはその問題を抑え込む手段、精神力を期待したのでしょうけれど、その問題が結局どういうものかを正確に理解できなければ、正しい対処なんてものは到底不可能なのです。科学者としての見解ですけれどね。じゃあ、エリッサ、ヨシュア。後はユン先生に任せましょうか」

 

「あのっ、待ってください。エステルさん、…良ければ聞いてもらえませんか?」

 

 

そうして彼はポツポツと彼が抱える秘密について語りだした。

 

 




おかしいな、本当はこのストーリー、今回で終わるはずだったのに。銀行家のせいで話が長くなったし。

030話でした。

リィン君が話すことを決めたのは、自分の想定以上にエステルとかが人外だったからというのもあります。

まー、自分以上の化け物だと思ってしまったのかも。こいつも行き着くところまで行き着けば(カルマエンド的な)化け物の仲間入りしそうなんですけど。


<虹蛇>:STR+1000,SPD/AGL/DEX +20、確率30%[ランダム状態異常]
ダマスクス鋼の刀剣がビスマスの人工結晶みたいに光を反射するみたいな刀身の刀。ジャグラーな感じの状態異常がムカつく。石化とか即死は対策していても、睡眠を喰らって致命的な状況に陥ったりする。そんな武器。

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