記憶を拾うルナの旅   作:山なき鳥

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鏡のお茶会

 

 

 幽霊屋敷の衣裳部屋は一階の奥、ルナの自室の真下に位置している。

 静かな室内に人の目を惹くものは少ない。

 化粧品が載せられた鏡台、靴棚や帽子掛けなど、あるのはありふれたものばかり。

 それら細々(こまごま)とした物らを見下ろすように、部屋の右手側には背の高いクローゼットが(しつら)えられている。

 

「芋虫さんは、ここにヒントがあるって言っていたけど……」

 

 左手でぬいぐるみを抱える黒衣の少女は、衣裳部屋の扉を少しだけ開き、無人を確認してから足を進めた。

 右手は先刻したたかに打ち付けたお尻へと添えられている。

 鬼火で青白く照らされる室内を見回していると、心の内で声が響いた。

 

( 誰もいないし、特におかしなところはないようだね )

 

( そうですね。……ああ、ルナ。クローゼットのなかはどうでしょうか? )

 

「え? えっと。ルナ、そこは最後でいいと思うな……」

 

 クローゼットの内側に誰かが潜んでいるかもしれない。そう考えながらも、ルナは確かめることをためらった。

 懸念があるのなら先に確認するべきだと理解している。

 だが、まるで体が拒絶するかのように逆らうのだ。

 近寄ろうとすると呼吸が浅くなり、全身から汗が噴き出てくる。

 単純な恐怖とは別種の感情。説明できない不吉な予感に、ルナの手のひらはじっとりと濡れていた。

 

( ………… )

 

 心の内に響いていた声は止み、あたりは耳が痛くなるほどの静寂が支配する。

 その静けさを紛らわすように、ルナは死者へ向けて語りだした。

 

「さっきエントランスで鳴ったのは靴の音だったでしょ? でも、芋虫さんは靴を履いていなかった。だから、この家にはもう一人だれかがいると思うの」

 

 口と同時に手足も動かす。

 鏡台に映る自分の顔を流し見て、靴棚をのぞき込み、帽子掛けのツンと尖った部分を指でなぞりあげ、

 

「あれ? この姿見、布なんてかけてあったかなぁ」

 

 ルナは部屋の隅で違和感を覚えて立ち止まった。

 彼女が見つめているのは全身が映るサイズの大鏡。

 彫刻をあしらった木枠にはめこまれた鏡は今、白布にすっぽりと覆われていた。

 

「ん、しょ……っと。なんだろ、これ?」

 

 疑問に思いながら布を取り外したルナは、そこに妙なものを見た。

 鏡に文字が書かれていたのだ。

 赤く艶めいた文字は、もしかしたら鏡台の口紅を使って書かれたものなのかもしれない。

 少女はほとんど無意識に、目に映った文面を読み上げる。

 

「三月ウサギのお茶会より、ルナちゃんに招待状を届けるわ……?」

 

 書かれていたのはそれだけだった。

 三月ウサギという言葉が何を指すのかもわからなければ、招待状とやらも見当たらない。

 芋虫も、この“三月ウサギ”とやらも、目的が不明瞭にすぎる。

 まるで子どものいたずらだ、という呆れが、深いため息となって吐きだされた。

 あたたかな呼気が鏡へと吹きつけられる。

 ぼんやりと曇った鏡面を見やり、彼女はいたずら書きを拭おうと右手を伸ばした――

 

「――――ひっ!?」

 

 直後、瞳が驚きに見開かれた。

 伸ばした右手が何者かの手に掴まれていたのだ。

 すらりと長い指、ふっくらとした綺麗な爪、それは信じられないことに鏡の向こうから伸びている。

 抵抗の暇を与えられずに、ルナの体は鏡の内へと引き込まれてしまう。

 

「わ、あっ!?」

 

 手が、足が、二つに結わえた頭髪の尾が鏡をすり抜けたとき、腕を引いていた手は幻のように消えてしまった。

 けれども勢いまでは消えていなくて、少女は悲鳴を上げながらたたらを踏んだ。

 転ぶまいと、両手があわただしく空を掻く。

 なんとか踏みとどまったルナは息をつく間もなく、首を振ってあたりを見まわした。

 

「誰なの……? 隠れてないで、出てきてよ!」

 

 自分を引きずり込んだ人物――屋敷への侵入者に警戒しながら探索する。

 鏡のなかに入り込んでしまうという異常事態。しかしながら、目に映るのは変わらない衣裳部屋だった。

 

 化粧品を載せた鏡台も、靴棚や帽子掛けも、大きなクローゼットも変わらず置かれている。

 一見すると変化は見当たらない。だがしかし、ルナは漠然とした違和感を感じていた。

 致命的ななにかが間違っているような。そんな感覚の正体は、姿見に赤い文字で記されていた。

 

「文字が、さかさまになってる……」

 

 ついさっきまでは普通に読めていた字が、左右反対になっているのだ。

 まさか、と思いながらも、ルナは部屋のなかをもう一度見まわした。

 そして気付く。部屋の右側にあったクローゼットが左手側へと移動していることに。

 

 まるで全てが鏡合わせになってしまったようだ、とルナは息を呑む。

 床から天井まで伸びる家具を一瞬で動かすなんてありえない。

 一体ここはどこで、自分はどうなってしまったのだろうか。

 思考が答えに行きつくよりも先。解答は、姿見の向こうよりもたらされた。

 

「鏡の世界へようこそぉ、ルナちゃん」

 

 それは寝ぼけたような女の声だった。

 間の抜けたあくびをひとつ。

 一拍ほど遅れて、自分ばかりを映していた鏡面から、珍奇な格好をした女性が現れる。

 

「……お姉さん、だれ?」

 

 まず目に留まったのは、頭頂から伸びる――白くて長いウサギ耳。

 呼吸に合わせて揺れるそれは、もしかしたら作りものではないのかもしれない。

 

 彼女が身にまとうは、胸部を強調する紫紺の衣装。

 布地は豊満な胸により大きく膨らみ、声を発するたびに揺れ動く。対照的にウェストは折れてしまいそうなほどに引き締まっていた。

 スカートは桃色と白のフリルが幾重にも重なるフリフリとしたもので、成熟した体つきとのギャップがひどい。

 身長は百六十センチほどだが、長い足のせいですらりと高く見える。

 素性のわからない女性は、腰まで届く長髪を揺らして笑った。

 

「うふふっ、忘れちゃったのね。私は“三月ウサギのお茶会”……あなたの古い友人で、“謎かけの芋虫”の後輩よぉ」

 

 珍奇な格好に珍妙な名前。ルナは、かつて本で見た奇術師の絵を思い出した。

 あっけにとられる少女をよそに、三月ウサギのお茶会は右手を頬に添えながら続ける。

 

「ルナちゃんは謎の答えを探しに来たのよねぇ? 違和感の正体、失くした記憶を探るために」

 

「…………」

 

「ふふ。沈黙は金、雄弁は銀というけれど、金も銀も意味はないわ。今この場では、どちらも肯定に過ぎないもの」

 

 問いを無視して黙りこくるルナを見つめ、愛でるように三月ウサギのお茶会は言った。

 きゅっと結ばれた少女の唇が緊張に震える。

 眼前、細い喉を唾液がくぐりぬけるのを確認してから、ウサギ耳の女性は言葉を重ねた。

 

「謎かけの芋虫はあなたに謎を贈った。なら、私からは謎を解くための鍵を贈りましょう――」

 

 右手の、長い人差し指をピンと立て、くるくると動かしながら「ただし」と彼女は継げる。

 

「私の遊びに付き合ってくれたなら、という条件つきだけど。

 これから始めるのは間違い正し(・・)。反転した鏡の世界と、反転していない元の世界との差異を正して(・・・)ちょうだいな」

 

「そうすれば、ルナのことを教えてくれるの?」

 

 確かめるようにルナが訊ねるが、三月ウサギのお茶会は首をゆるく振って否定した。

 

「私が与えるのはあくまでヒント。謎は、自分の手で解かなければ意味がないものよ」

 

「……いじわる。お姉さんも、芋虫さんと同じふうに言うんだね」

 

 既視感のある言葉に、落胆が染みた息を吐く。

 黒衣の少女は“ルナは誰?”という質問に対する芋虫の回答、“答えられるのは君だけだよ”という言葉を思い出してた。

 

 どうして? という疑問が喉の奥からせり上がる。

 自分が何者か言い表せないという不安、焦燥、悲しさ。

 こんなにも苦しんでいるのに、どうして煙に巻くような言い方をするのだろうか。誰も助けてくれないのだろうか。

 そんな不満の言葉は、けれども頭に乗せられた長い指にさらわれた。

 

「…………っ!」

 

「そんなにがっかりした顔をしないで。……私はね、今日という日を楽しみにしていたの」

 

 三月ウサギのお茶会は、ルナの頭をやさしく撫でながら語りかける。

 指先が髪に触れる一瞬。ほんの一瞬だけルナは身を硬くしたものの、抵抗らしい抵抗はしなかった。

 

 逃げようとすれば逃げられたはずだ。伸ばされた手を払いのけ、一歩あとずさる選択肢も彼女の頭には浮かんでいた。

 だが、そうしようとはしなかった。拒絶しなかった理由はわからない。

 ただ、不思議なお姉さんの手はとても温かくて。冷え切った屋敷に住まう少女は、心地よさに目を閉じた。

 

「大好きな友人と言葉を交わすことができるこの日を、遊ぶことができるこの日を。とっても、とぉっても」

 

「ルナ、よくわかんない……」

 

 弾んだ調子で語る女性に対し、ルナは戸惑いながらそう言った。

 わからない。もしかしたら虫食いの記憶の中に、お姉さんとの思い出もあったのかもしれない。

 ルナは眉間にしわを寄せてたくさんのことを考えたけれど、何かを思い出すには至らなかった。

 そんな様子を見て、三月ウサギのお茶会はあわてたように手を離す。

 

「ああ、ごめんなさい。急に迷惑だったわよね」

 

 どうやら迷惑がられていると早合点したらしい。

 ウサギ耳の女性は手を引き戻し、そこに残る温もりを確かめるように、そっと結んだ。

 長い睫毛は伏せられていた。

 彼女の見当違いな気遣いが、頭頂から消えた温もりが、ルナの心を掻き乱す。

 

「……ルナにはよくわかんない。けど、お友だちって、色んな事をして遊ぶものなんだよね?」

 

 目を見つめるのが何となく恥ずかしくて。ルナは三月ウサギのお茶会の、指先をながめながら問いかける。

 

「お姉さんは、本当にルナのお友だち? 壊れちゃったりしない?」

 

「ええ、もちろん。私は“三月ウサギのお茶会”。人でもウサギでもないものよ」

 

 唐突に示された興味に対し、ウサギ耳の女性は細い眉根を吊り上げて、少しむきになったように続けた。

 

「絶対に壊れたりなんかしない。お別れで、あなたを悲しませないと約束するわ」

 

「……そっか」

 

 ルナは短く告げて、姿見の方へと向き直った。

 左右が反転した赤い文字をじっと見つめる。

 そして、あー、とか、うー、とか、うなるように声を上げるものだから、三月ウサギのお茶会は何事かと首をかしげてしまう。

 

「ルナちゃん? えっとぉ……何をしているの?」

 

「だって、間違い探しをするんでしょ? 何か所に間違いがあるのかわからないけど、やるからにはいっぱい見つけないと」

 

 こちらには目もくれずに、鏡面をにらむように見つめ続けるルナ。

 真剣な眼差しに、三月ウサギのお茶会はしばらくその赤色がかった双眸を見開いたあと、

 

「……ふふっ! そうね、そうねぇ。でも、これは間違い正し(・・)なの。ルールはいまから説明するから、始めるのはもう少し待っていてね?」

 

 ふと、時間が動き出したように破顔した。

 「あわてんぼうさん」と、からかうように付け加えて歩み寄り、ルナの頭を両手でくしゃくしゃと撫でる。

 先刻のような優しいそれではなく、犬や猫でも可愛がるかのような無遠慮さだ。

 ルナはたまらず脱しようともがくが、三月ウサギのお茶会は少女の抵抗など意に介さない。

 

「なにっ!? 急に何なの!?」

 

「可愛いルナちゃんが、私を“お友だち”だって認めてくれた。それがとぉっても嬉しかったから、つい」

 

 ルナは、友だちは色々なことをして遊ぶものであると言った。

 そして見返りを提示されているとはいえ、率先して“遊び”に取り組もうとしてくれている。

 心を開いていることは誰の目から見ても明らかだった。

 

「もぉ…………」 

 

 耳までを赤く染めたルナが、困ったように息を吐く。

 小さな胸には、たくさんの問うべき言葉が渦巻いていた。

 芋虫との関係。鏡の世界のこと。それから、三月ウサギのお茶会のことについて。

 しかしそれらの疑問は、頭を撫でる長い指に、温かな肌に、溶かされるように消えてゆく。

 その、しっとりと溶けた言葉に代わって、死者の声が心に浮かんだ。

 

( ……ルナ。ひとつだけ、そこのお姉さんに聞いてほしいことがあるんだ )

 

「パパ? うん、なあに?」

 

 三月ウサギのお茶会に出会って以降、押し黙っていた骸骨が言った。

 声はまるで怯えているかのように不安定で、言葉と言葉の間が長くとられている。

 ルナは一瞬だけ疑問に思ったものの、すぐに考え過ぎだと納得した。

 こんなに温かい手をしたお姉さんが恐ろしいはずがない。そう、思ったのだ。

 

( ……いつ、許してもらえるのかを訊いてほしい )

 

「え? う、うん。えっとね、お姉さん――」

 

 ようやく手を離した女性に向けて、ルナが声をかける。

 言伝(ことづて)の意味はわからなかったが、問い返すことはしない。

 大人の話というやつだろう。常よりも低いトーンの声が、問い返してもはぐらかされるだけだと示していた。

 

「ルナのパパがね、いつ許してもらえるの? って聞いているの」

 

 ルナが言葉を交わしていた死者の姿は、他人の目には映らない。

 しかしながら、三月ウサギのお茶会は父母の所在を訊ねることはしなかった。

 化粧台の方へと歩み寄り、そこにあった木椅子の背もたれを引っ掴んで、

 

「そうねぇ。私は謎かけの芋虫とは違うから、答えてあげてもいいのだけど……」

 

 悩むように言いながら引きずった。

 絨毯が、椅子との摩擦で厚みのある音を奏でる。

 

「ルールの説明もしなければいけないし、まずはそこに座って頂戴な。美味しい紅茶を淹れるから」

 

「ありがとう。あ、茶葉の場所はね――」

 

「ううん。大丈夫よ」

 

 言われるがままに腰を下ろすルナ。

 食堂の場所を伝えようとした言葉の先は、三月ウサギのお茶会によって遮られた。

 大丈夫、ということは場所を知っているということだろうか。

 言葉の真意を計ろうとするルナを裏切るように、三月ウサギのお茶会は左手を、まるで見えないティーカップを持つように握り、

 

「とぽとぽとぽ。……さぁ、これを飲んで?」

 

「これ、って。何も持っていないけど……」

 

 右手でティーポットを傾ける仕草をし、薄茶色の液体が注がれる水音を口で表現した。

 まるでパントマイムである。

 突然の奇行にルナの顔は引きつった。

 

 だがしかし、先ほど鏡の中に入りこんでしまう不思議体験をしたばかりなのだ。

 もしかしたら彼女は目に見えない紅茶を渡そうとしているのかもしれない。ルナはそう思い至って、おずおずと手を差し出し――

 

「もちろん、ここには紅茶なんて存在しないわよ。ポットもカップも嘘だもの」

 

 継げられた言葉を耳にした瞬間、引っ込めた。

 一体なんのつもりなのだろう。

 騙されかけた不甲斐ない自分への怒りも混ぜ込んで、責める意思を持ってキッと睨むも、三月ウサギのお茶会はくすくすと笑うばかりだった。

 

「じゃあ、次はこれを食べて。とっても甘いマカロンよ?」

 

「むー……何にもないじゃん。お姉さんはルナをからかっているの?」

 

 性懲りもなく続けられる奇行に、ルナはうんざりしていることを唸って示す。

 そんな不機嫌はどこ吹く風。三月ウサギのお茶会は手にした(ことになっている)マカロンを宙へと放ると、それを口でキャッチして咀嚼(そしゃく)した。

 舌のうえにとろける甘みに頬が緩む。そんな演技は見事なもので、実は本当に食べているのではないかと、ルナは少しだけ疑った。

 

「別にからかっているわけじゃないの。ルナちゃんは、こういった遊びを知っているかしら?」

 

 問いを投げ、彼女は見えない紅茶を立ったまますする。

 

「“ない”ものを“ある”ふりをして振る舞うこと。作り上げた設定を貼りつけて、数人で物語を紡ぐこと」

 

「……もしかして、おままごとのこと?」

 

「正解よ」

 

 椅子に座って行儀よくしているルナに、三月ウサギのお茶会がほほえんだ。

 

「おままごとは小さな子どもがする遊び。成長すれば誰しもがやらなくなるわ」

 

「どうして大人はやらないの?」

 

 それこそおままごとに興じるもっと幼い子どものように、ルナは自分で考えずに問いかけた。

 ルナは聡明な子である。少し考えたならば回答を用意できたことだろう。

 けれども思考を経ずに問うたのは何故だろう。

 彼女は口に出したあとに考えたけれど、“甘えたかったから”という単純な答えに辿りつくことはなかった。

 

 三月ウサギのお茶会は目を細め、見えないティーカップを鏡台に座らせる。

 

「大人は、自分のなかにもう一人の自分を作ってしまうからよ」

 

 少し難しい話になるわね、と彼女は前置いた。

 

「紅茶の代わりに唾液を飲む自分。茶菓の代わりに空を噛んで、そして美味しいと笑みを浮かべる自分……」

 

 指に付いた砂糖でも舐めとるように、三月ウサギのお茶会は指先を舐める。

 

「そんな姿を客観視するもう一人の自分(・・・・・・・)が、歳を重ねると出来てくるの。彼、ないし彼女は、常に論理的であろうとする。だから大人になると、無為な行動がたまらなく恥ずかしくなってしまうのね」

 

「……ルナは、子どものままがいいなぁ」

 

 ぼそりとルナがつぶやいた。

 膝うえに座らせていたぬいぐるみをしっかりと抱き、あいまいな笑みを浮かべている。

 貼りつけた笑みの裏に見え隠れしている感情の名を、恐怖という。ルナは、成長することによって何か(・・)が変わり、今の暮らしが失われてしまう可能性を恐れているのだ。

 

 少女は、幸せというものは薄氷の上に成り立つような危ういものだということを知っている。些細なきっかけで崩れてしまうものである、と。

 だからこそ、三月ウサギのお茶会が放った次の言葉は、少女にとってとても魅力的なものに聞こえた。 

 

「方法がないわけじゃないわ」

 

「え?」

 

「子どものままでいられる方法。……聞きたい?」

 

 ごくり、とルナは唾を呑んだ。

 大きなウサギ耳はしっかりとその音を拾い、動揺と期待を把握する。

 

「なら教えてあげる。自分をね、二つに分けて(・・・)しまえばいいのよ」

 

 三月ウサギのお茶会は右手の中指を、自分の正中線に沿って這わせながら続けた。

 

「心の内に生まれた自分を無かったことにすることはできないわ。硬貨の片面を削ったら使えなくなってしまうように、もう一人の自分を殺したなら、共に死んでしまうの」

 

「死んじゃったなら、ルナが連れて行ってあげられるよ?」

 

「違うわ。ここで言っているのは、肉体の死ではなくて心の死」

 

 ルナが青白い鬼火を、ぼっと噴き上げて死霊術師(ネクロマンサー)としての力を見せる。

 対する三月ウサギのお茶会は怯えたふうもなく、たしなめるように返した。

 

「ルナちゃんは謎かけの芋虫に、名前について聞いたんじゃない?」

 

「うん。えっとね? 芋虫さんに、ルナは誰なのかを訊かれて、ルナはルナだよって答えたんだけど、そういうことじゃないって言われて――」

 

 ルナはひとつひとつ、中階段でのやり取りを指折り数えながら回想する。

 口に出すのは自分が思い出すための作業であり、誰かに聞かせるためのものではない。

 けれども三月ウサギのお茶会は、それはそれは楽しそうに何度も頷き、つたない少女の話に聞き入っていた。

 

「あ! 名前は、区切り、分かつものだって言ってた!」

 

 やがて答えに行き着いたルナは、ばっと顔を上げた。

 丸い黄金色の瞳が鬼火を受けて輝く。

 

「そう。だからね、自分の中に生まれたもう一人の自分に、別の名前を与えてしまえばいいの」

 

「名前を? たったそれだけ?」

 

「ええ、そうすれば大人の自分は区切られる。永遠に子どものままでいられるわ」

 

 信じられない、と訊ね返すルナに、三月ウサギのお茶会は無感動に言い放った。

 簡素な響き、飾らない言葉が、逆に説得力を強めていた。

 

「でもね。新しい名前を付けられた自分は、もう自分ではなくなってしまうのよ」

 

 わかるかしら、と継げて問いながら、女性はクローゼットまで歩み寄って背を預ける。

 

「自分の一部が、自分のものではなくなってしまうの」

 

「…………!」

 

 白い耳を追って動いた視線が、大きなクローゼットへと結ばれたとき。

 そのとき、ルナの頭蓋に殴られたような衝撃がはしった。

 視界がチカチカと白く霞む。

 忘れていた過去の感情が訴えかけているような感覚。

 強い痛みが、ひとつの仮説を導き出す。

 

「……もしかして、ルナは自分に名前をつけちゃったのかな? だから色んなことが思い出せないのかな?」

 

「それを私の口から告げることはできないわ」

 

 三月ウサギのお茶会はにべもなく(・・・・・)回答を断るが、ルナはそれを以て仮説の正しきを確信した。

 

 ――沈黙は金、雄弁は銀というけれど、金も銀も意味はない。

 

 それは眼前の女性の言である。この場ではどちらも肯定に過ぎない、とも彼女は言っていた。

 

「……少し、おしゃべりが過ぎてしまったかしらね。ご両親への回答は会話に混ぜておいたから、きっと伝わっているはずよ」

 

 クローゼットに背を預けていた三月ウサギのお茶会が、「さて!」という明るい声とともに両手を叩いた。

 間をあけず、乾いた響きに連続するように言葉を継げる。

 

「それじゃあ、いい加減に始めましょうか。三月ウサギのお茶会とあなたの遊び――鏡合わせの間違い正しを!」

 

 

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