天の美禄   作:酒とっ!女ぁ!あと金ぇ!

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(短編なのに続いて)すまんな。


少年の日のテネシーウィスキー

鳥の囀りを目覚ましに、山崎(やまざき)(ひびき)は覚醒した。彼の住まう地にスズメは分布しておらず、聞こえてくるのは『変な鳥』の愛称で親しまれている小鳥の鳴き声である。世に言う朝チュンという物なのだが、鳴き声はチュンではなく変な鳴き声なので、充実感で満たされる素晴らしい朝かどうかは微妙なところである。

 

殊更、この青年店主にとって今日という日の目覚めは、お世辞にも素晴らしい朝とは言いがたい、陰鬱とした物であった。

 

「やべぇよ……やべぇよ……」

 

未だ自分の隣で寝静まり、なんとも艶めかしい寝息を立てる美しい女性を一瞥した響は、両手で己の顔を覆う。

 

「いやさ、頭が悪いとかそういう領域超えちゃってるからこれ。俺は馬鹿なの?死ぬの?いや死ねよ。発情期の猿の方がよっぽど理性あるだろこれ」

 

酒を飲ませて女をこます事など、この青年店主にとっては日常茶飯事だった。根っからの女好きである彼は、自分の店に好みの女性が来る度、常連のおっさんどもを追い出してでも口説き落としてきた。その守備範囲たるや、節操が無いという表現では生易しすぎた。若い女は言わずもがな、美人であれば年上もいける口で、既婚者にまで手を出す救いようのなさだった。相手の男に殺されそうになる事などしょっちゅうで、その度に響は二度と繰り返すまいと猛省し、固く決意するのだが、基本的に一晩寝れば忘れ去ってしまう暗愚の極みに達していた。

 

今回も数ある事案の一つに過ぎないのだが、切り替えていけの精神が通用するような相手ではなかった。

 

枝毛の一つもないプラチナブロンドのロングヘアー。伏せられた長いまつ毛に、扇情的な泣きぼくろ。白磁のような美肌に、あふれんばかりの胸部……響が好みそうな魔性の女ではあるが、彼女はハウビー食品のCOO……問題しかなかった。

 

「ついこの前もなつめに手ぇ出して反省してたじゃん。何やってんの俺。どんだけカレーの女王様が好きなんだよ。二人ともくっそエロのはわかるけどさ、超えちゃいけない一線ってあるじゃん?じゃあ、お前が普段からつまみ食いしてる人妻は超えても良い一線なのかって言われると、それはまあ置いといて、ハウビー食品のCEOとCOOはいかんでしょ。そして心のどこかで姉妹丼を期待している俺は三回くらい死ね」

 

おりえが"Heaven's gift"に来店した動機として、なつめによる何らかのクチコミが起因となっている事は、響の想像に難くなかった。そして、学習能力皆無である響の悪い癖がまたしても出てしまったという事だ。ただ、おりえに手を出すのは、なつめの時以上によろしくない状況を招く事を、響は予見していた。

 

おりえはなつめと並び『カレーの女王様』として名を馳せているが、優秀な人材の獲得に余念が無い事でおりえは有名だった。これから才能を開花させるであろう在学生たちはもちろん、現役で活躍している著名人、果てには一流企業の幹部をヘッドハントするほどである。こうして関係を持ってしまった以上、響がおりえの熱烈なラヴコールを受ける事は確定した未来となった。

 

響は目の前の双丘に顔を(うず)めた。

 

宗教改革で有名なあのマルティン・ルターは言った。酒と女と歌を愛さぬ者は、生涯馬鹿で終わると。響はそのありがたいお言葉を免罪符に、考える事をやめた。腐敗した免罪符のあり方を問いただしたルターからしてみれば、何とも冒涜的な現実逃避であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

吹き付ける暴風が店の扉を軋ませる豪雨の夜、響は退屈そうに小説を読んでいた。こうも天候が荒れると、さすがのアル中たちも家の中で大人しくするため、連日連夜客が殺到する"Heaven's gift"ですら閑古鳥が鳴く。そんな状況下でありながら、来客を知らせるベルが鳴ったのは、何番煎じか分からないような叙述トリックを使われイラついた響が小説をゴミ箱にブチ込んだのとほぼ同時だった。

 

客はオールバックの黒髪に白のメッシュを入れた、全身黒ずくめの細身の男性だ。気品を感じる佇まいの男はアジア系の顔立ちをしており、自分と同じ日本人ではないかと響はあたりをつける。落雷を伴う程の悪天候の中、このバーに訪れた男性はベッタベタに濡れていた。

 

この時点で既に、この来客はやべーやつだと察してしまう響であったが、雷雨を厭わずわざわざ来店してくれた客を無碍にするわけにもいかない。まして、一見さんこそ大切にする節がある響は、新品のタオルを男性に差し出す。

 

「Heaven's giftへようこそ。お一人ですか?」

 

響が上流階級のイギリス英語で問いかけると、すぶ濡れの来客は日本語で答えた。

 

「君は山崎響くん……で、間違いないね?」

 

「はい、そうですが……私の事をご存知で?」

 

「いや、僕が君の存在を知ったのはつい最近の事さ。……そうか。まさか、あの山崎が子供を作っていたとはね。あの血筋が世に憚るだなんて、なんとも嘆かわしい悪夢だ」

 

会った事もない人物に、遺伝子レベルで悪夢呼ばわりされた事に納得のいかない響であったが、いつまでも客に立ち話をさせるのはナンセンス。続きはこちらで…と、男性客をカウンターへと導く。

 

「ご注文は?」

 

「ワインは置いてあるかな?」

 

「もちろんです」

 

注文を承った響が瓶を下ろす。そのラベルには『PETRVS』の文字があしらわれている。

 

「……何の躊躇いもなくペトリュスを出すだなんて、恐ろしいバーテンダーがいたものだ。君が山崎の血を引いている事を疑うのが難しくなった」

 

シャトー・ペトリュス。僅か49エーカーのブドウ畑で栽培される、ボルドー右岸ではお馴染みのメルローから作られるそれは、非常に希少な高級ワインで、年間で多くても2500本ほどしか生産されない。等級、希少性、価格……あらゆる方向から鑑みても、おいそれと封を切れるような代物ではない事は歴然。にも関わらず響がこのボトルを下ろしたのは、ひとえにこの来客が庶民という立場からかけ離れた財力を有しており、ワインを嗜む舌が肥えている事を看破している事実を暗に示していた。

 

響はボトルの底を掴み上げ、ワイングラスにペトリュスを少しだけ注ぐ。簡単な礼を述べた男性客は慣れた手つきでステムを持つと、鋭い目でワインの色を確かめる。反時計回りにグラスを揺らし、その香りに瑕疵がない事を確認すると、一旦グラスをカウンターに戻す。再びペトリュスが注がれるのを待ち、ようやく男性客はグラスに口をつける。

 

「おお……このメルローの甘く優しい香り……シルクのような舌触り……ペトリュスの中でもより美しい出来上がりだ」

 

ワインを飲み慣れているであろうこの男性客を唸らせる程だ。品質そのものの純粋な評価だけで一躍世界最高峰に登りつめたシンデレラワインは格別なのだろう。

 

「当たり年と言われている2005年のラベルです。ワインを知る人ほど、その極上の味わいを堪能できるでしょう」

 

男性客は費やせるだけの時間をかけて、ゆっくりとペトリュスを口の中で転がす。ワイン愛好家達が血眼になって争奪戦を繰り広げるほどの味を、今この瞬間、彼だけの物にしているのだ。その背徳的なまでの独占欲を、着実に満たしてゆく。

 

「お客様は私の父の事をご存知のようですが……」

 

「気になるのかい?誠に遺憾かつ不名誉な事だが、僕と山崎とは同じ学び舎を共にした仲だ」

 

先ほどから男性客の言葉の中に、響の父に対する嫌悪感がふんだんに散りばめられているが、響の父は敵が多い人種である事を響は認知していたので、特に突っ込む事は無かった。

 

薙切(なきり)(あざみ)という名を耳にした事はないかな?」

 

「……それがあなたの名前ですか?薙切と言うと、あの遠月の……」

 

「そう、僕は薙切仙左衛門の婿養子にあたるね。もっとも、色々とあって薙切からは追放……もとい、勘当されているが」

 

自重する風でもなくそう答える男性客……薙切薊は、不敵な笑みを携え、ワイングラスを空にする。

 

薙切仙左衛門と言えば、一瞬でも在籍した履歴があるだけで料理人としての箔がつくとされている『遠月茶寮料理學園』の総帥として有名な男だ。遠月学園は料理に携わる界隈において切っても切れない関係にあり、彼がいかに大きな存在であるかは皆まで言う必要はないだろう。

 

「薙切の家ともなると、縁を切るという意味合いが、一般的なそれとは大きく乖離しているでしょう。関係を修復しようとは思わないのですか?」

 

「互いが『美』としているものの定義が根本的に違えていて、調和を望めない程の軋轢がある。僕の理念を曲げなければ溝を埋めれないのならば、僕は復縁を望んだりはしないよ」

 

澄ました顔で二杯目のグラスに口をつける薊。しかしこの青年バーテンダー……山崎響には、その姿が酷く滑稽に映って見えた。

 

 

「そうですか。その割には、満たされていない顔をされてますよ」

 

 

酒を飲んでいる人間を相手にしたら、彼の右に出る者はいない。

 

「……なぜ、君はそう思う」

 

「薊さん、あなたは自分の美しくない部分を見た事が無いでしょう?」

 

「…………」

 

「恐らくあなたは、常にあなたの理想であり続けようとするストイックな方だ。薊さんは一度、盛大に酔っ払う必要がある。そのような美酒を嗜むだけでは、決して会う事のできない自分に……会ってみたくはありませんか?」

 

響は無造作に一本の角瓶を引っ掴むと、氷も何も入れていないロックグラスに、鼻の奥を焼き切るような強い酒臭さを放つ液体を並々注いでいく。

 

「……何だね、それは」

 

「ノンエイジのジャックダニエル。その辺のコンビニで買えるようなテネシーウイスキーですよ」

 

テネシーウイスキーはサトウカエデの炭で濾過をするという、独特の工程が挟まれるバーボンで、はっきりとした強いクセを持つ事が最大の特徴であるウイスキーだ。

 

訝しむような表情で薊がジャックダニエルを口にすると、その硬い表現をさらに顰める。

 

「品のカケラもない。舌が痺れる。まるで泥水と工業用アルコールのブレンドでも飲んでいるかのような気分だ」

 

「まるで詩人ですね。酷い言われようだ。しかし、妥当の反応です。私が初めてジャックダニエルを飲んだ時も、焼き焦げた鉛筆にしゃぶりついているかのような気分でしたからね。それでも、当時ウイスキーに触り始めたばかりの私は、馬鹿みたいに格好をつけて飲んでました。ジャックダニエルはそういうお酒です」

 

響の言うところが何一つとして理解できない薊は、黙って続きを促す。

 

「『クセが強い』……という、ウイスキーを知る人たちの受け売りをバカのひとつ覚えのように連呼していました。勿論、当時は何ひとつジャックダニエルの本質など理解しておらず、ただの格好つけで言っていたに過ぎません。今思い返しても恥ずかしくなるような過去ですが、それこそがジャックダニエルの味です。大人に憧れ、別に美味しくもない酒を盲信的に飲み続けていた少年だった頃があったからこそ……この『クセの強さ』がたまに恋しくなる」

 

響は、かつて少年だった頃にそうしたように、ロックグラスいっぱいに注がれたジャックダニエルを、最大限に格好つけて呷る。口のなかで暴れ回る強烈な風味と、焼けるようなアルコールの強さを、ただただ格好つけることで、押さえつける。その佇まいは、品位も何もないものであったが、バーボンを知らぬ薊の目には、とても男臭く……そして、格好良くすら見えた。

 

己の趣にそぐわぬと理解しながらも、薊は自らが酷評を下したジャックダニエルを煽る。しかし、響のようにこの『クセの強さ』を愉しむことなどできはしないし、喉を通すのが苦痛でしかなかった。

 

慣れない酒を飲み、慣れない価値観に触れ、慣れない自分を演出しようと試みる薊は、気づかぬうちに自分をコントロールする為の感覚を失いつつあった。そんな薊に追い打ちをかけるかの如く、ジャックダニエルのきついアルコールが薊を静かに蝕んでいく。その鉄仮面のような薄い表情を柄にもなく朱に染め始めている薊の有り様から、先ほどまで彼が悠長にペトリュスを嗜んでいたとは、一体誰が想像できようか。

 

「……僕には一人の愛娘がいる」

 

響に訊かれたわけでもないのに、薊はポツポツと言葉を紡ぎ始めた。その声に覇気はなく、物憂げにグラスに視線を落とすその姿は、ひどく弱々しく見えた。

 

「美しく、素直で、才能に満ち溢れた、自慢の娘だ。この世に存在する、何物にも取って替える事のできない、僕にとって一番大切な存在だ。だから、彼女がこの世の誰よりも幸せになる事を、この世の誰よりも願っていた」

 

薊のグラスを握る力が徐々に強まっていく。

 

「響くん、僕たち人類に与えられた最大の幸福は何だと思う?」

 

「酒と女と金ですかね」

 

「山崎の息子らしい実に素晴らしい答えだ。零点だ。真の幸福とはただひとつ……真の美食を追求する事。僕たちは間違った物を食してはいけない。真に美しいとされる食を知り、見極め、その手にする事ができない人間は、紛れもなく人生に大きな損失を抱える事になり、その損失に気づく事なく死んでゆくのだ。僕の可愛いえりなに……そんな道を歩ませるわけにはいかない。だから僕は……僕はッ!!培ってきた全てをえりなに捧げてきたッ!」

 

優雅に、上品に、完璧にあろうとしてきた薊が、慟哭するかのように声を荒げる。彼のロックグラスがカウンターに叩きつけられ、僅かに残っていたジャックダニエルが溢れる。響がそれを咎める事はなく、黙って薊のグラスにジャックダニエルを注いでゆく。

 

仙左衛門(お父さん)は言った。『貴様がした事は教育ではない、洗脳だ』と。これ以上の侮辱を……これ以上の屈辱を、僕は知らない。これ以上の……これ以上の屈辱などあるわけがない!たった一人の娘を洗脳しようとする狂人なんて、いるわけがないだろう!」

 

薊の声は震えていた。彼は涙しているのだ。業火の激情に蹂躙された彼は、顔を真っ赤に染め、酒臭い呼吸を肩でして、今まで外に出せないでいた全てを爆発させていた。

 

「薊さん、今のあなたは最高に格好悪いです。ですが、そんな今のあなたは、最高にジャックダニエルが似合っている」

 

響は偉そうにそんな事を宣い、ストレートのジャックダニエルを何食わぬ顔で飲み干す。響のその姿に、薊は自分でも説明がつかないほどの羨望と嫉妬を抱いてしまう。

 

「薊さんは別段、取り返しのつかない状況にあるわけではない。ただあなたは一つの勘違いをして、一つの失敗をしただけです」

 

「失敗……だと?」

 

「あなたの御令嬢は、あなたの娘であると同時に一人の女です。女の扱い方がなってないんですよ、あなたは。女にとっての幸せとは誰かに導かれる事ではなく、誰かに受け入れてもらえる事です。特別な事は何もしなくても良い。女という生き物はどこか冷静で理知的に見えますが、基本的には感情に生きています。変に小難しい事を考える必要などなく、ただ隣にいて、ただ頷いてあげるだけで良いんですよ」

 

二十にも満たないような子供が、子を持つ大人に女を語るのか……と、嘲笑うことなど、今の薊にはできなかった。

 

「例えば、あなたの御令嬢が『友達と喧嘩をした』と、泣いていたとしましょう。男という生き物は、愛している相手には最良の選択をさせ、最良の道を歩かせたくなるものです。あなたのように、相手が幸せになる事を強く願っているから。しかし、それは間違いです。『お前のこういう言動が良くなかった』とか『友達の方にもこういう問題がある』とか『この発言について謝れば仲直りできる』とか、論理的な説明も具体的な解決策も必要ありません。そんなものは他の家族や学校の先生にでも言わせておけば良いのです。それらの言葉は後々の娘の為にはなりますが、今の娘の幸せにはなりません。あなたは父親という特権を行使し、美味しいところだけ持っていけば良い。娘が欲している言葉を投げかけてやるだけの簡単なお仕事です。ただ一言『大好きな友達にそんな事をされて、辛かったね』『自分の言いたい事が伝わらなくて、悔しかったね』『大好きな友達だから、明日には仲直りしたいね』と、ただ共感してあげるだけで、あなたは娘にとって居なくてはならない存在だと無意識のうちに認知してくれるはずだ」

 

「君はふざけているのか?そんな事をしたところで、娘の抱えている問題など何も解決できない。そんなものが娘の幸せと呼べるのか?」

 

「男の涙と、女の涙を一緒にするのは言語道断です。女が男に弱さを見せる時は、解決して欲しい時ではありません。支えになって欲しい時です。さっきも言いましたが、女は感情に生きる生き物です。理屈を聞いて欲しいんじゃなくて、感情を受け入れて欲しいんです。女を笑顔にしたければ、女の全てを男が受け入れてあげる必要がある」

 

響はおもむろにダーツの矢を一本つまみ上げると、店の一角に設えられたダーツボードめがけて投擲する。綺麗なジャイロ回転をしながら直進し、ポイントは20のトリプルを貫く。

 

「美食で幸せを掴みとる……とても素敵な考えではありませんか。そんな薊さんがするべき事は至ってシンプル、御令嬢にあなたの料理を振る舞い、その感想をただ笑顔であなたが聞いてあげる事。そして、御令嬢が作った料理を、ただ笑顔であなたが食べてあげる事です。何が美味しくて、何が不味いのか……など、あなたが教えるものではなく、御令嬢が勝手に見い出すものです。あなたはそれに、ただ頷いてあげるだけでいい」

 

響は別の矢を手に取ると薊に差し出す。薊はなんとはなしにそれを投げるが、酩酊状態にある彼の投擲は危なっかしいほどに不安で、ダーツボードから大きく外れて店の内壁に突き刺さる。

 

「薊さん……あなたの隣にいた御令嬢は、笑顔でしたか?」

 

薊は思い返す。えりなが笑っているのを見たのはいつが最後だっただろうか……

 

「……ああ。僕が美食について教え始める前までは、ね」

 

「そうですか。生憎と私は子を育てた事が無いので、親としてどうなのかを論ずる事はできませんが、男として失格だと断言します。『(うれしい)』という漢字は『女を喜ばせる』と書きます。女を笑顔にできないような男は、自分が幸せになれません。自分も幸せにできないような男が、女を幸せにできると思いますか?少なくとも、今のあなたには厳しいかと私は思いますよ」

 

薊はただただ項垂れ、ジャックダニエルに溺れる。自分の思想を貫く為なら、仙左衛門の義絶すらも厭わないと豪語していた威勢など、見る影もない。酔い潰れ、未成年に男のなんたるかを叩き込まれ、情けなく涙を流す姿は、お世辞にも良い歳をした大人のあり方とは言えまい。しかし、響がそれを馬鹿にする事はなく、もっと酔い潰れろと言わんばかりにジャックダニエルを注ぎ続けた。

 

「響くん……僕はこれから、どうすれば良い?ただ一つを追い続けた僕には、他の道など見えていない」

 

「仙左衛門さんと和解すれば良いだけでしょう。男が女を理解する事は絶対にできませんが、男が男を理解するのは中学校の数学よりも簡単です。その為の場所と酒ならいくらでも提供しますよ」

 

薊は不思議だった。仙左衛門と和解する事など、この店に入るまでこれっぽっちも考えていなかったのに、すでに彼の頭の中はそれ一色だった。

 

「そして、薊さんが必ずしなくてはならない事は、御令嬢に謝る事……これは仙左衛門さんと和解するより簡単な事です。全ての女性は程度に違いこそあれど、慈母のように全てを抱擁する優しさを持ち合わせています。理念もプライドも何もかもかなぐり捨てて平謝りすれば、大抵の事は絶対に許してくれます。そうでなければ、今ごろ私は三桁近く殺されているはずですから」

 

唐突に響から放たれた、清々しいほどのクズ発言と自虐ネタを前に、薊は思わず吹き出してしまう。この店に来てから初めての笑顔……いや、長らく薊が見せる事のなかった笑顔だった。

 

「やはり君は山崎の息子だ。クズ以下の匂いがプンプンと漂っている」

 

「ほどほどにしておかないと、請求を水増しされますよ」

 

「申し訳ないが、ペトリュスの代金しか払わないよ。こんなクソ不味い酒を勝手に入れるだなんて、とんだバーテンダーがいたものだ」

 

響は意地の悪い笑みを浮かべ、ジャックダニエルの空瓶をこれ見よがしに持ち上げると、薊が不味いと言いながらも飲み干した事を無言で主張する。

 

()()()払わなくも良いですよ。きっと、いつかあなたはこの味が無性に恋しくなる」

 

「ふん……口直しがしたい。もう一度ペトリュスをいれて頂きたい」

 

仏頂面になった薊が注文をつけると、手のかかる奴だと言わんばかりの表情で響がワイングラスを取り出す。

 

「……薊さんの御令嬢は、お美しいのですか?」

 

「安心したまえ。君をえりなとは絶対に会わせない。絶対にだ。君がえりなに手を出したら命は無いと思え。必ず殺す」

 

「これは手厳しい」

 

響は小さく笑い、黙ってグラスを拭き始める。薊も目を伏せ、ワインを嗜む事に意識を集中させる。

 

ペトリュスの優雅な味わいと、店内に流れる軽快なジャズピアノのBGMは、完全にミスマッチだった。だが、このなんとも言えぬ不恰好さに、薊は触れた事のない世界を感じた。

 

 

それは、かつて薊が少年だった頃に漠然と思い描いていた『大人の男』に近いものなのかもしれない。それは薊にも分からないものでありながら、薊だけが持っている感性だった。

 

 

 

酒は天の美禄なり。

 

 

 

少年は大人に憧れることで酒を知りたがり、大人は酒を知ることで少年の日を思い出すのだった。




『ペトリュス』
作者はワインについて詳しくないので割愛。ワインに精通してる人は本当にすごいと思う(小並感)

『ジャックダニエル』
テネシーウィスキー。ローソンとかで売ってたりする。格好つけてジャックダニエルはバーボンじゃないと言い張るウィスキー初心者が定期的に現れるが、その道を通ってきたウィスキー愛好家は本当に美味しいウィスキーも知ってるし、不味いウィスキーも格好良く飲んでるイメージ。

『薙切薊』
堂島さんに匹敵する愛すべきおっさん。ピッチャーやらせたら普通にツーシームとかフォークとかスライダーとか投げてきそう(偏見)

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