天の美禄   作:酒とっ!女ぁ!あと金ぇ!

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番外編。響が店を出て悪い事考えるお話。


禁断のエッグノッグ

そこは日本の某所。

 

人気のない薄暗いコインパーキングに、一台の黒塗りセダンが入車してくる。素人目から見ても高級車だと分かってしまうそれは『メルセデス・ベンツ S400h』のラグジュアリーパッケージで、スモークフィルムの貼られた車窓が後部座席にいる人物を完全に隠蔽してしまう。

 

開かれた後部ドアから、一人の男が降車する。中学を卒業したての少年と同じ齢をしていながらも、その身なりと大人びた雰囲気が年齢を曖昧にする。

 

「ありがとう滋乃(しげの)。素敵な夜だったよ」

 

彼が甘い笑顔を向ける先には、艶やかな黒髪を(かんざし)で留めた和服美人が頰を朱に染めている。彼女は有名な高級料亭『くら季』の会長であり、自らの頰にあてがった左手には白銀の結婚指輪が輝いている。

 

「響は辛気臭い男やわぁ……イッコも()いひんクセに、ふらっと現れて……あないにウチを求めてきはる」

 

「滋乃は俺の女じゃないからね」

 

澄ました顔で響が放った言葉は、滋乃の背徳感をどうしようもない程に刺激する。かつては勝っていた罪悪感など、影も形もない。欲望を抑える術を忘れつつある彼女は堪らずといった様子で車を飛び出し、響へと抱きつく。

 

「滋乃、俺の香水の匂いが付くぞ」

 

「別にウチは、響の女になってもかまへんよ?」

 

滋乃は響の制止に歯向かうが如く、擦り付けるように体を密着させ、響の唇を奪う。人気が少ないとは言え、白昼堂々と不倫劇を繰り広げる滋乃は、そのリスクにすら得も言われぬ快楽を見いだしてしまっている。

 

罪の味を占めた大人の色気で、美貌で、身体で、匂いで、体温で、言動で……男を魅了させんと絡みついてゆく。

 

「悪い女だ。もっと君が欲しくなってしまう」

 

あんじょう(上手に)言わはるね。あかんのはお互い様や。ほな、気ぃつけてなぁ響。ウチはおたくさんの事……ずっと待ってるで」

 

満たされた表情の滋乃を乗せたSクラスが去ると、パーキングには響だけが残された。彼の顔に笑みはなく、引き攣った頰に一筋の冷や汗が流れ落ちる。

 

「人妻って怖いわ」

 

本気で命の危険を感じ始めた響は深く反省をしたが、後悔はしていなかったし、次に滋乃と会える日をウッキウキで楽しみにしていた。

 

しかし、此度に響が来日した理由とは、滋乃と会う事が本命ではなかった。滋乃に送ってもらったこの地にこそ本命の目的があるのだ。

 

 

「待ってろよ、俺の可愛い子猫たち」

 

 

彼が悪い笑顔を向ける先には、広大な敷地にそびえ立つ、規格外なまでに大きな学園があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「不味い!」

 

 

汚れ一つない純白のコックコートを見に纏った一人の少女が、怒りをぶつけるかのような叱責とともに、牡蠣雑炊(かきぞうすい)を目の前にいる男へ叩きつける。

 

「あっづ!?」

 

高温の液体を頭から被った男は、堪らずのたうち回る。そんな男に同情の眼差しを向ける周囲の者らの頭上にも、同様に汁椀が叩きつけられていた。

 

「あなた方のグループが事業拡大に伴い、より多くの顧客に対応するための効率化を図っている事は耳にしています。だからと言って……」

 

彼女に品を出した料理人たちは、一斉に震え上がる。美しい少女の底冷えするような鋭い目は、彼が料理人としての全てを失う事を如実に物語っていた。

 

「こんな品で私の舌を汚す事が、許されると思って?」

 

彼ら口々に謝罪の言葉を叫び、地に頭を擦り付けような土下座をする。しかし、彼らの品に酷評を下した美しい金髪の少女……薙切えりなが彼らに再び視線を向ける事は終ぞなかった。

 

「緋沙子、次の予定は?」

 

緋沙子と呼ばれたブレザーの少女は、精錬されたキビキビとした動作で書類をえりなへ差し出す。

 

「こちらです」

 

「編入試験の試験官……ふん、十傑に入ると面倒な仕事が増えるものね。着替えを済ませたら向かうわ」

 

えりなは辟易するようにため息を吐く。編入生の試験と言う、学園にとって非常に大事な役割の一端を生徒がとり持つなど、通常ならば考えられぬ事。しかし、この遠月茶寮料理學園は料理こそが全て。料理で数多くの生徒をさし置き、のしあがった極小数の生徒に決定権が与えられているのだ。

 

「私の『舌』ひとつで、料理人の全てなど手に取るように分かります。試験なんてすぐに終わるわ」

 

えりなの言葉に頷く緋沙子の背筋を、ぞくりとする何かが走る。それは、彼女が抱いているえりなに対する慕情の現れであり、これから編入試験を受けるであろう者たちに対する同情の現れだった。

 

 

 

 

 

 

 

幸平創真はらしくもなく、ただならぬ雰囲気に気圧されていた。

 

「全然イメージと違うんだけど」

 

彼は、自身にとっての越えるべき壁である父に『その学園で生き残れないようじゃあ、俺を越えるなんて笑い話だな』と焚き付けられ、この遠月茶寮料理學園への編入へと踏み出したのだが、彼が漠然と思い描いていたものとは、この遠月学園はかけ離れていたのだ。

 

「今にもポックリ逝きそうなおじいちゃんが、えっちらおっちら教えてくるような奴だと思ってたけど……とんでもない所に来ちまったな」

 

編入試験会場へ続く道を歩く創真の周りには、いかにも高そうな黒塗りの輸入車が彼方此方に停まっている。編入試験を受けに来たと思しき同年代の少年たち隣には、例外なく執事服の男が立っており、彼らが良いトコ出のおぼっちゃまである事を明確にしていた。

 

「エリート校だとは聞いてはいたけど……なんか違う世界に来たみたいだ」

 

どれだけ見渡しても、単身でこの学園に乗り込んで来たのは創真だけである。つきまとう場違い感を振り払うように、創真は足早に試験会場を目指す。が、それが災いして側にあったベンチを蹴ってしまう。ベンチには自分と同じ編入生と思われる少年が腰掛けており、執事に紅茶を淹れてもらっている所だった。

 

「ごめん、蹴っちゃった」

 

「気にしなくて良いよ。君も編入希望なんだね?」

 

余裕に満ち溢れた笑顔で創真の過失を許容した少年は、自分の隣に座るよう促す。

 

「僕は二階堂佳明。家はフランス料理店を営んでいるよ」

 

創真の隙がデカすぎたのか、訊いてもないのに少年は自分語りを交えて自己紹介をする。遠月への編入を志す者が、彼のように実家が料理店であるにのはありふれた事であった。将来が約束されていてなお、彼らがこの学園への編入を志す事に、遠月と言う学園が料理界にもたらす影響力の強さが察せられる事であろう。

 

「奇遇だな!俺ん家も料理屋やってんだ。『ゆきひら』て言うんだけど」

 

「ゆきひら……?聞いたことがないな。料亭さんかな?」

 

「下町にある定食屋なんだけ……」

 

創真が言いきるより先に、笑顔を消した二階堂にベンチから蹴り落とされてしまう。

 

「低俗な庶民が……この僕と並んですわるなぁあああ!」

 

二階堂がヒステリックに叫ぶと、呆然とした表情で横たわる創真に蹴りを加える。それを制止する者はおらず、二階堂に同調するようにして創真を嘲笑う。

 

「君のような大衆食堂の庶民風情が来て良い場所じゃないんだよ、この遠月は!」

 

全国展開している和食チェーン店の跡取りや、関東エリアで幅を利かせている大問屋の倅……創真の周りにいる編入希望生は皆、料理業界のサラブレッドだと自負してやまない、プライドの塊でできている者たちばかりだった。

 

だが、創真の父が放った言葉が創真の頭から片時も離れず、彼の不屈の闘志に火をつける。

 

(食った事もねぇのにゆきひら馬鹿にしやがって!まだ入学すらしてねぇのにこんな所で立ち止まってられるかよ。編入試験、絶対に受かってやる……!)

 

決意に燃える創真が、へっぴり腰で蹴りを加えてくる二階堂を掴み上げようとしたその時、甘すぎない爽やかな香りが、彼の鼻腔をくすぐった。顔をあげると、周りの編入希望生とは比較にならないほどスーツを着こなした男が、創真を遮るようにして二階堂の胸倉を掴み上げていた。

 

「砂埃たてるの、止めてくれないか?このスーツはアリシアからの……いやセシリアか?エルシーだったかもしれん。………とにかく、クソ高いスーツなんだ。汚してくれるなクソッタレが」

 

「貴様!坊っちゃんを離せ!」

 

執事風の男が悲痛の叫び声をあげると、ようやく男は二階堂を離す。今まで狼藉を加えられたことのない温室育ちの二階堂は、泡を吹いて気絶していた。

 

「立てるか?」

 

男は、唖然とした表情で見上げる創真に手を差し伸べる。その手首には高級腕時計が巻かれていたが、嫌みっぽさを出さないほど様になっていた。

 

「悪いな、なんか助けてもらって。あ、俺幸平創真な。お前は?」

 

「男の名前を訊く労力があるなら、女の一人や二人でも口説いてこい。幸平も編入試験に来たのか?」

 

「ああ。なんか高そうな服着てるけど、お前も良いトコ育ちの坊ちゃんなのか?」

 

「片田舎で時間を持て余している、しがないバーテンダーだ」

 

創真と歳は変わらないはずなのに、バーを営んでいるとこの男は言った。少なくとも、日本国内ではなく、海外に店を構えているのだろうと創真は察する。海外からもわざわざ編入を希望する人がいるという事実に、またしても遠月学園の存在の大きさに驚きを感じずにはいられなかった。

 

「いやー、いかにも金持ちのエリートですって顔した奴ばっかでアウェイ感あったんだよね。俺は親父に言われたからだけど、お前はなんでわざわざ遠月まで来たの?」

 

男の境遇に親近感を覚えた創真は、いつの間にかすぐ目の前まで来ている試験会場に向かって、男と並び歩く。

 

「遠月には可愛い女の子が沢山いるって聞いたから」

 

「マジで何しに来たのお前?」

 

本気で訳が分からない創真だったが、試験会場に辿り着いた今、これ以上の私語は望めそうになかった。

 

試験会場には数多くの編入希望生で溢れており、期待と不安の入り混じった緊迫した空気に包まれている。彼らの落ち着かない心の現れか、絶えず室内はざわついていたのだが、一瞬にして彼らは噤み、異常とも呼べる静寂が空間を支配した。

 

「なんだ?急に静かになって……」

 

不思議に思う創真だったが、編入希望生の視線がある一点に定められている事に気づく。そちらを見やれば、今しがた入室して来たばかりと思われる、金髪の少女の姿があった。彼女は憮然とした表情で仁王立ちをしており、その態度は慇懃無礼極まりないものであった。

 

(制服を着た女の子……?まさか、遠月の生徒か?)

 

なんで在校生がこんな所に……と言う、創真の疑問を打ち砕くようにして、金髪の少女は静まり帰った室内に言葉を響かせた。

 

 

「本日の編入試験を一任されました、薙切えりなと申します」

 

 

室内は再び騒然とし始めた。

 

「薙切えりなって、あの遠月総帥の実孫の……」

 

「嘘だろ……なんで『神の舌』がこんな所に……!」

 

「やべぇよ……やべぇよ……」

 

「薊め、こんなに可愛い子を俺から隠そうとしていたとは……次会ったら殺す」

 

試験官が名乗ると同時、会場に絶望の色が広がってゆく。誰からともなく、呪詛のようなつぶやきをブツブツとこぼし始めたのだ。

 

「な、なあ……お前もあの薙切ってやつ知ってるの?」

 

周りの反応に戸惑いを隠せない創真が、先ほど助けてくれた男に問いかけると、男は険しい表情で首を振る。

 

「知らなかったから怒っているんだろうが」

 

「いや、なんで怒ってんの?」

 

創真の混乱が悪化しただけであった。

 

「緋沙子、入試課からの通達は?」

 

薙切えりななる少女が隣にいる同じ制服の少女に問いかけると、彼女は編入試験の要項を読み上げていく。

 

「まず始めに10人単位で集団面接を行い、そのあと3品ほど調理実技を実施します。それを通過した者から……」

 

「……面倒ね。調理台をここに!」

 

緋沙子の声を遮ったえりなは、調理台を準備するよう命じる。程なくして運び込まれた食材の山から、えりなは鶏卵を一つ掴み上げる。

 

「卵をメインに、料理を一品作りなさい。私の『神の舌』を唸らせた者に、この遠月学園の編入を認めます」

 

えりなの言葉に、思わず創真は小さくガッツポーズをする。堅苦しい面接や筆記などを煩わしく思っていた彼にとって、願ってもいない展開だった。しかし……

 

「なお、今から1分間だけ受験の取りやめを認めましょう」

 

えりなのその一言を皮切りに、編入希望生たちは転がるように逃げ始めたのだ。

 

「えぇ!?なんでこいつら逃げてんの!?」

 

先程まで散々創真を見下していた二階堂ですら、ガチ泣きしながら会場を後にしている。薙切えりなが自分の作った料理を実食すると言う事の意味を知らぬ創真にとって、それは理解の苦しむ光景であった。

 

数多くの編入希望生でひしめきあっていた会場は、一瞬にして閑散とした空間へと変わり果てる。

 

「……下らない。見込みのない愚図ばかり。あんな連中に私の貴重な時間を費やしてる暇なんてないわ。さ、早い事おじい様に伝えましょう。合格者はゼロ、と」

 

えりなは戸惑いの表情を浮かべる緋沙子に声をかけると、そそくさと退室をしようとする。しかし、編入希望生の全員が恐れをなして逃げたわけではない。

 

 

「作る品は何でも良いの?」

 

 

試験会場にまだ人が残っていたという信じ難い現実を叩きつけられたえりなは、ゆっくりと振り返る。

 

 

ボタンを全開にした詰襟を羽織ったツーブロックの男と、イングリッシュ・ドレープの3ピーススーツを着こなす黒髪の男が、試験官であるえりなを真っ直ぐと見据えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「不味いわよ!」

 

 

 

腰が砕けそうになる程の美味。幸平創真の作った『化けるふりかけごはん』は、えりなの知らぬ未開拓の食の世界へと誘い、えりなの舌を確かに唸らせた。だが、下町の定食屋が作った、庶民的と言う他ないこの料理を美味と認めるのは、えりなの高いプライドが許さなかった。

 

「君のような料理人は遠月に必要ありません!不合格です!」

 

「ええええええええ!?」

 

完全に受かると確信していた幸平創真は、えりなの言い渡した合否に納得がいかないと言う表情で抗議する。

 

「ウッソだろお前!?めっちゃ美味そうに食べてたじゃん!」

 

「図に乗らないで!二流のあなたが作る料理なんて不味いに決まってるじゃない!不合格は不合格よ!」

 

なぜか涙目で凄むえりなに気圧された創真は、これ以上食い下がる事を躊躇ってしまう。

 

「マジか……不合格かよ……マジか……」

 

どんよりとした重い空気を発しながら、創真はトボトボと調理室を後にする。生き残れなければ論外……と、父に言われた学校に、彼は入る事すらできなかったのだ。そのショックは計り知れないものであろう。

 

「あ、お前も残ってたんだな……俺は落ちちゃったけど頑張れよ。あの女に美味いって言わせるの、多分めちゃくちゃ難しいぞ」

 

創真は去り際に、壁にもたれて一部始終を見届けていたスーツの男に声をかけると、彼は小さく笑う。

 

「惜しかったな幸平。せっかく女を喜ばせる料理を作れると言うのに。女を悦ばせるにはまだまだ遠いな。あの手の女の子は、強引に押し切れば一発だぞ」

 

「なあ、俺達が今してるのって料理の話だよな?」

 

「自分で考えるのも勉強だ。まあ次は頑張れ。お前なら受かるさ」

 

微妙に会話のズレを感じた創真が問うが、意地悪な笑みを浮かべた男にはぐらかされてしまう。

 

「親父になんて言えば良いんだ……」

 

大口を叩いておいて入学すらままならなかった創真は、陰鬱とした表情のまま試験会場を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

創真の退出を見届けた男……山崎響は、小気味よい革靴の足音を鳴らしながら、えりなの元へと近づく。

 

「あなたもいたのね。さっきの男の様に恥を晒したくなかったら、今すぐ取りやめても良いのよ?」

 

「まさか。君に教えたかった味が彼にあったように、俺にも君に教えたい味がある」

 

「何を言い出すかと思えば……この私に教えたい味がある、ですって?笑わせないで頂戴」

 

えりなは鼻で笑い、呆れるように頭を振る。目を閉じ、大きく溜め息を吐く彼女だったが、不意に優しい柑橘系の香りが彼女を包み込む。それと同時に、何かが彼女の唇に触れた。驚いたえりなが慌てて目を開けると、すぐ目の前まで近づいていた響が、えりなの口元に人差し指をあてがっていた。

 

「なっ!?」

 

「きっ、貴様!えりな様に何をする!」

 

えりなが慌てて仰け反ると、隣にいた緋沙子が物凄い剣幕で響を威嚇する。

 

「何をする……か。彼女を唸らせる卵料理を作る事以外に、何かあるのか?」

 

至極真っ当な質問を、至極真っ当な答えで返された緋沙子は言葉に詰まる。

 

「卵を使っていれば何を作っても良い……その言葉に嘘は無いな?」

 

響の質問に、未だ顔を赤くしたえりなが訝しむように答える。

 

「……失礼な男ね。なんで嘘をつく必要があるのよ。さっきの男の料理を見ていたら分かるでしょう?卵がメインなら()()()良いわよ」

 

えりなの言葉に満足した響は、ようやく調理台へと向かう。踵を返した響からふわりと漂う香水の香りが、先ほどのやりとりを想起させ、えりなを再び赤面させる。

 

「なんなのよ、あの男……!」

 

えりなは幸平創真の元と一緒にファイリングされた、もう一つの履歴書を手に取る。

 

(ヤマザキ、ヒビキ。出身はスコットランド。随分遠くから来たわね。見た目も名前も完全に日本人だけど……Heaven's gift?聞いた事がないわ。スコットランドは伝統的な料理が多いって聞くけど……)

 

彼の来歴に興味が絶えないえりなは、調理に必要な材料と道具を揃える響を見やる。彼の身だしなみに対する気遣いは、とても庶民のそれとは思えない。しかし、食の世界に精通しているえりなですら"Heaven's gift"という名は耳にした事がなかった。

 

「えりな様……あの男のスーツ、イギリスの高級ブランドですよ。腕時計もロレックスです。只者じゃないですね」

 

緋沙子はひっそりとえりなに耳打ちするが、響の身につけているものはそれぞれ全て違う女性に買い与えてもらった物であり、彼が只者ではないという言葉に強ち間違いはなかった。悪い意味ではあるが。

 

そんな少女2人の無遠慮な視線などどこ吹く風、響は淀みない動作で調理を開始する。鶏卵を割った響は卵黄をボウルに落とし、砂糖を入れてからビーターでかき混ぜてゆく。その横で牛乳に少量のシナモンを振った鍋を弱火にかける。

 

「……彼、かなり慣れてるわね」

 

「ええ……大事な試験であんなに()()()いる者など、見た事がないです」

 

響はただテキパキと料理をこなしているのではなく、動きに遊びを多分に含んでいる事に二人は目が行った。

 

片手で卵を割りつつ、空いたもう片方の手でまだ割っていない卵をジャグラーのように弄んだり、調理器具をドラムスティックのように振り回したり、口笛を吹きながら靴底でリズムを刻んだりと、とにかく落ちつきがなかった。だが、食材や調理器具を落とすような事はなく、調理に支障をきたす事もない。また、それらの動きに、わざとらしさもぎこちなさもなく、彼が普段から客の前でそうしている事を窺わせる。まるでこの試験会場が彼の空間であるかのようにも思わせ、軽快なジャズがBGMとしてかかっているかのような錯覚すら覚えさせる。

 

火にかけた牛乳からわずかに湯気が建ち始めたところで、響は十分に泡立てた卵を少しずつ鍋に入れ始める。この間も鍋を混ぜる手を止めない事は忘れない。

 

何を作るのか……という好奇心もあるが、えりなと緋沙子は気づかぬ内に釘付けになっていた。

 

不意に響が顔をあげ、二人に微笑みかける。目が合った事と、見つめていた事に気付かれた二人は、何故かこみあげてくる羞恥に勝てず、つい響から()()()()()()()()()

 

二人がさりげなく視線を戻す頃には、響の料理は最終工程に取り掛かっていた。よく混ぜ合わせた牛乳と卵黄にメイプルシロップを加え、ストレーナーを通して卵の泡を濾す。そうしてカップに注がれた黄金色の液体に、適量のシナモンを振りかける。

 

「エッグノッグです。冷めない内にどうぞ」

 

えりなは呆れのあまり、声も出なかった。エッグノッグと言えば、クリスマスによく作られる北欧の飲み物で、子供たちが好むとして一般家庭で親しまれているようなものだ。その分、レシピも至って簡素で、あらゆる美食に触れてきたえりなの舌を唸らせるには、あまりにも捻りもインパクトもない物であった。

 

「はぁ……さっきの幸平創真と言い、どうしてこう……」

 

えりなは調理の過程を見ている。響の作ったエッグノッグの質など、口にするまでもなく察しがつく。

 

「素人の作るそれでは無いようだけど、その程度で私の食指は動かないわ。料理を知り尽くした私には、君が何を作ったかなど手に取るようにして分かるのだから……」

 

「えりな。君の舌は料理しか知らないだけだ」

 

「なっ……」

 

「えりな様を呼び捨てにするなど……身の程を知れ!」

 

響は殺気立つ少女二人を宥めるように微笑むと、もう一度カップをえりなに差し出す。

 

「飲めば分かる。何事も、冷めない内が一番美味しい」

 

えりなはしぶしぶカップを受け取り、口元へ寄せる。古代より愛を掻き立てると言われているシナモンの香りが、着実にえりなの意識をエッグノッグへと傾けていく。

 

彼女がエッグノッグに口をつけた時、彼女を待っていたのは『裏切り』だった。

 

「違う……違うわ!」

 

彼女が想定していた全く別の味が、エッグノッグの甘く、暖かな味わいに隠れこむように紛れ込んでいた。えりなの知らない、柔らかく爽やかな香りの後に訪れる、どこかスパイシーな大人の余韻。そして、わずかに含まれたメイプルシロップを隠れ蓑にした、熟成された深い味わいが僅かに顔を覗かせている。

 

エッグノッグというチープなベースに、不釣合いなほどエレガンスな隠し要素が、絶妙に調和している。子供のピアノ発表会で可愛らしい子犬のワルツを弾いていた少年が、急に情熱的なアドリブジャズを弾き始め、聴衆の心をかっさらっていくかのようだ……と、えりなの持つ独特な感性が、このエッグノッグの虜になっていた。

 

「……えりな様、どうされました?」

 

緋沙子の声はえりなに届いていない。このエッグに隠された何かを暴く為、えりなの意識はこのエッグノッグのみに注がれている。

 

飲めば飲むほど、自分を引き込んでいくかのような、この『秘匿された味わい』は、知らず知らずのうちにえりなの心を焚き付けてゆく。

 

カップの中身が空になりそうになった所で、ようやくえりなの『神の舌』が、真実に辿り着く。

 

(この二つの隠し味……何処かで………調理酒の………っ!?)

 

えりなが何か気づき、何かを叫ぼうとした時、再びあの香りがえりな鼻腔をくすぐる。響がえりなを黙らせるように、またしても人差し指をえりなの口元に当てたのだ。

 

「っ〜!!」

 

赤面したえりなが響から距離を取ろうとするが、優しくえりなの後頭部を包み込んだ彼の手のひらが、それを阻止する。

 

「ちょっと!何す……」

 

「良いの?バレちゃうよ?えりなが()()()()()()()

 

えりなの耳元で男が小さく呟く。より強くなる響の香水の匂い、耳をくすぐる響の吐息、直に伝わる響の体温……まるで男に対する免疫を持ち合わせてないえりなから余裕を奪い去るのは、至極簡単な事であった。

 

「おい貴様!えりな様になんたる狼藉を……」

 

「や、やめなさい緋沙子!」

 

響に掴みかかろうとする緋沙子を、えりなが慌てて制止する。緋沙子は呆然とした表情で、ただその場に立ち尽くしてしまう。

 

「あなた、未成年の私に酒を……それも、編入試験で飲ませるだなんて、正気なの!?」

 

緋沙子に聞こえないよう、えりなが小声で響を咎めるが、響は澄ました顔でえりなに囁く。

 

「俺が飲ませた……?えりなはさっき、俺の料理は手に取るようにして分かるって言ったよね?酒が入ってる事を知ってて自分から飲んだ事になるけど」

 

「ち、違うわよ!まさかブランデー・エッグノッグを作るなんて思わないじゃない!」

 

 

ブランデー・エッグノッグ。それはただのエッグノッグに非ず、お酒を使った大人のエッグノッグ。

 

 

響が密かに入れたのはコニャックの『カミュ X.O. エレガンス』とラムの『ロン・サカパ センテナリオ 23年』だった。えりながすぐに分からなったのも無理はない。調理酒として極微量しか口した事がない未成年の彼女が、酒の味わいや風味を知るわけがないのだ。

 

「お酒なんて、一体いつ入れたのよ!?」

 

「……えりなはまるで、汚れを知らぬ天使のように純粋だ。男の毒牙にかからないかとても心配で仕方ないな」

 

現在進行形で毒牙にかけているこのバーテンダーにとって、気づかれないように女の飲み物にアルコールを仕込む事など造作もない事だ。

 

「何訳分かんない事言ってるのよ!と、とにかく!こんな物で君の合否を決めるわけにはいきません!」

 

「ん?卵がメインなら()()()良いって言ったよね?エッグノッグなんて言う、わざわざ名前に卵が入ってる物にしてあげたのに……嘘を吐くなんて、えりなは酷いな」

 

「ぁ……ぅぅ……」

 

過去の自分の発言が全て墓穴を掘ってしまっているという事実に、えりなは声にならない唸りをあげる。

 

「なあ、えりな。俺のエッグノッグは美味しかったか?」

 

「……美味しくなんかないわよ!」

 

「悪い子だ。また嘘を吐くのか?」

 

「くっ………………ゎょ」

 

「聞こえる声で、もう一回言って欲しいな」

 

「美味しかったわよ!」

 

えりなが急に大声を出した事と、響の作ったエッグノッグを認めたという事実に、緋沙子はあんぐりと口を開ける。

 

「えりな様、一体どうされたと言うのですか!?その男に何か弱みでも握られているのでは!?なんだかお顔が赤いですし……」

 

「べ、べべべべ別にそんな事全然これっぽっちもそんな事全然ないわよ緋沙子の馬鹿ぁ!」

 

「なぁっ!?」

 

尊敬するえりなに馬鹿と罵られた緋沙子は、今にも血を吐きそうな悲痛な表情でうずくまる。興奮した様子で息を荒げるえりなに、追い打ちをかけるように悪魔が囁く。

 

「……もっと飲みたいでしょ?」

 

「飲みたくても飲める訳ないでしょうお酒なんだから!」

 

「飲みたいのは否定しないんだ?」

 

「ぐっ……とにかくもう飲みません!」

 

「俺はもっとえりなに知って欲しいけどね、大人の味を」

 

響はようやくえりなから離れたと思いきや、わざとらしくえりなの目の前でエッグノッグをカップに注ぐ。そして、再三えりなに囁きかける。

 

「大人の味。それは、酒の味。罪の味。秘密の味………あと一つは、まだ知らなくても良い。それがえりなの魅力のひとつだから」

 

それが酒だと知っていながら、えりなはエッグノッグに口をつけてしまう。いけないと知りながら、えりなはエッグノッグに口をつけてしまう。緋沙子が何も知らない事を利用して、エッグノッグに口をつけてしまう。

 

丁寧に仕立てられた甘いエッグノッグに調和した、罪深いまでに背徳的な酒の味わい。未知なる世界へと繋がる隠し扉を、えりなはこっそりと開いてしまう。

 

「今日の一品は、君だけのものだ。えりなと俺だけの秘密じゃないといけない」

 

余裕を失っている人間は、全て自分の都合の良いように解釈しようとする心理が働く。えりなには、彼の甘言蜜語が『内緒にしてあげるから、もっと飲んでも良いんだよ』と、えりなの罪を優しく受け止める言葉に聞こえてしまうのだ。

 

気づけばえりなは二杯目のエッグノッグを飲み干していた。これは異常だ。今の自分は普通じゃない。そう自覚していながらも、響がいれた三杯目に手を伸ばすえりながいる。禁断の果実に手を伸ばす、イヴの如く。

 

自分をこうさせたのはアルコールのせいだ、この男のせいだ……自己を正当化させるために、えりなは響を睨む。

 

「……許さないわ、絶対に」

 

「えりなは絶対に許すよ。誰よりも優しくて、誰よりも素直な子だから」

 

甘い声でそう返されたえりなは、更に顔を赤くする。それがどんな感情に起因しているものかなど、今の彼女に知る術はない。

 

「近いうちに、情けないツラで謝る男がえりなの前に現れるはずだ。俺の事は許さなくても良いから、彼の事だけは許してやって欲しい」

 

響の言葉の意味を図りかねるえりなは首を傾げる。そんなえりなの頭を撫でつけ、響は最後に囁く。

 

「少し大人になった君は、きっと笑顔で許せるから」

 

 

 

 

 

酒は天の美禄なり。

 

 

 

 

罪深い甘い罠は、真っ白な少女を瞬く間に染め上げる。世に蔓延る汚れを知らない少女は『嘘』を知る事で大人へと近づくのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そこは、もぬけの殻とかした編入試験会場。一人の老人が『化けるふりかけごはん』に箸をつける。

 

「…………!」

 

老人は口角を上げ、一枚の書類に目を通す。

 

 

『幸平創真。不合格』

 

 

老人は書類を握り潰す。この紙が塵芥と化した今、試験官の下した合否は反故になったのだ。

 

 

「遠月は料理こそが全て。才能ある者らには、皆平等に機会が与えられる。料理人としての気概……見せるが良い」

 

 

独り言ちた老人は人知れず笑みを浮かべる。満足した彼が退室しようとした時……別の書類が彼の目についた。

 

 

『山崎響、合格』

 

 

老人は書類を燃やした。

 

 

「ただし山崎、貴様はダメだ」

 

 

 

 

 

 

後日、父親に対する言い訳を必死で考える創真の元に一通の合格通知が届いた。一方で、ウッキウキで果報を寝て待つ響の元に合格通知が届く事はなかった。




『エッグノッグ』
日本ではそこまでだけど、アメリカとかだと普通に有名。発祥はなんとイギリス。どうしたイギリス。

『カミュ XO エレガンス』
ブランデーを飲み慣れていない人でも飲みやすい部類のコニャック。美味しいけど結構高い。

『薙切えりな』
もはや説明不要やね。

『新戸緋沙子』
初期秘書子も好き。今のパワプロの聖ちゃんみたいな秘書子も好き。

『蔵木滋乃』
確か原作だと結婚指輪してなかったけど、作者の趣味で人妻になってもらいました。

『化けるふりかけごはん』
あっちいけー!
来ないで!来ないでよ!
認めたくないのにっ…舌が…躰が…

反応しちゃうっー!
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