天の美禄   作:酒とっ!女ぁ!あと金ぇ!

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※注意※
スピンオフ『食戟のソーマ L'etoile-エトワール-』のネタバレ有り。未読の方はお覚悟を。


精密射撃のショットガン

「で、話って何ですか堂島さん。この合宿ももう終わりが近い……これ以上俺たちがすべき事など残っていないように思えますが?」

 

富士山と芦ノ湖を一望できる避暑地にそびえ立つリゾートホテル『遠月離宮』。そこには遠月学園の一年生たちが集い、『無情の篩い落とし宿泊研修』と恐れられてやまない合宿が行われていた。

 

遠月リゾートの総料理長兼取締役員である堂島銀は、特別講師として招いた遠月学園の卒業たちを一室に呼び出していた。第79期卒業生にしてパリにフランス料理店『SHINO'S』を構える四宮小次郎が、床に就こうとしていた所に召集をかけられた不快感を隠す事なく、真っ先に堂島へ噛み付く。

 

「まあ落ち着け、四宮。……卒業生諸君、今回の宿泊研修のゲスト講師を務めてくれてありがとう。君たちが作った料理は、さぞや生徒たちにとって良い刺激になった事だろう。そんな君たちに一つ提案がある」

 

そこで一旦言葉を切った堂島は、卒業生一同を見渡す。そして、彼はなぜか四宮に視線を固定させ、二の句を継ぐ。

 

「スコットランドへ行ってみないか?」

 

「………は?」

 

一同が声も出ないと言った様子で唖然とする中、『リストランテ エフ』の水原冬美が、冷え切ったジト目で堂島を見る。

 

「……なぜスコットランド?」

 

「みんな自分の店を持ってて忙しいのは重々承知……余裕のある者だけで良い。だが四宮、お前は強制だ」

 

「………あ?」

 

堂島の理不尽発言を前に、ヤクザのようなドスの効いた低音ボイスを漏らした四宮が、人を殺せそうな目で堂島を()めつける。

 

「堂島さん、俺には新たな目標ができた。海外旅行に現を抜かしてる暇なんて……」

 

「まあ落ち着け。つい最近、俺が遠月の生徒だった頃の後輩から連絡があってな。そいつの息子がスコットランドでバーテンダーをやっているそうなんだ。……停滞していた四宮が次の道を見いだし、士気を高めるのは大変喜ばしい事だが、一度お前は凝り固まった肩と頭をほぐした方が良い。常に気張り続けられる人間なんていないからな」

 

堂島が静かに諭すものの、そんな言葉で納得のできる四宮ではなかった。

 

「堂島さんの後輩とは言え、俺たちからしてみれば赤の他人です。そんな人の息子が開いている店に行けと言われても……な?」

 

四宮はやれやれと首を振ると、同意を求めるようにして横にいた乾日向子へ視線を送る。

 

「へぇ〜……スコットランドのバーですか。なんだかお洒落ですね!行きましょう四宮先輩!」

 

「お前は黙ってろヒナコ!」

 

「はぁ!?じゃあなんでこっち見たんですか!?」

 

ギャーギャーと稚拙極まりない喧嘩を始める二人を放置し、オーベルジュ『テゾーロ』のドナート梧桐田が堂島に疑問を挟む。

 

「……堂島さん、四宮さんの言う事にも一理あります。その堂島さんの後輩とは、一体どういった方なんですか?」

 

「俺より美味い料理が作れる男だったな」

 

堂島がそう答えると同時、日向子にアイアンクローをかけていた四宮がピタリと動きを止める。

 

「……主席だった堂島さんより料理が上手?随分な謙遜を仰るんですね」

 

「謙遜じゃないさ。奴の料理を一度口にしたら、誰しもがその男から離れる事ができなくなるほどだぞ?まあ、女にしか作らないから媚薬飯だの麻薬飯だの言われていたが……」

 

「ただのやべーやつじゃないですかそれ」

 

堂島が懐かしむ様に微笑むが、大雑把な説明だけでも危険人物と察しがついた卒業生たちはドン引きしていた。

 

「彼に負けず劣らず、その息子もなかなか面白い人柄をしているそうだ。今まで何の連絡もよこさなかったその男が、息子の店に行ってすぐ俺に電話をかけてきたくらいだ。人を大きく動かす影響力があるのだろうな」

 

堂島はゆっくりと四宮に歩み寄ると、激励するように優しく、叱咤するように力強く、彼の肩を叩く。

 

「強制……と言ったが、あれは冗談だ。お前のこれからはお前が決める事だからな。だが、これだけは言っておく。今、お前は人生における大きな岐路に差し掛かっている。思い切って立ち止まり、自分を見つめ直したお前は、きっとデカい料理人になれるだろう……いや、必ずなれる。そうして大きくなった料理人を一人、俺は知っているからな」

 

レンズ越しの四宮の鋭い視線が、堂島を射抜く。堂島の言葉が、如何に真剣に考えて紡がれたものかを悟らされた四宮は小さく嘆息する。

 

「……分かりましたよ。店のスタッフにはそれらしい言い訳を考えておきます。全く……自分の店を何日も放っておく心労を知って欲しいですね。あいつらも俺がいないと不安で仕方ないだろうし」

 

「……水原先輩、聞きました?物自惚れすぎですよね、あのナルシスト先輩」

 

「……性格の悪いオーナーが不在で、今頃ドンチャン騒ぎしてるんじゃない?」

 

「聞こえてんぞお前らァ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そこは片田舎にそびえ立つ小洒落たバー"Heaven's gift"。いつもは大勢の酒飲みで満員御礼のそこは、週始めということもあってか客の一人もいなかった。

 

「暇くさ」

 

何もする事がない店主の山崎響は、カウンターに頬杖をつき、すでに三回は読んだ朝刊に目を通していた。

 

忍び寄る睡魔を振り払うべく、響はうんと背伸びをして、ただの文字の羅列と化した朝刊をゴミ箱に放り込む。一度小さく欠伸をした彼は、密閉容器に入れておいたコーヒー豆『ブラジルサントスNo2#18』と『ベトナムアラビカ』を冷蔵庫から取り出す。

 

それぞれをコーヒーミルで挽き、いつもの割合でブレンドしたものをドリップする。深いコクと強い苦味が特徴的なこのブレンドは、昼夜の逆転した響にとって心強い味方であった。

 

響が眠気ざましのコーヒーをちびちびと飲みつつ店のドアを睨みつけ初めて小一時間、二人の客が店に入り込んでくる。

 

「……ったく、こんな僻地にあるなんて聞いてねぇよ。現地人の案内も訛りが強くて分かりにくいし」

 

「まあまあ四宮先輩。何とか着いたんですし良かったじゃないですか」

 

「ああ、ヒナコがいなかったら気持ちよく酒が飲めただろうにな」

 

「何ですかそれ!?先輩一人じゃ心配だから着いてきてあげたのに!」

 

「お前が勝手に付いて来ただけだろうが!だいたい、お前が通りすがりの小娘に声かけて警察沙汰になってなきゃ、もっと早く着いてたんだぞ!」

 

「うふふ……さっきの()……私好みの可愛らしい子でしたね……」

 

「国際問題を起こす前に国へ帰れ」

 

「痛い痛い。そろそろ私の頭蓋骨が逝きますよ先輩」

 

入店するなり喧嘩を始めた、アシンメトリーの赤髪が特徴的なメガネをかけた男と、ワガママな体つきをしたおさげの女は、どちらも日本語で喋っていた。

 

「……最近は日本人がよく来ますね。Heaven's giftへようこそ」

 

彼らに倣って響が日本語で二人を歓迎すると、両者とも異なった反応をする。

 

「日本人……というかまだ子供じゃねぇかこいつ。堂島さんの後輩の息子だって時点で怪しくはあったが」

 

「先輩、あの子すごいイケメンですよ!イケメンバーテンダーさんですよ!」

 

二人の温度差の激しさに苦笑いを浮かべる響は、席に着くよう二人に促す。

 

「カウンターへどうぞ」

 

「……テーブルが空いてるだろ。なんでわざわざカウンターなんだ?」

 

「美しい女性が目の前に居てくれた方が、より良いお酒が作れるので」

 

「聞いたかヒナコ。こいつ絶対女誑しだぞ。大人しくテーブルに……」

 

響の気障ったらしい文言に胡散臭さを感じた四宮がテーブルで飲む事を提案するが、日向子はすでにカウンターに座っていた。

 

「あなた、とても良い事を言いますね。是非とも美味しいお酒を作ってくださいね。うふふ……」

 

「勝手に座ってんじゃねぇぞヒナコぉ!」

 

自由奔放すぎる日向子に牙を剥く四宮だったが、彼女がカウンターから動こうとする気配は微塵もない。諦めた四宮は日向子の隣に腰掛ける。

 

「まるで脈なし……久しぶりですね」

 

「あ……?」

 

どこか達観した様子で何かを呟く響を、不審に思った四宮が声をかけるが、響は首を振るだけだった。

 

「お気になさらず。さて、SHINO'sのオーナーシェフが来たとなっては、不出来な物は出せませんね」

 

響がわざとらしく対応を変えると、四宮は怪訝そうに眉を顰める。

 

「なんだよ、俺の事知ってたのか」

 

「先輩もすっかり有名人ですね」

 

「私はここが国籍になってますが、血筋は純粋な日本人ですからね。同じ日本人が欧州で活躍していて気にならないはずがありませんよ。たしか、レギュムの魔術師……でしたっけ?」

 

響が確認するように尋ねると、日向子が堪らずといった様子で吹き出す。

 

「………ぷっ。いつ聞いても名前負けしてますよね、先輩」

 

「ヒナコ、いちいち茶々入れてくるならつまみ出すぞ」

 

「それは良い提案ですね。日向子さん、どうやら彼は一人でお酒が飲みたいらしい。私と綺麗な夜景の見えるレストランにでも行きませんか?」

 

「まあ………素敵ですね。先輩、しばらくそこに居て良いですよ」

 

「会って数分で打ち解けてんじゃねぇぞお前らぁ!」

 

熱い視線を交わす二人に、四宮は青筋を浮かべて怒鳴る。息抜きに来たはずの四宮だったが、彼のストレスは溜まる一方だった。

 

「冗談はさておき、お二人は何を飲まれますか?特に思いつかないのならばお手元のメニュー表もご覧ください」

 

「んー……じゃあ私はマスターのおすすめで。先輩はどうしますか?」

 

「…………」

 

ヒナコに注文を催促された四宮は、憮然とした表情で黙り込む。後輩の手前、それなりに格好がつくよう好みの酒を唱えたい四宮だったが、寝ても覚めても料理に明け暮れて来た彼は、食中酒や食前酒として出すワインならともかく、自分の嗜みとして飲む酒を知らない。

 

「…………俺もおすすめで」

 

結局、これと言ったものが思い浮かばなかった四宮は、日向子に倣って響に判断を委ねる事にした。

 

「折角スコットランドにお越しいただいたので 、お二人には是非ともスコッチを堪能していただきたいですね」

 

 

注文を承った響はカクテルに使用する材料を準備していく。スコッチ、ホワイトキュラソー、ブルーキュラソー、ライムジュース……と、流れるような手際の良さでシェイカーに材料と氷を入れる。

 

誰もがバーテンダーのイメージとして思い描くであろう、シェイクの動作。それは、決してパフォーマンスのために大げさに行われているわけではない。比重や味わいに大きな差がある材料同士を混ぜ合わせるにはシェイクが必要不可欠なのだ。

 

シェイクという動作は、撹拌と冷却と加水を同時に行っている。いずれもカクテルの仕上がりに大きく影響する要素であり、ただ闇雲に振るだけでは味の均質化は望めない。バーテンダーがシェイカーを振るのと、素人が真似事でシェイカーを振るのとは訳が違う。

 

そして、まるで動きが染み付いているかのようにシェイカーを振る響が、後者でない事を四宮と日向子は否応なしに実感させられる。そんな二人の視線など気にも留めない響は、カクテルグラスにシェイカーの内容物を注いでいく。

 

「綺麗………」

 

日向子が思わず息を呑むのも無理はなく、カクテルグラスに注がれたそれは神秘的なエメラルドグリーンに輝いていた。批判の言葉ばかり用意していた四宮ですら、言葉を失う他なかった。

 

「キングス・バレイです。1986年に開かれた第一回スコッチウイスキーカクテルコンクールの優勝作品として輝いたカクテルで、制作者はなんと私たちと同じ日本人です。我々日本人が誇るべきカクテルをご堪能ください」

 

目を輝かせた日向子がカクテルグラスを持ち上げ、四宮の方へ突き出す。

 

「じゃあ、先輩の健闘を祈って……乾杯!」

 

少し照れ臭かった四宮は鼻で笑うものの、控えめに自分のグラスを寄せて、日向子が取った音頭に応じる。二人が同時にグラスを傾ければ、スコッチウィスキーが持つフルーティーな味わいと、柑橘系の爽やかな後味が二人を満たしてゆく。

 

「ん〜っ!とても飲みやすいカクテルですね!私あんまりウィスキー飲めないですけど、これなら何杯でもいけそうです」

 

「…………」

 

元々、女性にとっても飲みやすいカクテルであり、日向子は上機嫌にキングス・バレイを呷る。四宮も感想こそ口にしないものの、その表情に不満の色は窺えない。

 

「スコッチのウッドテイストな琥珀色を、妖艶に輝くエメラルドグリーンに変えるには、絶妙な配分調整を強いられます。このカクテルの制作者が『色の魔術師』の名で讃えられる所以とも言えましょう。彼がバーテンダーたちの憧れとなった様に、『レギュムの魔術師』の名を冠する四宮さんも、料理人の憧れとならなくてはなりませんね」

 

四宮に重圧を掛ける訳でもなく、響はどこか冗談めかしてそんな事を言う。

 

「……俺は自分の実力を証明するだけだ。羨望の眼差しなんぞ求めてねぇ。欲しい物は三つ星……ただそれだけだ」

 

四宮は、己の中で滞留している全てを飲み下すようにして、キングス・バレイを飲み干す。この時ばかりは、日向子が彼を揶揄う事などなかった。

 

「先輩ならできますよ。あの日、先輩は私に『フランスで絶対成功する』って宣言して、それを現実にしたんですから」

 

言って、少しだけ俯く日向子は、どこか嬉しそうな表情をしていた。

 

「……んな事言ったか?」

 

四宮が本気で分からないとでも言いたげな顔で首を傾げると、日向子は表情を180度反転させ、烈火の如く怒り狂う。

 

「はぁ!?あの時の事も覚えてないとか、どれだけフラグクラッシャーなんですか先輩は!?馬鹿!唐変木!童貞!」

 

「あぁん!?ど、どどど童貞じゃねぇし!テメェに言われる筋合いねぇぞこのガチレズ処女!」

 

「なっ……最低!この変態先輩!」

 

「お二人とも、お洒落なカクテルはお洒落に飲んでこそ…… ですよ」

 

飽きもせず不毛な言い争いを繰り返す二人に呆れつつ、響は何やらフライパンなどの調理器具を取り出し始めた。興味がそちらへ向いた四宮と日向子は一時休戦とし、響の行動を目で追い始める。

 

古くからスコットランドの主食として親しまれてきた燕麦(えんばく)を粉状にした物『オートミール』をフライパンに広げ、火にかける。わずかに色が変わり、燕麦の香ばしい匂いが立ち上り始めたのをサインに、響は火にかけていたオートミールを皿に広げる。オートミールが冷めるまでの間、丁寧に生クリームを立てていく。

 

十分に冷ましたオートミール、ヘザーハニー、スコッチウィスキーを生クリームをホイップしていたボウルに投入する。

 

ラズベリーの層と各種材料を混ぜ合わせた生クリームの層を交互に重ねるようにして、パフェグラスへ盛り付けていく。仕上げにオートミールをわずかにふりかけ、ミントとラズベリーを飾りつける。

 

「スコットランドの名産品ばかりを使った伝統的なデザート『クラナハン』です」

 

物珍しいスコットランド料理を目の前に出され、百選練磨の料理人である四宮と日向子ですら顔を輝かせる。……否、二人が熟練の料理人であるからこそ、調理の行程を見ていただけでその完成度の高さを理解してしまうのであろう。

 

「見て下さい先輩、すごくお洒落ですよこのデザート!インスタにあげなきゃ……」

 

日向子がキャッキャと(はしゃ)ぎながらクラナハンをスマホで撮影している傍ら、対照的に四宮は不機嫌そうに眉間に皺を寄せていた。

 

「おいクソガキバーテンダー、なんで一つしか作ってないんだ?」

 

「ちゃんと二人分の量にしてますよ」

 

「……器が一つなのは百歩譲るとして、スプーンも一つしかねぇぞ」

 

「申し訳ございません、生憎とスプーンはそれしかありませんので」

 

「そんな訳ないだろ。スプーンが一つしかないだなんて一般家庭でもそうそうないってのに、ここはバーだぞ?商売舐めてんのかテメェ」

 

「チッ………昨夜、全部へし折ったので」

 

「おい、今お前舌打ちしただろ!?というか今テキトーに考えたような嘘ついてんじゃねぇぞ!」

 

「まあまあ、そんなに怒らなくても良いじゃないですか先輩。凄く美味しいですよ、これ」

 

「テメェはテメェで勝手に食ってんじゃねぇぞヒナコ!」

 

まともに取り合ってくれる相手がおらず、発狂寸前の四宮を等閑に、日向子は幸せそうな顔でクラナハンを口に運ぶ。

 

「ラズベリーの酸味、蜂蜜の甘さ、燕麦の香ばしさ、スコッチウィスキーの熟成感……全てが絶妙なバランスで組み合わさっていますね。特に、大人の味わいを演出しつつも、可愛らしいデザートとしての側面を殺していないところが素晴らしいです」

 

「このクラナハンに使っているスコッチウィスキーは、スコットランドの中でもスペイサイドと呼ばれる地域で造られているものです。スペイサイドのシングルモルトは上品な風味と優しい口当たりに定評があります。特にこの『アベラワー』はアルコールよりも甘さの主張が強く、ストレートでも飲みやすいスコッチです。レーズンやバニラのような芳醇な香りが、このクラナハンをより一層エレガンスに仕立てあげます」

 

響は調理に使った器具を洗いながら、長々と酒の薀蓄を垂れ流すが、それはバーテンダーとしての一興でもあった。

 

「確かに、アルコールの刺激を全く感じさせませんね。私はあまりお酒を飲まないんですけど、これなら何杯でもいけそうです!」

 

ただのデザートとは一線を画す、クラナハンの深みある味わいの虜となった日向子は、忙しなくスプーンを動かす。しかし、クラナハンはその可憐でいて美麗な見た目に反して、アルコール度数はなかなかなものである。

 

響はバーテンダーとしての暦が浅く、ベテランのバーテンダーと比較をすれば、それなりの未熟さは浮き彫りになるであろう。しかし、女性にアルコールを提供する悪知恵……もとい、応用力に関しては他の追随を許さない。人間という生き物は、自分が真に必要としている能力ほど良く伸びるものであり、彼が真に必要としている物が何であるかなど、火を見るよりも明らかであった。

 

しかし、女が美味いと感じる料理は、基本的に男が食しても美味いと感じるものである。新たなる美味を共有せんとばかりに、日向子はクラナハンを多めに掬ったスプーンを、四宮に向かって突き出す。

 

「味に関して口うるさい先輩も、これにはぐうの音も出ないと思いますよ」

 

「お前はいちいち俺を煽らないと死ぬ病気でも罹患してるのか?」

 

「ほら、腕が疲れるので早く食べてください」

 

なかなかスプーンに口を付けない四宮に日向子が口を尖らせるが、彼は頑なに実食を拒否する。

 

「要らん。俺はそんな女子女子した物は食べん」

 

「なんですか、その語呂の悪い造語は……というか急にどうしたんですか?四宮先輩、さっきまでスプーンが一つしかないーって騒いでて、食べる気満々だったじゃないですか」

 

日向子が四宮の発言に矛盾が生じている事を指摘するも、四宮は舌打ちをして顔を背けるだけであった。苛立ちの表情を浮かべる四宮とは裏腹に、日向子は小悪魔のようなニヤニヤとした笑みを浮かべ始める。ほど良く酔いが回ってきたのか、その頰は僅かに朱が差している。

 

「あ、先輩もしかして……間接キスとか気にしちゃってますか?」

 

「は?そんな訳ねぇだろ。ガキじゃあるまいし」

 

「なんで私の顔見て言わないんですか〜?やっぱり恥ずかしいんですか〜?先輩も可愛いところありますね〜」

 

「勝手にほざいてろ。早く寄越せヒナコ」

 

「私はさっきから差し出してますよ?先輩がまごついてるだけじゃないですか。はい、先輩。あーんしてください」

 

依然としてニヤニヤとした顔で日向子がスプーンを突き出す。己の心情を察せられまいと無心で四宮はスプーンを咥える。

 

「うふふ、どうですか先輩」

 

「……まあ悪くはない。俺には少し甘ったるく感じるが」

 

「そうですか?そんなに甘過ぎるようには感じませんでしたけど……」

 

言葉を切った日向子は、どこまでも意地の悪い笑みを四宮に向ける。

 

「私の味でも、しましたか?」

 

いつもならば問答無用で体罰を食らわせる四宮だったが、この時ばかりはそうもいかなかった。いつまでも成長しない子供みたいな後輩だ……と、常日頃から思っていた日向子が、酒気を帯びて仄かに顔を上気させている。リラックスした愛玩動物のように、緩慢ながらも愛くるしさを覚えてしまうようなゆったりとした動作で、先ほど四宮が口をつけたばかりのスプーンでクラナハンを削り取り、蕩けるような表情でそれを咥えこむ。四宮にはその姿が、まるで童女が嬉々としておやつに飛びつくようにも見え、楚々とした小町娘が蠱惑的に甘味を嗜んでいるようにも見えた。

 

「先輩……覚えていますか?先輩がフランスに行くって言った時、私が先輩に食戟を申し出た事」

 

ふと物憂げな表情を見せた日向子が、脈絡もなく四宮に問いかける。

 

「さあ……あったような気もするな、そんな事」

 

「覚えてるクセに変な嘘つかないでくださいよ。先輩は私に嘘をつかないと死んじゃう病気でも患っているんですか?」

 

「小学生みたいな意趣返しをするな。勝手に決めつけるんなら最初から訊くんじゃねぇよ……そもそも食戟と言うか、関守さんの店で個人的な料理対決をしただけだろ」

 

「ほら、やっぱりちゃんと覚えてるじゃないですか。……あの時、先輩にボロ負けして分かったんです。この人は誰よりも料理に熱意を持って、誰よりも努力してきたんだなって。だから、誰よりも大きな夢を持ってるんだなって。……この人なら絶対に成功するって」

 

四宮は宙を見上げ、一つ一つ拾い上げるように思い出す。日向子や水原、梧桐田らと共に関守が新たに開店した『銀座ひのわ』へ赴いた、あの日の事を。

 

 

あの日、確かに四宮は皆の前で自分が胸に抱いていた野望を熱弁した。四宮自身、らしくない真似だと自覚していたが、自分の先輩である関守が店を構え、自分の道を切り開いている所を目の当たりにした刺激もあったのだろう……四宮は己のビジョンを打ち明けた。一から修行をし、潤沢な資金を蓄える事。そして、ゆくゆくはシャンゼリゼ大通りに自分の店を立ち上げるという、壮大な夢を。

 

終始不機嫌だった日向子は、四宮のその言葉を聞くなり、店から飛び出してしまった。彼女の心理が全く悟れず、ただただ困惑する事しかできない四宮だったが、彼女の後を追わなければ鮨は食わせん……という、有無を言わさない関守の命令のもと、四宮は日向子を探し始めた。

 

公園にいた日向子は、まるで子供のように泣き(じゃく)っていた。涙の理由を四宮が無遠慮に尋ねれば、日向子は頰を膨らませて答える。

 

そんな素敵な夢を抱いていたのなら。

 

そんな大事な話があったのなら。

 

もっと早くに教えて欲しかった。

 

そうすれば、もっと素直に先輩を応援できた。先輩にとって自分たちはどうでもいい存在だったのか?

 

日向子は憤りを隠す事なく四宮に畳み掛けたのだ。

 

 

なぜ、日向子があれほどの怒りを見せたのか、当時の四宮には分からなかった…………訳ではない事くらい、今の四宮には分かっていた。

 

きっと、彼女の涙の理由など最初から知っていた。分からないと言う事にして、自分の中で折り合いをつけようとしていたのかもしれない……今にも壊れてしまいそうなほど弱々しく微笑む日向子の横顔を眺めながら、四宮はそんな事を考えていた。

 

「私、先輩が一人でそんな事抱え込んでるなんて知らなくて……自分の中で色々といっぱいになっちゃって、気づいてたら逃げ出しちゃってました。みっともないって分かってても、涙が止まってくれませんでした。先輩に食戟を申し込んだのも、多分フランスに行って欲しくなかっただけです。凄く自分勝手ですよね、私」

 

自嘲と罪悪感の入り混じった瞳を覆い隠すように、日向子は瞼をしずに伏せる。四宮は鼻で笑いながら、感傷的になる日向子の後頭部を軽く小突く。

 

「いたっ……何するんですか!」

 

「今更何言ってんだ馬鹿が。お前が自分勝手なのはいつもの事だろ」

 

「なっ……」

 

「だいたい、食戟で俺を止められるわけがないだろ。実力差を考えろよ、実力差を」

 

「ほんっと性格悪いですね童貞先輩!人に嫌われる天才なんじゃないですか!?」

 

「童貞童貞言うんじゃねぇぶっ飛ばすぞクレイジーサイコレズ女!」

 

「クレイジーでもサイコでもありません!いつまでも私が負けたままだと思わない方が良いですよ!?マスター、テキーラください!」

 

ヒステリックに叫び始めた日向子は、唐突にテキーラを注文する。四宮と日向子に二人だけの空間を作られ、完全に暇を持て余していた響はうたた寝をしていたため、ビクンと体を跳ね上げ、慌ててボトルを用意する。客を舐め腐ってると言われても反論の余地がない接客態度だが、早くテキーラを出せと言わんばかりに息を荒げる日向子と、日向子の突拍子もない言動に毒気を抜かれた四宮がそれを咎める事はなかった。

 

「おいおい、なんで急にテキーラなんて……」

 

「やる事なんて一つしかないでしょう?酒飲み対決ですよ、酒飲み対決!これはあの食戟の雪辱戦です!」

 

破綻した理論を振りかざしてテキーラを所望する日向子に、響が二つ返事で酒を提供する事はなく渋い表情で苦言を呈する。

 

「……日向子さん。こちら側としては、お客様に危ない飲み方はしていただきたくないと言うのが本心です。病院送りとなっては、楽しい酒盛りも台無しになりますよ」

 

響はすっかり出来上がっている日向子に警鐘を鳴らすが、彼女が耳を貸す事は無かった。

 

「大丈夫ですよ。私、結構強いですから」

 

「やめとけって。クラナハンもほとんど一人で食ってたし、結構な量のアルコールを摂取してるぞお前」

 

ほぼシラフに近い四宮も響に同調して日向子の暴走を窘めるが、彼女が意に介する事はなく、悪戯っぽい笑みを携え彼を揶揄う。

 

「なんですか?ビビってるんですか童貞先輩?」

 

「…………上ッ等だこの変態糞女!おい子供店主、さっさと酒を出せ!この常識のなってねぇ後輩に上下関係ってものを教え込んでやる!」

 

「いつまでも私が下にいると思わない事ですね!私が勝ったら何でも言う事聞いてもらいますからね!」

 

「構わねぇよ、勝つのは俺だからな。俺が勝った暁には、二度と生意気な口を叩けねぇようにしてやるからな?」

 

煽り耐性の無さが禍して、四宮までその気になってしまう始末だった。諦観の域に達した響は二人の注文通りに、底の厚いショットグラスとテキーラを取り出す。

 

「折角ですので、お二人にはテキーラならではの飲み方をしてもらいましょう。『OLMECA BLANCO(オルメカ ブランコ)』をショットガンでお楽しみください」

 

ショットガン……という、耳慣れぬ単語に首を傾げる四宮と日向子だったが、響は見ていれば分かるとでも言いたげな顔で、オルメカをショットグラスに注ぐ。半分ほどまでショットグラスをオルメカで満たしたところで、さらにジンジャーエールを継ぎ足す。

 

そうしてテキーラとジンジャーエールが1:1の割合で注がれたショットグラスを、響はグラスの飲み口を手のひらで覆いながら、勢い良くカウンターに叩きつける。

 

ダンッ、という強く打ち付ける音が生じると共に、ショットグラスの中がシュワシュワと発泡する。

 

「レディーファーストです。まずは日向子さんがお飲みください」

 

響はジンジャーエールとオルメカが混ざり合ったショットグラスを日向子に差し出すと、彼女は四宮に挑戦的な視線を向けた後、ショットグラスを一気に呷る。

 

竜舌蘭(アガベ)の独特な風味と強いアルコールを、ジンジャーエールが程よく抑えているのもあってか、日向子はこれしき余裕だとでも言いたげなドヤ顔で、ショットグラスを響に返す。

 

「ふふっ、こんなんじゃ私は酔いませんよ?さあ、だらしなく潰れる様を私に見せてください、しのみやせーんぱいっ」

 

これでもかという程ムカつく顔で挑発された四宮はピキピキと青筋を浮かべながら、早くテキーラを寄越せと響を無言で威圧する。響は溜息混じりにショットグラスをカウンターに叩きつけ、四宮に差し出す。すぐに四宮がそれを飲み干すが、彼は()()に気がつく。四宮は険しい表情で響にクレームをつける。

 

「おい、何だこれ……ただの水で薄まったジンジャーエールじゃねぇか」

 

四宮は実際に飲んだ感想を述べただけなのだが、日向子はそれを挑発と捉えてしまう。

 

「へぇ……?随分と余裕じゃないですか先輩。でも勝つのは私ですよ?」

 

不敵に笑い、なおも四宮を焚きつけようとする日向子だったが、その佇まいはどこかそわそわとしていて落ち着きがなかった。ごく僅かな変化ではあるが、女の事しか考えていない響からしてみればみすみすと見逃すような変化ではなかった。

 

「……日向子さん、お化粧はあちらで直せますよ」

 

「……気が利きますね。先輩も見習ったらどうですか?」

 

「いちいちうるせぇんだよお前は。我慢してたんならさっさと行ってこいよ」

 

「ほんとデリカシーないですね!そんなんだから童貞なんですよ先輩は!」

 

「だからなんで俺が童貞って確定してんだよ!漏らす前に早く行けよ能無し処女!」

 

日向子は四宮に中指を突き立てた後に、肩を怒らせながらトイレへと向かっていく。完全に日向子が見えなくなったところで、四宮が響を睨みつける。

 

「おい、クソガキバーテンダー。水で薄まったジンジャーエールを俺たちに飲ませて何がしたいんだ?つうかヒナコもヒナコでなんで気づいてないんだ……舌まで馬鹿になったのか?」

 

料理人として終わってるだろ……と、独り言ちる四宮を、響はチッチッと人差し指を振って否定する。

 

「四宮さん、私の左手を良く見ていてください」

 

質問の答えになっていない響の言葉に四宮が顔を顰めるが、響はどこ吹く風、先ほどのようにショットグラスにテキーラとジンジャーエールを注いでいく。

 

そして、先ほどと同じく右手でショットグラスをカウンターに叩きつける……のだが、その行為と並行して、響は左手でテキーラのボトルを、別のものとすり替えていた。そのボトルは、すり替える前の物と全く同じ『OLMECA BLANCO』のボトルであり、すり替えている瞬間を見ていなければ、何も変わっていないように見えてしまう、完全なるトリックであった。

 

「お、おい……どういう事だ……?」

 

「ショットガンの『グラスを叩きつける』というインパクトの大きい行為を利用した、ちょっとしたミスディレクションですよ。日向子さんが飲む時はオルメカの入ったボトルを、四宮さんが飲む時は水の入ったボトルを……と、気づかれない様にすり替えているだけです」

 

「はぁ!?なんだそりゃ!?」

 

響のクズすぎるテクニックに、四宮は開いた口が塞がらなかった。

 

「女を酔わせる時の基本中の基本……それは自分が酔わない事です。日向子さんを持ち帰る前に四宮さんが潰れてしまったり、いよいよという時に四宮さんの御子息がご起立なさらなかったら、目も当てられませんからね。というわけで、四宮さんにとっても日向子さんにとっても素敵な夜にする為の、バーテンダーのささやかな気遣いだと思ってください」

 

「おい!別に俺はそんなつもりでヒナコに……ッ!?」

 

ゲスの極みと言う他ない響の下世話な勘繰りを否定しようと四宮が声を荒げるが、日向子がトイレから戻った事に気がつき、慌てて口を噤む。

 

「んー?私がどうかしましたか、先輩?男同士で内緒話とは感心しませんね。さあ、早く第二ラウンドを始めましょう!」

 

響が明かした衝撃の事実をどう打ち明けようかと四宮が言葉を詰まらせている間に、日向子は酒飲み対決を再開してしまう。

 

結局、真実を告げるタイミングを四宮は見つけられず、オルメカは日向子に吸い込まれてゆく一方であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「えへへぇ……しぇーんぱい!なんでフラフラしてるんれすかぁ?限界なんれすか?もう〜……しぇんぱいは私がいないとらめれすね!」

 

「フラフラしてんのはお前だぞ、ヒナコ……」

 

 

二人が酒飲み対決を始めて小一時間……カウンターには絶望の表情で俯く四宮と、そんな彼にベタベタと絡みまくる、ぽわぽわと頰を赤らめた日向子の姿があった。

 

「なぁ、そろそろ終わりにしないか?お前かなり酔っぱらってるぞ」

 

「そうやって変な言いがりつけて勝負を曖昧にしようって魂胆れしょう?そうはいきませんよ!」

 

何を言っても無駄だと悟った四宮は、日向子からショットグラスをひったくり、ひらひらと手を振る。

 

「ああもう……面倒臭ぇ!俺の負けで良いよもう。だからもう終わりだ。お前はこれ以上酒を飲むな」

 

自分は全くテキーラを飲んでいないという罪悪感もあってか、四宮は自分の敗北と言う形で酒飲み対決を強制終了させる。

 

「やったー!しぇんぱいに勝ちましたー!私の言う事、何でも聞いてもらいますからねー?」

 

「はいはい、お前の勝ちね。何でも聞いてやるよ」

 

この調子だと、どうせ明日になれば勝負の事も忘れているだろうと高を括った四宮は適当な返事をする。

 

「今、何れもって言いましたね?じゃあ先輩……二度と、勝手にどこか行こうとしないれください!」

 

「は……?」

 

「先輩がフランスに行くって言った時……私、凄く寂しかったんです。卒業してもすぐに会えるとばかり思ってたから、急に日本を出るなんて言われたら……そんなの、嫌って思うに決まってるじゃないですか。でも、先輩に大きな夢があった事も知って、頑張れって応援したい気持ちもあって、自分の中でぐちゃぐちゃになって……気づいたら、泣いちゃってました」

 

当時の日向子を支配していた感情がそっくりそのまま蘇ったのか、日向子は笑いながらもその頰を濡らしていた。見た事もない日向子の表情を見てしまった四宮は、鈍器で強打されたかのような衝撃に身を固める。

 

「宿泊研修で先輩と久しぶりに会った時、なんだか先輩が違う人になったんじゃないかと思ってしまいました。すっかり有名人になってて、先輩が遠い存在になった気がして。……それに、中身もです。あんなにピリピリした先輩は、私の知ってる四宮先輩じゃなかったです。先輩がすぐ怒るのは元からでしたけど、少なくとも遠月にいた時の先輩だったら、あの時の恵ちゃんに退学を言い渡すような事はしなかったと思います」

 

「……俺のルセットは絶対だ。それを勝手に変えるなんて、昔の俺でも許さない」

 

「許しましたよ。学生の時、私がどれだけ先輩に迷惑をかけてきたと思ってるんですか?怒る事はあっても、突き放す事なんて、ただの一度も無かったじゃないですかっ!」

 

日向子は四宮を強く叱責すると、彼の懐に飛び込み、弱々しく彼の胸に拳を落とす。

 

「だから……うっ……しぇんぱいがこれ以上頑張ったら……もっとしぇんぱいじゃなくなっちゃう気がして……うぅ……これ以上変わらないでください……私の知ってる先輩でいてください……

 

………私の大好きな先輩でいてくださいよっ!」

 

 

日向子は言いたい事を全て四宮に叩きつけると、彼の胸に顔を埋めて啜り泣き始める。四宮は、あの日に泣き噦っていた日向子にそうしたように、日向子の濡羽色の髪を優しく撫で付ける。

 

「……俺は変わったりしねぇよ。お前に絶対成功するって言った手前、絶対に失敗できないから少し気を張ってただけだ」

 

「嘘です。少し、じゃなかったです。先輩を怖いって思ったの、あの時が初めてだったんですから」

 

「普段から俺をナメすぎなんだよお前は。ちょっとは先輩を敬え馬鹿が」

 

口を尖らせる四宮だったが、彼が日向子を撫でる手を止める事はなかった。

 

「ふふっ……私の知ってる先輩です。水原先輩にも見せてあげたいくらいです、今の先輩を……」

 

安心したようにそう呟いた日向子は、急に黙り込み体重を四宮に預けてくる。不審に思った四宮が声をかけようとするが、それを阻むように日向子の深い寝息が聞こえ始めた。

 

「騒ぎたいだけ騒いで寝やがったぞコイツ……」

 

呆れて物も言えなくなった四宮は、眉を下げて胸元で眠りこける後輩を見下ろす。普段は口喧しい後輩だとしか思っていない彼でも、薄桃色に頰を染め、自分の腕の中で無防備に寝息を立てていると思うと、流石に彼女を女として意識せざるを得なかった。羞恥か、はたまた敗北感からか……彼は苛立たしげに彼女から視線を引き剥がす。

 

「……お酒、強いですね」

 

響が含みのある笑みを見せながら、四宮に声をかける。水しか飲ませていない癖にお前は何を言っているんだと、四宮は眉間に皺を寄せて彼を睨みつける。

 

「さて、日向子さんもいい感じに出来上がりました。あとはホテルに持ち帰るだけですね、四宮さん」

 

「まだそんな事を言ってくるのかテメェは。ヒナコはそんなんじゃねぇっつってんだろ」

 

「どうしてですか?容姿端麗。スタイルも完璧。そして何より、あからさまに貴方に好意を抱いているときています。文句の付け所がないじゃないですか。据え膳食わぬは男の恥ですよ」

 

四宮はもう一度日向子に視線を落とす。彼女が相変わらず規則正しい寝息を立てている事を確認すると、ゆっくりと言葉を紡ぎ始める。

 

「……ヒナコを他の女と同じ括りなんかにしたくねぇんだよ」

 

「他の女……?童貞が何を仰ってるんですか?」

 

「殺すぞテメェ。……自分でこんな事言いたくはないが、遠月にいた頃、俺は結構な人数の女に告られてる。好意を向けて来たのはこいつだけじゃねぇよ」

 

「確かにモテるでしょうね、四宮さんは。とっかえひっかえだったんですか?」

 

「人聞きの悪い事言うんじゃねぇよ。……俺は自分の料理を極める事だけを考えて、全てに全力で臨んできた。それは今も昔も同じだ。だから、女がどうこうなんて、考えた事もない。俺にすり寄ってきてた女なんてどいつもこいつも例外なく、俺が料理馬鹿だって知るや否や自然と離れていったさ。こいつは料理の事ばかりで、女なんて見向きもしないんだろうな、とでも思って諦めたんだろうな。実際、その通りだし」

 

四宮は過去に自分との交際を求めてきた女たちを鼻で笑うと、日向子に再三視線を落とす。

 

「だけどな、ヒナコ(こいつ)は違うんだよ。俺がどれだけこいつを邪険に扱おうが、俺がどれだけこいつの未熟さをボロカスに言おうが、こいつはしつこいくらいに俺についてきやがった。性悪だの、頭でっかちだの、ナルシストだの、うだうだ五月蝿い癖に、こいつはいつも俺に料理で追いつこうと必死になっていた。……元々こいつは鈍臭い奴で、特別突出した才能を持ってたわけでもない。だが、その分こいつは誰よりも努力をしていた。ただの俺の思い上がりかもしれないが、まるで我武者羅に料理の知識と技術を貪っている俺を真似しているようにも見えた。……そんな奴を、他の女たちと一緒くたになんかしたくねぇんだよ」

 

四宮は基本的に人を褒める事が無い。なぜなら、他の誰よりも自分が一番に料理に対して熱意を注ぎ、直向きな努力を積み重ねていると自負しているからだ。そんな彼でも、日向子の事は認めざるを得なかった。

 

「こいつは俺にとって特別な存在だ。俺は……俺は、こいつを大事にしたい。酒をこまして食い物にするなんて、できるわけがないだろ」

 

四宮の嘘偽りない胸の内を聞いた響は、小さく笑いながらオルメカのボトルを棚に戻す。

 

「……四宮さん、貴方は真面目すぎます。ですが、そんな貴方だからこそ、貴方は色んな人たちを惹きつけられるのでしょう。そして、より強く引き寄せられたのが日向子さんなのかもしれませんね」

 

響は二人のグラスを引っ込めると、代金を書いた紙を四宮に差し出す。

 

「さあ、いつまでもこんな所で油を売っていては男が廃りますよ。夜は長いですが、明けない夜はありません。さっさと良さげなホテルを探して、愛を確かめ合ってください」

 

「人の話聞けよ。お前にとって女はそう言うモンかもしれないが、俺にとってはそうじゃない。勝手な事をほざくな」

 

「おや、私に女を語りますか。私から言わせてもらいますと、日向子さんが()()()酔い潰れて寝ていると思っているようでは、まだまだ経験値が足りませんね」

 

一瞬、日向子の寝息が止まってしまう。それを見逃す四宮ではなかった。

 

恥ずかしすぎる心情の吐露を日向子に聞かれていたと言う事実を突きつけられた四宮は、これ以上になく赤面する。

 

そして、酒に酔ったフリを看破され、四宮に対する好意が余す事なく露呈してしまった日向子は、元々赤かった顔を更に赤らめる。

 

「………すぅ………すぅ………」

 

「……もう何をやっても無駄だ、ヒナコ………チクショウ、なんで起きてたんだよお前……クッソ死にてぇ」

 

「………わあああぁぁああ!もうっ!普段ツンツンしててそんな素ぶり全く見せないくせに、何ですかあれ!?ズルいです!ズルすぎます!タラシ先輩!」

 

「はぁ!?わざわざ酔ったフリして俺にデレデレしてきたお前に言われる筋合いはねぇよ!」

 

「うあぁああああ!?それはもう忘れてください!お願いします!さっき何でも言う事聞くって言ってたじゃないですか!だから忘れてください!」

 

「そんな都合よく記憶消せるかっての!大体何でも言う事聞くって言うのはもう無効だろ!『もう二度と勝手にどこか行こうとしないでください』って……」

 

「きゃぁああああ!?だからそれを忘れろって言ってるんですよっ!」

 

代金を支払った二人は、入ってきた時と同じように稚拙極まりない口喧嘩を繰り広げながら"Heaven's gift"を後にした。

 

 

 

「……中学生の恋愛かよ。砂糖吐くかと思ったわ」

 

一人残された響は、先ほど挽いた残りの豆でコーヒーを淹れる。その強い苦味が、今の彼には丁度良かった。

 

「手探りの恋ってのも悪くないんじゃないですかね?たくさんの女を知る事は簡単ですが、一人の女しか知らないと言うのは中々できる事じゃない。それは、童貞というブランドを持った男にだけ許された特権ですよ、四宮さん」

 

 

 

 

 

酒は天の美禄なり。

 

 

 

 

 

不器用な二人が初めて放った恋の矢は、予測不能の軌道を描いて、互いを正確無比に射抜くのであった。




『クラナハン』
ググればわかる(解説放棄)
実際に作って挿絵として貼ろうかと思ったけど、私にそんな時間などなかった。

『四宮小次郎』
闇落ちした前作主人公……という、的確すぎるあだ名を読者につけられたイケメン。この人の遠月時代の話、普通に読んでみたいんじゃが……

『乾日向子』
遠月卒業生のおっぱい担当。水原さんの分はこいつが持っていったと思われる。神はそのようにしてバランスを取っていると思われる。



わぁい三連休、ぼく壊れちゃう♡(接客業並みの感想)

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