矢澤にことのキャンパスライフ! 作:ゆいろう
お寺を見終えた俺たちは寺のあった山を下りて、宿に帰ろうと歩いていた。
太陽は既に落ちかけている。夕日が歩道から見える海面を照らしていて、宝石が散りばめられたようにキラキラ光っている。
そんな綺麗な景色を眺めながら歩いていると、にこが話しかけてきた。
「そうよ、思い出したわ」
「どうしたんだ?」
にこは少し興奮気味に話しを続ける。
「Aqoursよ! 二年前のラブライブで、グループの一人が緊張して踊れなかったスクールアイドルがいたの。それがAqoursって名前だったのよ。映像で見たことがあるわ」
「ってことは、ヨハネとずら丸のどっちかが踊れなかったってことか?」
「違うわ、その時ヨハネはいなかった。そうじゃなくてダイビングショップの前にいたあの二人よ! どこか見覚えがあると思っていたけど、あの時のスクールアイドルだったのね」
「えっ……そうだったのか。だからブランクがあるって」
ダイビングショップの前にいたあの二人を思い出す。彼女たち二人とも緊張しそうな性格には見えなかったけど、憧れの舞台の上なら緊張しても不思議ではないのだろうか。
あの二人のどちらが緊張で踊れなかったのか少しだけ気になるところだけれど、さすがに聞くのは野暮だろう。もしかしたら、他にもメンバーがいたのかもしれないし。
「だったら、ダイビングショップ前の二人とヨハネとずら丸は同じグループってことになるのか」
「たぶんそうでしょうね」
そんな会話をしながら宿を目指してにこと二人歩いていく。
夕日に照らされた歩道には、前方からこちら方向に歩いている女性二人組を除けば、俺たち二人だけしかいない。
木々が潮風に吹かれて揺れる音が心地良く、まるで絵本の中の一ページを切り取ったかのような空間。この場所に旅行に来て本当に良かった。
「なぁにこ、またここに旅行しに来ないか?」
「そうね、にこも同じことを考えていたわ」
同じことを考えていたと言われて、年甲斐もなく嬉しく感じる。
左手が自然とにこの手に伸びていき、にこの右手と繋ごうとした。
そのときだった。
「にこ……?」
背後からそんな声が聞こえて、とっさに左手を引っ込めた。視線だけ後ろに向けると、そこには先ほどまで前をこちらに向かって歩いていた女性二人組がそこにいた。
にこに気を取られてすれ違っていたことに気づかなかった。二人の女性はその場で立ち止まり、まじまじとにこを観察している。
俺はとんでもないミスをしてしまったのかもしれないと思った。背中から冷や汗が出ているのがわかる。
「おい、早く帰ろう」
「そ、そうね、帰るわよ」
にこもミスに気づいているようで、少し焦った様子で帰ることに同意してくれた。これまで人のいる場面で「にこ」と名前を呼ばないよう気をつけていたのに、つい気を抜いてしまっていた。
そうして前に足を踏み出そうとした、その時。
「お待ちください」
後ろの女性から声がかかった。
呼ばれたのに無視するわけにもいかず、足を止めておそるおそる振り返る。
真っ直ぐな黒髪に切れ長の瞳をした女性と、赤髪ツインテールの、普段のにこのような髪型をした、大人しそうで小動物みたいな印象の女性の二人組。
俺たちに声をかけたのは、黒髪ロングの女性の方だった。
「もしかして、アイドルの矢澤にこさんではないでしょうか?」
女性はにこに向かって尋ねた。その問いは正しくて俺の隣にいるのは矢澤にこ本人なのだけれど、隣に俺がいる状態で正体を明かすわけにはいかない。
今朝、宿の千歌には正体を明かしてしまったけれど、あれは例外だ。むやみやたらに正体を明かしていてはリスクが大きい。
「ごめんなさい、人違いです」
にこが答える前に俺が答えておく。嘘をつくのは心苦しいけれど、今回に限っては仕方がない。
「そう……人違いでしたか。失礼しました」
「お姉ちゃん……」
赤髪の女の子が明らかに気落ちする。ていうか姉妹だったのかこの二人、全然見えない。
「ほらルビィ落ち込まないの、お二人に失礼ですわよ。さあ、帰りますわよ」
「うん。帰ったら一緒に
「そうですわね」
そうして姉妹が踵を返し、立ち去ろうとした矢先。
「待ちなさい!」
にこが去ろうとする姉妹を呼び止めた。
まさかとは思ったけれど、そこから俺が口を挟む隙は存在しなかった。
「私が……矢澤にこよ!」
高らかにそう宣言して、にこは変装用に被っていた帽子と眼鏡を外した。
髪の毛はツインテールではないけれど、生まれ持った顔立ちは変えられない。変装を解いた今、見る人が見れば彼女が矢澤にこ本人だと分かるだろう。
「ほ、本当に、あの矢澤にこさんですの!?」
「でも、さっき人違いだって……」
姉妹の二人ともまだ半信半疑といった様子。今ならまだ引き返せるが、にこはそれを選ばなかった。
「ごめんなさいね。でも安心して、私が正真正銘の矢澤にこよ。さっきはマネージャーが勝手に言ったことがから気にしないで、あとで叱っておくわ」
「マネージャーさん……?」
赤髪の子が俺に視線を向けてくる。
いきなりマネージャーという設定を振られどうしたものかとにこを見ると、マネージャーとして振る舞えとアイコンタクトを送られた。
恋仲だとバレるよりかはマネージャーで押し通す方が遥かに懸命なのは明白なので、咄嗟のこととはいえ俺はマネージャーを演じることにする。
「はい、先ほどは申し訳ございませんでした。ですが矢澤がここに来ているのは、どうか他言なきようお願いします」
「なるほど、承知致しましたわ」
どうやら上手くいったようで、ひとまず安心してため息をつく。
だけど、にこはどうして正体を明かしたのだろう。やっぱりファンを大事にするアイドル精神みたいなものが働いたのだろうか。
「あ、あのっ、にこちゃん! サインください!」
「サインね、いいわよ」
「わ、わたくしもお願いしますわ!」
姉妹はにこにノートを差し出しサインを要求する。にこは満面の笑顔でそれを受け取り、サインに応じていく。
「二人とも、名前はなんていうの?」
「黒澤ルビィっていいます!」
「黒澤ダイヤですわ!」
「ルビィちゃんとダイヤちゃんね。良い名前じゃないの……はい、書けたわ。どうぞ」
にこは慣れた手つきでサインを書き終えた。受け取った二人は感極まった声をあげて、大変喜んでいる様子だった。
その様子を見ていると、先ほど人違いだと言ったことが申し訳なく思えてきた。
「実は、その……ルビィとお姉ちゃんも、スクールアイドルなんです!」
「すごいじゃない。応援するわ、なんてグループなの?」
「はい! Aqoursって言います!」
なんと、彼女たち二人もAqoursらしい。ダイビングショップの二人といいお寺のヨハネとずら丸といい、すごい偶然が重なるものだ。
「Aqoursって、ヨハネちゃんと同じグループ?」
「そうです! 善子ちゃんを知ってるんですか?」
「さっき偶然会ってね。もう一人はずら丸ちゃんだっけ? あとはダイビングショップにも二人いたわね」
「それ、花丸ちゃんです! ルビィのお友達!」
「ダイビングショップのお二人は、おそらく果南さんと鞠莉さんですわ」
「そうなのね、教えてくれてありがとう。じゃあ悪いけど、私はそろそろ行かないといけないから」
そう言ってにこは立ち去ろうとする。
「サインありがとうございました! これからも頑張ってください!」
「ありがとう。ダイヤちゃんとルビィちゃんも、スクールアイドル頑張ってね。応援してるわ」
にこは最後に姉妹と握手を交わした。
それから俺とにこは姉妹と別れて、再び宿を目指して歩き出した。