矢澤にことのキャンパスライフ! 作:ゆいろう
にこが黒澤さん姉妹にサインを終えたあと、程なくして俺たちは宿に戻ってきた。宿に帰ってきた俺たちはひとまず部屋に戻って荷物を置き、散策でかいた汗を流すため温泉に入ることにした。
俺はあまり長風呂が得意ではないのだけれど、それでもこの日は疲れを癒すためいつもより長めに入っていた。さっぱりリフレッシュできて気持ちよく風呂から上がると、まだにこの姿はなかった。
温泉から上がったあとはフロントの前にある待合スペースで落ち合うことになっていた。にこの姿がまだ見えないということは、おそらく未だ温泉に浸かっているのだろう。女性の風呂は男性より長いのが一般的だ。
にこが上がってくるまで俺は待つことになる。待合スペースにある椅子に腰掛け、スマホでネットニュースなどを見てにこを待つことにする。ゆったりとした浴衣に身を包んでいるおかげか、自然とリラックスした時間を過ごせそうだ。
そうやって時間を過ごして五分ほどが経った。未だにこの姿は見えず、俺とスマホのにらめっこは続いていた。
そんな時、ふと耳に誰かが口ずさむメロディが入ってきた。ソプラノで奏でられる音の羅列は、違和感を抱えながら同じフレーズを繰り返していく。
「ふんふんふーん……なんか違う。ふんふふーん……これも違うわ……」
そんな悩ましい声とハミング。音楽家としての癖が出てしまったのだろうか、俺はスマホに視線を向けたまま、無意識のうちにそれに答えていた。
「ふんふんふふーん」
「……ッ! そう、それよ!!」
「えっ?」
そこで俺は近くにひとりの少女がいることに気づき、間の抜けた思わず声が出た。
利発そうな桜色の少女は、やや興奮気味に俺のほうへズイッと顔を寄せてくる。
「あのっ!」
「は、はい。なんでしょうか……」
その勢いに押されて少し後ずさる素振りを見せるが、少女は気にした様子もなく続ける。
「作曲を、教えてください!」
「…………はい?」
それから呆気なく少女の勢いに負けた俺は、少女に連れられてひとつの部屋に案内された。その部屋には千歌ちゃんと、もうひとり知らない活発そうな少女がいた。
活発そうな少女は千歌ちゃんの幼馴染で、渡辺曜ちゃんと言う。そして俺に声をかけてきた少女は、四月に千歌ちゃんの学校に転校してきた桜内梨子ちゃんと言うようだ。
「でもラッキーだったね梨子ちゃん、プロの人に教えてもらえるなんて」
「まさかプロの人だったなんて、知らなかったのよ……」
梨子ちゃんに連れてこられた俺は、成り行きのまま彼女に作曲を教えている。
互いの自己紹介をしたときにプロであることを伝えると、梨子ちゃんはさっきまでの勢いを失って途端に申し訳なさそうに委縮し始めた。
「ここはこの部分をいじれば、できると思うよ。やってみて」
「あ……ほんとだ。ありがとうございます」
梨子ちゃんの前にはノートパソコンが置かれていて、俺はそれを横で見ながら彼女に教えている。教えていると言っても、俺がしているのはソフトの使い方や簡単なアドバイスぐらいだ。
梨子ちゃんはまだ作曲を始めて三ヶ月ぐらいらしく、パソコンの作曲ソフトにもまだ慣れていないようだった。それでも何曲かは作り上げていて、聞かせてもらうとなかなかに良い曲だった。
「そういえば、作曲は趣味でしているのか?」
ふとそんな疑問が浮かんで聞いてみると、曜ちゃんが話し始めた。
「趣味……と言えば、趣味なのかな?」
「スクールアイドルはやりたくて始めたから、趣味みたいなものかも」
的を得ていない曜ちゃんの言葉に、千歌ちゃんが補足してくれる。しかしその中に、気になる言葉があった。
「スクールアイドル?」
「はい! 私たちスクールアイドルなんです!」
千歌ちゃんは誇らしげな顔で言った。旅行で訪れたこの場所で、今日はやけにスクールアイドルに遭遇する。それも今まで出会ってきたスクールアイドル全員が、同じグループ名ときた。
もしかしたら彼女たちもそうなんじゃないかと思い、おそるおそる尋ねてみる。
「そうなんだ。ちなみにグループ名は?」
「はい、私たちは――」
千歌ちゃんが言葉の続きを紡ごうとした、その時。
背後の扉が、大きな音を立てて乱暴に開かれた。
「――アンタねぇ……」
俺が最もよく知る声がした。
おそるおそる首を後ろに回していくと、そこには浴衣姿で仁王立ち、鬼の形相をこちらに向けている俺の彼女、矢澤にこがいた。
「私をほったらかしにして……なに女子高生とイチャイチャしてんのよーーーー!!」
にこの平手が強烈な衝撃をもって頬に直撃した。
***
「へえー、アンタたちスクールアイドルなんだ」
それからにこも参加して、千歌ちゃんたちと雑談を始めた。千歌ちゃんには今朝に正体を明かしているので、曜ちゃんと梨子ちゃんにも、にこは自分の素性を打ち明けた。
最初は曜ちゃんと梨子ちゃんも驚き緊張している様子だったけれど、しばらく会話すると徐々に落ち着きを取り戻した。
話は俺がにこにビンタされる前に戻った。俺の頬には季節外れの紅葉が鮮やかに咲いている。
「はい! Aqoursっていうグループです!」
それを聞いた俺とにこは自然と顔を見合わせた。Aqoursといえば、今日出会ってきた人たちと同じグループだ。
「もしかして、ダイヤちゃんとルビィちゃんも同じグループ?」
「そうです。二人を知ってるんですか?」
「ここに帰る途中に会ってね。あとはヨハネと花丸ちゃんと……」
「果南さんと鞠莉さんだったかな? その人たちとも会ってるよ」
「すごい、私たちも入れたらメンバー全員ですよ!」
曜ちゃんが食い気味に答える。しかしメンバー全員とたった一日で遭遇するとは、すごい偶然だ。
今日出会った九人のスクールアイドル。いずれも個性溢れる少女たちだった。そういえば、にこのいたμ’sも九人のメンバーだった。
もしかしたら、これは偶然ではないのかもしれない。そう考えてしまうほど、どこか運命じみたものを感じてしまう。
「あの、にこさん」
千歌ちゃんが、何か聞きたそうな表情をしている。にこが続きを促すと、千歌ちゃんは話し始めた。
自分たちの通う学校が廃校になるかもしれないということ。入学希望者を0から1に、1から10に増やしていって学校を存続させたいということ。
かつてにこのいた音ノ木坂と酷似した境遇。そしてにこがスクールアイドルだったように、彼女たちもまたスクールアイドルなのだ。
「私たち、どうしたらμ’sみたいになれますか? どうしたらμ’sみたいに、学校を存続させられますか?」
真剣な表情で千歌ちゃんはそう尋ねた。彼女にとってにこは同じ境遇を乗り越えた、いわば生きた教材のようなものなのだろう。
その真っ直ぐな目からは、学校が大好きで、この場所が大好きで、だから守りたいという彼女の強い想いが感じ取れる。
しばらく考えていたにこが、千歌ちゃんを直視した。
「まず最初に大事なこと。アンタたちはμ’sにはなれないわ」
「そう、ですよね……」
千歌ちゃんが肩を落とす。聞いていた曜ちゃんと梨子ちゃんも同様に、暗い表情を浮かべていた。
しかし、にこは容赦なく言葉を続ける。
「μ’sだけじゃなくて、どんなアイドルもそう。誰も、誰かにはなれないの。にこだって、μ’sの矢澤にこにはなれないんだから」
「……? にこさんは、μ’sじゃないんですか?」
キョトンとした顔をする千歌ちゃん。にこの言っていることは彼女たちにとっては少し難しいのかもしれない。
「全然違うわ。μ’sのにこは、他のメンバーがいたから輝けたの。矢澤にこ一人だと、μ’sの矢澤にこにはなれなかった。昔それに気づかないで、辛い思いをしたから分かるわ」
当時のことを思い出して胸が痛くなる。μ’sの幻影を追いかけていたにこは、見ていて辛かった。
μ’sみたいになりたいと言った千歌ちゃんも、もしかしたら届かない理想に直面したとき、にこみたいになるかもしれない。
にこなりに彼女たちのことを気にかけての言葉だったのだろう。
「それと、ひとつ聞いてもいい?」
千歌ちゃんがコクリと頷く。
その純粋な瞳に、にこは問いかけた。
「千歌は、どうしてスクールアイドルになったの?」
単純な問いだった。千歌ちゃん自身がなぜスクールアイドルになったのか、なりたいと思ったのか。にこは今、その想いの根源を掘り起こそうとしている。
「……たい」
ポツリと千歌ちゃんが呟く。小さくてよく聞き取れなかった。しかし次の瞬間、千歌ちゃんは勢いよく立ち上がった。
「――私、輝きたい! キラキラしたいんです!」
それは抽象的な表現だった。だけど、彼女の真っ直ぐな想いがひしひしと伝わってくる。現に彼女の瞳は、キラキラと輝いている。
良い答えだと思った。隣にいるにこの横顔をみると、どこか満足気な笑みを浮かべていた。
「良い理由じゃない。その気持ちがあるなら、どうすればいいかは自ずと見えてくるはずよ」
「ほえ?」
さっきの眩しい顔はどこへやら、千歌ちゃんは間の抜けた表情を浮かべた。
にこは若干呆れながらも、簡潔に伝えた。
「アンタだけの輝きを見つけなさいってことよ」
「私だけの、輝き……」
「そうよ」
誰かになるんじゃない、なりたい自分になるんだ。おそらくにこはそう伝えたいのだろう。
しかし全てを言葉で伝えると、千歌ちゃんのためにならない。最後は彼女自身が考えて答えを出さないと意味がない。にこは千歌ちゃんに、考えるきっかけを与えたのだ。
「じゃあ、私たちはそろそろ部屋に戻らせてもらうわ。ほら行くわよ譜也」
「おう。じゃあ三人とも、頑張れよ。応援してるぞ」
「私も応援してるわ」
***
「あれで良かったのか?」
「あれって何よ」
束の間の休息を終えて東京に帰る新幹線の中、俺は隣に座るにこに尋ねた。しかし意図が伝わらなかったらしく、にこは少し不機嫌そうに顔を歪ませた。
「千歌ちゃんたちにしたアドバイス。もう少し分かりやすく伝えても良かったんじゃないか?」
俺自身はあれぐらい考える余地を与えて良かったと思っているのだけれど、あえてそう聞いてみた。
するとにこは、どこか確信めいた顔をしながら答えた。
「良いのよあれぐらいで。彼女たちなら大丈夫よ」
「へえ、結構自信あるんだな」
「まあね。知ってる? 実は私プロのアイドルなの」
「へえ……それは初耳だな」
突如始まった謎のノリに乗っかってやると、なぜか横から黙って足を蹴られた。理不尽だ。
抗議してやろうと思いにこに目をやると、にこは窓の外に視線を向けていた。窓の外からは、綺麗な富士山が見えている。
「にこも頑張らないといけないわね。自分だけの輝きを手に入れるために」
車窓の向こう側をぼんやりと眺めながら、ポツリとにこは呟いた。
彼女の目に、あの富士山はどのように映っているのか、少しだけ気になる。
「もう輝いてるんじゃないのか? プロのアイドルなんだから」
俺は当然そうだと思った。プロのアイドルというのは、既に自分だけの輝きを持っている存在ではないのだろうか。
そんな俺の疑問を、にこは軽くあしらうかのように嘲笑した。
「まさか……まだまだこれからよ」
冗談で言っているようには見えない。にこは本気で、自分だけの輝きを持っていないと思っている。
また高すぎる理想を持ったせいで、自分を見失うかもしれない。心配になって窓に映るにこの顔を覗き込んだ。しかし、にこの表情はどこか嬉しそうだった。
それが何故なのか俺には分からないけれど、その顔は不思議と俺を不安を取り去っていった。きっと心配いらないだろう。
すると、にこは俺に背を向けたままポツリと呟いた。
「だから、これからもよろしく頼むわよ」
後ろからも見えるにこの耳はほんの少し赤くなっていて、窓に映る顔は照れくさそうだった。
「こちらこそ、これからもよろしくな」
そう言った自分の顔が、窓に気持ちの悪い笑みを浮かべて映っている。
すると窓越しに、にこと視線が合った。次の瞬間には、再びにこに黙って足を蹴られていた。