学戦都市アスタリスク 『道化/切り札』と呼ばれた男 作:北斗七星
「せ、先日は大変失礼しました!」
凜堂が応接室に入るなり、綺凛はあたふたしながらソファから立ち上がって頭を下げた。
「いやいや。お前が謝るようなこたぁ何も無いだろ」
凜堂は片手を振り、綺凛の頭を上げさせる。
男子寮応接室の広さは八畳程度だ。革張りの応接セットがある以外、目立ったものはない。窓は無いが、代わりに表示ウィンドウが擬似的に環境を再現してそれっぽく見せている。
「それより、俺のほうこそ悪かったな。首突っ込まれて、むしろ迷惑だったろ」
「そ、そんなことありません……」
首をプルプルと振った。やはり、彼女の動きはどこか小動物を連想させる。決闘の時に対峙していた人物なのかと、半信半疑になってしまうほどのうろたえっぷりだ。
「あ、あの……怒ってないんですか?」
「何で俺がお前さんに怒らなきゃいけねぇんだよ」
苦笑しながら肩を竦めて見せる。凜堂の穏かな雰囲気に綺凛の表情が和らぐ。
「もっとも、お前の伯父のおっさんには腸が煮えくり返ってるけどな」
一転して、獰猛な野獣のように唇を歪める凜堂に綺凛はあぅ、と涙目になりながらももう一度謝罪した。
「そ、その事に関しては本当に申し訳……」
「だから、何でお前が謝んだよ?」
再び俯いた綺凛を前に凜堂は軽くため息を吐く。内心、どうすれば良いか分からない。こっちが俯きたいくらいだ。
礼儀正しくいい子なのは確かだが、それに比例するように気が小さいようだ。
(これで序列一位なんだよな? 本当に凄ぇギャップだ)
とりあえず、と凜堂は今にも泣き出しそうな綺凛の顔を両手で包み、自分と視線が合うように持ち上げた。
「ふぇ?」
凜堂の突然の行動に綺凛が目を丸くしていると、凜堂は真っ直ぐに瞳を覗き込む。
「一つ、人と話す時はキチンと相手の目を見て話すこと。そうすりゃ、自然と相手もお前の話を聞いてくれる。二つ、伝えたいことがあるならちゃんと口に出すこと。そうしなきゃ伝わるものも伝わらないぜ」
そしてその三、と凜堂は綺凛の頬を摘み、みょーんと伸ばした。勿論、痛くならないように絶妙な力加減を加えながらだ。
「女の一番の化粧は笑顔。はい、復唱!」
「お、おんにゃにょいちばんにょけひょうはえがお」
よろしい、と綺凛を放す。あぅぅ~、と戸惑いながら綺凛は少し赤くなった頬を擦った。
「泣いてる時よりも、笑ってる方が可愛いってのは全ての女性に共通してる。だから泣くより笑え。というより、笑ってくださいお願いします。目の前で泣きそうになられると罪悪感半端ないんで。OK?」
「は、はい」
「いい返事だ」
凜堂は微笑みながら律儀に頷いた綺凛の頭に手を乗せ、優しい手つきで撫で始める。
「はふぅ……」
気持ち良さそうに綺凛は目を細めた。心なし、頬がほんのり赤い。凜堂は綺凛の目から涙が無くなったのを見て、最後にポンポンとやってから手を引く。あ、と綺凛は少しだけ名残惜しそうに凜堂の手を見ていた。
「で、何のようだ? わざわざ、俺に謝るためだけに来た訳じゃないだろ?」
「いえ、そうですけど?」
「え?」
「え?」
互いにキョトンとしながら首を傾げる。当然と言わんばかりに答えた綺凛を見るに、謝罪以外に何の目的も無いようだ。
「真面目だねぇ。清廉とも言えるな」
「い、いえ、そんな……後、謝りに来ただけじゃなくて……あの、ありがとうございました!」
そう言って、綺凛は深々と凜堂に頭を下げた。これで三度目だ。赤べこかお前は、と凜堂も流石に呆れる。それ以前に凜堂には綺凛に礼を言われるような心当たりは無かった。
「ってか、文句を言われるならともかく、礼を言われるようなことした覚えないぞ、俺」
「そんなことありません! た、高良先輩は見ず知らずの私を伯父様から庇ってくれた上に私のことを気遣ってくれました……! あんなことになってしまいましたけど、本当に嬉しかったです!」
それに、素敵な女の子とも言ってくれた。そのことを思い出し、綺凛は顔を真っ赤にさせる。綺凛からの礼を受け、凜堂は深々と嘆息した。
「何もしてやれてねぇよ、俺は。結局、何の力にもなれなったしな」
「そんなことは……!」
言葉を続けようとする綺凛に凜堂は人差し指を唇に当てて見せる。そのジェスチャーの意味を理解した綺凛は疑問符を浮べながらも、素直に頷いて息を潜めさせた。
凜堂は極力、足音を立てないように扉へと近づき、扉を破壊しない程度に手加減しながら思い切り蹴り飛ばした。凄まじい音が響き、綺凛はびっくりしたように身を竦ませる。
「うおわぁっ!?」
扉の外から悲鳴が上がった。それだけではなく、ごろごろと複数の人間が転げ回るような音も聞こえてくる。凜堂は無言で扉を開き、扉に張り付いて話を聞こうとしていた連中を見下ろす。その中でもっともダメージが大きかったであろう友人に向かって絶対零度の視線を落とした。
「人の話を盗み聞きとは、いくら新聞部でもアウトロー過ぎるんじゃねぇか。ジョー?」
「は、ははは。まぁな」
顔が引き攣ってるのは、少なからず後ろめたい気持ちがあるからだろうか。
凜堂にとっては予想通りのことだったが、綺凛は違うようだ。目を見開き、応接室の前に転がっている者達を見ている。
「刀藤。話の続きは外でしよう。寮まで送っていく」
「は、はい!」
凜堂の提案に綺凛は大きく頷いた。
「こんな時間だってのに、外はまだ暑いな」
夏真っ盛りって感じね~、と凜堂は伸びをしながら鮮烈な赤に染まった空を見上げる。夕暮れの夏空は、眩暈を起こしそうなほど赤かった。
遊歩道にある街灯も光を放ち、その役目を全うしようとしていたが、赤い夕陽に飲み込まれて役割の半分も遂行できていなかった。
「……」
凜堂は並び歩いている綺凛を横目で見る。緊張しているのか、凜堂がそれとなしに話題を振っても全く乗ってこなかった。それだけじゃなく、綺凛の顔はほんのりと朱色に染まっている。もっとも、これは緊張のせいでも夕陽のせいでも無さそうだ。
「おい、刀藤。大丈夫か?」
「え? あ、はい、大丈夫れしゅ……!」
盛大に噛み、綺凛は夕陽の中でもはっきり分かるくらい顔を真っ赤にさせる。苦笑しながら凜堂は視線を前に戻す。
「別に緊張するこたぁ無いぜ。今、お前の隣にいるのはただの負け犬だ。気にする事なんざ、何一つないさ」
「そ、そんなことありません! 高良先輩は負け犬なんかじゃ……!」
予想以上に激しい返事に凜堂は勿論、本人である綺凛もビックリしたように目を見開いた。暫しの沈黙の後、綺凛は照れたような、恥ずかしそうな顔で笑みを作る。早速、凜堂の言った女の一番の化粧は笑顔、を実践しているようだ。
「ごめんなさいです。いきなり大声出して……私、家族以外の男の人とこんな風に歩くの、初めてで……」
「そうなのか?」
「はい。お父さ、父が厳しかったものですから」
厳格な家庭の中で育てられたのだろう。さすがは刀藤流宗家の娘。
「へぇ。刀藤流ってのは、稽古だけじゃなくて、私生活も厳しいんだな」
「うちの流派をご存知なんですか?」
「まぁな~。昔、強くなりたくて色々とやってる内に刀藤流の噂を聞いたことがあったし、『鶴を折るが如し』って謳い文句は有名だからなぁ」
凜堂が何気なく口にした一言に綺凛は嬉しそうに顔を輝かせた。
「あの、間違ってたら申し訳ないんですけど、高良先輩って我流ですよね?」
「そうだけど、良く分かったな?」
誰の教えも受けてない、という意味では我流だ。だが、正直に言えば、
(棍とかの方なら、我流って呼べるだけの鍛錬を積んだって自負があんだけどな……)
あはは、と引き攣った笑みを浮かべながら凜堂はあらぬ方を見る。凜堂とは正反対に綺凛はやっぱり、と目をキラキラさせ始めた。
「はい! すぐには分かりませんでしたけど、戦ってる内に分かりました! 高良先輩の闘い方は今まで試合をしたどの流派の人達にも共通していません。それに高良先輩は動く時に摺り足をしてませんでしたし。最初は私の知らない流派を使ってるのかと思ったのですけど、それにしても高良先輩の闘い方は自由すぎます。どんな流派であっても何かしらの特徴があるのですが、高良先輩の剣には特徴が全くありませんでした」
そりゃそうだ。剣に関する修行なんて今まで一度としてやったことがないのだから、特徴なんて出る訳がない。
確かに凜堂も誰と比べても遜色ないと言えるほどに鍛錬を積んでいる。黒炉の魔剣をそれなりに扱えるのも、弛まぬ修練があってこそだ。
だが、しつこいようだが、剣に関する修行は今の今まで一度もやったことがない。流石に今はやっているが、それも
綺凛のキラキラとした、尊敬の眼差しが凜堂の心をざくざくと抉っていく。
「剣筋がまるで読めなくて、雲と戦っているみたいでした! 我流と称して戦う人は何人も見てきましたが、高良先輩ほどの方は一人もいなかったです。自分の力だけであそこまでの領域に行けるなんて、一人の剣士として憧れます!」
(止めて! そんなキラキラした目で俺を見ないで! 俺はそんな尊敬されるような人間じゃないの!!)
綺凛の敬意の籠った眼差しを前に、凜堂はその場で悶えそうになる衝動を必死に抑えていた。気分はさながら、エクソシストに浄化される悪魔だ。
「イヤイヤ、ソンナコト無イデスヨー」
凜堂の囁きは届いてないのか、綺凛は身を乗り出すようにして言葉を続ける。
「それにあの
そこまで喋ったところで、綺凛ははっと口を噤んだ。顔を棗のように赤くさせ、ちょこちょこと後ずさって凜堂から離れる。
「ご、ごめんなさい。私、つい……」
何もそこまで恐縮せんでも、と凜堂は両手を上げた。その仕草からは小動物的なものを感じさせる。何というか、抱き締めながら撫で繰り回したい。そんな衝動に駆られてしまうほどだ。
「剣術、好きなんだな」
「は、はい」
目を逸らしたまま、それでもその質問だけにははっきりと答えた。ふと寂しそうに前を見ながら先を続ける。
「私は剣以外、何も出来ませんから」
「んなこと」
言いかけた凜堂に首を振ってみせる。
「いいんです。本当のことですから。私は頭も良くないですし、ドジで間抜けで臆病で、家事だって満足に出来ません……でも、そんな駄目な私でも剣を握っている時だけは誰かの役に立てるんです。だから、楽しいし大好きです」
「そうか……」
明確な意思と答えだった。凜堂が口出しする余地はどこにもない。だが、彼女の口にしていることが事実だとしても、やっている事との微妙な食い違いがあることを否めなかった。
「それに私には叶えたい、叶えなくちゃいけない願いがあります」
「それって何なんだ?」
「……父を助ける事です」
凜堂の疑問に答えるというよりも、自分自身に言い聞かせるような声音だった。
「そのためにあのやろ……おっさんの言う事を聞いてる訳か?」
流石にあの野朗呼ばわりははまずいと思ったのか、微妙に言い回しを考えながら凜堂は核心部分を突く。部外者である凜堂が踏み込んではいけない領域なのかもしれないが、だとしても聴かずにいられなかった。
綺凛は少し面食らった顔をしたが、それでも頷いてくれた。
「……伯父様はとても有能な方です。剣以外無能な私と違って……私が望みを叶えるために、適切で最短な道を示してくださいました。序列一位という分不相応な肩書きも、私一人では手に入れることなど出来なかったはずです……伯父様には感謝しています」
「出世に利用されてもか?」
そのことは綺凛本人が一番知っているだろう。驚くでもなく、諦観しきった顔で微笑んだ。
「私は自分の願いを叶えるための道を示してもらう。伯父様はその過程で相応の利益を得る。だから、これは対等な取引なんです」
「……あんなのは取引なんて言えねぇよ」
一方が暴力を振るい、もう一方が震えながら耐える。そんなもの、対等とは言わない。それ以前に、肉親が取引をする事自体ナンセンスだ。血の繋がりと愛情があれば、相手に利益など求めないはず。もっとも、鋼一郎のほうに愛情があるとはとても思えないが。
「伯父様は私達『
だから仕方ないのだと。自分が我慢さえしていればそれでいいと、綺凛の瞳は語っていた。
「んな訳……」
あるか、と続けようとして、凜堂は口を閉じた。これ以上、敗者に口出しする権利などない。勝者の行いにケチをつけるなど、敗者の領分を完全に越えている。
故に凜堂は口から出掛かってくる言葉を全て飲み下した。少なくとも、今はまだ言葉を伝えるべき時ではない。
「あの、ところで私もお聞きしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「何よ? 俺に答えられることなら答えるが」
これ以上、この話題を続けても互いに気まずくなるだけなので、凜堂は綺凛の振りに乗っかった。
「高良先輩はどんなトレーニングをしているのですか?」
「トレーニング?」
何の脈絡も無い質問に目をパチクリさせるが、隠すような事でもないので素直に答えていく。
「そうさな。朝は走りこみと素振り。後は黒炉の魔剣に早く慣れるためのイメージトレーニングくらいか。放課後はユーリと一緒にタッグの特訓をしてるしな」
「そうですか……」
何時の間にやら取り出したのか、メモを片手に綺凛は真剣な表情で凜堂から聞いたことを紙面に書き落としていた。
「走りこみはどのくらいやっているのですか? ルートはどこを通っているのでしょう? 後々……」
後から後から質問が飛び出してくる。どうやら、話題を変えるためじゃなく、本当に興味があったようだ。
事細かな質問になるだけ詳細に答えていく。やがて、綺凛は満足そうに息を吐きながらメモ帳をしまった。
「ありがとうございます。参考になりました」
「そりゃ重畳。にしても、随分熱心なんだな」
「はい。強い方の訓練方法は勉強になりますから」
お世辞など欠片も無い、純粋な笑顔だった。
「今は自分でメニューを決めないといけないのですが、それだと不安で……それに一人だと組太刀も出来ませんし」
「なら、俺達の特訓に参加してみるか? 勿論、お前が良ければだけどな」
凜堂の提案が余程意外だったのか、綺凛は驚きに目を見開く。
「い、いいんですか?」
綺凛の確認に凜堂は大丈夫じゃね? といい加減に答えた。そうなった場合、ユリスにも確認を取らなければいけないが、事情を説明すれば分かってくれるだろう……説教は確実だろうが。
綺凛は一瞬、とても嬉しそうに顔を綻ばせたが、すぐにしゅんとなってしまった。
「ごめんなさいです、高良先輩。お誘いは嬉しいのですが、リスト入りしている方、特に『
そりゃ何で、と聞こうとして凜堂は止めた。大体の想像がつくからだ。
「不用意に手の内を晒さぬように、とのことで……」
予想通り。
「なら、俺の早朝練習に付き合ってみるか?」
「高良先輩の、ですか?」
「俺は『
肩を竦めて見せる。これならあの爺も文句をつける余地がない。
「そ、それは高良先輩と、ふふふ、二人きりで、ということですか?」
「あぁ、だから安心していいぜ」
ユリスは何か言うだろうが、説得すれば大丈夫なはずだ。彼女はそんな狭量な人間ではない。凜堂の言葉に綺凛は何とも複雑そうに俯く。
「どした?」
「い、いえ、何でもないです……では、お言葉に甘えて」
綺凛は何でもないと首を振りながらはにかむ。
「んじゃ、細かい時間と場所は追って連絡するから、連絡先交換してもいいか」
「は、はい! どうぞ!」
妙に気合が入った様子で綺凛は凜堂に携帯端末を渡す。綺凛の様子に驚きながらも凜堂は自身の携帯端末を取り出し、テキパキと操作して互いの連絡先を送る。
「これでよし、と。ほい」
「あ、ありがとうございます!」
今までで一番嬉しそうな笑顔で綺凛は携帯端末を受け取る。そんなに早朝訓練に参加できるのが嬉しいのか? と的外れなことを考える凜堂。
その後、訓練の内容について話していると、何時の間にか女子寮の前についていた。
「あの、今日は色々とありがとうございました」
「俺のほうこそ。じゃあ明日、よろしくな」
「はい、また明日……!」
凜堂がくるりと踵を返そうとすると、
「あ、あの!」
背後から飛んできた綺凛の声に振り返る。顔を真っ赤にさせながら綺凛はもじもじしていたが、意を決したらしく凜堂に真っ直ぐ視線を飛ばした。
「その、訓練以外のこととかでも、連絡して構いませんか?」
綺凛の問いに凜堂は少しきょとんとしていたが、やがて小さく吹きだした。
「はは、別に構いやしねぇよ。俺なんかで良けりゃ、何時でも話し相手になるさ」
凜堂の返答に綺凛は顔を輝かせ、腰が直角になるくらい深く頭を下げた。そして顔を上げ、手をブンブンと振って寮の中へ小走りに戻っていく。こういうところは年相応だな、と凜堂は綺凛の後ろ姿を見送りながら思った。
「さって、俺も戻っかなぁ……ん?」
男子寮に帰ろうとした矢先、凜堂は微かな気配に足を止めた。その程度なら、別段気にする必要は無い。ただ、気配の主が自分を見ているなら話は別だ。敵意のようなものは感じないが、それでも凜堂のほうへ視線を送っている。
「……」
気配の主を探すべく、凜堂は周囲に視線を走らせる。だが、遊歩道に凜堂以外の人影はない。隠れる場所もそうは無い。あるとすれば、街路樹の陰か、それとも。
(上……!)
凜堂が頭上を見上げるのと同時に街路樹の枝が揺れ、そこから小さな影が飛び降りてきた。ギリギリで避けれそうだったが、凜堂は落ちてきた人物の顔を見て思わず足を止めてしまう。
「サーヤ!? ってどわぁっ!!」
幼馴染の奇襲のような抱擁を受け止めきれず、凜堂は派手にぶっ倒れた。紗夜は凜堂に馬乗りする形で座っている。
「あでで、何しやがるサーヤ……」
仰向けの体勢のまま非難するも、そんなのは関係ないと言わんばかりに紗夜は凜堂の瞳を覗き込んだ。
「……今の誰?」
相変わらず、抑揚というものを一切感じさせない平坦な口調だったが、目の奥にはキラリと光る何かがあった。
「いや、その前にまずどいてくれないか?」
「……いいから答える。さっきのは誰?」
「いいからどきなさい」
凜堂は紗夜の首根っこを掴み、そのまま紗夜ごと立ち上がった。星脈世代だからこそ、出来る芸当だ。凜堂は服についた土くれを払い、頬を膨らませている紗夜に向き直った。
「ってか、こっちも聞きたいんだがサーヤ。お前、こんな時間に木の上で何してたんだ?」
「……凜堂を探していた。高い方から探した方が効率的」
「だからって、こんな暗い時間に探せるわけないだろ……」
考えることが妙に子供じみている紗夜に呆れつつ、凜堂は訊ねた。
「で、何で俺を探してたんだ?」
「タッグパートナーの件。答えを聞かせて欲しい」
本気で今から出場するのかよ、と驚くも、凜堂はきっぱりと返事した。
「悪いが、俺はユーリを護るって約束した。今更、それを反故にする気は無い」
そして、それが凜堂の選んだ道だ。
「……そうか。分かった」
凜堂の答えを聞き、紗夜はあっさりと引き下がった。基本、頑固な紗夜だが、こちらの意思を無視してまで何かを強要することは無い。こんなやり取りをよくしてたものだ、と凜堂は妙に懐かしい気分に浸る。
「……それで、さっきのは誰?」
郷愁を覚える凜堂を現実に引き戻す紗夜の問い。その瞳に若干以上の警戒心があるのは見間違いだろうか。
「あいつは中等部の刀藤綺凛。学内ニュースで聞かなかったか?」
「……あぁ。昨日、凜堂と決闘したっていう序列一位」
「そ」
と、紗夜は眉を顰めて何やら不機嫌そうにさっきまで綺凛のいた場所を見た。
「ということは、あれで中等部の一年……」
自分の体を見つめながら、ペタペタと触っていく。特に(どこかは伏せておく)体のある部分を重点的にタッチしながら囁いた。
「……世界には悪意が満ちている」
「何のこっちゃ」
とは言うが、紗夜が何を言わんとしているかは分かる。なので、凜堂は何も言わなかった。わざわざ、地雷原の上に飛び出してタップダンスをするほど彼は馬鹿じゃない。
「まぁ、あいつはあいつで色々と抱えてるみたいだぜ。お前みたいにな」
「……どゆこと?」
「あいつ、自分の父親のためにアスタリスクに来たみたいだ。細かい事情は聞いてないけど、そこら辺はサーヤと似てると思うぜ」
「……」
紗夜は否定も肯定もせず、いつもの調子で呟いた。
「父親……」
翌朝の高等部校舎前。
凜堂が待ち合わせの場所に指定したそこには綺凛の姿があった。待ち合わせの時間にはまだ、五分ほど時間がある。五分前行動とは、どこまでも律儀な子だ。
「お早うございます、高良先輩」
「おっす、刀藤」
両者ともに制服ではなく、凜堂は訓練用のシャツとジーンズを、綺凛は可愛らしいトレーニングウェアを纏っていた。腰にはウェストポーチと日本刀を差している。凜堂もそれぞれのホルスターに鉄棒×六と黒炉の魔剣を収めていた。
「んじゃ、早速走りますか……と、その前に準備体操だな」
「はいっ!」
まずは体を温めるため、しっかりと準備体操。
「いっちにぃーさんしぃーごーろくしちはち!」
「いっちにぃーさんしぃーごーろくしちはち!」
二人仲良く声を出しながら体を動かす。非常に微笑ましい光景だ。
「いっちに、いっちに!」
ただ一点、弾む綺凛の胸を除いて。綺凛の動きに合わせてバウンドするのだから、もう手に負えない。加えて綺凛がそのことを一切気にしてないため、改善されるとは思えない。いや別に悪いことではないのだが。
(これ、注意したら絶対にセクハラだよな?)
未だかつて、そう、ユリスとの訓練の際にも発生しなかった事態に凜堂は頭を抱える。同時刻、ユリスがベットの中で可愛らしくくしゃみをしたのはどうでもいいことだ。考えた末、凜堂が出した結論は、
(無視しよう)
別にクローディアのようにからかい半分で押し付けてくる訳ではない。だったら、注意を割かなければいいだけの話だ。よし、と凜堂が視線を上げると、準備体操を終えたのか綺凛が凜堂の顔を覗きこんでいる。
「あの、どうかしましたか?」
「……いや、何でもない」
制服よりも体のラインが強調されるトレーニングウェアを前にして、凜堂はそれだけしか言えなかった。
「そういや、刀藤はどんなコースを走ってるんだ? 俺は昨日も言ったとおり、その日の気分で変えてるんだが」
「私はアスタリスクの外に出て、アスタリスクの外周をぐるっと回ってます」
「外に出るのか?」
気紛れでコースを変えるが、それでも凜堂はアスタリスクから出て外を走ったことはない。それはそれで新鮮そうだ。
「んじゃ、俺もそれについて行こうかね」
「分かりました。じゃあ、私が先導します」
綺凛は年相応の可愛らしい笑顔で笑う。
昨日から見てても分かる事だが、綺凛は決して陰鬱な少女ではない。寧ろ、その真逆の感情豊かな子だ。ネガティブな顔をしている方が多いのは確かだが、時折見せる笑顔はとても可愛らしかった。
だからこそ、心苦しく思う。彼女が寂しげな表情を見せるのが。綺凛に限った話ではないが、女性には笑顔でいて欲しいと、凜堂は心の奥底で思った。
「高良先輩?」
「何でもないってばさ。んじゃ、お願いするわ」
凜堂もそれなりにアスタリスクに慣れてきたが、それはあくまで星導館学園敷地内に関してだ。都市部はユリスに案内してもらっただけで土地勘があるとは言い難いし、それ以外で言った事も無い。
「分かりましたっ」
可愛らしく気合を入れる。その瞳は真剣そのものだ。
「あ、その前に……高良先輩、ウェイトって使ってますか?」
「ウェイト?」
「こういうのです」
綺凛はポーチの中からゼッケンのような物を取り出し、凜堂に差し出す。片手で受け取ってみるが、予想に反してかなりの重量があった。恐らく、星脈世代でもなければ持ち上げることも出来ないだろう。
「学園の敷地内なら私達が全力で走っても問題ないですけど、外はそういうわけにはいきませんから」
「あぁ、確かにそうだな。今まで行ったことがないから、考えたことも無かった」
星脈世代は軽く走っても自動車と同程度の速度を出せてしまう。全力で走れば、自動車すら追い越すだろう。そんな速度で星脈世代でもない一般人とぶつかればどうなるか、想像に難くない。
星脈世代が常人を傷つけた場合、余程の事情が無ければ厳罰に処される。例え、過失であったとしてもだ。
幼少期、凜堂は星脈世代の力を遺憾なく発揮させて暴れ回っていた時期がある。いくら幼く、周囲の理解があったとはいえ当時の凜堂が何のお咎めも無しだったのは本当に奇跡のようなことだ。
「これをつけていれば、全力で走ってもそこまでスピードは出ませんし、トレーニングにもなります」
「は~、成る程」
基本的に訓練の時に使う道具は鉄棒くらいなので、凜堂にとってこういった工夫は新鮮だった。
「高良先輩の分もありますので、どうぞ使ってください」
「そうなのか? そいじゃ遠慮なく」
付けてみると、想像以上に重かった。確かにこれは鍛え甲斐がありそうだ。
「じゃあ、私が先を走りますから、付いてきて下さい」
心なし、嬉しそうにしながら綺凛は凜堂を先導して走り始めた。
この調子で書いていければ、後、五話以内には原作二巻を終わらせられるかな。