今回もweb原作ネタバレ注意です。
その男は胃痛を抱えながら椅子に腰かけていた。
疲労の濃い表情ではあったが、そこに安堵もあったのは、人類が初めて目の当たりにした大戦の結末が見えていたからだ。巻き込まれた国々のここまでの道のりに思いを馳せれば、大陸が違うとはいえ、我々は非常に幸運であったと言えるだろう。
その中でもとりわけ印象に残っているのは、連邦で最も相手にしたくないと考えていたロリヤの末路だ。白銀奪取作戦の失敗を受け中枢から遠のいた彼は、復権を賭け、単独ルートで合衆国の新型爆弾へ手を出したのだ。うまくいけば帝国東部戦線を崩壊させ、連邦が帝国を呑みこむこともできたかもしれない。だが、そうなる前に、ロリヤが勝手に動いたことがヨセフをとうとう怒らせた。『病気療養』などと言われてはいるが、ほぼ間違いなくこの世にはもういないだろう。
なぜ印象に残っているのかと言えば、それが合衆国としてもタイミングが良かったからだ。ちょうど帝国の使者、ウーガによってもたらされた情報を精査し終わったときだったのだ。おかげで、ロリヤの思惑に乗り、先走って新型爆弾を使用しようとする一派を適切に処分することができた。あの爆弾が使用されていれば、この後迎えようとする軍人らは素直に従わなかっただろう。
どうしようもないその一派を思い出し、薄いコーヒーを飲みながら男はトントンと神経質そうに指で机を叩く。
この後を考えれば、あれが実行し得たという事実が重く横たわる。なにせ我が国が得たそれが世界に広がれば次なる大戦も避けられそうにないので。
同時にかつて袂を分かった連合王国首脳部にはあきれ果てるしかない。早々に帝国を占領すれば合衆国に旨みを持っていかれることも無かっただろうに。
とはいえ、おかげで、我が国があの狂犬を確保できる。確定された戦争裁判の判決を考えれば、その意味は大きい。再軍備を恐れる声が上がるのは避けられないので、その要を抑えられるかどうかは政治的にも役立つ。
そんなことを考えていれば、かの日のウーガの言葉が浮かび上がってくる。
――白銀の首輪、興味ありませんか?
お世辞にも交渉に慣れていなさそうな軍人から出たその比喩に、聞いた時にはなんのことかと思ったものだ。だが、あの情報があるかないかで我々のとるべき行動が変化した。
あとは、そのための任務を自分が担いさえしなければどれだけよかったことか。
ため息をつき、腹を押さえながら呻いていると、己の右腕が入室してきた。
「局長、お時間です」
わかったと応えて彼はその部屋を出る。迎えに行く先を考えて胃が再び悲鳴を上げ出すが、これも平和のためだ。仕方が無い。
* * * * *
帝国は敗北した。
受け入れがたいそれを、祖国が焼かれるという過ちによって目の当たりにし、ゼートゥーアが震える手で調印したのももう数週間も前の事だ。あれ以来、帝国は戦勝国の管理下に置かれ、両将軍もレルゲンもそれぞれ個室が与えられた上で軟禁されている。他のものが聞けば驚くだろう。その対応は敗戦国の中枢にいた将校に対するものとしてはありえないほどに優遇されている。正直この後何が待ちかまえているのかと勘繰るレベルだ。
そんな中、レルゲンは椅子に深くからだを預けて、自らの家の鍵を手のひらで転がしていた。いつもと変わることなく鈍く光るそれを、ここのところ毎日眺めている。
彼女は今何をしているのだろう。この情けない姿を見たら失望されてしまうだろうか。
鍵を見るたびにあの家で過ごした幸せのひと時を思い出し、その瞳は愁いを帯びる。
その目は決して窓の外を見ることはない。部屋の規模に比して大きな窓の、その外には焼けた帝都が広がっている。この部屋の窓からはどれだけの範囲が焼け野原になっているのかがよくわかる。まるでお前たちは守れなかったのだと見せつけるように与えられた部屋だ。帝国の未来を支えるべき青少年は命を散らし、辛うじて生きながらえた市民は家を失い寒さを凌ぐ場所を探しているのだから。
それなのに、自分はこうして一定のものを与えられている。
世界はこれほどに不公平で残酷なのだ。その中で我々は本当に最善を尽くせただろうか。
愛すべき化け物のその在り方が、今更になって突き刺さる。彼女と同じように考え、行動できていれば。あの視線の先と同じものをもっと早くから見ていれば、もっと違った姿があったのではないか。
自らの無力さと後悔に苛まれ、どうやって罪を償えばいいのか考える日々。
目指す先を失い、何かが欠け落ちたかのようにぼんやりと過ごす彼の頭を過るのは、情けないことに、やはりあの少女の姿だった。
彼の掌から望んで飛び立った妖精。
それを思えば息が出来なくなるほど辛く、失ったあたたかさが彼の身を苛む。それでも彼女が生きていてくれるなら、手放したこの判断は間違っているとは思わなかった。共に地獄への道行きを歩んでほしいなどとは一片たりとも考えておらず、むしろターニャを少しでも光見える場所へ送り届けられたことに自画自賛している。
それは化け物を愛した男の矜持だ。最後に抱える想いとしてこれくらいは許されるだろう。
ふっと自嘲気に笑っているとコンコンと部屋の扉が叩かれる。
からだを起こし、鍵をズボンのポケットに仕舞い込んで彼はその扉を注視する。
食事が運ばれる時間にしては早い。先日裁判のためベルンを後にした閣下たちのように、自分もどこかへ移送されるのだろうか。……ようやくこの国に殉じることが許されたのか。
そして、ゆっくりと開かれた扉から、するりと入ってきたその影にレルゲンは瞠目する。
「エーリッヒ」
次いで記憶と違わぬその声を聞き、背筋が甘く震えた。あらゆるものに優先して彼に届く、何よりも愛しい、彼女の声。
「たー、にゃ?」
茫然とした自分の声が遠くに聞こえる。体が鉛になったかのように重くて動かない。
夢を見ているようだった。
もう会えないだろうと思っていた彼女がそこにいた。
「本当に、きみなのか。ターニャ……」
おぼつかない足取りで彼女の目の前に立つ。ターニャはそれをそっと待っていた。逃げない彼女に、わずかに腰を曲げその瞳を覗き込む。さらに震える手が彼女の輪郭を確かめるように頬を撫でる。
「どうしたのですかエーリッヒ。いつもの理性はどこへ行ったのです?」
そう問うてくる彼女の声音が本当に優しくて。
その見つめてくる彼女の双眸が本当に美しくて。
レルゲンは未だ夢の中にいるような気がしていた。
「言ったではありませんか。必ずあなたの下に戻ると」
「…あぁ…ああ、そうだったな……いつだって、きみは私の想像を超えてくる」
彼女が望んで戻ってきてくれた。その事実にもう耐えられなかった。
あの日と同じように顔をくしゃくしゃにしてあたたかな涙を流す彼を、ターニャは愛しげに見つめる。そしてふっと笑って、彼女の手が眉間に触れようと手を伸ばす。
「またしわが寄っていますよ」
以前からときどきターニャがしてくれたその仕草は、不器用な彼女が自ら示してくれる数少ない愛情表現のひとつ。そして、彼が最も愛している仕草のひとつでもあった。
ターニャが本当に戻って来てくれたのだと、ここにきてレルゲンはようやく飲みこめる。
彼は膝から崩れ落ち、そのままターニャを強く掻き抱いた。彼女もレルゲンの背に手を回し、同じように抱きしめてくる。
部屋に男の泣き声がこだました。
しばらくして、ターニャがあやすようにぽんぽんとレルゲンの背を軽く叩く。全く、これではどちらが大人かわからない。
「そろそろよろしいかな」
蜜時への闖入者にレルゲンは柳眉をひそめるが、ターニャは途端に軍人の顔になる。それを見てレルゲンも立ち上がり、右腕で彼女の肩を抱えたまま、その顔から一切の感情を拭い去った。
「紹介します、エーリッヒ。彼は合衆国のカンパニー局長、ジョン・ドゥ氏です」
「初めてお目にかかる。あなたとは良い関係を築けると確信しておりますよ、エーリッヒ・フォン・レルゲン“大将”閣下」
眼鏡の奥でレルゲンの目が鋭く光る。ちらりとターニャの様子を伺えば、彼女は彼を見て泰然と微笑んでいた。それを見て理解する。
「……なるほど、長い付き合いになりそうですな」
同日、ゼートゥーアとルーデルドルフはその身に全ての戦争責任を引き受け、処刑された。彼らが一身に負ったことで幾人かの軍人は公的な戦争責任という枷から放たれることになる。
恐るべきゼートゥーア。そしてその盟友たるルーデルドルフ。
その死によってライヒが得た小さくも輝かしい勝利。それに気づいた者たちは、その胸に祖国再興への誓いを新たにする。
こうしてライヒは辛うじてその生命線を未来へ繋ぐことに成功したのである。
明日、エピローグを投稿いたします。