その日、珍しく丸1日の非番を与えられたレルゲンは自分の書斎で本を読んでいた。
時折家の奥、具体的には浴室のあたりから「やめてください!」「お願いですから」という悲鳴にも似た懇願が聞こえてくるのだが、それは心を鬼にして耳を閉ざすことに決めている。
というよりも、そうせざるを得なかった。
当初、あまりにもその声が困惑しきっていたので止めようと声をかけたのだが、「女性の秘密に立ち入るとは何事ですか」とマルガに叱られてしまったのだ。それ以後も幾度か彼女を助けようと試みたが、その度に激しさを増す鬼の形相で追い出され、今に至る。
力になれず申し訳ないとは思うのだが、女性の秘密という彼にはどうしようもない言葉を持ちだされては諦める他ない。
そうして彼は一人寂しく本をめくっている。
本来であれば彼女とコーヒーでも飲みつつ、様々なことを語らおうと思っていたのだが、何故かそうなってはくれない。これではいつもの休みと変わりないなと、窓の外を眺めてしまう。
「まぁまぁまぁ!さすがですわ!お嬢様!!」
奥からマルガの楽しげな声が聞こえてきた。ようやく終わったらしい。
「坊ちゃま!坊ちゃま!」
バタバタと彼女が走ってくる音が聞こえる。
「なんだマルガ、騒がしいぞ」
呆れた声で彼女を諫めながら書斎を出る。そこでレルゲンは固まった。
そこには下した髪を半分だけ編みこみ、赤いワンピースを着たターニャがいた。
「いかがですお美しいでしょう!」
きゃっきゃっとはしゃぐマルガだが、レルゲンはまったく耳に入らなかった。
その小さな唇にわずかに紅をさしたターニャは困惑しきった顔でワンピースの裾を引っ張っては匂いを嗅いでいる。そういえば、なんとなく薔薇の香りがするような気もする。
ターニャから目を離せず棒立ちになってしまったレルゲンを見て、マルガは満足げに、というよりも自慢げに満面の笑みを浮かべている。坊ちゃまのこんな様子を見られるとは。頑張った甲斐がございました。
その様子をひとしきり楽しんだ後、彼女は固まっている二人の真ん中でパンッと大きな音を立てて手を叩いた。二人がハッと現実に戻ってくる。
「さて、私、夕食の買い出しに行かせていただきます。時間がかかりそうなので帰りは日が沈む頃になるかと思います。その間、お二人はゆっくりとお過ごしくださいね」
そこで一呼吸置いて、ギロリとふたりに厳しく視線を向けて釘をさす。
「今日は軍務を考えてはなりませんよ?」
そして、バタバタと彼女は出掛けていった。
残された二人は嵐が過ぎ去ったように呆然と立ち尽くす。
先に立ち直ったのはターニャだった。
「とりあえず、コーヒーでも飲みませんか」
「……あぁ、そうしようか」
それからしばらくして。
馥郁たる香りに包まれながら彼らは向かい合って座り黙り込んでいた。
どうにも居心地が悪くて、彼はらしくもないと自覚しつつその言葉を零す。
「……よく似合っている」
「……ありがとうございます」
互いに目を見ることも出来ずにする会話はどこかぎこちない。
「その服は以前から持っていたのか?」
そうレルゲンが尋ねると彼女は素っ頓狂な声を上げた。そして、そのまま固まってしまう。彼が名前で呼びかけることで持ち直すと、眉根を寄せて忌々しげに教えてくれた。
「……マルガさんが持ってきてくださいましたよ、あなたからのプレゼントだと言って」
今度はレルゲンが固まる番だった。まったく、勝手に何をしているのだ。
ターニャはそれを見てため息をつく。
「どおりで紅いワンピースなはずです」
「何か心当たりが?……あぁ、以前言っていたプロパガンダ映像か」
だが、そこでひとつのことに思い当たる。
彼女なら拒否することもできただろうにしなかったその理由は。
「だから嫌がりながらも着てくれたのか」
ターニャはふいと顔を背ける。
「『婚約者』の贈り物を無下にするわけにもいかないでしょう」
まったくもってその通り。彼女の行動のそれが軍務故なのかどうかはこの際置いておこう。この関係が意味を持っていることが嬉しいのだ。
「きみには申し訳ないとは思うが、マルガは孫でもできたようで嬉しいのだろう。私がずっと一人身だったせいで、彼女は常にこの屋敷を一人で守り続けていた。母親同然に見守ってくれていたから正直心苦しさはあったのだ」
軍人として国のため勤めるあげることばかりを考えて、身近な彼女には何もすることが出来なかった。それもターニャが来てくれたことで徐々にだが変わりつつある。
「ありがとう」
レルゲンがそう言うと、彼女は眼を瞬かせた。
帰って来てくれるようになったこと。レルゲンのために嫌な思いをしてまでドレスを着てくれたこと。それ以外にも彼女への感謝は尽きない。
彼女は気づいているだろうか。
彼らが多少なりとも親しい関係になったこのわずかな間にも、ゆっくりと彼女が本来持つ表情が花開いていく。
「私は幸せ者だな」
今になって、婚約が周囲に広まった当初向けられた嫉妬の視線の意味を知る。知ったら知ったで、これまで持ち得なかった暗い感情が頭をもたげても来るのだが……。
残念なのは、今この瞬間に彼女が分からないという表情をしていることだろうか。
その表情が彼女のこれまでの生き様を物語るようで、胸が苦しい。しかし、今の彼ではどうすることもできずにいる。いつの日かそれを知ってくれる日が来ることをただ願うのみだ。
「……エーリッヒ」
彼女に名を呼ばれて、彼の思考が切り替わる。
「私は相手をやり負かすことは好きですが、やられるのは好きではありません」
「知っているとも」
「今回の、このドレスのことはせめておいしい食事でも無ければ割に合いません」
拗ねたように言うものだから何を言われるかと緊張していたレルゲンはその程度でいいのかと破顔した。何とも可愛らしい照れ隠しだ。
「問題ない。あの様子では今日は腕を奮うだろうさ」
「そうであればいいのですが」
前言撤回。それなりには根に持っているようだ。普段から舌鼓を打つあの食事に対してこの反応では随分と不興を買っている。
「そのときは私が首都一の店へ連れていこう」
彼女の瞳がきらりと光る。
「本当ですか」
あまりの食いつきにレルゲンは苦笑する。
今更ながら思うが、彼女は驚くほどの美食家だ。食への追及は彼女の生まれがそうさせるのだろうか。時折作ってくれる料理は彼もマルガも知らないレシピで、帝国では食べられない不思議な味がする。
「その程度でいいなら喜んで連れていくとも。その代わり一つ良いかね?」
「何です?」
「その時はもう一度その服を着てくれないか」
見る見る彼女の表情が不満げに歪んでいく。
「私への埋め合わせのはずですが」
「何を言うんだ。私はあくまでマルガがきみの願いが叶えられなかったときの保険であり、彼女の肩代わりだ。そのくらいは許されるだろう?」
澄ましてそう告げる。小さく舌打ちが聞こえたような気もしたが、空耳ということにしておこう。
「……考えておきます」
渋々だが、そう答えてくれた。すぐに拒否されなかっただけでも前進だ。
「きみがどちらを選ぶか楽しみにしておくことにするよ」
レルゲンの楽しそうな声に、ターニャもやれやれと肩を竦めた。
その後、首都ベルンの超高級レストランにおいて、3ピースを着たエーリッヒ・フォン・レルゲンと紅いワンピースを身に纏ったターニャ・フォン・デグレチャフ、そして老婦人という3人の姿が目撃された。
その親しげな雰囲気が母親に婚約者を紹介するように見え、いよいよ結婚するのかと軍部がざわめくことになるのだが、それはまた別のお話。