今からちょうど一年前、6月に入り、初夏の暑さを感じ始めていたころの話。
大学生活にも慣れ始め、友人も少ないながらも出来て、講義もなんとかついていけて、高校の時から興味のあった麻雀のサークルにも入り先輩とも仲良くなれた。
そんな、なに不自由ない大学生活、ここで彼女の一人でもいれば僕の思い描いた夢の大学生活なのだが、生憎と女ッ気は0であった。
高校の時、仲良くしていた女友達は居るのだが、皆彼氏持ちであり、本当にただの友達と化している。
大学では未だ女性との明確な接点すら作れていない、いやそこは頑張れよ僕。
そんな、一部不満をもった大学生活が始まって2ヶ月が経ったあの日……。
あの日から、僕の奇妙な生活が始まったのかもしれない……。
大学生活が始まって2ヶ月が経とうとしていたある日、僕は窮地に瀕していた。
「お金がない……」
そうお金、お金が圧倒的に足りないのだ。
生まれてこの方バイトなんてしたことのない僕は、自分で金銭を稼ぐ、ということをしたことがない。
それは大学生になっても変わることはなく、両親の仕送りで生活をしていたのだが……やはり僕も学生、数多の誘惑に負けに負け、気づけば財布はスッカラカン……。
その結果、仕送りだけでの生活にも限界が来てしまったのだ。
「バイト、しないと……」
気怠い気持ちに鞭を打つ。
しかし困った、先程も言った通り僕はバイトというものをしたことがない。
高校の時に飲食店やコンビニでバイトをしている友人は数名いたが、実際にその仕事がどういうものか、という話は聞いたことがない。
「……木下に聞いてみようかな」
木下 優人、僕の大学で出来た最初の友人だ。
頭が良く、僕の知らないことを多く知っているのだが、少々毒舌な部分がある。
しかし、名前に負けないとても温和な人間で、毒を吐く相手はちゃんと選んでいるし、度が過ぎることは決してない、良く出来た友人だ。
ちなみに、高校の時からの彼女がいるらしい、マジ許さん。
「そういえば、木下は塾でバイトしてるんだっけ?」
塾の講師か……中学の時、個別指導の先生が大学生であったことを思い出す。
その時は英語を教えてもらっていたのだが、授業の内容よりも当時はまっていたゲームについて話していたことの方が印象に残っている。
そうか、あれから5年も経つのかと、時間の経過に少しセンチな気分になる。
木下の紹介で僕も働けないだろうかと、ほんの少しの期待を持って、僕は彼と同じ講義へと足をのばした。
「おまえがバイト?」
木下に相談し、その彼の開口一番はそんな言葉だった。
「お金がなくて困ってるですよ……」
「そりゃ分かるが、なんでよりによって塾の講師なんだよ」
訝し気にこちらを伺う、そんなに塾の講師というのは変なのだろうか。
「いいか?塾講師ってのは時給はその辺のバイトよりもいいけど、事前の準備とか、授業後のファイル記入とか、これほんとに1時間のバイトか?ってくらい割に合わない仕事なんだぞ?」
日ごろの鬱憤が溜まっているのか、木下は早口にそう捲し立てる。
事前準備と事後処理、それが一時間という枠組みに入っていないということなのだろう。
「あ、じゃあ事前の準備しなきゃいいんじゃない?」
「おまえの授業だけは受けたくないな」
酷い。
「まぁでも、実際間違ってはいない」
一呼吸おいて、木下はそんなことを言い出す。
「個別指導って言っても、5教科全部出来る必要はないんだよ、自分が教えらる科目だけ教えればいい」
あ、なんとなく言いたいこと分かった。
「得意科目なら、事前の準備がなくても教えられるってこと?」
「そういうこと、中学生の内容なんて暗記教科でないなら基礎として当然あるだろうし、高校の内容でも少し見返せば教えられるだろ?」
そう言われて、自分の得意科目を考える。
数学は自信をもって得意だと言えるが、果たして他の科目はどうだろう。
「この大学で俺と同じ学部に居るんだ、理系科目なら大丈夫なんじゃないか?」
「理科は生物の分野がちょっと……」
仮に中学生に教えるとしても、もう3年以上前の話だ。
さらに言えば、高校では生物、地学はまったく勉強していない。
正直まともに教えらるか不安ではある。
「その部分だけ事前準備すればいいって話だろ?なんもかんも楽しようとするなよ」
呆れたようにそう言われては何も言い返せない。
雰囲気から察するに、木下は僕にバイトを紹介してくれる気はあるようだ。
これ以上のことはないだろう。
「話はこっちで通しておくから、今日……は、俺がバイトないから明日だな」
木下は手帳をペラペラとめくりながらペンを走らせる。
こういう細かい所作はとても好感がもてる、木下のいいところだ。
「明日バイト始まる前に塾長に話しておくよ、多分連絡来るのは明後日ってことになるけど、大丈夫か?」
「ある程度何時からっていうのが分かれば問題ないよ」
「多分昼から夕方にかけてだと思う、夜になると生徒の授業と保護者との連絡とかいろいろあるだろうし」
昼から夕方……特別予定が入っているということもないし、問題ないだろう。
「言っておくが、俺から話はするけど、通るかどうかは知らないからな?」
と、悪戯っぽく笑みを浮かべ木下は言う。
こういう時の木下は冗談で言っているだけだと、短い付き合いながらも理解していた。
「まぁ頑張るよ、何から何までありがとね」
「気にすんな、んじゃな」
その言葉を最後に木下とは別れた。
彼の背中が小さくなるのを見送り、僕も自分の帰路へと向かった。
初めてのバイト、期待と不安が入り混じり高揚するのが分かる。
あの時教えられていた立場から教える立場へと変わる、そんな自分の変化にしみじみと思いを潜ませる。
僕の足取りは軽かった。
────このときの僕は、バイトとはもっと気楽で、なんとなくで出来るものだと思っていたんだ。
ここまで読んで下さりありがとうございました!