マヤが帰った後、アパートで少しだけ休憩した。
自分でソーダ割りを作り、音楽を聴いた。
自立した一人の男が、都会のストリートに立って人生を語りだす歌だった。
旅を続けて、そこに辿りついた男は、今夜一世一代の勝負をするのだ。
私は、こういったものを聞いて、青年期を過ごした。
ボズ・スキャッグス、ドナルド・フェイゲン、ポール・ディヴィス。
みんな、寂しさを抱えた大人に見えた。
一人ぼっちでいる様が、実に素敵だった。
その結果、格好のいい孤独な中年に憧れて大人になった。
そんな人間がサラリーマンなんて勤まるはずがない。
根本的に、一人が好きで、他者との関わりが苦手なのだ。
だから脱サラをして探偵になった。
しかし、ハードボイルドには程遠い。
つまらない依頼ばかりだったし、ヘマをしてばかりだ。
私の憧れた映画の中の探偵はいつも気障ったらしく≪やれやれだ≫とつぶやいていた。
だが、私はそんな言葉を口に出していえたことが無い。
いつも情けなく、頭の中で呟くばかりだ。
スカッチ・アンド・ソーダを一杯飲むと、昨日のラビットハウスのカティ・サークが恋しくなった。
時計を見ると、23時だった。
程よいころ合いだ。
私は、ジャケットを羽織り、アパートを出た。
今度はネクタイを締めなかった。
もう、擬態する必要はないと思った。
少しだけ雨が降っていた。
淡い雨なので、霧と間違えても仕方がなかった。
私は、ゆっくりと、ラビットハウスへ続く街路を歩いた。
静かな通りに、小さな明かりがともっていた。
昨日と同じ看板が出ていた。
私は、ラビットハウスの扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
マスターが、グラスを磨く動作を止めて、顔を上げた。
店内には客が誰一人いなかった。
「おや。昨日の。まさか連日で来てくださるとは」
私は頭を下げた。
「カティ・サークが気に入ったんです」
「それは良かった。では、本日もそれになさいますか?」
「頼みます」
マスターがうなづき、ハイボールを作り始めた。
私は、彼の洗練された動作を見つめながら言った。
「大切な話があるんです。聞いていただけますか?」
マスターが一瞬、ハイボールを作る動作を止めた。
それで、ソーダが氷にあたってしまい、グラスから少し溢れた。
「申し訳ありません」
「いえ。かまいません。唐突に声をかけたのは私です」
「……どうぞ」
ハイボールが、目の前に差し出される。
私はそれを飲まなかった。
マスターが、携帯電話を取り出した。
誰かに電話をした。
「今日はもう、店を閉める。来ないでくれ」
そして、表の看板を中にしまった。
「今の電話。天々座さんにですか?」
マスターが曖昧に笑った。
「昨日のあの、眼帯のお客さん。天々座さんでしょう?」
「よく、ご存じで」
「調べましたから」
「へぇ」
私は、深く息を吐いた。
そして、言った。
「昨日の夜。私がトイレに行ったときに、私の鞄に脅しの警告文を入れましたね?」
「私がですか?」
「えぇ。あなたです。間違いない」
私は、マスターの手首を指さした。
「その、白い清潔感のあるワイシャツ。もっとめくってくださいよ」
彼はため息をついた。
そしてぐいっと勢い良く、ワイシャツの袖をめくった。
彼の手首に、黒い兎の刺青が現れた。
「やっぱりそうだ。それ。昨日、黒いシミのようなものがチラチラと見えていたんです。そのときはそれが何かわかりませんでしたが。やっぱり兎の刺青だった」
「これが何か、ご存じで?」
「もちろんです。天々座一家の証でしょう?」
マスターが頷いた。
私は言葉を続けた。
「私も最初はね、私を脅しているのは、昨日のあの眼帯の男だと思った。いかにもそんな雰囲気ですからね。彼は私の隣に座っていた。私は鞄を床に置いていた。しかも酔っていた。そこに紙切れを滑り込ませることぐらい、できないことではないでしょう。けれども、あの後いろいろ調べたりしていくうちに、考えが変わりましてね。あなたの腕に見えていた黒いシミが気になったんです。私がトイレから戻った時、あなたはカウンターの外にいた。雨を心配しているそぶりだったけど、私の鞄に警告文を入れた直後だったんだ」
「想像力が豊かなお客さんだ」
「褒めていただいて光栄です」
「どこまで、知っているのです?」
「たいしたことは知りませんよ。知っていることはただ、ここの地権者も、甘兎庵の地権者も、フルール・ド・ラパンの地権者も、それどころか、その隣の小屋の地権者も、天々座さんということ。あとは、それぞれに女の子が住んでいて、みんな仲良しの友達ってことぐらいですね」
マスターが舌打ちをした。
彼はどちらに反応したのだろう。
地権のことか、女の子たちのことか。
「そのあとは、ただの空想です。あなたがおっしゃったように、私はいささか、想像力が豊かなんです」
「教えてくれませんか? その空想というやつを。酒のあてとしては面白そうだ」
「いいですよ。ただし、この酒は飲みませんがね」