メルヒェンには、まだ遠い   作:忍者小僧

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10、兎の刺青

マヤが帰った後、アパートで少しだけ休憩した。

自分でソーダ割りを作り、音楽を聴いた。

自立した一人の男が、都会のストリートに立って人生を語りだす歌だった。

旅を続けて、そこに辿りついた男は、今夜一世一代の勝負をするのだ。

私は、こういったものを聞いて、青年期を過ごした。

ボズ・スキャッグス、ドナルド・フェイゲン、ポール・ディヴィス。

みんな、寂しさを抱えた大人に見えた。

一人ぼっちでいる様が、実に素敵だった。

その結果、格好のいい孤独な中年に憧れて大人になった。

そんな人間がサラリーマンなんて勤まるはずがない。

根本的に、一人が好きで、他者との関わりが苦手なのだ。

だから脱サラをして探偵になった。

しかし、ハードボイルドには程遠い。

つまらない依頼ばかりだったし、ヘマをしてばかりだ。

私の憧れた映画の中の探偵はいつも気障ったらしく≪やれやれだ≫とつぶやいていた。

だが、私はそんな言葉を口に出していえたことが無い。

いつも情けなく、頭の中で呟くばかりだ。

 

スカッチ・アンド・ソーダを一杯飲むと、昨日のラビットハウスのカティ・サークが恋しくなった。

時計を見ると、23時だった。

程よいころ合いだ。

私は、ジャケットを羽織り、アパートを出た。

今度はネクタイを締めなかった。

もう、擬態する必要はないと思った。

少しだけ雨が降っていた。

淡い雨なので、霧と間違えても仕方がなかった。

私は、ゆっくりと、ラビットハウスへ続く街路を歩いた。

静かな通りに、小さな明かりがともっていた。

昨日と同じ看板が出ていた。

私は、ラビットハウスの扉を開けた。

 

「いらっしゃいませ」

 

マスターが、グラスを磨く動作を止めて、顔を上げた。

店内には客が誰一人いなかった。

 

「おや。昨日の。まさか連日で来てくださるとは」

 

私は頭を下げた。

 

「カティ・サークが気に入ったんです」

「それは良かった。では、本日もそれになさいますか?」

「頼みます」

 

マスターがうなづき、ハイボールを作り始めた。

私は、彼の洗練された動作を見つめながら言った。

 

「大切な話があるんです。聞いていただけますか?」

 

マスターが一瞬、ハイボールを作る動作を止めた。

それで、ソーダが氷にあたってしまい、グラスから少し溢れた。

 

「申し訳ありません」

「いえ。かまいません。唐突に声をかけたのは私です」

「……どうぞ」

 

ハイボールが、目の前に差し出される。

私はそれを飲まなかった。

マスターが、携帯電話を取り出した。

誰かに電話をした。

 

「今日はもう、店を閉める。来ないでくれ」

 

そして、表の看板を中にしまった。

 

「今の電話。天々座さんにですか?」

 

マスターが曖昧に笑った。

 

「昨日のあの、眼帯のお客さん。天々座さんでしょう?」

「よく、ご存じで」

「調べましたから」

「へぇ」

 

私は、深く息を吐いた。

そして、言った。

 

「昨日の夜。私がトイレに行ったときに、私の鞄に脅しの警告文を入れましたね?」

「私がですか?」

「えぇ。あなたです。間違いない」

 

私は、マスターの手首を指さした。

 

「その、白い清潔感のあるワイシャツ。もっとめくってくださいよ」

 

彼はため息をついた。

そしてぐいっと勢い良く、ワイシャツの袖をめくった。

彼の手首に、黒い兎の刺青が現れた。

 

「やっぱりそうだ。それ。昨日、黒いシミのようなものがチラチラと見えていたんです。そのときはそれが何かわかりませんでしたが。やっぱり兎の刺青だった」

「これが何か、ご存じで?」

「もちろんです。天々座一家の証でしょう?」

 

マスターが頷いた。

私は言葉を続けた。

 

「私も最初はね、私を脅しているのは、昨日のあの眼帯の男だと思った。いかにもそんな雰囲気ですからね。彼は私の隣に座っていた。私は鞄を床に置いていた。しかも酔っていた。そこに紙切れを滑り込ませることぐらい、できないことではないでしょう。けれども、あの後いろいろ調べたりしていくうちに、考えが変わりましてね。あなたの腕に見えていた黒いシミが気になったんです。私がトイレから戻った時、あなたはカウンターの外にいた。雨を心配しているそぶりだったけど、私の鞄に警告文を入れた直後だったんだ」

「想像力が豊かなお客さんだ」

「褒めていただいて光栄です」

「どこまで、知っているのです?」

「たいしたことは知りませんよ。知っていることはただ、ここの地権者も、甘兎庵の地権者も、フルール・ド・ラパンの地権者も、それどころか、その隣の小屋の地権者も、天々座さんということ。あとは、それぞれに女の子が住んでいて、みんな仲良しの友達ってことぐらいですね」

 

マスターが舌打ちをした。

彼はどちらに反応したのだろう。

地権のことか、女の子たちのことか。

 

「そのあとは、ただの空想です。あなたがおっしゃったように、私はいささか、想像力が豊かなんです」

「教えてくれませんか? その空想というやつを。酒のあてとしては面白そうだ」

「いいですよ。ただし、この酒は飲みませんがね」

 

 

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