パスタを食し終えると、ちょうどAOR番組が終わった。
私はラジオのスイッチを消した。
部屋に静寂が訪れた。
私はクローゼットを開き、派手すぎないネクタイを探した。
サラリーマン時代に使っていた、青い小紋柄のものがあるはずだった。
ところが、見つからない。
クローゼットを閉じて部屋を見渡す。
探しているネクタイは、ソファに無造作に置かれていた。
私は頭を掻いた。
もう少し、整理した方がよさそうだ。
再びネクタイを締め、ハットをかぶった。
今度はハットも、先ほどよりも地味なものを選んだ。
時計は22時を指していた。
程よい時間帯だ。
私はアパートを出た。
22時を過ぎると、この街はぐっと暗くなる。
ネオンサインなど、ほとんどない。
シャッターを下ろす店舗も多い。
サラリーマンをしていたころ、出張で東京郊外によく行った。
夜でも駅前は煌々と明かりがついていた。
学生や酔っ払いのサラリーマンがたくさん行き来していた。
それに比べると、この街は実に健全だ。
美しく舗装された道を歩き、再びラビットハウスにたどり着く。
古めかしい扉は、昼間見るのとは違う味わいの重厚さを醸し出していた。
扉の横手に看板が出ていた。
バータイムが始まっていることを示していた。
カティ・サークの12年の旧ボトルがおすすめとして看板に書かれていた。
悪くない。
仕事でなくても個人的に顔を出してみたいぐらいだ。
私は、扉を開けた。
カフェタイムよりも照明の輝度を落とした店内は、しかし、相変わらず客がいなかった。
好都合ではあるが、経営が少し心配にもなる。
私の姿を見て、40代ぐらいだろうか?ハンサムな容貌の男が会釈した。
バーテンダーというか、マスターなのだろう。
落ち着いた、品のある佇まい。
おそらくは、チノの父親だ。
整った顔立ちに、無表情が貼りついている様が、どこか似ている。
男が、深みのある声を出した。
「一名様ですか?」
「ええ」
「こちらへどうぞ」
カウンターへ促される。
私が腰かけ、宿り木に腕をかけると、明かりをともした小さなキャンドルが提供された。
「初めての方ですよね」
「ええ」
私は控えめにうなづいた。
ネクタイをわずかに緩めながら言った。
「仕事帰りなのですが、珍しく飲みたくなったのです。こんな雰囲気のいい店があるなんて知らなかった」
「ありがとうございます」
男がほほ笑んだ。
「何になさいますか?」
「そうですね。ハイボール、おすすめの銘柄で」
「バーボンかスコッチ、どちらがお好みでしょうか」
「スコッチでお願いします」
「では」
男は案の定、カティサークを手に取った。
私はそれを見て、いかにも疑問なようにつぶやいた。
「それって、カティサークですか?」
「はい」
「船のマークで分かりました。しかし、珍しいですね。よく見かけるボトルと形が違う」
「これは、1980年代の古いボトルなんです。特級酒と書かれているでしょう?」
表情は薄いが、少し嬉しそうにボトルを見せつける。
「現行のものとは味わいが違うんです」
「へぇ! すごいな」
「これは有名な銘柄ですから、当時の流通量も多い。比較的今でも、手に入りやすいので、リーズナブルに提供させていただいております」
言われなくてもわかっていた。
表の看板にワンショット800円と書かれていた。
だが、私はそのことを知らないかのようにふるまう。
「それはありがたいですね」
やがて出てきたハイボールを一口、口に含み。
「いやぁ、美味いなぁ、これ」
とつぶやいた。
それはお世辞ではなかったが、美味くなくてもそう言うつもりだった。
男がほほ笑んだ。
その表情も、どこか薄い。
チノもそうだ。
遺伝なのだろう。
私の会話や服装には意味があった。
地味なネクタイや服装は、ごく普通のサラリーマンを装うため。
カティサークは知っていても、旧ボトルは知らない程度の知識。
店の味を褒める。
これらの行為を通じて、話しやすく害のない人間だということを印象付けたかった。
私は、ゆっくりとハイボールを飲みながら、世間話を始めた。
「この道、たまに通るんですがね。バーがあるなんて知りませんでしたよ」
「通られるのは、日中が多いですか?」
「そうですね。仕事の合間ですから」
「お昼はカフェをやっているので、バーの看板を出していないんです」
「それでですか。しかし、大変ですね。お昼もカフェをやって、夜はバー。マスターは寝る時間がないのではないですか?」
「いえいえ、そんなことはありません」
男ははにかんだように微笑んだ。
「娘たちが、お昼は切り盛りしてくれているんです」
「娘さんが! 素晴らしいですね」
私はいかにも初耳だというように驚いて見せる。
「まだ学生なのに、頑張ってくれているんですよ」
「偉いなぁ」
「そこの壁……」
男が、壁を指さす。
「絵が飾ってあるでしょう?」
「あぁ、確かに」
そこには、数枚の絵が飾られていた。
おそらく、プロが描いたのであろう、非常に脱構築された抽象画が一枚。
その隣に、女の子を描いた絵が2枚。
一つは漫画っぽい絵柄で、一つはごく普通の写実画だ。
上手いとまではいかないが、丁寧に描かれている。
どちらかがチノの描いた絵なのだろう。
子供が描くにしては十分に上出来だ。
絵のモチーフはどちらも、金髪の少女。
友達でも描いたのだろうか。
私は、どちらがチノの描いたものであるのかを空想した。
彼女の雰囲気からすれば、写実風の堅実な絵柄が妥当であるようにも思われる。
だが、逆に子供っぽい漫画的な絵柄のほうを彼女が描いていたとしてもそれはそれで微笑ましい。
こういう空想は楽しいものだ。
思わず笑みがこぼれる。
「どうなさいました?」
男の声で我に返った。
「いえ。娘がいるのはいいものだな、と」
これは、正直な気持だった。
「ありがとうございます。失礼ですが、お客様には?」
「いないんです。結婚もしていません。機会を逃してしまいました」
「そうですか」
「以前は、仕事が忙しくて。とにかく働いて、家に帰って寝る日々だったんです。仲の良かった女性がいなかったわけではないのですが、すれ違ってしまいました」
「それはそれは」
「まぁしかし、今は気楽なものですよ。自分の配分で生きていける。会社に雇われているのとは大違い……」
私は、はっとして口を閉じた。
マズい。
口が滑ってしまった。
害のない人間であることをアピールするために、近くの会社員を装っていたことを忘れていた。
私は恨めし気に手元のグラスをにらむ。
酒が入り、気が大きくなっていたか?
それから、チノの父親を見た。
男は、私の言葉の矛盾には気が付いていない様子だった。
私はほっと息をついた。
「実は……」
男が唐突に言葉を紡いだ。
「え?」
「実は、その、結婚についてなのですが」
「え、えぇ……」
「私の場合は、妻に先立たれてしまいまして」
なるほど。
それで子供以外の女の影が見当たらないのか。
会話が予想外の方向に転じたことを危惧しつつ、なにか新しい情報が得られるのではとも思った。
「父も、もう亡くなってしまいました。この広い家に、娘と二人で暮らしていた時期があるのです。寂しいものでした」
「とおっしゃると、今は二人ではないのですか?」
「ええ。ホームステイしてくれている女の子がいましてね。昼間の喫茶店も手伝ってくれているのです」
私は慎重に言葉を選んで相槌を打った。
「それは、いいことですね。娘さんも友達ができてうれしいでしょう」
「そうなんです。その子は妹が欲しかったらしく、いつもうちの娘にお姉さんぶって接しています。可愛いものですよ」
昼間の喫茶店で働いていたということは、リゼかココアかのどちらかだな。
住み込みのホームステイだったのか。
どちらだろうか?
もしも、リゼだとすると、マヤが見ていないところで、同居人同士の親密さが生まれているのかもしれない。
私は、会話をもう少し発展させることにした。