「そうか、思い出しましたよ」
わざとらしく声をあげる。
「ここの店の横の路地。喫茶店の制服姿の女の子がゴミを出しているのを見たことがある。そうか。会社の行き来でときどき見かけたあの子が、ここのカフェの従業員さんかな」
「恐らくそうですね」
「そうですか。店のことは気が付かなかったけど、カフェの店員風の女の子がいるなぁと思っていたんです。確か……きりっとした感じのツインテールの女の子だったかな? あの子が住み込みなんですか?」
「あぁ。その子は違いますね」
マスターが即答した。
「きっと、紫色の制服を着ていたでしょう? その子もアルバイトですが、住み込みの子は別の子です」
「そうですか。制服の色までは記憶にないけれど。ツインテールが印象的で頭に残っていたんです」
ふむ……。
となれば、住み込みはココアの方か。
ますますわからなくなった。
リゼとチノは、アルバイト時間以外には特別な接点がないということになる。
私が顎に指をあてて思案していると、天井にわずかな揺れがあった。
「あぁ、またやってる」
マスターが、困ったようでどこか楽しげな表情を見せた。
「どういうことですか?」
「いえね、さっきの住み込みの子のことですよ。うちの娘に姉妹のように接してくれているんですが、時々喧嘩したりすれ違いもあるみたいで」
「あぁ、その音ですか」
私は、天井を見上げた。
「きっとそうです。まぁ、深刻なことではないですよ。仲のいい証拠です」
「なるほど」
「うちは、古い建物だから。建付けが悪くて。ちょっとした足音やらが響くんです」
「わかります。大げさに感じて見に行ったら、何でもないことだったりね」
「そうなんですよ。いや、しかし、お客様にはご迷惑をおかけいたします」
そう言いながらも、マスターは心底うれしそうな表情を崩さない。
娘に友達がいることが本当に喜ばしいのだろう。
この調子なら、もう少し突っ込んだ話ができそうだ。
私は、さらに問いかけることにした。
「娘さんは、そのアルバイトの子たちと同い年ぐらいなのですか?」
私はそのことを知っていたが、これはジャブだ。
「いえ、違います」
マスターが案の定、首を振った。
「娘はまだ、中学生でして。アルバイトの子は二人とも高校生です」
「そうですか。あぁ、だからお姉さんぶるんですね」
「そうなんですよ」
「住み込みの子以外の、もう一人の子も、やっぱりお姉さんぶりたがるんでしょうか?」
「いえ、そちらの子はそんなことはないですね」
「へぇ。それぐらいの年の子って、ちょっと年下の子に対してお姉さんぶりたいものかなと思いましたが」
「人によるんじゃないですか? その子は、ちょっと独特でしてね」
「独特?」
「ええ。本人はどう思ってるかわかりませんが。しっかりしているように見えて、結構、子供っぽいところもありまして」
「それじゃ逆に、中学生の娘さんとは気があうのでは?」
「もちろん、すごく仲良くしてくれていますよ。ううん、でも……。ココア君とチノの仲とはまた少し違うかな……」
「ココア君?」
私はわざと、知らない人の名前のように問いかけた。
「あぁ、申し訳ない。その住み込みの子の名前です。その子も子供っぽいところがあるんですがね、その、うまく言えないな。チノ……うちの娘とは、真逆なようでいて、すごく馬が合うんです。互いに補完しあっているようなものというか」
「ほぉ」
「もう一人の子は、仲良くしてくれているけど、自己自立しているから。いい友達ですけど。ココア君とうちのチノのような補完しあうというか、パズルのピースみたいなのとはまた少し、違うかな」
「パズルのピースか。いい表現ですね。私も、そんな友人が欲しかったものだ」
そこまで話した時、尿意を感じた。
昼も珈琲を飲み、アパートに戻った時にはマヤがいた。
トイレに行く時間がなかった。
そのあとはパスタ食しながら考え事をして、忘れていた。
そのうえ、ここでハイボールを飲んだのだ。
私はトイレに立ち上がった。
「少し、トイレをお借りします」
「どうぞ。右奥です」
トイレから戻ると、マスターはカウンタースツールを離れ、窓際にいた。
「雨が降ってきたみたいですよ」
窓の外を見つめながら、マスターが言った。
「困ったな。傘を持ってきませんでした」
「うちの傘を使っていただいて構いませんよ」
「ありがたいです」
その時、バーの扉が開いた。
髭に眼帯の中年が入ってきた。
随分と精悍な雰囲気の男だ。
「タカヒロ。珍しいな、客がいるのか」
私を一瞥し、つぶやく。
常連客か。
私は小さく会釈した。
「いえ、もう出ます。たまたま立ち寄っただけですので」
私がそう言うと、眼帯の男が言った。
「そんなことを言うなよ。ここは客が少ないんだ。ゆっくりしていくといい」
私はテーブルを見た。
私のハイボールは、ほとんど空になっていた。
「では、もう一杯だけいただいていきます」
「それじゃ、俺が奢ってやる。タカヒロ、俺にはジン・ライム。このお客さんに、エル・ディアブロを作ってやってくれ」
「わかった。……申し訳ないですね、お客様」
「いえ」
「こいつの作るエル・ディアブロは美味いぞ。おすすめなんだ」
「だったら自分も頼めばいいだろう?」
「タカヒロ。知ってるだろう? 俺はジンが好きなんだ」
「やれやれ」
苦笑してマスターがグラスにカクテルをビルドしていく。
私は、しばし二人の会話に付き合うことになった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
エル・ディアブロを飲み終えると、私は席を立った。
思ったよりもスピリッツを濃く使用していたようで、少し酔いが回っていた。
これ以上長居すると、なにかいらぬことを口走りそうだった。
「もう行くのか?」
眼帯の男が残念そうな声を上げた。
意外に人懐っこいのだろうか。
私は頭を下げた。
「明日の仕事が早いんです。申し訳ない。楽しい時間を過ごさせていただきました」
「そうか。わかった。引き止めて悪かったな」
「いえ」
すると、コップを洗っていたマスターが私に言った。
「コイツの酔っ払い話に付き合ってくれてありがとうございます。チャージ料はサービスしておきますよ」
「酔っ払いとはなんだ、タカヒロ」
「事実じゃないか」
眼帯の男とマスターのやり取りに私は思わず笑う。
「お二人は仲がいいんですね。古い友人同士みたいだ」
「そうなんですよ。古い友人です」
「え? そうなんですか? 店で知り合ったのではなく?」
「ええ。店をやる前からの付き合いです」
「へぇ」
店をやる前から。
店をやる前は何をしていたのだろうか。
それとも、ただ単に学生時代から、という程度のニュアンスか?
「店をやる前ということは、以前の職業の頃の、という意味ですか?」
「以前?」
マスターが怪訝な顔をする。
「私がバーの前にやっていた仕事をご存じで?」
「あぁ、いえ、違います」
私はあわてて手を振った。
「私が、その。転職して2社目でして。前の会社の友人とたまに飲むんです。それでつい、古い友人と聞くと、前の会社の、と連想してしまっただけなんです」
「そうですか」
マスターはそれ以上何も話さなかった。
黙って、会計の書かれたシートを私に手渡した。
カティサーク一杯分の800円だけが記載されていた。
「ごちそうさまでした」
私は、1000円札を手渡す。
それを受け取るマスターの手首、シャツの袖の内側に、黒い染みが少し覗いていた。
一瞬なのでよく見えなかったが、黒子よりはのっぺりとして大きかった。
たまに肌に染みがある人もいる。
まぁ、詮索することではないだろう。
店を出て、深夜の路地を歩きながら、先ほど得た情報のことを考えた。
結論から言うと、父親ですら、チノとリゼを特別な関係であるようには見ていない。
これは大きな収穫だった。
チノはむしろ、大人から見ればココアと仲が良い。
昼間の喫茶店で少し観察しただけでは、ココアはチノに迷惑がられているようにも見えたが。
父親が言うのだから、間違いないだろう。
とすれば、マヤの言っていることはどういうことだ。
チノとリゼが最近、やたらと親密に見える……。
マヤはマヤで、二人と付き合いが長い。
そう感じるとすれば、それはそれで、事実を含んでいるはずだ。
問題は、何がそう感じさせるのか……。
何かがわかりそうだった。
だが、それはあと一歩というところで、霧の向こうにぼんやりと佇んでいた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
アパートに帰ると、もうすでに日付が変わっていた。
鞄を机の上に置き、荷物を整理しようとした。
すると、鞄のポケットから、紙切れが一枚滑り落ちた。
「なんだ?」
それを拾う。
紙切れには、こう書かれていた。
≪ラビットハウスを嗅ぎまわるな。痛い目を見る≫
「へぇ……」
私はそれをひっくり返した。
ラビットハウスのロゴの入った紙ナプキンだった。
店に置いてあるものだ。
それ以上の情報は何もなかった。
私はつぶやいた。
「おいおい。探偵映画みたいになってきたじゃないか」