アパートに戻って、しばらくぼんやりと本を読んで時間をつぶし、夕刻になるとフルール・ド・ラパンに向かった。
フルール・ド・ラパンは、かなり規模の大きな喫茶店だった。
珈琲ではなく、フレーヴァー・ティーをウリにしているようだ。
扉を開けると、ロップイヤーを付けた若いウェイトレスたちが出迎えてくれた。
御大層なことだ。
鼻を伸ばす男性はいるのかもしれないが。
私は慎重な動作でメニュー表を開いた。
今度は、奇妙奇天烈な名称など載っていなかった。
胸をなでおろした。
かといって、そこに書かれている様々なハーブティーは私にはチンプンカンプンだった。
一応聞いたことのあるカモミール・ティーを注文する。
やがて運ばれてきたティーカップには、紅茶よりも少し黄色い飲料が入れられていた。
バニラのような甘い香りがした。
私はその香りをそっと嗅ぎながら、広い店内を忙しそうに動き回っている一人の少女を観察した。
携帯電話を取り出し、香りを嗅いだだけでまだ飲んでいないカモミール・ティーを撮るふりをして、少女の後姿を写真に収めた。
その作業を終えてから、私は手を挙げて少女にこちらの存在を示した。
金髪の少女がこちらへやってきた。
「お客様。お呼びでしょうか……って、さっきのおじさん!?」
ロップイヤーの制服に身を包んだ少女は、先ほどのボロ小屋の金髪少女だった。
「偶然だよ。たまたまここに入ってお茶を飲んでいたら君を見つけたんだ」
「う、嘘」
「嘘じゃない」
嘘でないことは事実だった。
だが、私は嘘をつくことにした。
「で、でも、こんな偶然なんて」
「わかった。それじゃ、本当のことを話そう。私はこういう者だ」
私は懐から、名刺を出した。
そこには偽名が書かれている。
こういう時のために作ったものだ。
ただし、肩書はそのまま『調査・探偵業』としてある。
「た、探偵さん?」
「そう。ちょっと調べていることがあってね。君さ、天々座さんって、知ってるよね?」
知ってるかい?と問いかけず、知っているよね、と問いかけたのには理由がある。
君が知っていることを、こちらはすでに把握しているというように見せかけたのだ。
案の定、少女の表情が変わった。
「せ、先輩が何か?」
先輩?
予想外の単語が出てきた。
この少女の先輩?
学校か?
それともこの店か?
いずれにせよ、予想外に若い人物を指していることになる。
私は、驚きを表情に出さずに言った。
「その先輩について、大事な話がある。バイトは何時に終わる?」
「え、えと」
「教えてくれ。辻向かいの、≪プラウド・メアリー≫という店で待っている」
「く、九時です……」
「ありがとう。必ず来てくれると信じてる。さぁ、仕事に戻ってくれ。バイト仲間に怒られるぞ」
「あっ……」
「何を話していたのか聞かれたら、『やらしそうなおじさんにナンパされた』とでも答えておけ」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
私は、フルール・ド・ラパンを出ると、辻向かいのビルの2階にある≪プラウド・メアリー≫に向かった。
この店のことは以前からよく知っていた。
名前の通り、古いロックが大音量で流れている。
自宅では、心地よいシティ・ポップを聴くのが好きだが、時折激しい音楽を聴きたくなる。
そんな折に、この店を使う。
この日も、≪プラウド・メアリー≫には紫煙と音楽が充満していた。
足りないのは客だけだ。
「窓際の席、いいかな?」
「好きに使いな。ガラガラだ」
店主は、くわえ煙草で皮肉を言った。
大きなJBLのスピーカーからは、ボブ・シーガーの歌声が流れていた。
実に正統派のアーシーな音だ。
私は鞄に入れていた文庫本を取り出した。
時折、向かいのフルール・ド・ラパンの入り口を伺いつつ、本を読んで時間をつぶした。
やがて、九時を少し過ぎたころ、≪プラウド・メアリー≫の扉が開いた。
二階の窓から見ていたので、わかっていたことなのだが、私はうれしそうに微笑んで見せた。
「約束通り来てくれたんだね」
「え、えぇ……」
金髪の少女が、困ったような表情でつぶやいた。
同行者はいない様子だった。
そのことも、窓から確認済みだった。
ただし、彼女が、フルール・ド・ラパンの店内で誰がしかに連絡を取っていたら、私にはわからない。
その部分は賭けだった。
「まぁ、座ってくれ。珈琲でもご馳走するよ」
「はぁ……」
少女は、気乗りしない表情で、≪プラウド・メアリー≫のギシギシと音のするボロい椅子に腰かけた。
「どうした?」
「いえ、その。音楽がうるさいな、と思って。あと、煙たくって」
「それはすまない。できるだけすぐに話を終わらせる」
「あ、あのっ」
「なんだい?」
「その……リゼ先輩のことを調べてるって……その。な、何かあったんですか、リゼ先輩に」
「リゼ?」
私はひっくり返りそうになった。
リゼだと?
私の脳裏に、ラビットハウスで働く、凛々しい雰囲気のツインテールが浮かぶ。
珍しい名前だ。
そうそう被ることはない。
私のうろたえた様子に、目の前の金髪少女が心配そうに問いかけてきた。
「ち、違うんですか?」
「あ、いや……。天々座さんの下の名前を知らなかっただけなんだ。そうか、リゼというのか」
「は、はい……」
「それで、質問というのはだね」
「は、はい」
少女が、真剣な表情で私を見つめる。
私は、にへっと笑って見せた。
「そのリゼさんの、誕生日と、好きな物を教えてくれないかな?」
「へ?」
拍子抜けしたように、目の前の少女が声を上げた。
「いやぁ、実はね。とある少年が、そのリゼさんに一目惚れしたらしくってさぁ。誕生日プレゼントを渡したいんだと。おじさんね、誕生日と好きなものを調べてほしいって依頼受けたんだ。それで、リゼさんと親しい人に訊いてみようと思ってね」
「そ、それが、質問?」
「そう。最近はねぇ、探偵っていうのも仕事がないんだよ。困っちゃうよ。こんな依頼」
「な、なぁんだ」
少女が安堵の表情を見せた。
「探偵さんが調べてるっていうから、何か重大なことかと思っちゃいました」
しかし、即座に表情が思案顔に。
「あぁぁ、でも、男の子がリゼ先輩にプレゼント!? も、もしも付き合うことになったら……はぅぅぅぅ」
「だ、大丈夫。冴えない感じの奴だったから。たぶん玉砕だよ」
「ほ、本当ですか? で、でも万一の場合が……はぅぅぅぅぅ。あぁ、でも。バカバカ、私のおバカ、先輩に彼氏ができるなんて、先輩にとっては喜ばしいことなのに。それを嫌だと思っちゃうなんて……あぅぅぅ、でも、しぇ、しぇんぱいがぁ……」
金髪の少女は涙目で逡巡している。
私はその微笑ましい様子に思わず笑ってしまった。