衣装に着替えいよいよ出番となったが、簪はまだ覚悟を決められていない。大勢の前で何かをすることが苦手な簪としては、こんな注目される役などしたくないのだ。
「かんちゃん、いい加減腹を括ったら? 今更逃げ出すなんて出来ないんだからね?」
「分かってるよ……でも、緊張しちゃうのは仕方ないでしょ」
「かんちゃんは昔から人前で何かをするのが苦手だったからね~。せっかく凄い知識を持っていても、それを人前で話す事が出来なかったから、かんちゃんの評価は昔から『地味な子』なままだもんね~」
「そういう本音は、何時まで経っても『落ち着きがない』って評価じゃないの」
互いの事を昔からよく知っているが故に出来る言い合いなのだが、それを第三者に聞かれているという事を完全に二人は失念していた。
「仲がいいのは良いが、そろそろ出番だろ? いつまでもはしゃいでて良いのか?」
「お、織斑先生……」
「ビックリさせるなんて、織斑せんせ~も人が悪いなぁ~」
「最初からここにいたんだが?」
特に気配を殺していたわけでもなく、視界から消えていたわけでもないので、一夏が悪びれるはずもなく、簪と本音は、自分たちが失念していた事を恥ずかしく思い視線を逸らした。
「本音は私の護衛なんだから、周りに気を配ってなきゃいけないんじゃないの?」
「そんなこと言われたって、織斑せんせ~は味方だから、警戒の対象じゃないんだよ~」
「安心しきってるのは仕方ないにしたって、誰かいるかくらいは分かるでしょ!?」
「かんちゃんだって、何時までも警戒心を懐いたまま生活するのは嫌でしょ? 私だって、織斑せんせ~相手に警戒心を懐き続けるのは疲れちゃったんだよ~。それに、織斑せんせ~の気配は元々薄いから、一つの事に集中すると気づけないんだよ」
「何でお姉ちゃんが本音の事を評価してるのか、ほんとよく分からない……」
やはり楯無の過大評価だったのかと、簪は本音の事を見てそんなことを思った。
「本番直前にそこまで楽しそうにしてるなら、私が心配する必要もなさそうね」
「お姉ちゃん!? というか、そもそもこんな台本じゃなかったら、ここまで緊張なんてしないよ!」
「ごめんなさいね。でも、直前まで私がやる予定だったんだから仕方ないでしょ? 簪ちゃんは、私が台本通りに動くと思うかしら?」
「思わない……」
楯無ならその場の空気でセリフを変える事くらいするだろうと、簪は今更ながらにその事に考えが及び、セリフを用意しなかった理由にも納得がいった。だが、それとこれとは話が違うと、更に食い下がる。
「私はお姉ちゃん程織斑先生との付き合いも長くないし、織斑先生に合わせるのなんて出来ないよ」
「大丈夫よ。簪ちゃんが合わせるんじゃなくて、一夏先輩が合わせてくれるから。ですよね?」
楯無が満面の笑みで一夏に視線を向けると、一夏は呆れた表情を浮かべながら、簪に同情の視線を向けていた。
「こんなのが姉で、お前も苦労してるんだな」
「ちょっと、一夏先輩! こんなのって酷くないですか?」
「そう言われたくないのなら、少しはまともになる努力をしろ。仮にも国家代表なんだろ?」
「先輩や簪ちゃんの前でくらい、素の自分でいさせてくださいよ。表社会に出れば、いやでもまともにやらなければならないんですから」
「それが社会に出るという事だ。何時までも甘えられると思うな」
「分かってますよ。だから、今くらい甘えさせてください」
そう言って身体ごと一夏にすり寄る楯無を見て、簪は盛大にため息を吐き、申し訳なさそうな視線を一夏に向けた。
「こんな姉でごめんなさい……」
「簪が謝る必要は無い。そもそも、刀奈との付き合いも長いからな、俺も……こいつが他の大人を信用してない事も、常に人を疑って生きなければいけない事も知っているから、多少甘やかしてしまったんだろう」
「だって、心が休まるのは一夏先輩の側にいる時か、虚ちゃんや簪ちゃんとゆっくり出来る時だけだったんですから。もっと甘やかしてくれたって良いんですよ?」
「調子に乗るな」
「あいたっ!?」
一夏に軽くチョップされて、楯無は軽く舌を出して誤魔化す。楯無自身も甘やかされてる自覚はあるので、これ以上を望むのはやりすぎだと分かっているようだ。
「それじゃあ、簪ちゃんの緊張も解れたようだし、私は上で合図を出すわね。それじゃあ簪ちゃん、ノリで一夏先輩にチューとかしちゃ駄目だからね?」
「しないよっ! というか、お姉ちゃんはするつもりだったの!?」
「んー……そんな空気だったら?」
「何で疑問形なのよ……そもそも、そんなことすれば千冬が襲いかかってくるよ」
「たぶん、どっかの変態も来るだろうな」
一夏が空を見上げながら呟いたので、三人はそれが誰の事かすぐに分かり、あり得そうだと頷いたのだった。
間違いなく飛んでくるだろうな……