翌朝、千冬と箒は食堂で簪の姿を見つけ、複雑な気持ちで話しかけた。箒は、姉が簪に酷い事をしたという事を気にした面持ちで、千冬は大好きな兄を奪っていくかもしれない相手を睨みつけたいのを我慢している面持ちで。
「お、おはよう……二人とも、どうしたの?」
「いや、さすがに私たちでもこれだけの事を教えてくれる相手くらいいるからな。姉さんが酷いことをしたようで、申し訳なかった」
「まぁそのお陰で。一夏兄に抱きとめてもらったんだから、ある意味ラッキーだったのかもしれないけどね」
「ち、千冬? 目が本気なんだけど……そんな甘い空気なんて、これっぽっちも無かったんだけど」
「だが、思い返して興奮したりしたんじゃないのか?」
「朝っぱらから大声出して、なにしてるのよあんた」
簪に詰め寄る千冬の背後から鈴が声をかける。そのお陰で簪は千冬に接近されること無く、何とか気持ちを落ち着かせる余裕が出来た。
「なにもクソもあるか。簪が一夏兄に『お姫様抱っこ』されたと噂になっているから、その真意を簪に聞いているだけだ」
「あぁ、ちょっとした事故から、一夏さんが身を挺して簪を守ったってあれ? 教師として正しい行動じゃないのよ。何がそんなに気に入らないの?」
「一夏兄に抱っこされるなど、私だって数えるくらいしかないんだぞ? それを出会って数ヶ月の簪が抱っこされたと聞けば、私のような反応をするに決まってるだろ」
「今回はウチの姉が悪いというもっぱらの噂だ。簪を責めるのはお門違いだろ」
「じゃあ箒が責任を取ってくれるというのか?」
「何の責任を取れというんだ」
割と本気で責任を取らせようとしている千冬に、箒が若干たじろぎながら尋ねる。長年の付き合いではあるが、千冬のこの態度だけは箒も慣れていないのだった。
「それは当然、一夏兄に迷惑をかけた責任に決まっているだろうが。束さんが余計な事をしなければ、一夏兄が簪の事を御姫様抱っこする事は無かったんだからな!」
「あの、あんまり大きな声で言わないで……恥ずかしいから」
簪とすれば、事故を起こしそうになったことよりも一夏に抱き留められたことの方が恥ずかしいようで、顔を真っ赤にして千冬に頼むが、彼女の声は千冬には届いていなかった。
「この間の山田先生もだが、一夏兄に抱っこされるなど羨ましすぎる!」
「嫉妬じゃないか……というか千冬、ちゃんと反省文は書いたのか?」
「今はそんなことはどうでも良いだろ」
「いや、提出しないと一夏さんに怒られるだろうが」
一夏に命じられたものを提出しないなど、箒からしてみれば考えられない事であり、万が一提出しなかった時の事を考えれば『どうでも良いこと』で片づけられる事ではない。だが千冬は頭に血が上っているので、事の重大さに気付けていないようだった。
「お前が一夏さんに、普通の妹以上の感情を向けているのは分かっているが、もし反省文未提出となれば、しばらく口を利いてもらえないかもしれないだろ?」
「……こんなことをしている場合ではない! 今すぐ反省文を完成させなくては!」
急ぎ朝食を掻っ込み、千冬は食堂から部屋まで早歩きで戻っていった。早歩きといっても、千冬や箒から見た早歩きなので、他の人が見れば走っているように見えなくもない。
「あれは一夏さんに怒られないの? 思いっきり廊下を走ってるじゃない」
「早歩き程度で怒らないだろ……走ってる?」
「いや、走ってるでしょ……というか、あの速度を『早歩き』で済ませられるわけ無いじゃないの」
「あの程度なら、一夏さんや姉さんだって簡単に出来るぞ? というか、私たちの早歩きよりも早いからな、二人の早歩きは」
「一般人の常識の範囲で話しなさいよ……一夏さんや篠ノ之博士を基準と考えているのなんて、アンタと千冬の二人だけなんだからね」
「そんなこと言われても、子供の頃からそれが普通だと思っているから、今更考えを改めろと言われてもな……というか、鈴は私たちの全力疾走を見たことがあるだろうが」
「あの時はあたしもいろいろとあった後だから、アンタたちの動きを見てる余裕なんて無かったわよ」
千冬と箒が全力疾走をしたのが、一夏に怒られて命の危険を感じていた時だろうと鈴も分かっていたが、生憎とその時は自分の事で頭がいっぱいだったため、二人の動きなど見ていなかったのだ。だから付き合いが他のメンバーより長い鈴も、あの動きを走っていると感じてしまったのだった。
「まぁ一夏さんに怒られないのなら、あたしは何も言わないけど」
「一夏さん以外の教師に何を言われても、アイツに響くとは思えんし、放っておいていいだろ」
箒のまとめに納得した鈴は、これ以上気にする事は止めて朝食をゆっくりと摂ることにしたのだった。
やっぱり千冬は病気だな……