2人が帰宅するなり両親がマルの様子をしきりに聞いてきた。
幸彦は心配そうな両親に言葉少なく状況を説明すると、そのまま黙って自室に篭ってしまい結局その日は出てこなかった。
連太郎もほとんど自室で考え事をしながら過ごし、帰りの車中で考えていた思いを”いつ家族に告げるか”
そればかり考えてしまって夕べもあまり眠れなかった。
病院から帰る際、あまりマルの様子を見に病院に来ることはしないで欲しい。と古川が言った。
「飼い主として心配する気持ちはわかる。しかし来たところで事態が好転することもないし治療の妨げになることもあるので。」
と冷たく突き放すような言い方だった。
「何かあればこちらからの連絡はするし、そちらからも電話での容態の確認ならいつでも受け付けている。以上です。」
そう言い終わると、古川はそのまま向きを変えて仕事を始めてしまったので
2人はその場を後にするしかなかった。
幸彦は、マルの容態がおかしくなってから笑顔を見せなくなった。
朝は遅刻ぎりぎりまで自室に篭り、学校が終われば真っ直ぐに帰宅して古川動物病院へ電話を掛けていた。
マルの容態は悪くなる一方であり、金城家は灯が消えたように静まり返る日々が続いている。
数日後のある日、連太郎は家族が誰もいない日中を見計らって古川動物病院へ電話を掛けた。
受付らしき女性が出る。
入院しているマルのことで院長の古川に用があると告げると、受話器からは保留音が聞こえてきた。
その音を無心で聞いていると、いつの日かと同じトーンで古川が電話を取った。
「お待たせしました。院長の古川です。」
「あ、お世話になってます。あのマルの飼い主の金城です。」
「ん?金城さん・・・?」
受話器の向こうで古川が不思議そうな声を出す。
恐らく毎日電話を掛ける幸彦だと思って電話に出たのに、違う声が聞こえてきたからであろう。
「すみません。僕、連太郎です。幸彦の兄の。」
古川は電話の主が連太郎だと気が付くと「あぁ」と納得したような声を上げた。
連太郎はマルの容態について詳しく聞いたが、古川からの返答は喜ばしいものではなかった。
連日の嘔吐、痙攣、体重減退。
血液検査の数値も上がり続ける一方だという。
「あの・・・」
連太郎は意を決して古川へ問う。
「マルは・・・あと、どれくらい生きられますか・・・」
受話器を握る手に汗が滲む。
目を瞑り、古川の答えを待った。
「もう、いつ亡くなってもおかしくは無いです。今は鎮痛剤の投与もしていますから痛みはさほど無いはずですが、しかし、マルちゃんの体力だけではもう・・・」
「そうですか・・・」
「実は、私から今日にも金城さんには電話をしようとしていたんです。もう、残された時間もわずかですしお家に帰してあげようかと思いまして。」
あぁ、本当にもうマルは助からないんだ・・・
古川の言葉を聞いて連太郎の気持ちは固まってしまった。
マルを病院に連れて行った日の朝、自分の腕の中で震えていた感覚。
ぐったりと体を横にして、身動きをひとつ取ることも出来なくなっていた。
ただただ、ぜぇぜぇと苦しそうに呼吸をしている姿。
これ以上家族に、そしてマルにつらい思いをさせることが連太郎には耐えられなかった。
幸彦に相談することも考えた。
しかし、一番マルをかわいがっていた彼がそれを許すことはしないだろう。
恨まれていい、今ここで決断をしよう。
連太郎は意を決して古川に告げた。
「マルを楽にしてあげてください。」
言葉が震える。
しかし連太郎は気丈に、はっきりと自分の意思を伝えた。
古川にはそれが伝わったのだろう、彼は何も答えない。
もしかしたら古川もそれが最善だと考えていたのかもしれない。
お互いに黙ったまま気配だけを感じていると、やがて受話器の向こうから低い声が返ってきた。
「わかりました。同意書の記入や安楽死についての説明を行いますので、本日病院へいらしてください。」
連太郎は、はい。とだけ答えると受話器を置いた。
「安楽死について、説明しますのでよく聞いておいてください。」
いつもの院長室で古川と連太郎は向かい合わせに座っていた。
手渡された冊子には、「ペットの看取り方」と書かれている。
「安楽死、これは通常の麻酔で使う薬を過剰投与し行います。麻酔の作用について言うと、大脳皮質から中枢神経系を抑制することで意識の消失、麻酔状態へとなります、安楽死の場合はこれを過剰投与することで、深麻酔状態から呼吸中枢の抑制による無呼吸、そして心停止です。麻酔は後ろ足から注射器で投与します、注射を刺して、ほんの数秒で終了です。注射が終わった直後から数秒後にはもう心拍は確認できず、心臓は止まっています。」
古川は淡々と説明を続けていく。
連太郎はそれを真剣に聞いていた。
この説明の後、同意書にサインを書く。
幸彦にはもちろん、家族には相談をしていない。
連太郎は自分がどんなに恨まれても、殴られ蹴られ、たとえ家族の縁を切られたとしても構わない覚悟で今この場所に座っている。
マルを楽にしてあげること、そして幸彦が止まらずに前へ進むことを思っての決断だった。
弟は、マルがこんなことになっていることを自分のせいだと毎日悔やんでいる。
一生それを思って彼は人生を生きていくだろう。
しかし、それでは彼は一生幸せになれない。
そんなことがあってはならない。
ならば自分が、幸彦の苦しみをもらおう。
勝手にこんなことをした怒りを自分に向けさせて、彼には進んでもらおう。
そのために、自分が犠牲になるのであれば構わない。
そう思っている。
参考資料
・ネコホスピタル~愛猫と共に30年生きる~