重い足取りで玄関の扉を開けた。
出掛けには誰も家にいなかったが、自分が古川動物病院へ出掛けている間に両親は帰宅していたようだ。
気配はあるものの、家の奥からは声や物音は聞こえない。
静まり返っている玄関にガチャンと重い扉の閉まる音が響く。
その音はいつもよりとても大きく響いた気がして、今この家がどれだけ悲しみに包まれているかを改めて突きつけられたような感覚だった。
玄関脇の靴箱に車の鍵を置くと、意を決したようにスリッパを履きリビングへと向かう。
廊下の先のリビングの扉の磨りガラスの向こうでは、両親がダイニングテーブルに向かい合わせで座っていて、二人の手元には湯飲みがそれぞれ置いてあるのが見える。
しかし、お互い向かい合って座っているにも関らず二人はうつむき加減で笑顔は見えなかった。
「ただいま。」
リビングの扉を開けながら連太郎はつぶやいた。
それは両親に届くほどの声ではなかったが、父親には届いたらしい。
うつむいたまま一言「ああ」と返事を返した。
その声で母親も連太郎が帰宅したことに気が付いて、顔を見ると「お帰り。」とつぶやく。
しかし母もまた、すぐにまたうつむいてしまった。
連太郎はリビングの椅子に腰掛けると、うつむいたまま喋ろうとしない両親に先ほどまでのことをすべて打ち明けようと口を開いた。
「実は、今まで古川動物病院に行ってきたんだ。」
「マルの様子を見にか?」
父親が湯飲みをぎゅっと握り締めながら聞き返してくる。
母親はただ、じっと自分の手元を見つめていた。
「マルを安楽死させるよう頼んできた。」
そんな2人を見つめながら、連太郎はちゃんと2人に届くようにはっきりと喋った。
「そんな、マルはまだがんばって生きようと一生懸命戦っているのに・・・」
とても悲しい表情で母親が言った。
連太郎を見つめるその目には悲しみと共に怒りの感情もあるようで、連太郎は思わず目を逸らしてしまった。
「勝手なことをしたのはわかってる。でも、もうマルは・・・」
助からないんだ。この言葉が出てこなかった。
それを言ってしまうと家族は現実を知ってしまう。
古川動物病院で安楽死の手続きをし、帰宅した後は家族に自分を悪者扱いしてもらい立ち直ってもらう。
連太郎はさっきまでそういう風に考えていた。しかし
「マルはもう助からない。」
この一言の重みは自分の想像を遥かに超えていた。
だからといって家族に告げないわけにはいかない。
連太郎はこぼれそうな涙を必死に堪えながら重い一言を口にした。
「ま、マルの症状は日に日に悪くなる一方で・・・もうどんなに薬を投与しても、症状が回復することはないんだよ・・・体重もどんどん減っていって、吐いて、痙攣して・・・もういつ死んじゃってもおかしくないじょうたいなんだよ・・・あんなに苦しそうなマルは見てられないよ、だから、それならいっそ、少しでも早く、楽にしてあげるべきなんだよ。」
最後はぼろぼろと涙を流しながら叫ぶように連太郎は両親へ訴えた。
それを母親も目に涙を浮かべて聞いていた。
もうみんな何が正解なのかもわからない。
しかしだからと言って正解が出るまで待っているということは、マルをいたずらに長く苦しませるということだ。
幸彦もそうだ。
マルの異変に気づいてやれなかった彼は毎日自分を責めている。
悔やんでも悔やみきれない感情で今生きている。
このままでは幸彦はちゃんと生きてくれなくなってしまう。
そんなことはあってはならないのだ。
ならば、マルのためにも、幸彦の為にも
みんながちゃんと前を向いて歩いていく為にも、今ここで決断をしなければいけなかったんだ。
連太郎の訴えを両親は理解してくれたようだ。
2人とも黙ったまま頷いた。
幸彦が帰宅してきた。
連太郎と両親はリビングに顔も出さずに自室に篭ろうとする彼を呼びとめ
マルのこと、家族のこと、幸彦のことを話し出した。
「なんでそんなひどいことが出来るんだよ!マルは、マルはまだ生きてるんだぞっ!」
安楽死させる。その言葉を聞いた途端に幸彦はテーブルを叩きながら連太郎を怒鳴りつけた。
「いったい何の権利があって兄ちゃんはマルを殺すんだ!兄ちゃんにとってマルはぜんぜん大事じゃないんだ!だからそんなひどいことが言えるんだな!」
今にも飛び掛ってきそうな勢いで連太郎を睨みつけるその目には
零れてしまいそうなほどの涙がたまっている。
「俺だってマルは大事な家族だよ。でも、マルはもう助からないんだ。」
連太郎は冷静に幸彦に話し続ける。
しかし、淡々と話すその姿が幸彦にはとても冷徹に感じられて許せなかった。
両手を強く握り締め、彼はきつく連太郎を睨み続ける。
「幸彦、お前も頭ではわかっているだろう。マルは今とてもつらいんだよ。つらいけど一生懸命生きようとがんばってる。だけど・・・」
「一生懸命生きようとしてるならそれを見守ってやるのが俺達にしてやれることじゃないのか!」
「だけどマルの症状はもう良くならないんだよ!」
幸彦の言葉に連太郎は口調を強めて怒鳴りつけた。
「それでもっ・・・」
幸彦は涙を零しながら言葉を言いかける。
「お前の言うことだってわかるよ。俺だって本当は安楽死なんて嫌だよ・・・マルが一生懸命生きようとしてるのに・・・殺すなんてしたくない。」
そう、安楽死といえばまだ聞こえはいい。
しかし命の灯を消してしまう行為だ。
本来は決して許されることではない。
それが動物であれ、人間の勝手なエゴでしていいなんてあるわけが無い。
「このままマルの治療を続けても、回復することはないんだよ。時間が経てば経つほど体はぼろぼろになって、今よりもマルは苦しくなるんだ・・・そんなのマルがかわいそうだろう。だから少しでもマルが楽になるように、今決断しなきゃいけなかったんだ・・・」
連太郎の言葉に幸彦はうつむいて涙を流すしか出来なかった。
「お前の気持ちはわかった。」
不意に父が口を開いた。
「一番苦しいのは誰でもない、マルだ。今もつらくて苦しくてどうしようもないだろう。助かる見込みがないのなら安楽死を選んでマルを楽にしてあげよう。」
父親はそう言うと幸彦のほうに向き直り続ける。
「お父さんもお母さんも、誰だってマルが苦しんでる姿を見たくない。でもそれ以上に苦しんでいるマルをこのままにしておくなんてできない。幸彦、それはわかるだろう。」
幸彦はうつむいたままゆっくりと首を立てに振る。
「もちろんお前の気持ちもわかる。俺だってマルが大好きだしいつまでも元気でいてくれたらって思ってる。だけど連太郎の言うとおり、今ここで決めなきゃいけないんだよ。」
そう言いながら父親は幸彦のうなだれた背中に手を置いてゆっくりと摩った。
「だから、マルを楽にしてあげよう。な、幸彦。」
「・・・」
答えない幸彦を見つめながら母もボロボロと涙を流している。
何も話さないが母も父と同じ思いなんだろう。
膝の上に置いた握りこぶしにぐっと力を込めて、幸彦は消え入るような声でつぶやく。
「マル・・・、マル・・・」
「幸彦、いいな。」
やさしく語りかける連太郎の言葉に、うなだれたままの頭が小さく上下に揺れた。