「また吉野さん来たんですって?」
昼休みに受付の小島麻衣が尋ねてきた。
「そうなんです。今週だけでもう3回目ですから、さすがに参りましたよ。」
ブラックコーヒーを啜りながら連太郎は答える。
吉野が帰った後すぐ、ジョセフィーヌが強請るので真っ暗な中を懐中電灯片手に河川敷へ散歩に連れて行った。
鼻息荒く前へ前へ進む中型犬に引っ張られ、寝不足の連太郎は体を右に左にふらふらと振り回された。
2時間弱のお散歩から帰ると休む間もなくブラッシング。
それが終わると朝ごはんを食べさせ、寝床の用意をしてトイレの始末まで済ませるとジョセフィーヌはやっと満足そうにケージの床に伏したのだった。
ジョセフィーヌが寝息を立てたのを確認すると、連太郎もようやく部屋の電気を消してソファに倒れこめた。
くっつきそうな瞼を我慢しながら見た休憩室の時計はすでに朝の7時になろうかとしていたのを記憶している。
ウトウトしているところへ今度は10時の開院に会わせて出勤してきた仲間たちの声で目を覚ました。
時間は9時半だった。
今日も完全に寝不足だ。
「大変でしたね、夕べは倉賀野院長とのお酒に付き合わされて戻りが夜中だったのに寝ないでジョセフィーヌのお世話もなんて、連太郎先生じゃないとできないですよ。」
皮肉なのか素直な感想なのか、小島麻衣はそれだけ言うとお先です。と休憩室から出ていってしまった。
そろそろ午後の診察の時間か、連太郎は時間を確認するとカップの中身の冷たくなり始めたコーヒーを飲み干して立ち上がった。
眠気によろめきながらふと窓に目をやると外は春の陽気。
晴れた青空に枕にしたら気持ちよさそうに感じる雲が浮かんでいる。
この晴天の元、原っぱで昼寝でもしたら気持ちが良いだろうな、なんて思ってしまうほどの陽気だった。
そんな誘惑に負けそうな自分に喝を入れるかのようにパンと両手で自分の頬に気合を入れた。
ヒリっとした顔を擦りながらよしっ、と気合いを入れて休憩室に後ろ髪引かれながら扉を開けた。
午後の診察が始まる13時まではあと10分ほどあるというのに待合室にはすでに何人かの飼い主が各々のペットを連れて座っていた。
「連太郎先生、午後からの予約は4件入っています。動物は成猫が1匹と子猫が1匹、小型犬の成犬が2匹です。予約は以上ですが予約無しの来院も昨日と同様数あるかと思いますので午後もよろしくお願いします。」
受付のカウンター越しに小島麻衣が午後の予定を告げる。
このまま予約の人だけで今日は終わると助かるのにな、などと考えながら連太郎は礼を述べると白衣の襟を調えて診察室の扉を静かに開けた。
「院長、お疲れ様です。」
診察室奥の机でカルテを書く男に声を掛ける。
白髪交じりの頭に黒縁眼鏡、鼻の下に整った黒ひげを蓄え、院長と呼ばれた中年の男はカルテになにやら記入しながら答えた。
「うん、お疲れ様。どうかな眠気は少し取れたか?」
「休み時間に少しウトウトしましたがあまり取れないです。」
眼鏡を目の下にずらした院長がカルテから目を離し、連太郎を見る。
「そうか、大変だと思うが午後も頼むよ。」
そう言うとまた、眼鏡をかけ直しカルテに記入を始めた。
連太郎は、はいと返事をして一拍置いた後、診察台の電源を入れた。
なんとか無事に今日も倉賀野クリニックの1日が終わった。
診察室、ロビー、看板、人気の無くなった場所の電気を順番に落としていく。
各所を点検しながら一人で病院内を歩いていると廊下の前から歩いてくる院長が笑顔で声を掛けてきた。
「金城君お疲れ様」
「倉賀野院長お疲れ様でした。」
ホッとした顔で連太郎は答える。
「今日の宿直は渡辺君が君と変わってくれるそうだから今日はもう帰って休みなさい。」
倉賀野ペットクリニックには都市部から少し離れた場所にあるが比較的大きい動物病院であり獣医も3人常駐している。
院長である倉賀野淳司、金城連太郎、そして2年先輩の渡辺浩二である。
当医院の開院時間は午前10時から午後12時、1時間の休診を挟んで午後1時から午後8時までの8時間開院、休診日は毎週木曜日で土日祝日は開院している。
一般的な動物病院にある診察室や処置室のほかに手術室、臨床検査室、CT室、画像検査室を完備している。
そのため営業時間外である早朝深夜帯には急患のみであるが受入も行っている。
また、入院室も広くはないが犬用と猫用、人間でいうところの個室にあたる特別入院室も用意している。
3人の獣医は1週間に最低2日はローテーションで宿直業務をしなければいけなかったため、その申し出は今の連太郎には非常にありがたかった。
昨日の朝6時からほとんど寝ていない。今なら立ったまま眠れそうだ。
ベテランの渡辺さんにお任せして帰りたかったが、連太郎にはまだそうもいきそうに無い事情が残っている。
「そうしたいのは山々なんですが、吉野さんがジョセをまだ引き取りに来てないんです。」
横目でケージを見るとジョセフィーヌはすうすうと寝息を立てている。
時刻は20時半を過ぎている。
昨夜吉野さんは夕方には迎えに来ると言っていた。
遅くなるとの連絡も受けていない。
「吉野さんか、困ったものだ。こちらが善意でやっている行為に当たり前のように漬け込んできてでかい顔をする。まったくずうずうしい」
「いえ、僕がしっかり断らなかったのがいけないんです。申し訳ありません。」
連太郎は院長に頭を下げる。
「君のせいじゃない、もちろんジョセフィーヌも悪くない。それに君のその素直な対応はお客さん達にも好評だよ。私だって助かっているんだから。」
だから元気を出しなさい。と付け足すと院長は連太郎の肩を叩いた。
「ありがとうございます。」
連太郎は再度頭を下げると院長はまた明日と言い残して帰っていった。
「おーい、金城君!」
受付から渡辺の声が聞こえる。
早歩きで声のしたほうへ向かうと静まりかえった廊下にスリッパのパタパタという音が大きく響いた。
「渡辺さんどうされました?」
煌々と明かりの点る部屋に目を細めながら渡辺の背中に声を掛ける。
「吉野さんだっけ?ジョセフィーヌの飼い主さん。その人の連絡先さ変わってるみたいで電話繋がらないんだよ」
「え?」
「番号間違えたかと思って2回も掛け直したんだけど、この番号は現在使われておりません。て」
渡辺は名簿帳を広げて連太郎に見せる。
確かにそこには飼主名:吉野真里江様 ペット名:ジョセフィーヌちゃんと記入されている。
「もう一度掛け直してみますか?」
連太郎は吉野の連絡先を見ながら言った。
「何度掛けても繋がらないよ、俺がもう2回も掛けてるんだ。」
どうしようか、吉野さんが来なければこの子は家に帰れないじゃないか。
連太郎はうなだれてしまった。