高気圧前線が南下してくる影響で関東南部の最高気温予報は31.5度となっています。
熱中症には十分ご注意ください。
出掛ける直前まで点けていたテレビの天気予報のコーナーでそんなことを言っていたっけ。
一人暮らしなのに行ってきます。と空っぽの部屋に告げて金城連太郎は自宅を出た。
大学の獣医学部を卒業し倉賀野ペットクリニックへと就職が決まった。それと同時にこのアパートに引っ越してきたのが今から6年前。
築30年の2階建の203号室、六畳一間、風呂トイレ別、最寄り駅からバスと徒歩で30分、家賃6万円
立地のわりに安くはないが、連太郎はここを安住の地とした。
階段へと足を踏み入れてステンレス製の階段をカンカンカンと軽快に降りるとサビで足下からギシギシと嫌な音が鳴った。
地面からの照り返しに目を細めながら駐輪場に向かい、これまた6年前に購入した26インチのマウンテンバイクのダイヤル式チェーンを外す。
ジャラジャラと波打つチェーンをリュックに仕舞うと自転車に跨がり連太郎は自身の職場へと漕ぎ出した。
ギアを入れ替え颯爽と国道を走る。
天気予報で言っていた通り、今日は気温は高いが湿度が低いらしくカラッとしてて気持ちが良い。
連太郎の横を猛スピードで車達が追い抜いていった。
自宅から自転車でおよそ30分のところに連太郎の勤め先である倉賀野ペットクリニックがある。
街の中心から離れた立地にあるため、そこら地域一帯の基本的な移動手段は車である。
そのために倉賀野ペットクリニックは、動物病院では珍しく敷地内に12台分の駐車スペースを備えている。
病院は2車線の国道に面しているが、周りに建物と言えば道路を挟んで斜め向かいにあるガソリンスタンドとその横の牛丼屋くらいで
病院の裏は川と林、それ以外は見渡す限りの田んぼや畑だ。
日中は国道を走る車や来院の人々で賑やかではあるが、夜も9時を過ぎれば車もそうそう走ってこない静かな地域で病気や怪我の治療のために入院している動物たちには過ごしやすい環境といえるだろう。
じっとりと汗を掻きながら連太郎は倉賀野ペットクリニックの裏口横のスペースに自転車を滑り込ませた。
そのもっと奥の従業員専用の駐車区画には2台の軽自動車が止まっているのが見える。
すでに2人が出勤しているらしい。
連太郎はリュックからチェーンを取り出すと自転車の後輪に巻いてダイヤルを回した。
額の汗を手のひらでぬぐいながら従業員用扉から中に入るとエアコンのひんやりと気持ちいい風が全身を包み込んだ。
「おはようございます。」
そう言いながら休憩室へ入ると、受付担当でパートの小島麻衣と、この春大学を卒業して6ヶ月研修に来ている獣医見習いの汐見誠がテーブルを挟んで向かい合わせにソファに座り仲良さそうに話をしていた。
「あ、金城先輩おはようございます。」
汐見は連太郎に気がつくとソファから立ち上がって会釈をしている。
どうやら彼はとてもまじめらしく同年代の小島麻衣や来院してくる小さい子供にも誰彼問わず敬語を使い、いつでも笑顔で挨拶を返してくれる非常にまじめな好青年だと初対面の時に連太郎は思った。
「おはよーございまーす。」
小島は汐見のように立ち上がることはなかったが笑顔で挨拶を返してくれたが、ひらひらと右の手をこちらに振っている。
彼女は院長や来院の飼い主さんにも今と同じような対応をする。
よく言えば人なつっこい、悪く言えばまだ子供なのだろう。
以前、礼儀に厳しい先輩の渡辺が目上の人に対する言葉遣いがなっていないと小島を叱責したことがあったが今のところその効果があったとは考えづらい。
彼らに挨拶を済ませると連太郎はそのまま奥の扉を開けて更衣室へと入った。
自分のロッカーを開けて背中から下ろしたリュックを入れる。
中には仕事着である白衣と数枚のワイシャツと2本のチノパンがハンガーに掛けられて収まっていて、その下には紙袋に入ったきれいに畳まれた下着や靴下が入っている。
その中から白衣をハンガーから取り出すと袖に両腕を通した。
鏡を見ながら襟を正していると時折、隣の休憩室から汐見と小島の笑い声が聞こえて来る。
二人とも歳が近いようでとても仲が良さそうだ。
「そういえば連太郎先生は何で獣医になろうと思ったんですか?」
身支度を調え更衣室から出てきた連太郎に小島が声を掛ける。
右手には囓りかけのサンドイッチ、口はもごもごと動いている。
汐見もそれを聞いてあ、僕も聞きたいです。と体をこちらへ向けた。
連太郎はうーん、と一瞬考えてから長いよ?と答えた。
「何きっかけだったんですか?」
汐見は長くてもかまわないと言うように興味深そうに連太郎を眺めている。
連太郎は2人の顔を見比べて少し言いづらそうに小声でつぶやいた。
「そうだねえ、きっかけはペットを殺しちゃったこと・・・かな。」
その言葉に2人の表情が固まったのがわかった。
「え、殺したっていうのは・・・」
汐見が恐る恐る口を開く。
しかしその顔には先ほどあった笑みは消え、怯えているようにも見える。
小島も絶句している。表情は汐見と同じで怯えているようだ。
「うん・・・あれは僕が小学生の頃だった。」
連太郎はそんな二人の表情に後悔しながらもゆっくりと話始めた。
連太郎はその当時、両親と弟とともにとある地方のアパートに住んでいた。
連太郎10歳、弟の幸彦7歳、父は製紙会社に勤務し母は専業主婦というごく一般的な家庭だった。
ある日の夕方、弟の幸彦が段ボールに入れられた一匹の子猫を拾ってきたことが事の始まりだった。
それまで金城家では犬や猫に触れる機会は全くと言って良いほど無く、親戚はもちろん連太郎や幸彦の友達にもペットを飼っている家庭はなかった。
強いて言えば通っていた小学校のウサギやチャボが身近な動物だったと思う。
しかしその動物たちの世話は、全学年の各クラスから2名ほどが立候補または推薦で選出される飼育委員が担当していたで、立候補することも他薦されることもなかった2人は関わる機会が皆無に等しかった。
そんな中、幸彦が学校からの帰り道に寒さと餓えに震え力なく鳴き続ける子猫を見つけ保護し我が家に連れ帰ってきたのだった。
「まあ、かわいらしい子猫。」
そう言って抱きかかえた母親の姿をよく覚えている。
当時は毛色の種類の知識など皆無であったがその子猫は黒と茶色のまだら模様のサビだった。
にゃあにゃあと鳴続ける子猫を見た帰宅直後の父親は目を細めながら「この子はおなかが減っているんだろう。」と言って幸彦を連れて近所の薬局にキャットフードを買いに出かけていった。
連太郎と母親は土やホコリに塗れた子猫の体を見て「ご飯の前に体を洗いましょうね。」と風呂場に連れて行った。
わけもわからずぬるま湯を掛けられ怯えて抵抗しながら鳴く子猫は、体が次第にきれいになっていくとおとなしくなって、大きいタオルで体を包んであげるとそれを囓ったり蹴ったりして遊んでいた。
その少し後、大量のキャットフードを買い込んで帰ってきた父親に母親が呆れて小言を言っていたが、器に盛られたカリカリにがっついたあとおなかがいっぱいになって器に顔を埋めてスヤスヤ眠る子猫の顔を見て何も言わなくなった。
その日の夜、住んでいたアパートの大家に猫を飼うことの了解を得ようと父親が電話をした時、断られるのを覚悟で事情を話すと大家は二つ返事で許可してくれた。としばらくしてから話してくれた。
何でも大家さん夫婦は大の猫好きで猫好きには悪い人はいないと本気で思っているタイプの人たちだったようで、その何日か後に夫婦そろって子猫を見に家まで押しかけて来ていた。
その翌日、幸彦が丸まって寝ていたという理由からマルと命名。
子猫は晴れて金城家の一員となったのだった。