「ただいま。」
玄関を開けて幸彦が学校から帰ってきた。
その場でランドセルを脱ぎ捨てて、肩で息をしながら奥の居間へと進む。
母親が台所からお帰りと声を掛けたがただいまと返事をしただけで振り返らない。
幸彦の目指す居間の日当たりの良い窓際には、青と水色のチェック柄の座布団の上で気持ちよさように眠っているマルの姿があった。
「マルただいま。」
起こさないようにゆっくりと目の前で正座をして頭から背中にかけてひと撫ですると、マルは目を開けて幸彦を見つめてゴロゴロと喉を鳴らした。
起こしちゃったかな、そう思ったがすぐに思い出した。
マルはいつも僕が撫でると目を覚ますんだ。
それが出迎えてくれているようで幸彦は嬉しかった。
顎も撫でてやろうと手を離すと湿った鼻先で手をぐいっと押し上げて頭を被せるような仕草をする。
まるで、もっと頭を撫でて欲しいと言っているようだ。
それに応えるように再び頭を優しく撫でてやった。
「幸彦お帰りなさい。もう、マルばっかり構ってないでたまには友達と遊んできたら?お母さんが家にいるんだし、マルのことなら心配しなくて良いのよ?」
母親が背後からやってくると隣に屈んでそう言ったが、幸彦はマルを見たまま「ううん、平気。だってマルに会いたいんだもん。」と答えた。
このやり取りももう何度あったかわからない。
幸彦もその内に猫がいることが当たり前になって今まで通り放課後は泥だらけになって帰ってくるようになる。なんて思っていたが
3ヶ月経っても彼は変わらず毎日真っ直ぐ帰宅しマルの世話を続けていた。
その影響が兄の連太郎にも派生したのか
気が付けば兄弟揃って平日の朝寝坊をしなくなっていて、目覚めと共に変わりばんこに餌やりとトイレ掃除をするようになっていた。
お母さんは楽チンです。マルちゃんありがとう。
心の中でお礼を言うとエプロンの紐を締めなおし台所へと戻っていった。
「そうなんですか、金城先輩は昔猫を飼ってらしたんですね。」
隣の席で汐見が呟く。
両手を組み、ある一点を見つめて。
休憩室の中はシンと静まり返っている。
とても大人が3人もいる空間だとは思えなかった。
重苦しい空気を変えようと立ち上がり汐見と小島に何か冷たい飲み物でもと声をかけたが
2人はそれを断ったので連太郎は少し気恥ずかしさのようなものを感じつつ再びソファに座りなおして続きを話始めた。
マルが家に来てから7年が経ち、連太郎と幸彦はそれぞれ高校、中学に進学して季節も梅雨を向かえ夏の準備の長雨が鬱陶しく思えていた頃。
マルの様子がおかしい。
昨日の夜、学校から帰宅した際に母親から告げられた。
居間に入ると幸彦の傍らで少し元気がなさそうに丸まっているマルの姿が。
「兄ちゃん・・・」
連太郎に気が付くと幸彦は震えた声で呟いた。
彼はそれ以上黙ってしまって何も話さなかったが、後ろから母に呼ばれ後ろ髪引かれる思いで立ち上がるとリビングでマルの状況をなんとなく説明してくれた。
状況としては、マルの異変に最初に気が付いたのは母であったらしい。
なぜか寝てばかりいて起きてこない、ご飯も最近食べていないように感じて心配だったので近所の動物病院に連れて行ってみたらしく
結果としては、年齢が10歳を超えると大体の猫は老体化が始まります。マルちゃんはまだ8歳ですが恐らく少し早い老化が始まったんでしょう。といわれたようでしばらく様子を見るようにとのことだった。
そうか、マルはもうおじいちゃんになってきたんだな。幸彦心配するなマルは健康だよ。
そんなことを無神経に言ってしまったことを今でも覚えている。
その翌日から5日間学校行事で幸彦が家を空けたのだった。
朝家を出る直前までマルのことを心配していたが最後には兄ちゃん、マルを頼むよ。と言ってしぶしぶ出かけていった。
弟が出かけたその日の夜、なんとなくマルの行動を眺めていると母が言っていた通りここ最近までの様子とは少し違うことに気が付く。
まず、あんなにねだっていた餌をあんまり欲しなくなった。
ずっと寝床の座布団から動かずに寝てばかりいてたまに起きればこれも今までそんなに飲むことが無かった水を大量に飲んでいた。
そんな姿を見て、食欲が少なくなって寝てばかりいるのは老化のせいだろう。
水を大量に飲むのもきっと寝すぎて喉が渇いているんだ。くらいにしか思っていなかった。
そんな様子が4日続き幸彦が帰ってくる日の朝、マルの異変で目が覚めた。
はじめは寝ぼけて何の音だったのかわからなかったが
意識がはっきりしていくにつれて聞こえてくる音の正体が猫の嘔吐の際の嗚咽であるとわかった途端布団から飛び起きてマルを探した。
いつも寝ている座布団には姿が無い。
どこだ、部屋の中を見渡してみるが見当たらない。
その間にもマルの苦しそうな嗚咽が部屋の中から聞こえてくる。
毛玉を吐き出すときの嗚咽よりももっと苦しそうに聞こえることから尋常じゃない事態だ。早く見つけないと・・・
焦ってパニックを起こしそうになる。
・・・そういえばマルは怒られたり家族以外の人が来たときに隠れる場所がある。
いやなことがあったときはそこに隠れてしばらく出てこない。
そこだ。
部屋の角のテレビ台を視界に入れて急いで近づく。
ブラウン管テレビ上に手を乗せて裏を覗き込むと、部屋の隅と台でできた三角の隙間にマルが横たわっているのが見えた。
「マル!」
そういうや否やテレビ台を力尽くで自分のほうへ寄せて壁との間にスペースを作った。
そこに上半身を潜り込ませるとマルの体を抱きかかえて立ち上がった。
上から見たときは毛色でわからなかったがマルの体は吐しゃ物にまみれていた。
大声で両親をたたき起こしタオルを用意させる。
母親にタオル、父親に車の用意を頼むとマルはピクピクと痙攣を始めた。
母親はその姿を見ておろおろとうろたえるばかりだ
父親は今車を用意しに近所の駐車場へ向かったばかり・・・
連太郎は我慢しきれずにアパートを飛び出した。
つっかけのサンダルを乱暴に履き、1階までの階段を1段飛ばしで駆け下りる。
少し着地にバランスを崩したが震える猫を抱いて連太郎は車のある駐車場まで一目散に走った。
朝の通勤時間の少し前であったがひた走る道はサラリーマンや学生が駅へ向かおうと何人もこちらに向かって歩いてくる。
それらを交わしながら段々と駐車場が見えてきた。
もう少しと思ったところで父の運転する車が出てきたのだった。
そのまま車にぶつかりそうな勢いで突進すると助手席に乗り込んだ。