助手席に飛び乗ると同時に車は走り出した。
シートベルトを片手で不器用に引っ張り出してぐっと伸ばすも反対側の穴にうまく嵌らず連太郎はベルトをするのをあきらめた。
父親は黙ってハンドルを握り締めていたが、その表情には焦りの色が見える。
緊急時に駆け込める動物病院までは車なら40分ほどで着くだろう。
通勤時間帯ではあるが大きい道路は通らないのでもしかしたらもっと早く到着できるかもしれない。
カーラジオの画面にはAM6:40と表示されている。
連太郎は腕の中で震えている猫の体を抱く両腕にぎゅっと力を入れた。
マル、もう少しで病院に着くからなっ!がんばれよ!
心の中で励まし続けることしか出来なかった。
大丈夫、病院に着きさえすればマルは絶対に良くなる!大丈夫・・・大丈夫・・・
しかしその願いも虚しくマルはまた嗚咽を上げて少し吐いた。
腕にじんわりと吐しゃ物の生暖かい感触が伝わってくる。
連太郎はそっとタオルを小さく広げて吐しゃ物で汚れた顔を拭いてやった。
「もう少しだからがんばれよ。」
父親もマルが吐いたことに気が着いたのだろう。一瞬抱えるタオルに視線をやってマルを励ました。
病院まであとどれ程掛かるのだろう
今のところ信号にも少しの渋滞にも巻き込まれていない。
前にも後ろにも車は無くとてもスムーズに病院へと近づいていく。
流れていく風景の中で見える人たちはみな、いつもの日常が始まるところであろうか。
どうか、どうか神様、マルを助けてやってください。
平穏を眺めながら連太郎は唇をかみ締めた。
車は詰まること無く順調に病院へと到着した。
路肩に寄せて停車すると同時に連太郎はこらえきれずに外へと飛び出す。
目の前には白い2階建ての建物がそびえていて目の前のエントランスの庇には古川動物病院と一文字ずつの看板が掲げられている。
ここが下準備で調べておいた病院だ、間違いない。
「俺は車を止めてくるから連太郎、お前はマルを頼むな!」
車から降りるとき父親が力強くそう言った。
連太郎はうなづくと振り返りすぐさま走った。
建物の入口はここからもうほんの十数歩歩けば良いだけだったが今は一秒でも惜しい。
5段程度の階段を1段飛ばしで駆け上がると目の前を塞ぐガラス張りの両開きドアを思い切り叩いた。
「すいません!!すいませーん!!」
ガラスがバンバンと音を立てる。
内側はカーテンが掛けられていて中の様子はわからない、人がいるのかもわからない。
それでも連太郎はガラスを叩いて叫んだ。
しかし、誰も出てくる気配が無い。
ちくしょう・・・
そう思いながらふと周囲の外壁を見回してみるとガラス扉の右側の外壁にも四角い看板が掲げられていたことに気が着く。
<古川動物病院 診療時間AM9:00~PM12:00・PM2:00~PM7:00 緊急時は下記へ連絡ください。TEL ××ー△△△△-○○○○(担当 関谷)>
慌ててズボンのポケットから携帯電話を取り出すと看板に書かれた番号を打ち込んでいった。
間違わないよう数字を一つ一つ言葉に出しながら。
すべて打ち終えた番号に間違いが無いことを確認し通話ボタンを押しながら耳に受話部を押し付ける。
プップップ・・・
携帯がダイヤルをしている音だろうか、普段であれば何とも思わないこの音が今日はとても癪に障る。
携帯の握る手に力を込めて早く繋がれと強く願った。
ふいにその音が呼び出し音に変わる。
1コール・・・2コール・・・3コール・・・
相手が電話に出る気配は無く、無常な呼び出し音が耳の奥に響き続けた。
ダメか・・・
そう思って切ろうと耳から受話部を離した時、今まで鳴り続けていたコール音がふっと止まった。
慌てて携帯電話を耳にくっつけ叫ぶ。
「もっ、もしもしっ!!」
「はい?急患ですか?」
男の低いくぐもった声が聞こえてきた。
「そっ、そうです!猫が急に吐いて・・・それで・・・」
慌てて事情を説明すると電話の相手はさっきと変わらぬ口調で今どこにいるかと尋ねてきた。
連太郎が病院の前にいると答えると相手は今行きますと言って一方的に電話を切ってしまった。
今から行きます?どこから来るんだ?
携帯電話から聞こえてくるツーツーツーという音を聞きながら連太郎はその場に立ち尽くしていた。
呆然と見つめる道の先から父親が小走りでやってくるのが見える。
息を切らしながら階段を昇って来た父親は突っ立ったままの連太郎にどうだった?と聞いた。
連太郎は車から降りて父親がここに来るまでにあった出来事を話そうとした時、エントランスの明かりがパッと点いて2人は一瞬眩しさに目を細める。
何事かと振り返ると入口の中のカーテンが勢い良く開き、でっぷりとした大柄な白衣を纏った男が姿を表した。
彼はぶすっとした表情で扉のシリンダーを回すと片側だけを内側に開く。
左腕をスッと建物の奥へ伸ばしてどうぞと言った。
言われるがまま中へと入る。
「すみませんねこんな格好で、今まで寝ていたもので。」
寝癖のついた頭をさすりながら話す男の声は言った。
「いえ、こちらも朝早くにすみません。」
父親が恐縮しへらへら笑いながら答える。
ペットの一大事にすみませんも無いだろう。連太郎は緊急時にまで愛想を振りまく父親に心の中で毒づいた。
「それで?猫が吐いたとか?」
男が低い声で聞きながら連太郎の抱えるタオルをチラッと横目に見る。
「はい、朝起きたらげーげー吐いていて・・・尋常じゃない様子なんです。」
そう答えると男は頷きもせずに入口から奥へと続く廊下を進み始めた。
2人も後に続いて歩き始める。
数歩歩いたところで男が連太郎にいくつかの質問をし始めた。
何か変なものを食べた可能性は?
昨日までは普通だったか?
今まで怪我とか病気で病院にかかったことは?
普段は外を行き来させていたか?
それらはすべてノーであった。
マルは家族が食事をしていても人の食べ物は欲しがらないし興味も無いようであったし、たまにおやつに火を通したササミをやることはあっても普段は決められたご飯しか与えていない。
そしてきれい好きの母親が台所をいつもきれいにしていたおかげで、猫が食べてはいけない葱をはじめ食品はすべて戸棚などに保管されているから口に入れることは不可能だ。
病気や怪我も生まれてから一度もしていない、予防接種を年に一回と飼う事にした年に矯正手術を受けた以外は動物病院に行く事はなかった。
マルは一度だけ母親がうっかり閉め忘れたベランダの網戸をこじ開けて脱走したことがあった。
けれどもベランダから木に飛び移ったきり外の世界に恐怖心が芽生えたのか動けなくなってしまいみゃあみゃあ鳴いているところを幸彦に保護されて以来外にはまったく出ていない。
そして、5日ほど前から少し様子がおかしかったことを告げたところで男は診察室の扉を開けた。