街灯によって彩られた街並みには一切の人影はなく、その大通りから枝分かれしていく無数の路地。隠されていた月明かりが切なく照らすその一つに、一つの異形が沸き上がる。形を持っていたソレは次第に確かな個を崩し、ジェル状となったソレに残された固は鋭い爪のみ。再び月が姿をくらませたとき、ソレは怪物と成り果てた。
痛みに顔を歪める俺の目の前にいる緑色の化け物は、唸ることもなく、また笑うこともなく、ただ私に狙いを定めている。心なしか人の形を残したその体の、右腕に当たる部位には鋭い爪が携えられていた。それを何の感情も表さないで振り上げる。命の危機を本能が感じたからだろうか、私は咄嗟に後ろへ転がるように跳んだ。アスファルトに体を打ち付け、肩口からは血が溢れ地面に飛び散る。その血に追い縋るかのように爪がアスファルトに突き立てられた。
(逃げないと、逃げないと…。)
何度も何度も頭の中で繰り返すのに、体は言うことを聞こうとはせず震え続けている。そんな私に容赦なく化け物は襲いくる。地面へ突き立てられた爪が、今度は地面を容易く抉りながら横に払われる。さっきからあれほどだんまりを決め込んでいた体も、この時ばかりは反応を示した。またしても転がるように跳んだが、幸運は二度も重ならない。足先に爪が掠って肉を抉る。鋭い痛みと肉を切る音は同時に頭に届き、遅れて血とうめきが溢れ出る。
「ぅ、ぐう…。クソっ、」
「ァ、………ア……ァ」
私のうめき声に反応したのか、緑色の化け物が微かに鳴き声をあげる。 そこでようやく体を支配していた恐怖を貫いて、生存本能が脳と一本に繋がった。左肩と右足を庇うこともせず、無理やりその場から弾けるように駆け出す。左肩から溢れ続ける血は気にも止めない。痛みも今だけは成りを潜めている。
「ァァァアッ、……アァッ‼」
甲高い声を撒き散らしながら、ソレはすぐに追ってきた。
鉤爪を振り上げ、確かに私を目掛けて。
怖い、怖い、怖い、怖い。
恐怖で足がもつれる。
それでも足は止めない。止まらない。
追い付かれれば死ぬ。その事実が足を前へ進ませ続ける。
「死にたく…ないっ。」
息を切らし、涙で歪んだ視界。迫る死の気配に、自然と口が呟いていた。化け物に命乞いなど通じるはずもないだろうと、心の底で私が馬鹿にしているのに。その行動を止めることは出来なかった。
それからもがむしゃらに走り続け、血を撒き散らせ続けて、ようやくようこそ!の看板へと辿り着いた。心へ再び希望の火が灯った。そして息を切らせながら、少し後ろを確認する。ぐるりと視線だけを右側から後方へ。
ソレは私の真後ろに居た。
そして今まさに鈍色の凶器が振り上げられ。
「っうあぁ!?」
情けない声と共に前方へ飛び込む。痛みを噛み殺しながらも、転けないように傷を負っている右足で踏み込む。そして今度は後ろも振り返らず、帰路を走り続けた。
ようこその看板を超え、階段を駆け上り、気付けば玄関の門を潜っていた。化け物はいつの間にか追ってきては居なかった。
居間を血で濡らし、視界が霞み始めて、ようやっと治療を始めた。傷は思っていたよりも深かった。
治療も難しく、記者が受けていた傷のように専門の治療施設が恐らくは必要だろう。
そういえば、記者もあの化け物に襲われたのだろうか。
いいや、今はそんなことはどうでも良い。
とにかく今は、疲れた。
そう思い床で横になる。意識は水に石を落とすようにポチャリと、暗闇へ沈んでいった。
頭の奥底からじりじりと幾重の音が響きあっている。それはさも不協和音の交響曲のようで、私の脳を不快の色で埋め尽くしていく。しばらくして、私は今眠っているのだと理解出来た。そして、脳や体は未だに休息を求めているのだとも。それでも音は鳴り止まず、ついには気だるげな頭が痺れを切らし覚醒した。先程までのグワングワンと響くシンフォニーは単調な電子音へ変わり、視界が白となり、やがて色を取り戻す。窓から射し込む光が照らす室内の、定位置で時計はその役割を今なお果たしている。重い体を鞭打って、目覚ましを停止させた。
一晩眠ったからだろうか、昨晩の畏怖恐怖は今は成りを潜めている。それはもしかすれば夢だったのかもしれないと錯覚させる程で、傷が痛まなければそれで納得していただろう。痛みに歯を食い縛りながら、改めて処置をし直した。足は大した傷ではなかったが、腕は動かすのに支障が残るだろう重症。傷の治療を終えると、私は無気力にもう一度床で横になった。
「これから、どうすればいいのだろうか…。」
誰ともなく呟くと、昨夜の出来事が脳裏にフラッシュバックを起こす。緑の化け物が、爪を振り上げ、切り裂く瞬間を。全身が小刻みに震え始め、まともに息が出来ない。これは不味い。落ち着かないと。再び暗転を始める意識で私は、ただただ胸元で拳を握り締め、祈りを乞う他なかった。
もしも、神がおわすなればあの恐怖から私をお守り下さい、と。
不安と恐怖に苛まれながら、私は再び暗雲のような世界へ沈みこんでいった。
再び目を覚ましたのは夜、それも人々が寝静まる深夜だった。元より人の寄り付かない高台に住んではいるのだが、この夜の静寂は恐怖を呼び起こすのには十分で、自然と周囲へ意識を集中させる。これが何もない、ただの静寂であることは言うまでもないのだが、それでも怪物の気配を探らずにはいられなかった。
――ガサガサ。
窓からの音を聞きつけた途端、体は跳ねて反対側の壁にまで退き、それからようやく目と耳を凝らす余裕が生まれる。
ガサガサ、ガサガサと木の枝が風で擦りあわさっているのが見てとれる。
「ただの風…か。」
安堵の息を吐くと、体から力が抜け落ちる。その脱力に身を任せ、壁にとへたりこんだ。どうやら、自分の思っていた以上に、私の心はすり減ってしまっているらしい。
「はは、は……。」
気付けば口からは乾いた笑いが漏れていた。この笑い声は一体何に向けられたものなのだろうか。逃げ惑っていた自分か?記者の話もろくに聞かず、馬鹿にしていた自分にか?それとも今まさに死んでしまいそうな程に、小さく弱っている自分にだろうか。どうして私がこんな目に遭わなければいけないのだ。
「死にたく、ない…。」
あれこれと考えを巡らせ続けても、最後には結局この言葉に繋がってしまう。そうだ、私がこんなことで死ぬ方がおかしいんだ。本当に、なんでこんなことに…。こうなった原因に頭を切り替えると、あっと気が付いた。
「記者は、あれからどうなったんだ?」
あの記者は怪物についていやに詳しそうだった。ということは、記者に会えば助かる方法も分かるかもしれない。それにまだ記者が生きているのなら、命が狩り取られるまで追われ続けるとは、決まっていない。
「記者を探そう…。」
現状を打開する方法はきっと、これしかないだろう。記者を見つければ、状況が好転するのは確実だ。希望を無くすにはまだ早いぞと、自身を奮い立たせる。そして立ち上がると、肩口の痛みが主張してきた。それと同時に空腹までもが迫ってくる。記者探しの前に、やることもたくさんありそうだ。重い体を震える手足でどうにか支え、部屋に灯りを点す。
「まずは、軽く食事でも取るか…。」
そう言うとすぐに食パンにジャムを塗って食べた。食材に特別なものは何一つとして無かったが、このとき程おいしいと思ったパンはこれまでなかった。少しでも腹ごしらえをしたためか、鉛のようだった体は気持ち軽くなり、震えも大分と収まってくる。インスタントコーヒーをカップに淹れて一息。荒れていた心も落ち着きを取り戻し、考える余裕が生まれる。私はこれからどうするかに考えを向け始めた。
状況を考え直してみよう。
まず私があのような怪奇と出会ってしまった訳だ。それはただ運が悪かっただけか、はたまた、あの記者から話を聞いたのが原因なのか。もし記者の話に原因があるとすれば、やはり記者を追う必要があるだろう。
そして次にあの化け物についてだ。緑色で、人型。鉤爪で襲いかかってくる。今考えてみても恐ろしい怪物だな。だが、足を負傷していた私でも逃げ切れたのだから動きは速くない。むしろ遅いくらいだろう。思い返してみれば、あれの攻撃なら落ち着いていれば避けられる気がする。
「出来れば出会いたくなどないが、いざという時の為に、何か武装した方が良いかもしれないな。」
武器になりそうな物をと考え、物置部屋の奥にそっと仕舞われている小さな箱を取り出した。そしてその中から一本の警棒を手に取り、苦笑する。
「まさか、念のための護身用と買っていたこれが、こんな形で使われるなんてな…。」
試しに軽く振ってみてから物置部屋を後にする。そのまま寝室へ向かい、警棒を枕元に置く。体に疲労などは一切残っていないが、それでも朝までは休むことにしよう。
AM.2:20と示す目覚まし時計にもう一度仕事を与える。次にお前が働くのは6時だ、しっかり働いてくれよ。独り言を呟いて、枕に顔を埋める。
そういえば、記者の言っていたオカルト話って、どんなタイトルだっただろうか?
そんなことを考えながら、そっと枕元の警棒を握りゆっくりと眠りについた。
長らくお待たせしました。