―――潮騒の音が響く白浜で、爽やかな波風が浜を洗うの。そして空を見上げればそこには雲一つない青い空。まるでそこは天国のよう。争いも何もなく、壁なんてあるはずもないその世界で、白い家の窓からその景色を見たら、きっとあなたも気に入るわ――――
金色の匂いは、紅茶と薔薇の香水と、そして僅かな汗のそれだった。朝。潮騒の音を聞きながらアンジェが傍らに眠るプリンセスの髪に顔をうずめていた。
「プリンセス?・・・プリンセス?」
不安そうな問いかけの声でプリンセスは目覚めた。
「ええ。大丈夫よアンジェ。私は此処に居るわ。」
髪を触るアンジェの手を握り微笑みかけ、
「おはよう、シャ―ロット。」
安心させるかのような優し気な声音。それを聞いて安心しきった声でアンジェは
「おはよう。」
と返した。そして囁くようなプリンセスの声。さぁ、朝食を食べましょう?そうして朝が始まった。
「おはようございます!姫様!・・・アンジェさんも。」
食堂へと来たプリンセスを出迎えたのはベアトリスの元気な声。それでいてアンジェを呼ぶ時には不機嫌な声だ。無理もない。プリンセスは苦笑した。今の自分はあの式典の時に撃たれた脚がまだ治っていないため片方松葉杖を突いている状態だし、手を引くアンジェに至っては・・・。そこで思考をいったん取りやめ、
「おはようベアト。・・・ね?アンジェも?」
そう言って振り返ると、どうしたの?という風にふんわりとした微笑みを返す大事な人。その様に僅かに眉根を寄せ、そして想いが指先の力を強くしてしまったのだろう。
「プ・・・プリンセス?どうしたの?どこかに行くの!?わ・・・私も行くわ!」
強く握り返してくる手。大丈夫。大丈夫よアンジェ。私はどこにも行かないわ。想いが悲しみとなって胸を広がる。それを抑え込み、自分に大丈夫と言い聞かせた。1週間。あと1週間と少しだけこれを我慢すればいいだけなのだから。
「何でもないわアンジェ。さぁ、席に座りましょう?」
挨拶を無視されたベアトリスはやはり不機嫌顔で。目礼でプリンセスは謝った。ごめんなさい。苦労を掛けるわね、ベアト。いいです。姫様はもう。これくらいのやり取りは目を見ればお互い出来る。
そうして席に座り、運ばれてくる朝の朝食。ちせとドロシーも自室からリビングへとやってきて、そうして朝の朝食が始まる。プリンセスはかぼちゃの冷製スープを口に運び、傍らのアンジェを見る。パンを口に頬張り満面の笑み。とても美味しそう。その様に嘗て、スコーンを食べた自分を思い出し笑みを重ね。
「美味しい?アンジェ?」
「うん!美味しいわプリンセス!」
「それじゃあ、スープも頂きましょうか。今日は、かぼちゃの冷製スープよ。はい、アンジェ。あーん」
そうしてプリンセスはスプーンをアンジェの口元に寄せ。
「あーん。・・・わぁ!!とても美味しいわ。ありがとう、プリンセス!」
そう言って安心しきった笑みを浮かべるアンジェの瞳は、緑の色に光っていた。
新王室寺院での戦勝祈願式においての混乱から、一旦距離を置くことに加え、プリンセスの怪我の療養という事でカサブランカに向かう事になったチーム白鳩。その旅の途中でアンジェがケイバーライト障害を患った。理由は明白だ。Cボールの恒常的な使用によるもの。だからこそこの事態もコントロールは把握しており、カサブランカについてから1週間後に手術。術後は1週間の安静期間を置いたのち、すぐに視力は回復するとのことだった。障害
自体は問題ない。問題は、アンジェ自体だった。
恒常的にケイバーライトの影響下にあったアンジェの視力はカサブランカへの船中で段階的に失われていく事となった。初めは気丈な様子で取り繕っていたアンジェだったが、段々と視力が失われていくにつれて、プリンセスが近くにいないと精神が不安定になっていった。、ついにはカサブランカに降り立つ直前、プリンセスが傍から離れただけで錯乱するような状態に。それどころか、もはやプリンセス以外の誰も認識する事は出来ず、だからこそカサブランカについてからの1週間、プリンセスがアンジェの介護をする事は必然であった。
潮騒の音に木の乾いたが響く。カサブランカに付いてから約5日。プリンセスは片時もアンジェの傍を離れなかった。こうして今。砂浜近くの道を散歩しているときだってそうだ。右手に松葉杖を付き、左手はギュッとアンジェの手を握って彼女は歩く。
「ねぇシャ―ロット。」
穏やかな声。
「プリンセス、どうかした?」
応えるアンジェの声は何時もより高くそして無邪気だった。まるで嘗て彼女がシャ―ロットと呼ばれていた時よう。状況が深刻なのは分かりきっていた。明らかに退行している。しかも私以外の誰の言葉にも反応しない。プリンセスは憂いていた。けれどそれを態度に出すのはご法度だ。声の調子や触れる指の強さ。そういったもので彼女はこちらの態度をすぐに察する。幸い「態度に出さない」という事は慣れている。しかも表情にだけは出していいのだ。そういう意味ではむしろ楽と言える。心は只管に疲れていたが。嘘をついてるのだ。そう、嘘を。
戦勝記念式典の日、ただひたすらにアンジェの幸せを願った。願って嘘をついた。アンジェ、かつてのシャ―ロット。怖がりで泣き虫な娘。けれどただのスリの娘で終わる筈だった私に色々な素晴らしい知識、記憶をくれた大切な友人。そして最期に夢を、約束を教えてくれた、今の私の歩む道先を照らす太陽。彼女が生きていてくれるなら、と嘘をついた。
それでも彼女は私を助けに来てくれた。ごめんねと謝って。それがプリンセスには悲しかった。だってシャ―ロットが謝る事なんて何一つないもの。貴方の夢はもう私の夢でもあるのよ。だから背負わせるなんて思わないで頂戴。でもアンジェがそれを負い目に感じてるのなら、プリンセスはその時に誓ったのだ。シャ―ロットの壁を壊して、きっと皆と笑いあえるようにしよう、と。それなのに、今である。
「ちせさんとドロシーさん、ベアトがね。心配して・・・」
「プリンセス!」
遮る声。焦りと恐怖にぬれたそれが返ってきて、縋るような笑み。
「居なくならないよね?プリンセス!?」
「え・・・ええ。」
気圧されるしかなかった。だって、今彼女がこうして目が見えなくなっているのはスパイになったから。ひいてはプリンセスともう一度会うためだ。その結果として今目が見えなくなり、こうしてプリンセスに縋っている。本当は分かっている。このままだと一度崩れかけたシャ―ロットの壁が今度はむしろより一層強固なものとなってしまう事は。けれど、
「よかったぁ。」
目幅に一杯涙をため、焦点の合わない緑の瞳でこちらを見上げ、心の底から安堵の声を漏らす彼女に、それ以上、何も言う事が出来なかった。嘘が胸の内に溜まっていく。あの時の誓いへの嘘。それを直視するのを嫌がるかのように海岸へと目をそらし、
「海が綺麗よ。シャ―ロット。」
「うん!!!プリンセスが隣にいてくれて、凄い嬉しい!!」
お互いにすれ違っていた。
「お休みなさいシャ―ロット。良い夢を」
「うん。ありがとうプリンセス、おやすみなさい!」
そうして一つのベットに寝て、互いにすれ違ったまま、5日目の夜は過ぎていった。
「やっぱりこんなの間違ってますよぉ!!!!」
7日目の夕方。チーム白鳩の作戦会議はベアトの一言から始まった。場所はプリンセス達がカサブランカで療養するにあたって借りた家のリビング。
「確かにアンジェさんは嘘ばかりついて肝心な事は何も言わないし、何時も平気じゃないのに平気なフリするし、一人でなんでもやろうとして結局袋小路に迷い込んだりしますけれども!!!」
そこまで一息で言い切って、
「けれどこんなのおかしいですよぉ。姫様だって怪我してるのに。それにアンジェさんだって。あんなにその、幼い状態になっちゃって・・・。」
と肩を落とした。
「まぁ・・・何だ。疲れてるんだろう。」
とワイン片手にこたえるのはドロシー。アンジェとは長い付き合いの彼女ですらあのような振る舞いは初めて見る。だからこそどう対応すればいいのか決めかねていた。
「ドロシーさん!!」
「でもな。分かってるんだろう?ベアトも。」
焦るベアトに声に真剣な表情でドロシーは応え、
「プリンセスとアンジェ。前回の式典の時から、いやその前からだってそうだ。明らかにあの二人、夜会の時に知り合った、っていうのは親し過ぎる。過去からの知り合いって方が説得力があるぞ。そしてプリンセスとアンジェが知り合う機会なんて、壁が出来る前しかない。つまりだ・・・」
「分かってます!あの二人に何かあるなんて、そもそもアンジェさんが影武者だったのかも、なんてことくらい分かっています!だからあんなに仲がいいのかも、なんて分かってます!」
「確かにアンジェの寄りかかり方は異常だ。けれどもそれはプリンセスがそれを許容してる、っていうのもある。その理由が10年以上前の出来事にあるのなら、私たちが容易に触れていい事じゃないんじゃないか?」
と言いつつも苦笑。なんのことはない。ドロシーは怖かったのだ。突然目の前に現れた壁。10年以上前の友人の秘密。仮にそれを暴いたらどうなるのか。もし今の友情が壊れてしまったら?委員長の死。そしてカサブランカについて陰謀からいったん遠ざかったからだろう。何時もは決断的に行動できるドロシーが、今回については鈍っていた。
「かりに姫様にアンジェさんと10年以上前に何かあったからといって、それが今アンジェさんが寄りかかりすぎて姫様の負担になってる事とは関りがないじゃないですかぁ!姫様だってまだ怪我が治りきってないんですよ!!」
そのドロシーの葛藤を、小さな勇者は真っ向から両断した。
「ほら!ちせさんも何か言ってください!」
とその矛先は先ほどから胡坐を組み何も言わない少女へとむけられ。
「ふむ・・・私は東洋の出だからな。10年前にアルビオンにはおらぬ。お主たちが感じておったであろう『その時の空気』というものは知らん。故に今のアンジェとプリンセスに対してどう言葉かけてよいのかわからんが・・・そうじゃな。ベアト。」
「なんですかちせさん?」
「少なくともアンジェは、お主が思ってるより正気だぞ?お主ら、アンジェが私たちの事を認識出来ず、だからこそプリンセスに声ばかりかけておると思ってるようだが実態はそうでもない。努めてそうしておるだけだろうな。」
「そうなんですか!?」
流石に驚いた。だってあんなにこちらの事を無いがごとくにしているのに。
「朝、お主が声をかけたときに確かに聞えぬふりをしているが、僅かに右足が動いておった。恐らく声に反応したのじゃろうな。それ以外にもいろいろと、少なくともこちらの声には反応しておるぞ。応えてはおらぬが。」
それを聞いてベアトの顔が一瞬で赤く染まった。
「そ・・・それじゃあ、つまりはアンジェさんはもしかして、姫様に構ってもらうためだけに、私たちの言葉が聞こえてないフリを?松葉杖の姫様に手を引いて貰ったり、ご飯を食べさせて貰ったりお世話をさせる・・・なんて?」
「あ・・・あくまでその可能性は高い、というだけじゃぞ?」
自然と声が震えている。少女の剣幕に流石のちせもたじたじであった。
「それで充分です!確かめます!」
叫んで少女は出ていった。
「あ!おい待て!」
ドロシーが止めようとするも、
「いや。よせ、ドロシー。」
制したのはちせだった。
「お役目、というものがあろう。私は日本の者で、お主は共和国側。そういった意味では純粋にプリンセスの味方は、そして臣はベアトリスじゃ。諫言、という言葉もある。任せておいた方が良い。それに付き合いの長いお主じゃ。今のアンジェに何か物申すのは辛かったのだろう?」
「・・・だからだよ。ほんとは友人の私が言ってやらなきゃいけないんだ。」
苦虫を噛み潰した顔。
「フム・・・」
とちせはドロシーの顔を見つめ。
「なんだ・・・」
「お主は優しいな。」
「やめろちせ。それじゃベアトが優しくないやつみたいになっちまう。」
「優しさにも種類があるという事じゃ。ま、ベアトに任せておくのが良いのではないか?」
そう言って、微笑んだ。
「アンジェさん!」
結局ベアトリスがアンジェとプリンセスに会えたのは、それから少し時間が経ち、夜。散歩から帰ってきた二人が部屋に戻ってきて丁度寝ようとする所だった。
「あら、ベアト。もう寝る時間よ?」
ネグリジェの二人。微笑む姫様。分かる。今の笑みは疲れているのを隠す顔だ。長年姫様に付き合っていたのは伊達ではない。けれど、
「プリンセス、早く寝よう?」
そう言ってプリンセスの服の袖を引く少女、アンジェ。緑の瞳を輝かせ、アルビオンでの振る舞いなど忘れてしまったかのように幼く、プリンセスに対しては明るくふるまう少女。それがもし演技なら。ベアトの裡に炎が宿った。知ってる。
死に瀕した時ですらプリンセスを第一に考えた少女の事を。私と一緒にパラシュート降下した時に大嫌いと叫んだ嘘つきの事を。それが今は松葉杖を突いて、本来なら本人だって助けられる側の状態のプリンセスに只管甘えてる。目が見えないなら頼れるのはプリンセスだけじゃない。私たちにだって頼ったっていい。けれどもし、それを理由にプリンセスに嘘をついて甘えているのなら・・・
「アンジェさん。聞こえてるんでしょう?アンジェさん!!!!!」
叫んで、
「ベアト。」
優しい声。けれどそこには明確な拒絶の意思もあった。そこでひるむ訳にはいかない。だからつかつかと寄って行って。
「いい加減にしてください!!」
アンジェの頬を張った。
「ベアト!?」
今度は明確に咎める声。でも、止まるわけにはいかないのだ。
「これだけしたんです。誤魔化しようがないですよ、アンジェさん!」
張られた衝撃に目を見張る眼前の彼女へと顔を近づけ。
「アンジェさん、幾らなんでも恥ずかしくないんですか?一時的に目が見えないからって姫様にばっかり頼りっきりで。姫様だってもうリハビリを初めてもいいくらいなのに!!!どうなんですか!?」
「ベアトリス!!」
焦る声。姫様だ。心が痛む。けれど言わなければ。ジェリコの喇叭はもう鳴ったのだ。
「アンジェさん!」
ともすれば唇すら触れ合いそうな距離。目を見開いた彼女の瞳に、涙が浮かび。
「…だって、だってプリンセスが、プリンセスが居なくなってしまうから・・・。」
ああ、聞いた声だ。静かで心を閉ざしたかのような声。嘘つきの声だ。けれど今は、そこに涙が混じり上ずったかのような。嘘つきと少女が混じり合っていた。ギュッと抱きしめる。なんだ。やっぱり嘘をついていたんですね。アンジェさん。
「何言ってるんですかアンジェさん。姫様は居なくなりませんよ。」
「いいえ。居なくなるのよ!必ず!!絶対に!」
そうして突き飛ばされた。頭から地面へ。鈍い音。動けなくなる。けれど床が絨毯でよかった。意識はある。傍らをよろめきながら走りさる影。アンジェだ。扉でぶつかり何とかそれを開けて部屋を出ていく。
「シャ・・・アンジェ!?」
一連の展開にさしものプリンセスも硬直していた。いきなりベアトリスが入ってきたかと思えば大切な人の頬を張り、あまつさえこの1週間近く心配していたアンジェの振る舞いが、どうやら目が見えなくなったストレスによるものではなく意図的なものだったと分かったのだ。倒れた従者。追おうとする脚に一つ、鎖が巻き付いたような感覚。
「姫様!」
頭を打ったベアトリスがあおむけでこちらに顔を向け。眉を寄せた苦笑と笑みの中間。
「ごめんなさい姫様。けれど、行ってあげてください。」
心配した従者が鎖を解いた。頷き一つ。アンジェの跡を追う。物音で分かる。きっと、キッチンの方向だ。松葉杖を取る。自分の出来る全力で、追いかけて行った。
―――ねぇ、アンジェ。倒れて血を流す貴方を見たとき、心の底から怖かったの。もう死んでしまうんじゃないかって、怖かった。私の唯一の友達。生きるのをやめようとした私を照らしてくれる、生きるために必要な陽の光。何も求めず期待しない。だからこそ、心を赦せた唯一の人。ねぇ、アンジェ。貴方は壁をなくす事を私の夢だと言ったわ。そうね。そうよ。けれどアンジェ、私。血を流す貴方を見て気付いたの。壁をなくした先の世界に、貴方は居るの・・・?―――
プリンセスがキッチンに入った時、丁度アンジェは探し出したフォークを自分の目に突き立てようとしていた所だった。
「!?シャ―ロット!?ダメ!!!」
飛び込み縺れ合う。そしてアンジェが上に。どうにかフォークを奪い取り、遠くへ。床に投げられたそれに一旦安堵しつつアンジェを抱きしめる。どうしてそんな事を。努めて冷静な声で、いいえ。優しさも忘れてはいけないわ。静かに聞いた。
「ねぇシャ―ロット、心配したわ。どうして、自分の目を傷つけようとしたの?」
「…そうすればプリンセスが、きっとずっと一緒に居てくれるから。きっとこれからもずっと、今日みたいに傍にいてくれるわ。」
押し付けた胸からくぐもった声。そのいじらしさに苦笑する。
「大丈夫よシャ―ロット。言ったでしょう?皆の前で笑える日まで、絶対に離れない、って。」
「・・・じゃあ、女王になったら?壁をなくしたら、どうなるの?」
息を呑む。気付かれてないだろうか。見えてないけれど笑顔は作れた。そしてただ一言言えばいいのだ。「心配しないでシャ―ロット、ずっと一緒よ」と。けれどカサブランカからここに来て、嘘が胸の裡に溜まりすぎたのだろう。言葉が出てこない。だから代わりというようにギュッと抱きしめて。
「ねぇ・・・どうなるのプリンセス。ねぇ!!」
こちらの腕から逃れたアンジェが腕を床に手を突き。こちらを見下ろす。焦った顔。緑の目にはやはり涙が溜まっていて、それがプリンセスはたまらなく悲しかった。目端の涙を拭い、
「大丈夫よアンジェ。貴方の夢は、私が必ず叶えるから。」
「そんな事!!!私は望んでないのに!!!!!!!」
泣き叫ぶ声。
「え?」
思考が固まる。かつての夜会でシャ―ロットと、アンジェと再会した時のように。
「私は!私はアンジェと私の間にある壁さえ壊れれば良かったのに!ねぇアンジェ?どうして?どうして壁を壊そうとするの?もう私たちの間にある壁なんてないわ。ここにはないの。やだよ。私はね?」
震える声。笑おうとして失敗した泣き笑い。
「初めて出会ったあの日、アンジェに会えなかったらこの世から消えてなくなるつもりだったの。でもアンジェのお陰で今日まで生きてこれた。これからだってきっとそう。アンジェが生きていなきゃ呼吸だって出来ないわ。だから、どうしてなの?あらゆる人の間にある壁を壊すことになんて意味があるの?やだよ。それでアンジェが居なくなるなんてやだ。ねぇ、アンジェ。」
緑の瞳からついに大粒の涙があふれた。
「逃げよう・・・?」
ああ、そうか。そこでプリンセスは悟った。きっと彼女の時は10年前から止まっているのだ。離れ離れになったあの時から。そしてそこに居るのはかつての私でもある。ええ。私、言ったわ。逃げようって。周囲では怒号と砲声。こんな恐ろしい所に居たらきっと死んでしまう。怖かった。そしてだからこそ、それを拒否して願いを語る彼女に、心の底から惹かれたのだ。総ての人に向けられていたのだと思っていた。けれど、そう。そうだったのね。私一人の為に。
嘘で閊える胸に愛おしさが溢れ出した。シャーロット。私の愛おしい人。ああ、だから泣かないで。私まで悲しくなってしまうわ。
悲しい顔なんて見たくない。そして愛おしさに突き動かされるように”アンジェ”は再び”シャ―ロット”の頭を抱きかかえ、そして今度は口づけをした。
「むぁ!?」
一度離し今度はもう一度。舌を入れて。心を溶かすように。初めてだった。
しばしの時間が流れ、アンジェは口を離した。ふわりと微笑み、
「泣き止んでくれた。」
「い・・・いきなり何をするのよ!?」
それには答えず、アンジェはシャ―ロットの体に腕を回し、そのまま横抱きに。そうしてシャ―ロットも地面に寝て、二人は向かい合った。嘗て遊んでいた時のように。
「ねぇ・・・シャ―ロット、聞いて。」
頬に手を当て。語り掛ける。
「・・・何?アンジェ。」
「貴方がピアノの腕をを褒めてくれた時、私とっても。とっても嬉しかった。・・・どうしてあそこまで上手くなれたと思う?」
「それは・・・それはアンジェが血のにじむような努力をしたから。」
「それは違うわ。」
「・・・っ!そんな事ない!」
そんな筈はない。だってシャ―ロットは知っている。プリンセスとして生きていくためにどれだけの知識が必要か。修練が必要か。だってそのすべてが嫌になって、私は逃げ出したんだもの。どうして?
返答はプリンセスらしからぬ乾いた笑いだった。
「シャ―ロット、私がピアノが上手いのはね?『プリンセスだから』だそうよ?コンクールで初めて入賞した時、欠片も好きじゃなかったけれど、それでも少しは安堵したわ。私はプリンセスとしてうまくやれてるって。嬉しかったかもしれない。それでね、周りの大人達が口々に褒めたたえてくれたの。『流石はプリンセス』『これぞ王家の血筋のなせる技』『平民共にはこれほどの腕を持つものは現れますまい』ってね。」
「あ・・・。」
言葉が出なかった。依然として乾いた笑いを言葉の端々に混ぜ、アンジェは語る。
「笑っちゃうでしょ?シャ―ロット。彼らは口々に私がプリンセスだからピアノが上手いって褒めたたえるの。本当はプリンセスなんかじゃないのに。ただの『平民共』なのに。勿論私が必死に塗り固めたものよ。そう言ってくれるのはむしろ望む所だわ。だけれど、けれども。」
それと努力を否定される事は別なの。疲れた声で彼女はそう言った。シャ―ロットは悲しくなった。そうだ。自分は知っていた。「プリンセスで在る事」がどれだけ大変か、なんて。だから気付かなかった。彼女は死なないためにプリンセスを必死で演じ、そしてだからこそその努力を常に踏みにじられ続けたのだ、と。自然と手が伸びた。彼女と同じようにその頬に手を添える。動きで分かる。きっと微笑みだ。
「・・・ありがとう。シャ―ロット。私はそんな世界で10年。10年間生きてきて分かったの。きっとこれが『壁』なんだって。私はまだ良かったわ。その努力そのものを認められないまでも、『プリンセス』としての立場は結果を評価してくれる土台になった。けれど、けれどね。きっとこの世界には身分の差や貧困、立場の違いで努力が踏みにじられ、それどころか努力するきっかけすら掴めない人が居る。そう思ったら悲しくて、許せなくなって、だからシャ―ロット、私はね。壁を壊すの。貴方から始まった私の願いなの。だからシャ―ロット。」
願いをくれて、ありがとう。
「その果てに貴方自身が居なくなっても?」
その言葉に、
「答えて。アンジェ。」
「ごめんなさい。」
答えが返ってきた。
「嫌だ!そんなの絶対に嫌。」
「分かって、シャ―ロット。」
「分からないよアンジェ!願いがそんなに大事!?」
「大事よ、シャ―ロット。それが私の10年の意味だもの。」
静かな答えに悟る。ああ、アンジェ。もう10年前とは本当に違う。変わってしまった大切な人。本当に気高いプリンセス。私がなろうとすら思わなかったもの。でもそれで、それで死んでしまうなんて切ないわ。だから決意を込めて言った。
「アンジェ。」
「何?」
「私、アンジェの事が好き。私が生きる理由。意味をくれた人。ええ、言ってやるわ。私、貴方の事を愛してすらいるもの。」
「私だってそうよ。シャ―ロット。私が生きる目的を与えてくれた人。再会してから、貴方の幸せを願ってない時なんて一時もなかった。」
「アンジェ、私の幸せはずっと貴方と一緒に生きてゆくことよ。貴方が生きて、笑って、その傍らにいる事が出来ればそれでいい。」
「貴方の幸せはそれだけじゃないわ、シャ―ロット。ベアトが居て、ちせさんが居て、ドロシーさんだって居る。貴方の周りには素晴らしい友人たちが居る。どうかその壁をなくして。そうすればきっと幸せになれるわ。」
「違うのアンジェ。私は、貴方が生きていないと息をする事すら出来ないの。きっとあなたが居なくなったら、私はこの世界から消えてなくなるわ。」
だから、
「だから、私は貴方を護ってまもってみせる。護って護って護り抜いて、壁を壊したその後にだって、貴方と生きて笑えるようにする。」
クスリ、と笑う気配。
「シャ―ロット、ベアトみたいな事を言うのね。」
ムッとした気配。
「今は私の事だけを見て、アンジェ。」
言葉が途切れる。ああ、なんて夢物語なのだろう。きっとアンジェは私が生きる世界を知らないのだ。だって、壁を壊すという事は貴族と平民の壁も壊すという事。きっとあの貴族たちが尋常な方法でそれを許容するはずがない。ならば代償として自分は断頭台に送られるのだ。それでもいいと思っている。
けれどもし、総てが終わって、その時。傍らにベアトが居て、ちせさんが居てドロシーさんも居て。そして、目の前でシャ―ロットが笑ってくれるのなら。アンジェは太陽に目を灼かれた。眩しさに涙があふれ出てくる。頬を伝うそれを添えた手から感じ、
「泣かないで。アンジェ。」
今度のキスは、シャ―ロットからだった。
「落ち着いた?」
「うん。」
唇を離してどちらともなく笑いあう。楽しい。まるで昔に戻ったかのよう。けれど決定的に違うものもあった。この胸に宿る想い。10年間、お互いずっと大事にしまい込み、だからこそ違ってしまったそれ。故に、
「ねぇアンジェ。」
「何?」
「もう、アンジェこそが、シャ―ロットなんだね。」
「そうね。そしてシャ―ロットこそがアンジェよ。」
10年という年月はそれだけの意味を二人に与えていた。けれど。それでも
「私はシャ―ロットが好き。愛してるわ。」
「私もアンジェが好き。愛しているもの。10年間、想わなかった事なんて片時もなかった。」
そう、つまりはそういう事なのだ。あの日、あの古井戸で出会った。運命だと思った。悲しい事にお互いの運命を交換することになったけれど、その想いは今も変わらず。だからこそ、
「私、誓うわ。シャ―ロットを死なせない。貴方が私に誓ったように、絶対に貴方を死なせなんかしない。」
少し躊躇った後、
「正直、今も怖いけれどこの心の壁を壊して素直になって、皆と一緒に貴方を救ってみせるから。」
「ありがとう、アンジェ。だったら私ももう一度誓うわ。その貴方の壁を壊してみんなと笑って生きていけるようにする。それまでは、ずっと一緒よ。」
互いに苦笑。
「無理よ。貴方が生きてないと生きていけない。」
「無理よ。私の生きてる世界を貴方は知らな過ぎるわ。それは夢物語でしかないの。」
「どうしてこんなに、お互いが好きなのにすれ違うのかしら。」
「きっとお互いが大事で、そしてやっぱり違う名前だからよ。」
「そうね。そう。お互いシャ―ロットとして、アンジェとして生きてきたんだもの。そうよね。」
「ええ。きっとそう。」
だから、再び涙が溢れる。アンジェは頬に触れていたシャ―ロットの手を取り、ネグリジェの中へと導いた。
「だからお別れをしましょう。好きよ。アンジェ。でも今のアンジェは私なの。アンジェとして誓いを果たす。だから・・・」
アンジェはシャ―ロットの耳元で囁いた。
「貴方の手で、”シャ―ロット”を”アンジェ”にして。」
その夜、シャ―ロットとアンジェは、互いに永遠の別れを告げた。
手術は無事に終わった。1週間後には問題になく包帯も取れ、目が見えるようになるらしい。手術の次の日の朝、相も変わらずプリンセスはアンジェの手を引いて食堂にやってきた。
「おはようございます姫様・・・に、アンジェさん。」
昨日は丸一日手術で会う事が出来なかった。一昨日の夜は頬を張ったのだ。言葉に詰まる。先に席についていたドロシーとちせにも緊張が走る。一昨日、ベアトがアンジェとプリンセスの部屋に行って、そしてひと悶着あったのは知っている。その後どうやらキッチンで何やらあった事も。
「おはようベアト。」
にこやかなプリンセスの応答。それに続いて、
「おはよう。ベアトリス。それにドロシー、ちせも。あと、ごめんなさい。迷惑を・・・かけたわね。」
アンジェが答えた。頭に目を隠すように巻いた姿で、恥ずかしそうに。
「はい!!おはようございますアンジェさん!!もう!心配しましたよぉ。アンジェさんいきなり子供みたいになるしプリンセスにばかり甘えて!!」
ベアトリスは満面の笑みで答え、
「まったく、やっとお目覚めか相棒。ほんとに、心配したんだぞ?」
とドロシーは茶化すような笑み。
「うむ。復調したようだな。結構じゃ。ところで」
したり顔で頷いたちせは怪訝な顔をして。
「本当に手術は成功したのだな?アンジェ、何か、内股を庇ってるような動き方じゃが。」
「んなっ!?おいおい、ちせ。気にすんな。気にすんなよそんな事!!」
気付いたドロシーと首を傾げるちせにベアト。
「なんでじゃ?仲間が怪我しておるのならばやはり心配もしよう。
「そうですよドロシーさん。いくらなんでも薄情じゃありませんか?ね。アンジェ・・・さん?」
醜態を晒したことに対する赤面が、さらに赤く染まった。俯いていた。傍らに立つプリンセスはあらあらうふふと微笑むばかり。
「なんでも・・・ないの。本当よ。本当に。・・・勘弁して。」
薔薇の香りと匂い立つような汗と僅かな血の臭いのを思い出し、アンジェの顔はさらに赤く染まった。
術後から1週間が経過した。それまでの1週間とは違い、プリンセスだけに頼る事はせず持ち回りで介護してもらった1週間。今、アンジェはプリンセスと一緒に砂浜にいた。包帯が取れるのだ。
ベンチに腰掛ける。
「取るわね、アンジェ。」
「ええ。」
プリンセスの手で包帯が解かれていった。そして見える景色。
―――潮騒の音を奏でる白浜で、浜は穏やかな波風に洗われるの。雲一つない青い空が眼前に広がり、まるでそこは天国のよう。争いも何もなく、壁なんてあるはずもないその世界で、生きていく理由とすら思う大切な少女が、太陽のような笑みを浮かべていた――――
ああ、なんて。なんて美しい。アンジェは心の底から時が止まれば良いと願った。この光景のまま世界が止まって永遠を過ごせるのなら、魂だって売り渡すわ。眼前の少女を見て思う。何時か。そう遠くない何時か、この世界から消えてしまう事を覚悟した少女。そんな事はさせない。そう決意したけれど、
「どうアンジェ?貴方が連れてきてくれるって言っていたカサブランカは。こんなに綺麗な青なのよ?」
言葉は胸に溢れていた。けれどそれがどうしても出てこず、代わりに心を伝って涙となった。
「泣かないで、アンジェ。」
聞きなれた言葉。かぶりを振る。違う。違うのシャ―ロット。ただ、ただこの天国のような世界に居る貴方が美しくて、どうしようもなく胸が締め付けれられるの。翻る金色。白いワンピースの彼女。ああ。なんて、綺麗。
―――アンジェは、心の底から、カサブランカの青色に、感動した―――