本国に戻るまでの道中で起こったことは、正直、書くに堪えないほど惨憺たるものだった。ただ一つ書き記すとすれば、ついに隠し通せないほどの大きさになってしまった樅の若木の存在を知った時、マリアのヒステリが最高潮に達したこと、アランがそれを必死になって宥めたことだ。私は、そんな場合でもなかろうに、彼女の心の支えになってあげる役目が自分に回って来なかったことに激しく嫉妬した。
案内役の男がマグナソン教授に代わって船の手配まで済ませてくれたお蔭で、私たちは無事、本国に戻ることが出来た。彼の役目はそこで解任とした。しかし、帰国してから私たちを待ち受けていたのは、官憲と大学当局からの厳しい追及だった。尋問に次ぐ尋問は私たちを辟易とさせた。更に苦痛だったのは周囲の学生の目だった。私たちは教授の殺害の嫌疑がかけられていたのだ。
私も辛かったが、矢張りマリアにとってこれは堪えたのだろう。以前にも増して病気がちになり、講義を欠席することも多くなった。私は何度か見舞いに学生寮の彼女の部屋を訪れたが、その度に彼女は私と会うことを拒んだ。精神が錯乱しているようで、私に何度も罵詈雑言を浴びせた。しかし、私は何とか彼女の支えになろうと、彼女の身の回りの世話を買って出た。どんなに激しく罵られようとも、私は決して諦めなかった。私の彼女への恋心は、いつしか彼女への執着へと変貌していたのかもしれない。
そんな私の内心は、彼女には見透かされていたのかも知れなかった。
十二月になり、オックスフォードでは珍しい雹が降りすさぶある日、ついにことは起きた。私が部屋のドアをノックしても返事がない。鍵はかかっていなかった。私が静かにドアを開けて部屋に入ると、マリアはデスクに茫然と腰かけていた。右手首からは血が出ている。左手には、彼女のお気に入りのレターナイフが握られていた。父親からもらった物で、当時では珍しい新大陸製のバックボーンナイフだ。どうやら自傷行為に耽っていたらしい。私は焦って、彼女に近づいた。すると、
「…もう、来ないでよ…」
彼女は低い声でそうつぶやいた後、急に、
「どうして私のところに来るの!?私を嗤いに来たの!?何の役にも立たないくせに!」
と叫んだ。私は、我を忘れて思わず叫び返していた。
「好きだからだ!」
気が付くと、私は彼女の唇を奪っていた。腕の中で彼女の躰が驚きで竦むのが分かる。私は猛烈に後悔した。こんな筈ではなかった。私の彼女への恋心は、こんな悲哀に満ちた場面で打ち明けられるべき物では無かった。そして、追い討ちをかけるように私の心を粉砕したのは、右腕を貫いた鋭い痛みだった。見ると、彼女のナイフが深々と刺さっている。
「…誰が、誰が貴方なんかと……私には…ふふ、あははははははははっ」
驚く私を彼女は突き離し、傲然と言い放つと哄笑した。そしてついに泡を吹いて気絶してしまった。私は、絶望と恐怖から、ナイフを腕に突き刺したまま、逃げるようにその場を立ち去った。
それ以来、彼女は講義にも、研究室にも顔を出さなくなった。
少し遡って、件の樅の若木は植物科の研究室で研究されることになった。植物科としては矢張り、謎に満ちたこの樹を研究しないわけにはいかなかったのだ。研究はマグナソン教授の助手で、彼の死亡(”失踪”とするべきであろうが、敢えてこう記す)後に教授に就任したレスター=コルチャック助教授の主導の下で進められた。
この頃から、アランの様子がどことなくおかしくなっていった。同じ班の仲間同士、研究結果を共有しようと言っても、妙に自分の得た知識や仮説を隠したがる。話しかけても心ここに非ずと言った調子で茫然としていることが多くなり、こよなく愛して止まなかったチェスもクリケットも全くやらなくなってしまった。私は、アランのこの症状については、単に教授を失ったショックと言うだけではないだろうと踏んでいた。なぜなら、帰国する道中、彼は考え込んでいる様子ではあったが、激しいショックで精神を病んだりしていたわけではなく、様子は至って正常だったからだ。しかし、私はこの彼の挙動不審の理由をすぐに知ることになる。それも、最悪の形で。
最近アランは、研究室に遅くまで籠っていることが少なくなった。以前は私とよく深夜まで、場合によっては泊まり込みで籠って研究に明け暮れたりしたものだが、そう言った機会は全くなくなった。しかし、だからと言って寮の部屋に早く戻っているのかと言うとそうでもないらしい。ある晩、彼は最近の習慣通り定時になるとさっさと研究を切り上げ、荷物をまとめて研究室を後にした。私は何気なく彼のデスクを見やった。するとそこに、一冊の古びた手帳が置いてあるではないか。私は彼がその手帳を祖父の形見だと言って大切にし、常に肌身離さず持っていることを知っていた。だから、私は手帳を彼に届けようと思い彼の後を追ったのだ。これが、私の人生の中で、後にも先にも最も大きな過ちと言える。私が研究室を出ると、彼が植物園を突っ切って寮に向かうのが見えた。私は違和感を覚えた。それは、彼の寮館が私と同じ二号館だったのに対し、今彼が入っていった寮館は四号館、マリアの部屋がある館だったことに由来していた。私は猜疑心に駆られ、大声で彼を呼び止めようとしていたのを思わず止めてしまった。そして、気づかれないように彼の後をつけた。
矢張りと言うか何というか、私の予感は的中した。彼の訪れた先はマリアだった。彼女の部屋に彼が入るのを、彼女が彼を歓迎するのを私は廊下の角から暗い眼をして見つめていた。ドアが閉まり、鍵がかかるのを聞き届けた後、私は彼女の部屋のドアに耳を当て、聞き耳を立てた。切れ切れながら、二人の会話が聞こえてきた。
「…もう少し…分かるんだ……確証がない…教授は……」
「いいじゃない……もう充分……」
「…確証を…まで……返事は…ない……でも…愛してる……嘘はないよ…本当だ……」
「…じゃあ…証明してよ……貴方…私を……愛してる…いつもみたいに……ね?……」
「……ああ、……いいよ……」
そこから先のことをここに書き記すのはあまりにも不適切であろう。それに、私自身、暗い激情に駆られてこの時のことはよく覚えていない。ただ、幽かな衣擦れの音と淡い睦言、マリアの喘ぎ声が聞こえてきた時点で私は耐えられなくなってその場から逃げるように立ち去ったのだ。
気が付くと私は自分の寮の部屋にいた。完全なる失恋の悲壮感に打ちひしがれて暫くの間茫然としていたが、感情の昂ぶりが引いた後に私に残されたのはどす黒い憎しみだった。帰国から約一ヶ月、心身ともに彼女に捧げた私を侮蔑し、下衆のように扱い、傷つけて捨てたマリアと、とうの昔に私の彼女への気持ちを知りながら、平然と私を裏切って彼女と痴態を繰り広げていたアランに対する、明らかなる憎悪であった。
この時になって初めて、私はアランの手帳を握りしめたままだったことに気が付いた。私は彼の手帳の中身を読むことに、最早何の躊躇いも感じなくなっていた。私は毟るようにしてその表紙を開いた。
手帳の中身には特に変わったことはないように見えた。彼らしい、几帳面な字で講義の時間割や予定などが事細かに記入されている。だが、目当ての物は彼の手記だった。そこには、彼の、あの樅の木に関する、驚くべき事実が記されていた。私は事件後に手帳を処分してしまったので、ここに記すのは飽くまで私の記憶している範囲のことである。
彼は、そもそもなぜあの樅の木がクリスマスツリーに似せた形に進化していたのか、どうしてあのやせた土壌であんな巨木に成長したのかという二点に疑念を抱いたらしい。そして、その理由を次のように仮定した。あの形質は、高度な知的生命体、人間を惹きつける罠なのではないか、その知的生命体を捕食することで、足りない栄養分を補っているのではないか、と。彼が昨年の学寮祭で専門に研究していたのは食虫植物だった。彼は成長した若木の根が、通常の樅とは比べ物にならないほど異様な発達を遂げていることに着目した。この特殊な根は生物の動きに敏感に反応し、恐ろしく柔軟で硬い根が獲物の四肢に絡みつき、文字通り八つ裂きにする。獲物は地中に引きずり込まれ、主根に形成された袋状の器官で磨り潰された後、道管を通って水分と共に全身の食胞に運ばれる。実を切り取った時の血飛沫は恐らくこれであろう。根は、微細な末端部分を含めると樹を中心に半径十五m程まで張り巡らされ、生物の動きを感知すると同時に刺激が電気信号として伝わり、枝の先端についている食胞が発光する。帰国の際、異様な早さで成長したのは、数百年ぶりかに高効率のエネルギー摂取が出来たためであると推測できる。
彼はこの内容を約一ヶ月の間にほぼ実証していた。唯一、人間を捕食すると言う事象を除いては。手記には更に、こう続いていた。
「……僕はこの植物が人類に仇をなす危険な存在であることを公表し、世間に知らしめようと思う。そして、その暁には、僕は、マリアと正式に交際することを考えている。これ以上、今のような関係を続けるのは互いにとって良いことではない。コートニーもきっと祝福してくれるだろう。だって、僕たちは大の親友なんだから……」
読み終えた私は真っ先に洗面所に直行し、嘔吐した。女々しいことだが、涙が止まらなかった。だが、こうしたショックによる発作的な衝動が収まった後、最も私に痛烈な印象を植え付けたのは、彼の手記の最後の部分であった。「コートニーもきっと祝福してくれるだろう」。私をこんなにはっきりと裏切っておいて、この男はそれを忘れている。私はここで、憎悪が、殺意へと変わるのを冷静なまでに自覚した。