次の日、世間一般にはクリスマス・イヴと呼ばれる日だが、私には何の感慨も湧かなかった。これから狂気の殺人を犯そうという人間に、そんなものを愉しむ余裕が果たしてあろうか。講義の時、マリアは矢張り欠席していた。アランも、矢張りいつもと同じくどこか茫然とした様子だった。ひょっとすると手帳をなくしたのには気が付いていないのかも知れなかった。かく言う私だって、まともに講義を聞いていられる筈もなかった。
八限目の講義の途中で、私は体調不良を偽って講義を抜け出した。その足で向かったのは図書館だった。唯一この施設だけなのだ、タイプライターが使えるのは。
昨日、ドア越しに盗み聞いた会話で、マリアはアランに何かの回答を迫っていた。恐らくそれは、マリアからアランへの恋の告白の回答なのだろう。しかしアランは、手記の内容からもうかがえるように、自らがあの悪魔の樹についての研究を終えるまで、回答を保留にすると言っていたようだ。ならば私がタイプする内容は一つだけだ。今の彼女はアランの存在に依存している。ならば、アランとの交際を釣り餌におびき出してやればいいだけのことだ。
「君ノ問ニ対スル答エガ用意デキタ。ソレヲ聞イテホシイ。夕方五時ニ植物園ノ例ノ樅ノ前デ待ツ アラン」
懐中時計を取り出して時刻を確認すると、午後三時。研究所の定時は午後五時半だから妥当な時間設定だろう。私は早速その手紙を携えて四号館に向かった。
マリアには、部屋のドアをノックした後ドアの下に手紙を差し込むという、非常に古典的な方法で手紙を渡した。彼女が手紙の内容を読むのを廊下の角から覗いて確認した後、私は研究室に向かった。
待ち合わせの場所にアランがいないとなった時、マリアならどうするかを考えた時、私は、彼女なら木の近くを歩き回るだろうと踏んだ。樹の周りを歩き回れば、そこにあるのは悪魔の樹が仕掛けたトラップだ。勿論、完璧に成功するとは限らない。なぜこんな不完全な方法で人を殺めようとしたのかと訊かれたら、一つには自分の手を汚さないということもあろうが、もう一つには、私には純粋な殺意がなかったということかもしれない。或いは、どこかでこの殺人が失敗することを望んでいたのか。しかし、喜ぶべきか悲しむべきか、事態は私の計画通りに進んだ。
五時半になって、アランが帰り支度をし始めたのに合わせて、私も支度をした。アランは昨日と同じように植物園を突っ切って四号館へ行こうとしてそれに気が付いた。悪魔の樅が、クリスマスツリーへと姿を変えていることに。アランは慌てて樹に駆け寄った。私は、さも今研究所から出てきたばかりだと装って、「アラン!」と叫んだ。
アランは振り向き、私の姿を認めると、「来てくれ!最悪の事態だ!」と叫び返した。樹の下まで辿り着いたとき、アランは沈痛そうな面持ちだった。
「もう少しで、今度の学会でこいつの危険性を公表すれば、こんなことは防げたのに…」
彼は歯軋りしながらそう呟いた。しかし、彼はまだ事の重大さに気が付いていない。誰が喰われたのか気づいていない。私は、あたかも何も知らないかのように彼に状況の説明を求めた。そして、彼が事情の説明をしている間に私は用意していたあるものを、彼に気づかれないように地面に転がした。
「…という仮説を立てたんだ。これは段々と実証できていたんだけど」
「おい、アラン!」
アランが仮説の説明を終えてこれから実証済みの部分の説明に入ろうとしたとき、私は彼を止めた。地面に先ほど落とした、彼女のレターナイフを、英国では珍しい、一目で彼女の物とわかるそれを指さして。
「これは、マリアのレターナイフだった筈だ。お前の仮説が正しければ、悪魔の樹に喰われたのって…」
私がここまで言ったとき、アランの心は崩壊した。計画通りだった。彼は、嗚咽を洩らしながら、その場にくたくたと座り込んだ。
私はその場を立ち去ろうとして、愕然とした。樅の樹の幹に、今まで無かった瘤のようなものが形成されてゆく。それも、かなりの早さで。瘤はやがて、見慣れた姿となった。マリアだ。マリアの躰が、腕を広げ、まるでおいでおいでをするかのようにこちらを見ている。
「…マリア?…マリア!……今…今行くよ……一緒になろう…」
声の方向を見やると、アランがふらふらと立ち上がっていた。目は精気を失い、口角は引き攣り、泡を吹いている。彼は幹のすぐ近くまで近寄り、マリアの形をした瘤を抱き締めた。彼の周りに地面から飛び出してきた根が絡みつく。私は目を背けた。目を瞑り、耳を塞ぐ。しかし、指の隙間から木の軋む音、アランの断末魔の叫びが漏れ聞こえた。
五分もそうしていただろうか。辺りに人だかりができ始めている。私は意を決してクリスマスツリーに向き直った。樹の幹の瘤は、幸せそうに抱き合うマリアとアランの姿を象っていた。私はここで初めて罪の意識に胸が痛み始めた。二人の親友の死に目から自然に涙が零れ落ち、嗚咽が堪えられなかった。そんな資格はない、そう分かっていながら、私は、今は亡き二人の前で泣き崩れた。