それから約一ヶ月は何事も無かったかのごとく過ぎ去った。否、何事かは既にあったのかも知れない。しかし、少なくとも私はそのことには気付けなかった。
ただ、オスカーの様子が少しおかしくなったのが丁度この頃だったので、恐らくその〝何か〟はこの辺りで起きたのだろう。彼は私が病室へ行くと決まって寝たふりをするようになった。今まではどんなことがあっても何事かについて私と筆談をしていたため、私は少し不思議に思った。だが、その時はまだ何も思わなかった。
更に数週間が経過したある日、私がいつものように見舞いに来ると、受付で彼の担当医が待っていた。彼は少々おっかなびっくりと言った様子で、
「失礼ですが、貴方がベンジャミン=ヘイワーズ卿ですか?」
と、訊ねてきた。
「そうですが、何か御用ですか?」
「ええ、実は…大変言いにくいことなんですが、ヘイワーズ夫人とメイフィールド卿のことなんです」
「二人が、何か?」
私は少し不安になって訊ねた。担当医は言葉を選んでいるようであったが、やがて意を決したかのように、
「…ええ、あの二人、不倫をなさっていますよ」
と、私に告げた。医師によると、午前の検診に行こうとしたとき、病室から睦言と情事の音が漏れ聞こえてきたのだという。
「兎に角、ここは病院です。他の患者様もいらっしゃいますので……」
医師が恥に顔を赤らめ、それでも毅然とした態度で告げるのを、私はまるで呆痴(ほうち)にでもなったかのように聞いていたが、ふと我に返り、
「……そうですか、分かりました。細にはきつく伝えておきます」
そう告げて、見舞いもせずに病院を後にした。そうするのが精一杯だった。
私はその晩、ハイゲートに帰る気が起きなかった。暫くの間、この間ミルフォード嬢を誘ったパブで酒を煽り、その後、霧深きロンドンの街を当て所なく彷徨った。
嗚呼、リサは私を裏切ったのか、オスカーは私を裏切ったのか!オスカーの裏切りは、自分の未来を奪った私への報復なのか…。止め処ない思いが私の心中にぐるぐると渦巻き、私は吐き気を催して路傍のベンチに腰掛けた。
ここはどこだろう。道路標示を探すと、キングズクロス=ストリートと書かれている。シティに近い位置で、治安の悪さで中々に有名な地域だった。私も入ったことはない。
しかし、この時の私は自棄になっていた。私は今晩は娼館にでも時化込んで、女を引っ掛けようとなどと考えていた。今から考えると、何と浅はかで、愚かな決定だったことか。
適当なところで一件の店を見つけた。中に入ると、キセルを咥えた支配人が、客に娼婦を斡旋している。私はそこで、思わずあんぐりと口を開けてしまった。
ミルフォード嬢だ。暫く見かけないとは思っていたが、こんな所で会うとは!
でっぷりと太ったキセルの支配人は、阿呆のような表情で固まった私を見て何を思ったか、あろうことか彼女を私に斡旋してきた。
「最近入ってきた娘で、エルシー=ミルフォードってんですよ。良い面してるでしょう。値は張りますが、お客さんの人気もピカ一ですぜ」
慌てて彼女を確認すると、彼女の方も驚いているようだ。私は暫く驚いていたが、
「お客さん?」
と、支配人が催促してきたので、思わず何も考えずに、
「では、彼女を」
と、注文してしまった。彼女が薄らと驚きを示すのが見えた。
部屋に案内されるまで、私も彼女も終始無言だった。個室は薄暗く、怪しげな異国のお香の香りがした。寝台の横のキャンドルが怪しげに揺れ動き、それだけで何やら淫靡(いんび)な雰囲気が漂う。先に口を開いたのはミルフォード嬢だった。
「どうなさったんですか?ヘイワーズ卿、こんなところにいらっしゃるなんて…」
「君こそ、こんなところで働いているなんて…」
そう口にすると、彼女は悩ましげな表情を顔に浮かべた。その表情は故意にだろうか、自然と出てきたものなのだろうか。どちらにせよ、それは男性の理性を崩し去るに十分な艶(なま)めかしさを有していた。
「私は、貴方様から受けた御恩を早くお返ししたいのです」
「しかし、それで何もこんな稼業に就かなくても…」
「ヘイワーズ卿」
彼女は窘めるように言うと、私の腕をかき抱き、頭を凭(もた)せ掛けてきた。
「貴方様はどうしてこちらへ?奥様もいらっしゃるのに…」
「私は……」
ここですべてを話してしまおうか、オスカーとリサの裏切りについて。しかし、それを今話してしまうのはミルフォード嬢にとってあまりに酷な話だと感じた。
この逡巡(しゅんじゅん)の間を何と思ったか、ミルフォード嬢は私を寝台へと誘った。今までは事の成り行きに混乱していて気付かなかったが、彼女の今の服装は完全に男を誘惑するための服装だった。薄く、今にも透けてしまいそうな布地でバストを強調したデザインのドレスは、彼女の肢体(したい)の輪郭に張り付き、得も言われぬようなあられもなさを演出している。
私の理性は崩壊した。
事の次第については明記しない。
情事が終わり、二人同時に果てた後、私は何とも言えない奇妙な満足感に満たされていた。それは、オスカーが私を裏切り細が彼を選ぶというなら、私がオスカーのかけがえのない想い人を穢(けが)してくれよう、という非常に醜い嫉妬に起因する感情だった。私は不意に情けなくなって涙が出てきた。そんな私をミルフォード嬢は優しく抱き締めてくれ、それによって私は更なる自己への嫌悪感に襲われた。
私はその晩、一晩中泣き腫らして過ごした。