嫉妬   作:高望皆斗

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第四章

 

 朝になって目が覚めると、彼女はまだ私を抱擁してくれていた。

「ミルフォード嬢、ミルフォード嬢」

 私が揺り動かすと、すやすやと眠っていた彼女は目を醒まし、

「嗚呼、ヘイワーズ卿、これはとんだ失礼を」

 と、私に謝罪した。私は昨晩の礼を言い、娼館の料金を支払って挨拶もそこそこにその場を後にした。

 昨晩のことで吹っ切れたのか、私はオスカーと話をつけに行こうと考えた。否、正確には、昨晩のことで吹っ切れたから、等と言う生易しい理由ではない。私には、ミルフォード嬢との蜜事(みつごと)という保険が、彼に対して切れる札が手に入ったのだ。今になって考えると何と浅ましい、しかし、この時の私にはそんな下衆の考えしか浮かばなかった。

 キングズクロスからベイカー街までは徒歩でも行けるが、私は敢えて辻馬車を使った。何と無く、彼にどこから来たのかを悟らせたくは無かった。

 だが、ここで更なる悲劇が私を見舞った。今現在は朝、と言うことは、リサが彼の病室に居る可能性は非常に高いのだ。だが私はそれをすっかり失念していた。

 病室の前に辿り着いたとき、私はやっと自分の犯した過ちに気が付いた。病室の扉には面会謝絶の札が掛かり、耳を澄ますとその内側からは聞き慣れたリサの睦言が聞こえてきた。そして、微かな衣擦れの音も。

 ついに堪忍袋の緒が切れた私は、面会謝絶の札を無視して、殆ど蹴破らんばかりに病室の扉を乱暴に開いた。

 病室内は想像していた通りの光景だった。下半身の衣服を下されたオスカーの上に、リサが馬乗りになっている。私は、生涯でただの一度も上げたことがなかったような怒声を上げた。

「リサ!オスカー!貴様らは私を裏切ったな!この下衆共が!」

 言っていて自分の目から熱い液体が流れ落ちるのを確かに感じた。これは彼らに対する怒りと共に、自分の不甲斐なさ、浅ましさに対する悔しさも内包する涙だった。勿論、今から言い訳をしても何にもならない。ともすると、この時はただひたすらに自分自身を悲劇の真ん中に置いていただけなのかもしれない。

「…リサ、貴様は出て行け。お前とは離別(りべつ)する……」

「ベン…」

「出て行け!この阿婆(あば)擦(ず)れが!」

 それから、私はオスカーに向き直り、

「どうしてこんなことをしたのか、教えてもらおうか」

 と、強硬に訊ねた。オスカーは何も言わずにただ虚空を見つめている。

「言え!この下衆野郎!お前が、お前がどれだけ私の心に負担をかけているのか分かっているのか!この、この……!」

 騒ぎを聞きつけた彼の担当医が駆けつけてきて私を取り押さえた。羽交(はが)い絞(じ)めにされて連れて行かれる時に私がオスカーの表情に認めたのは、涙だった。

 

 医師らに謝罪をし、どうにか頭を冷やして士官学校にまでは辿り着いたのだが、授業に全く身が入らない。説明には切れがなく、板書には間違いが多発し、ついにはいつも私を慕ってくれる生徒にまで、

「今日の教授は少し妙です。風邪でも引かれたんですか?」

 などと心配される始末だ。流石に、細が浮気していたことが分かって、などと生徒に言える筈もなく、私は適当に誤魔化(ごまか)す以外なかった。

 昼休みの時間になり、私は朝の内にカフェテリアで買っておいたサンドウィッチを食べることにした。野菜の水分でふやけている割にパンがパサパサとして味気ない。食べかけのままこれを放置して暫く呆けたようにしていると、事務員に声を掛けられた。

「ヘイワーズ卿、電報が届いておりますが」

「誰からだ?」

「エルシー=ミルフォード様からです」

 ミルフォード嬢が何故、と怪訝に思いつつもその電報を受け取った。

――急ナコトデ大変恐縮デスガ、オ会イシタク存ジマス。オ時間ヲ戴ケマスカ?――

 と、ある。発信元は彼女の職場の郵便局だ。私は事務員に、

「悪いが今日はこれで帰らせてもらう」

 と、告げた。

「しかし、ヘイワーズ卿。午後の授業は如何なさるのですか?」

「申し訳ないが、休講にしてくれ。この埋め合わせは必ずする」

 私は校舎を飛び出すと、辻馬車を捕まえ、急いで郵便局に向かった。何故こんな判断を下したのか、明確な理由は覚えていない。しかし、私は何と無く、彼女に心の拠り所を求めていたのではないか、と、今ではそう思っている。

 

「まあ、ヘイワーズ卿。そんなに急いでいらっしゃらなくても良かったですのに」

 郵便局の事務員を使って窓口で彼女を呼び出すと、彼女は少し驚きつつも私を迎えてくれた。

「どうなさったのですか?急に電報なんて」

「ええ、実は、オスカーのことで相談があるんです」

 この時の私は一体どんな表情をしていただろうか。彼に対する怒りや憎悪と言った感情を必死に押し殺しながら、私は彼女に

「彼奴がどうかしたのですか?」

 と、訊ねた。すると彼女は途端に表情を崩し、今にも泣きだしてしまいそうな表情になった。周囲の視線が痛い。私は慌てて彼女をいつものパブに連れ出した。

 

「…いつぞやのお願いをした時みたいですね」

 彼女は俯き、薄く微笑みながらそう言った。

「……それで、一体どうなさったのです?まさか、彼奴と何かあったんですか?」

「それが…」

 彼女が彼の病室を訪れたのは、私の訪問の丁度一時間ほど後のことだった。最初訪ねた時、担当医たちは面会を謝絶したらしい。しかし、結局は彼女の勢いに押され、オスカーの病室に通したのだ。

 オスカーはただ静かに涙を流していた。手元のスケッチブックには、彼の字で、ぼくじゃないぼくのせいじゃない……、と何度も繰り返し綴られているのが見えたと言う。

「……それで、私、彼の涙を拭おうと思って仮面を外したんです。そうしたら…」

 彼の今の素顔を見てしまった。勿論、覚悟はしていただろう。しかし、一度も戦場に出たことの無いようなミルフォード嬢のような方が、彼の殆ど焼け爛れた様な顔を見てしまったのだ。

 思わず「ひっ」と、短く悲鳴を上げてしまった。勿論、普通であればたかが悲鳴だ。しかし、この場合はそれが大きな意味を持つ。

 オスカーは、自分が愛しの(尤も、他人の細と不倫をするような男がミルフォード嬢を未だに慕っているかどうかは甚だ疑問ではあるが)想い人に怖れられ、化け物を見るような目で見られたことは分かったのだろう。

「……うぅう…うぐぅぁあ………」

 喋ることが出来ない筈の彼の口から、獣の呻きの様なものが聞こえてきた。同時に彼は、満足に動かせない手足をばたつかせ、まるで何事か、抗えぬ何かに必死に抵抗するかの如く暴れはじめた。

 担当医が駆けつけ、彼に鎮静用の阿片(アヘン)を打ち込むと、彼はプツリと事切れたかのように寝台に倒れ込んだ。

「……嗚呼…私、私は、彼に酷い、何て酷いことを………」

 私は落ち着かせるように、咽び泣く彼女の頭を撫でながら、今の彼女の話を反芻していた。普通に考えれば、彼の涙は不倫がばれた悲しみと、友人に怒鳴られたショックの涙と考えるのが自然だ。しかし、だとするならば彼のスケッチブックに綴られた「ぼくじゃない」と言うのは一体何だろうか。

「…ミルフォード嬢。どうか涙をお止めください。私が明日、彼を宥めておきましょう。貴女の悲鳴に本意は無かった、と。無論、受け入れてくれるか保証はありませんが…」

「申し訳ありません、ヘイワーズ卿。何から何まで……」

 彼女はそう言って、ようやく微笑んだ。

 

 ハイゲートの自宅に帰り着くと、意外と言うべきか当然と言うべきか、リサの姿は無かった。

「旦那様、奥様の姿が見えませんが、どちらにいらっしゃるのでしょうか。卿自身も、昨晩は何の連絡もなく外泊なさりましたし…」

 雇っている女中(パーラーメイド)が心配そうに訊ねてくる。

「心配は要らないよ。それより、夕食なんだが、今晩からは一人分で構わない」

「…と言うことは、奥様とは……」

「余計な詮索はしないことだ。クビにされたくなかったらな」

 好奇の視線を寄せて来る女中を適当にいなし、私はバスで一人、明日オスカーとどう対面しようかを考えていた。

 結局考えは纏まらず、バスから上がり、女中の作った夕食を食べていると、あろうことかリサが帰って来た。

「どういうつもりだ?」

 私は飽くまで冷徹に訊ねた。厨房で女中が興味津々と言った様子でこちらを伺っている。

「…ベン、私は……」

「何だ、情けに縋ろうとでも言うのか?」

 この一言は強烈過ぎたのかもしれない。彼女は急に顔を歪ませ、思いつく限りの悪態(あくたい)で私を罵り始めた。

「何よ!そもそもあの男の所に行ったのだって、元はベンがそう仕向けたんでしょう!戦争から無事に帰って来たって言うのに、ベンはちっとも私に優しくしてくださらない!それどころか、向こうで友人なんて作ってきて、私をそっちのけでその男につきっきりで!何よ!ベンなんか、ベンなんか!」

「リサ!貴様の言っていることは全く道理にかなっていない。いい加減に分かれ。事実は、貴様が不倫をしたということだ!」

 私がそこまで言い切ると、彼女は終に涙を零しながら出て行った。私は暫くその場に茫然と立っていたが、女中の、

「…旦那様、奥様のことも少しは汲み取ってあげてくださいまし。旦那様がお帰りになる前も、お帰りになってからも、奥様は大層寂しそうなご様子でした。ですから……」

 と言う言葉でハッと我に返った。

 しかし、私には何も言うことが出来なかった。

 

 

 

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