だが、結論から言うと、リサの気持ちを汲み取るべき時点はとうの昔に過ぎ去っていた。悲しいことだが、冒頭でも述べたとおり、この一連の事件は〝悲劇(トラジディ)〟にしか収束しないのだ。
朝起きた時の気分は最悪だった。結局、オスカーに何と言葉をかけてやるべきか、何も思いつかぬままに今朝を迎えてしまったのだ。鎧戸を開けてハイゲートの街並みを見下ろす。空は憂鬱なほどに曇天だった。
それでも私は行かなければならない。昨日ミルフォード嬢にそう約束してしまったから、それに何より、私自身、彼が何を思って「ぼくじゃない」と綴ったのか、非常に気掛かりだったからだ。私は、そんな事は有り得ないと思いつつも、同時に心のどこかで彼とリサの関係には私が捉えきれていない何か別の、もっと深い事情があったのかもしれない、と考えるまでには冷静になっていた。
ロンドンには珍しい雹(ひょう)が降り始めたため、辻馬車を捕まえて正解だったと言える。ベイカー街に近づくにつれて、周囲の声が騒がしくなってきた。停車している自動車や辻馬車の数も多くなってきている。
「お客さん、火事のようですぜ。野次馬共で道が混んでまさあ」
御者が振り向いて言ったため、私も車窓から顔を覗かせ、そして愕然とした。
嗚呼、何ということだ。燃えていたのはベイカー街の件の病院、部屋の位置から考えて、一番激しく燃えているのはオスカーの病室だ。
「君、今日はここまででいい」
私は一ポンド札を御者に握らせ、驚きに目を見開いている御者の、
「お、お客さん、釣り銭はどうなさいますかい?」
という言葉も無視して辻馬車からまろび出た。集まる野次馬を掻き分け押し退け、何とか病院の前に辿り着く。朝、自室の窓から覗いた雲は灰色だったのに、何時の間にだろうか、黒々とした不吉な色に変わっている。辺りはまるで夜であるかのように昏く、黒雲をカンヴァスにオスカーの病室を燃やす焔だけが煌々と輝いていた。
「ヘ、ヘイワーズ卿、ヘイワーズ卿!」
声の方向を向くと、オスカーの担当医が口元をチーフで押さえながらやって来た。
「他の患者さんは可能な限り非難させたんですが、火元はメイフィールド卿の病室でして、救助は困難です!嗚呼、神よ、私はどうすれば……」
私は彼の言葉を半分も聞いていなかった。胸元のポケットチーフを口元に当てて煙を吸い込まないように注意しつつ、病院に駆け込む。
「ヘイワーズ卿!無茶です!」
医師の声が聞こえたが、私はそれをまるっきり無視した。階段を駆け上がりながら逸る動悸を抑え、脳を回転させる。火元はオスカーの病室だと聞いた。病室に火元になるようなものは置かれていない。だとすれば、この火事は人為的なものとなる。しかし、オスカーはあんな状態だ。となれば、これは……
病室の扉は固く閉ざされていた。恐らく内側から棒でも噛ませてあるのだろう。私は扉に体当たりした。一回、二回、三回、四回目でようやく扉が壊れる。
「リサ!」
病室の中は肉の焦げるような臭気が充満していた。シベリア戦線終結後の、オスカーの怪我の惨状を聞かされたあのテントを思い出させる。部屋の中央ではリサが狂ったように高笑いをしており、寝台にはオスカーが、否、嘗てオスカーだった物が、轟々と炎を放ちながら鎮座している。リサが身動きの取れない彼の躰に油を振り撒き、火を放ったのだろう。
オスカーの命が尽きているのは目に見えて明らかだった。だが、リサはまだ息がある。私はリサの手を引いて外に連れ出そうとした。その時、リサが口の中で何かを噛み裂いているのが見えた。無理矢理に彼女の口をこじ開け、取り出したのはスケッチブックの画用紙だった。唾液と煤で殆ど内容の判別は付かなくなっていたが、恐らくはオスカーの書いたものだろう。そこまで認識したとき、頭上の梁が崩れ落ちてきた。私は慌てて元来た道を引き返し始めた。狂女と成り果てた細を連れて。
病院の出口まで何とか辿り着いた私はその場にへたり込んだ。今見てきた地獄図絵に吐き気を催し、嘔吐する。苦しさにのた打ち回っていると、不意に私の躰を揺する姿があった。
ミルフォード嬢だ。彼女は何事かを叫びながら私を揺り動かしている。
「……は、オ…ス…は無…、…オスカーは…無事なのですか?」
私は彼女の言わんとしていることを察知し、その問いに答えた。首を横に振り、否(ノー)、と。
私の返答を見たミルフォード嬢は完全に壊れてしまった。往来の只中にも拘らず声を張り上げて赤ん坊のように泣き叫んでいる。リサの哄笑と相まって、二人の女性の悲痛の叫びは私の心に木霊した。