「ん?」
フィンたちと睨み合っていた武蔵。その視線が、不意に観客たちへと向けられた。
「……え?」
「なに……?」
ぐるりと首を回して、武蔵は自身を取り囲んでいる者たちの顔を眺める。その意図が解らずに、周囲の観客たちは棒立ちのまま困惑の表情を浮かべていた。
「どうした、皆の衆」
そんな彼らの胸中を
笑みを浮かべるでもなく、苛立ちを滲ませるでもなく。感情を感じさせない無表情のまま、静かに言い放った。
「ここはすでに
瞬間、彼らは武蔵の言わんとしている事を悟る。
その内容を裏付けするかのように、決定的な一言が吐き出された。
「斬られても文句は言えんぞ」
直後の変化は劇的だった。
根が張ったかのように立ち尽くしていた観客たちは、その言葉を契機として硬直が解けた。同時に、今自分たちがとんでもない場所にいる事を自覚する。
巨大な武力同士が衝突する場所……戦場。その真っ只中で丸腰のまま棒立ちになっているという、あまりに危険すぎる自分たちの状況。
その事実を一瞬の内に理解した………が
彼らの感情が爆発したのは必然だった。
「うわアアぁぁぁああああッッ!!?」
「逃げろォッッ!!!」
「ひいいいぃぃいいいいいっっ!!!」
武蔵の周囲にいた観客たちが我先にと逃げ出す。その混乱は瞬く間に伝播し、闘技場は出口へと殺到する人の波で満たされる事となった。
越えられない人だかりを前にして、彼らの内からはアリーナ内へ飛び降りる者もいた。一人がそうすればそれに
「うわッ!?」
「痛ぇ!!」
「バカっ、押すなッッ」
あちこちから悲鳴が上がってくる。
我先にと逃げ惑う彼らは他人を押し退ける事を躊躇しない。恐慌状態に陥った彼らは濁流のように出口を目指し、それがあちこちで衝突を引き起こしていた。
「まずい……おい、お前たち!彼らをアリーナ外へと誘導しろ!!地下でも構わんッ!!」
「はっ、ハイ!?」
貴賓席でその光景を目の当たりにしたガネーシャは、背後に控えていた団員たちに指示を飛ばす。神意すら滲むような迫力に圧され、彼らは弾かれたかのように動き出した。
全速力で階段を駆け下りてゆく彼らを見送ったガネーシャは、フレイヤとロキへと向き直る。
「フレイヤ、ロキ。お前たちも早くここから離れるんだ。この階段の下にいる団員に案内をさせ……」
「いや、うちはええわ」
「何?」
ガネーシャの避難勧告を、ロキは間髪入れずにつっぱねた。
ロキは特徴的な糸目を薄く開き、アリーナ内にいるアイズたちへと視線を向けている。どっかりと椅子に腰を下ろしたその格好は、
「子供たちが命張っとるんや。ここで主神のうちが逃げてもうたら、もう皆に顔向け出来ん」
「ロキ……」
「すまんな、ガネーシャ。
「……フレイヤはどうするのだ。離れるか、残るか」
ロキの意思を受けたガネーシャは、彼女の隣で静かに座っているフレイヤに声をかける。彼女もロキ同様にアリーナへと視線を向けており、その後ろ姿はオッタルが戦っている時から変化はないように見える。
ガネーシャにはフレイヤが何を考えているのかは分からなかったが、恐らくはロキと同じくこの場所から動く気はないだろうと、そう思った。その考えを肯定するかのように、フレイヤは口を開いた。
「ええ。私もロキと一緒にここで見ているわ」
「……分かった。それなら何人か手の空いている団員を護衛に寄越そう、何かあれば彼らに言え。それで俺にも伝わる」
「重ね重ねすまんな」
「気にするな、俺とてお前の気持ちが分からんでもない……自分の
そう言い残し、ガネーシャは貴賓席を後にした。少しして数人の団員たちがやってきて、ロキとフレイヤの正面以外を取り囲む形で警護に当たった。
緊張した様子の団員たちとは対照的に、ロキとフレイヤの表情は静かなものだ。その面持ちはまさしく、天より下界を見下ろす神々を彷彿とさせる。
「
不意に語られたロキの言葉に、フレイヤの肩がピクリと動いた。
そんな彼女の胸中を知ってか知らずか、ロキはある問いを投げ掛ける。
「今から
「………」
暗に、オッタルの傍についていた方が良いと告げるロキ。唐突に振られたこの問いに、フレイヤは僅かな間を置いて答える。
「いいえ、関係ならあるわ」
「?」
「これはオッタルが始めた勝負……延いては私が招いた事だもの。形がどんなものであれ、私には最後まで見届ける義務がある」
「……そっか」
フレイヤの断言に、ロキはそれ以上は何も言う事はなく。
二柱の女神は、静観の構えを取った。
一度決壊した人の流れはそう簡単には戻らない。
フィンたちの目の前では多くの人々が滅茶苦茶に逃げ回っている。彼らは立ちはだかる
悲鳴と人々が走り回る音で満たされた闘技場。その観客席に立っている武蔵が、ずちゃりと一歩、前へと進み出た。
同時にフィンたちも身構える。各々の獲物を握り直し、その顔に緊張の色を浮かべながらも一歩も引く気配はない。
そんな彼らの背を見ているのはヒューマンの少年……ベル・クラネルだ。
逃げ回る人々の肩がぶつかっても意に介さず、ただ立ち尽くしたまま。自身すらも想定していなかった最悪の事態に、ベルは茫然とした様子でいる。
「アイズさん……それに、皆さん……!」
掠れた声がベルの喉から絞り出される。その声にアイズは首だけを僅かに回し、ベルの顔を肩越しに見る。
「っ」
アイズの金色の瞳を直視したベルは言葉に詰まってしまう。尤も、その言葉ですらも混乱し、何を言うのか整理が付いていないものだったが。
そんなベルに対し、アイズは小さく笑ってみせた。
場違いにもその笑みに赤面するベル。そんな少年を置き去りにし、彼女は口を開く。
「大丈夫……私たちに任せて」
「………ッ!!」
言い終わると同時に、アイズはベルへと向けていた視線を外してしまった。完全に背を向けた彼女は仲間たちと共に、武蔵の捕縛へと意識と集中させる。
一方のベルはと言うと、アイズの言葉を受け固まっていた。
するとそこで、急に腕を掴まれ引かれる衝撃を感じる。何事かと思い、ベルは衝撃を感じた方へと顔を向ける。
「おいっ、いつまで
「ヴェルフっ……!?」
そこにいたのはヴェルフだった。
未だにアリーナの中心にいるベルを見かねたヴェルフは彼の腕を掴み、半ば強引にヘスティアとリリのいる場所まで下がってゆく。
「ま、待ってよヴェルフ!まだ……ッ!」
「“待った”は聞かねぇぞ」
ベルの腕を掴んだまま、ヴェルフはベルの言葉をぴしゃりと跳ね除ける。
「俺たちがあそこに居たって何も出来ねぇ!出来る事と言えば、せいぜい遠くから事の成り行きを見てる事しか無い!」
そう叫ぶヴェルフの横顔は、苦虫を噛み潰したような表情だった。その顔を見たベルは、彼がこの状況を歯痒く思っているのだと感じた。
ファミリアは違えども、武蔵と共の時間を過ごしたのはヴェルフも同じだ。仲間とも言える者がこんな状況になっているのに、自分は足手まといにしかならない。
そしてそれは、ベルに対しても同じ事が言える。
Lv2とは言え、武蔵と
(ムサシさんは……僕たちの仲間なのに………!)
かつての光景がベルの脳裏に蘇る。強化種のミノタウロスに殺されかけ、アイズに助けられそうになったあの光景を。
あの時はアイズの手を跳ね除けた。そして見事、ミノタウロスを撃破して見せた。ならば何故、今回もそうしないのか。僕に任せろと、外野は引っ込んでいろと、何故そう言えないのか。
自分と武蔵とでは力量が違いすぎるから?
流石にこの場はアイズたちに任せた方が良いと判断したから?
それとも………
「ベル君っ!!」
「ベル様!!」
アリーナ内側の壁際へと移動していたヘスティアとリリの声が投げかけられる。もといた入場口は人々が押し寄せている為、二人はこの場所へと移動していたのだ。
二人と合流したベルは後ろを振り返った。その視線を追うようにしてヘスティア、リリ、ヴェルフも一点を注視する。そこにあるのは、未だ多くの人々が逃げ惑う中、睨み合う武蔵と【ロキ・ファミリア】の姿。
程なくして―――
「さてさて……」
眼下を見下ろす武蔵が呟く。
アリーナ内には未だ多くの群衆が右往左往しており、あちこちで人の波がぶつかり合っている。その混乱した様子は、かつて武蔵が経験した戦場を彷彿とさせた。
「頃合いか」
更に一歩進み出て、そのまま臆した様子もなく………タンッ、とアリーナと観客席とを隔てる壁から飛び降りた。
「来るぞ!!」
ガレスの鋭い声が飛ぶ。
アリーナへと躍り出た武蔵は着地と同時に、流れるような動きでフィンたちへと急接近してゆく。先のオッタルとの戦いで見せたあの驚異的な移動速度から鑑みれば、もう間もなく接触する事だろう。
「俺が行くッ!!」
まず最初に動いたのはベートだった。
ダンッ!と地を蹴り、逃げ惑う人々の頭上を大きく飛び越える。目の前には驚異的な速力で移動している武蔵がおり、ベートはその行き先を予測しつつ攻撃の構えに移る。
(ぶちかましてやる!!)
空中で態勢を変えて必殺の飛び蹴りに備える、が―――――。
「ヒッ、わあァ!?」
「あぁ!?」
ベートの蹴りが繰り出されるよりも前に、すでに武蔵は動いていた。
武蔵は近くにいた観客の男の襟首を引っ掴むと、なんとベートが狙いを定めていた場所へと強引に追いやったのだ。狙っていた場所に割り込まれた一般人の存在に、堪らずベートは攻撃の姿勢を解除した。
「くそっ!」
ぐんっ!と体を捻り、何とか観客の男との直撃を避けたベートは地面へと着地する。即座に視線を上げるもすでに武蔵との距離は開いており、俊足を誇るベートですらも追いつくのは難しいほどの場所にいた。
剥き出した鋭い犬歯をギリリと鳴らしながら、ベートは吠える。
「お前らッ、そっち行ったぞ!!」
「分かった!!」
その呼び声に応えるように、フィンからの返答が飛んだ。
依然として武蔵の姿は群衆に紛れて見えない。それでも確かに伝わってくる圧倒的な圧力。それはまるで質量を持ったかのように、フィンたちの身体に重く
「リヴェリアは結界の用意を!アイズ、ティオネ、ティオナは周囲を警戒、前方は僕とガレスが当たる!」
フィンの鋭い命令を受け、アイズたちは素早く動いた。リヴェリアは先ほどよりも堅牢な結界を生み出すべく詠唱を開始し、そんな彼女を警護するようにしてアイズたちが立ち回る。
最初に武蔵が向かってきた方向はフィンをガレスが対応し、決してここを通すまいと意識を研ぎ澄まし、武蔵の姿を探した。
「【舞い踊れ大地の精よ、光の主よ―――――】」
リヴェリアの詠唱が始まると同時に、ボッ!!と群衆の中から武蔵が姿を現す。即座に反応したフィンとガレスはいち早く武蔵の前へと躍り出るが、そこで驚愕する。
「な……!?」
武蔵の手に剣はなかった。それは腰に差した鞘へと納められており、代わりにその両手は二人の男の襟首を掴んでいた。
大の男二人を掴んだまま登場した武蔵は、そのままの勢いで彼らを前方へと放り投げてしまう。フィンとガレスはそれぞれ宙を舞う彼らをキャッチしたが、それが隙を生む事となった。
武蔵は二人の横をすり抜け、後方のアイズたちへと接近する。奇しくも、先ほどのベートの時の焼き直しのような光景であった。
「このぉー!?」
「卑怯者ッ!」
今度はティオネとティオナが攻める。
左右から挟み込むようにして迎え撃つ彼女たちは、それぞれの獲物を手に武蔵へと迫った。仮に武蔵が抜刀したとしても、二人の立ち位置はそれなりに離れており、一太刀で一度に倒す事は難しい。
そこまで想定しての連携であったが、武蔵は刀を抜くことはなかった。無手のまま、すれ違いざまに両手を二人に向けて振るった―――――その
「「 ッッ!? 」」
ビタッ!!と静止するティオネとティオナ。獲物を振り上げたままの姿勢で硬直した二人は、揃って両目を見開いている。一方で武蔵は、何事も無かったかのように通り過ぎていった。
「―――っく!!」
アイズはティオネとティオナのすぐ後方に控えていた。彼女たちが突破された場合にも対応できるようにするためだ。しかし予想外に早い武蔵の進撃に、アイズはその顔に焦りを浮かべたまま剣を振るう。
急所を外した切っ先が迫るも、それは武蔵にとって実に「
伸びきり、一本の棒となったアイズの腕をあっさりと掴むと、武蔵は彼女を思い切り投げた。アイズは空中でくるりと身を翻すも、武蔵から引き剥がされてしまった。
「【大いなる森光の障壁となって我らを守れ―――我が名はアールヴ】!」
これとほぼ同時に、ようやくティオネとティオナの硬直が解けた。しかしすぐ背後には武蔵の姿が。そんな窮地に陥った二人の元に、リヴェリアが駆け付けた。
アイズは投げ飛ばされ、フィンたちも離れた場所にいる。無防備な二人を守る
間一髪で間に合ったと、ほんの僅かに安堵したリヴェリアは結界魔法を発動させる最後の言葉を口にした。
「【ヴィア・シルヘイム】!!」
突然だが、ここで一つの疑問が浮かぶ。
一息の内に突破された【ロキ・ファミリア】の精鋭たち。しかし彼らの中にダメージらしいダメージを負っている者はいない。
『
では何故、そのような事をしたのか?
それは無論……武蔵の本命が、別にあったからに他ならない。
「逃げろッ、リヴェリアッッ!!!」
迸るフィンの怒号。リヴェリアが持つ最大の結界魔法が展開されるのと、武蔵が構えるのはほぼ同時だった。
いつの間にか抜かれた剣を、胸が反るほどに大きく振りかぶる武蔵。その目はまっすぐにリヴェリアに向けられ、その余りの視線に、彼女をぞわりとした悪寒が襲う。
「ふんッッ!!」
そして、一閃。
反射した光の軌跡を残す武蔵の一太刀が、結界に大きな亀裂を生んだ。
「―――――ッッ!!!」
増してゆく亀裂を前に、リヴェリアは即座に杖を身体の前で構える。ひび割れた結界越しに見た武蔵は、すでに剣を振り降ろした姿勢から上体を起こしていた。
そしてひび割れた結界が崩壊するのを待たずに―――武蔵の強烈な蹴りが、リヴェリアの腹部を襲った。