「なんで……出てきたの?」
フラッシュバックが蘇る。目の前の「影」を一目見た瞬間、フィアの脳裏に映ったのは禍々しい闇を纏った白骨の姿だった。
そんなフィアの心で、絶え間なく「ユウシ」の意識が叫んでいる。
あれはウルゴーズ――許してはならない邪悪な存在だと。
この時、フィアはほぼ無意識的に目の前の「影」に対して敵意を抱いた。
もしもこの時、この場にいたのが自分だけであったのなら、フィアはソロの時のように我を忘れて飛び掛かっていたかもしれない。それほどまでにウルゴーズという怪物は、「ユウシ」にとって憎悪の対象だったのだ。
暴走寸前な精神状態に陥りながら、フィアはレイカの手を取って背走する。
「ちょっ、あのちょっとフィアさん?」
「レイカ、ペンちゃんも逃げる。アレは危険……戦っちゃ駄目」
逃げろ――奴の元から離れるんだ。ユウシとしての意識が、フィアの頭に絶えずそう警告していた。
あれはまだ「影」だから、それなりの対処はできる。しかし「本体」がこの世界に顕現した時、三人ではどうやっても歯が立たない相手であることをフィアは知っていた。
それが冥府の死神ウルゴーズという怪物だ。
今この場において、最優先すべきなのは自分よりも仲間の安全だ。フィアは今もなお空の亀裂から湧き出ている名状しがたい無数の「影」を一瞥した後、大きく目を見開く。
まるで魚群のように空を漂っている影の軍勢は瞬く間にスケルトン達を全滅させると、次なる標的をフィア達に定めた。
実体があるのかもわからない不定形の怪物と、フィア達は後退と突撃のドッグファイトを演じる。
その中で遠距離攻撃を得意とするレイカが銃型の杖から魔弾を連射するが、着弾しても返ってこない手応えに眉をひそめた。
「この程度の攻撃では焼け石に水ですか……!」
レイカの魔弾が命中した名状しがたい影は、一瞬だけ着弾した部位にのみ穴が開くが、数秒経たずして影は元の姿を形成し直し、再び飛来してくる。
無数の影の軍勢は、それ自体が一つの生物であるかのようだった。
キリがない。撃てども撃てども進行の勢いを止めない影の軍勢の前では、レイカの火力を持ってしても全くの無力だった。
やがて影はフィア達の頭上まで躍りかかると、先ほどスケルトン達を喰らったように彼女らの身を覆い尽くそうとした。
「っ、ポルターシールド!」
瞬間、レイカは咄嗟にスキル「ポルターガイスト」によって棺桶型の大盾を遠隔操作し、急迫してきた影に防壁として差し向けた。
その防壁が前に飛び出した瞬間、名状しがたい影の軍勢は餌に群がる魚のように彼女の盾へと突撃していった。
「ナイス!」
レイカの機転によりヘイトを分散させることができたが、次に影が起こした行動を前にレイカとペンちゃんが驚きの声を上げた。
「んな!?」
「あれは、盾を喰っているのか……?」
「せ、せっかくの新装備をよくも! ヤロー・オブ・クラッシャー!」
「落ち着け、一度作った装備ならすぐに復元できる!」
「むぅ……」
圧倒的な軍勢で襲い掛かる「影」の前ではポルターシールドの耐久性能さえなすすべもなく蹂躙されていき、瞬く間に塵と化していく。それはまるで、影によって盾が貪り喰われているかのような光景だった。
あんまりな光景を前に思い切り機嫌を損ねた顔をするレイカの尻を叩き、ペンちゃんが逃走を促した。
装備の犠牲を無駄にしてはならないと。
「ありゃあ尋常な相手じゃないぞ、フィアの言う通りここは撤退だ」
「くっ、この屈辱許しません……!」
自らの守りの要がこうも容易く突破されたことにレイカは歯軋りするも、渋々ながら撤退を受け入れる。
非常に負けず嫌いな性格をしているレイカだが、今はパーティプレイである以上、勝ち目のない戦闘は自重せざるを得なかった。
この影がスケルトンなどとは比べ物にならない敵であることを察したレイカは、ペンちゃんと並走しながら地を蹴り後退していく。
しかしその逃走に一人、仲間が加わっていないことに彼女らは気づいた。
「フィアさん! 何をしているのです!?」
フィアだけはその場に留まり、それどころか単身影に向かって駆け出したのだ。
レイカとペンちゃんが並走する側とは全く別の方向へ走る彼女は、緊迫した息遣いで叫ぶ。
「フィアが囮になる!」
「なんですって!?」
髪が風圧に靡いた瞬間、フィアの背中から二枚の翼が広がっていく。
HEATスキル「蒼の領域」。その発動形態である、白翼の天使の如き姿だった。
「この姿なら、空を飛べる」
「馬鹿なことを……戻りなさい!」
「できない!」
「蒼の領域」の発動時、展開されるその翼は飾りではない。
この姿ならば、一時的に飛行能力を得られるのだ。
フィアは白翼を羽ばたかせると高々く空に舞い上がり、漂空する影の前でこれ見よがしに自らの姿を曝け出した。
「貴方の相手は……フィアだけでいい」
こっち、と敵のヘイトを一身に引き受けると、その軍勢をレイカ達から引き離すべく誘導していく。
影の軍勢はそんなフィアの意図に従い、甘い香りに吸い寄せられる羽虫達のように彼女だけを追尾していった。
「なにやってんだフィア! そんな真似が……っ」
レイカとペンちゃんを逃がす為に、名状しがたき影の相手を一人でしようと言うのだ。
そんな彼女の独断行動に対してペンちゃんが珍しく声を荒げると、レイカもまたそんな彼女の声に同調した。
「まったく! カッコつけなさんなっ!」
銃型の杖を構え、レイカは後退から一転。ペンちゃんと共に退路から引き返し、フィアを追い掛ける影に向かって集束魔法を解き放った。
その解放ぶりや、MPの温存など知ったことかと言わんばかりの戦法。
ペンちゃんもまた何やら呪文を唱え出すと、前方に展開した魔方陣からいくつもの氷の弾丸を打ち出し、滑空する影の軍勢を狙撃していった。
そんな一人と一羽の姿を視界の端に捉えたフィアは、ハッとした表情で自らの愚行を恥じる。
仲間を決して見捨てない。フィアの大好きな友人達がそんな優しさを持っていることを、何故考えなかったのかと。
この身を犠牲に彼女らを逃がしたところで、優しい二人を悲しませるだけだと思い至ったのだ。
「……フィアは、フィア」
そしてフィアは二人の優しさを胸に、脳裏に映るフラッシュバックを振り払った。
我に返ったフィアはこの世界がゲームであるという前提を思い出し、湧き上がっていたウルゴーズに対する「ユウシ」の感情を抑制する。
その上でフィアは、自身を追い掛けてくる名状しがたい影に向き直った。
ウルゴーズ――その存在はかつてのユウシ達に癒えぬトラウマを植え付けた、恐怖の対象だった。
大虐殺を繰り返し、実験と称して多くの人々を苦しませてきた残虐な死神である。そんな「原作知識」を思い出した途端、フィアの心はユウシの感じていた無念に曇っていく。
だけど……
「フィアは、フィアだから向き合わなきゃ」
言い切り、自分自身の目で禍々しい影を直視する。
知識は所詮、知識である。
ユウシはウルゴーズのことを知っているが、その知識は彼のものであってフィア自身のものではない。
だからこそフィアは、ここが安全なゲームの世界であるからこそ確かめたいと思った。
「教えて」
二枚の翼で空を飛翔するフィアは後退を止めると、身を乗り出し、迫りくる影の軍勢と向き合う。
お互いの生命を繋ぎ、心を通わせる為に。
「貴方は、悪い子なの?」
返答は無い。
思念のうねりも感じない。
そんな名状しがたい「影」を相手に、フィアはこの知識通り、目の前の怪物に邪悪な存在なのかと問い掛ける。
抵抗の意思をなくし、槍さえもアイテムボックスに仕舞ったフィアの問いに――影は応じなかった。
「そう、か……」
リージアやガーベラ達とは違い、目の前の影には心自体が存在しなかったのである。
つまりは話し合おうとすること自体が、無駄な相手だったのだ。
当たり前のように何も返ってこない影の反応を受けて、フィアは脱力する。
何を一人先走っていたのかと、自らの行いに苦笑した。
そんなフィアはこのゲーム初のデスペナルティーをその身に受けることを悟りながら、身動き一つせず我が身の蹂躙を受け入れた。
――そして次の瞬間、フィアの小さな身体は影の軍勢に飲み込まれていった。
その光景に、レイカとペンちゃんが全身を凍り付かせた。
二人はフィアのHEATスキル「蒼の領域」が不発に終わり、影の軍勢が彼女の全身を覆った光景を確認している。
「迂闊でしたわ……!」
レイカは仲間の独断行動に対して、自らの対応が及ばなかったことに顔を歪めた。
あの影を見た時から、フィアの様子がおかしくなっていたことには気づいていたのだ。
そしてその理由も……彼女の友であるレイカはおおよそ察していた。
恐らくあの影はフィアの「前世」において、何らかのトラウマを植え付けた存在なのだろう。
まさしく、「とんだ原作知識」である。
「こうなりゃヤケですわ! 弔い合戦です!」
「お、おいお嬢さん……っ」
彼女を失い、この場に取り残された自分がすべきことはわかっている。
これが現実の戦いであるならば、囮になって散っていった仲間の意を汲んで、大人しく撤退してやるのもいいだろう。
しかしこれはゲームだ。麗花はこの世界観に対して、そこまでシリアスに振舞ってやる気はなかった。
おまけに今は自分を差し置いてプログラム風情がライバルを倒したことに、酷くご立腹である。
故にレイカは自ら退路を断ち、徹底抗戦を選んだ。
たとえ孤立無援になろうとも構わない。闘気の炎を燃やすレイカは魔法を放ち、空の敵を撃ち落としていく。
相手の攻撃は馬鹿の一つ覚えのように「突撃」しかないように見える。その点で言えば、これ以上なく単調な戦いだと言えるだろう。
しかし、相手の数が多い故にどうしても撃ち漏らしは生じる。
魔法の弾幕を掻い潜ってきた影の一部が、レイカの頭上数メートルの距離まで迫ったのである。
「っ……」
やられる――咄嗟にその場から飛び退こうと地を蹴るが、回避は間に合わない。
ライバルに続き自分までも……と、レイカが初のデスペナルティーへの屈辱を感じたその時――一条の光が影を吹き飛ばし、レイカの危機を救った。
「あれは……?」
――光魔法。
さらに何十と言う光弾のシャワーがレイカの周囲を通過していき、急迫していた影の軍勢を蹴散らしたのである。
レイカはその光魔法が飛来した方向に顔を向け、我が目に映る人物達の姿を凝視する。
サムライ、カラテ、ゲイシャ――明らかにNPCではないとわかる個性的な和風衣装を纏った複数人の姿に、レイカとペンちゃんは思わず口を半開きにする。
「なんぞ……?」
後になって知ることになるのだが――それは双葉志亜の弟、双葉千次率いるプレイヤーギルド「ワザマエ」に所属するプレイヤー集団だった。
今までは「蒼の領域」の力で多くのモンスター達と心を通わせることができたが、あの「影」にはそれが通じなかった。
自らの先走った行動でみすみすやられてしまったことに、フィアは仲間達に対して申し訳なく思った。
ゲームの世界で初めて味わった死亡――ということになるのだろうが、寧ろ今までが出来過ぎだったように思える。
そのように自らの行動を省みていたフィアは、気づけば先までいた場所とは全く別の場所にいた。
これがいわゆる「死に戻り」……かと思ったフィアだが、目を開けた瞬間、空に集合している「影」の姿を仰ぎ見て気づく。
フィアがいる場所は依然として変わらず、闇の結界に覆われたクーラ村の中だったのだ。
そして今のフィアは、力強い四本脚で地を駆ける「馬」の背に座っていた。
「間に合って良かった」
ふとその時、フィアの耳に声が聴こえる。
どことなく聞き慣れた感じのする男の声だ。
前方――フィアが声の聴こえた方向に視線を移すと、そこにはフィアが乗っているこの馬の背中で仁王立ちしている男の姿があった。
「貴方は……」
フィアは目の前に威風堂々と佇む彼の姿を見て、驚きに目を見開く。
男の姿は――ニンジャであった。
目元以外の部位を完全に覆い隠している黒頭巾に、黒い手甲。和風の袴まで着こなしている黒装束の姿は、まさしく万人が思い浮かべるニンジャそのものだ。
腕を組みながら佇んでいるニンジャの男は、馬の背にぺたりと座り込むフィアに向かって、黒頭巾にくぐもった声で言い放った。
「ふっ、名乗るほどのもんじゃないさ」
「……あっ」
彼は空を泳ぐ名状しがたき影の軍勢を一瞥した後、馬に対しこの場からの全速離脱を命じる。
そんなニンジャの謎に包まれた姿を見て、フィアは「なんとなく」その正体を看破した。
「千次……?」
「ブホッ!? っ……姉さん、いったいどんな感覚してるんだよ……」
ニンジャの正体は、フィアの弟である双葉千次だったのだ。
巧妙に姿を隠し、現実世界の彼とは似ても似つかない容貌をしている筈の彼はフィアの声に虚を突かれたように噴き出すと、並々ならない姉の洞察力に感服を返した。
「……ああ、俺だよ。俺のパーティも丁度同じエリアにいたから、それとなく姉さん達の様子を見にきてたんだ」
「そうだったんだ……」
「プレイヤーネームは「オットー」。よろしくね」
「うん」
同じく「HKO」のプレイヤーである千次が、初めてそのアバターをフィアの前に曝した瞬間である。
プレイを始めて以降、仲の良い姉弟という関係を思えば随分と時間が掛かったものだが、この二人においてはゲーム内でのお互いのコミュニティに気を遣っていた面も大きかったのだろう。
しかしフィア達が目指していたこのエリアは奇しくも彼が元々居座っていた場所らしく、今しがた丁度対面することになったというわけだ。
そんな弟の説明をフィアがぽけーっとした顔で聞いていると、フィア達を乗せて走っている馬の横へもう一匹、今度は九尾のキツネが並走してきた。
馬に匹敵するほどの巨体を持つそのキツネの上には、和服風の衣装を纏った獣耳少女の姿があった。
「オットー! 志亜さん助けられた?」
「ああ、おかげ様でね」
九尾のキツネの背に乗るツインテールの彼女は、馬の上に仁王立ちしている千次ことオットーを見て何か言いたげなジト目を寄越すが、後ろに座っていたフィアの姿を見るなり安堵の表情を浮かべる。
そんな少女の姿を見て、フィアの頭にはふと現実世界で会ったことのある顔見知りの姿が思い浮かんだ。
「うわっ、志亜さん、本当にリアルのままなんだぁ」
「えっと、貴方は……」
「姉さんも何度か会ったことあるよね? 俺の友達の由香だよ」
「あっ」
「プレイヤーネームは「ユカタ」です。ご無沙汰してます、志亜さん」
……なるほど。フィアは律儀に敬礼ポーズを取りながら自分に挨拶をする獣耳少女の顔を一瞥した後、黒頭巾のズレを直している弟の姿を見て理解する。
この少女は、現実世界での千次のガールフレンドである。
弟の交友関係はそれほど広くはないものの、昔から何かと異性からモテていた為、フィアも何度か面識があった。
「二人が、フィアを、助けてくれた……?」
初のデスペナルティーを受けたものと思っていたが、どうやら自分は死に損なっていたようだ。
二人の口ぶりから自分が死ぬことなく助けられたことを理解したフィアは、申し訳なく眉を落としながら彼らに問い掛けた。
そんなフィアの問いに、ツインテールの少女が親指でニンジャ装束の男を指差しながら返した。
「まあ、助けたのはコイツですけどね」
「「変わり身の術」っていう俺のスキルだよ。そいつで姉さんのポジショニングを、こっちに移したんだ」
「すごい……」
弟がニンジャだった……初めて知った衝撃の事実に狼狽えるフィアだが、その心に抱いたのは素直な憧憬と感謝である。
深々と頭を下げ、フィアは礼を言った。
「ありがとう、千次。由香さんもごめんね」
「どういたしまして。……ねえオットー、久しぶりにお姉さんの頭撫でていい?」
「やめろ」
そして感謝する相手は、この二人だけではない。
今こうして背中に乗せてもらっている、馬型のモンスターに対しても同じ気持ちだった。
「えっと、この子は……?」
「ああ、コイツはライトニングユニコーンの「ジー」。俺のテイムモンスターだよ」
「じー? 貴方も、ありがとう」
「ブルル……ッ」
ペンちゃんから聞いたテイムモンスターに乗って移動、というものをこのような形で体験することになるとは思わなかったが、乗り心地は思っていたよりもずっと良いものだった。
フィアは種族を「ライトニングユニコーン」、名前を「ジー」と呼ぶらしい馬型モンスターのたてがみを撫でながら、普段通りに戻った穏やかな心で感謝の気持ちを告げた。
いわゆるレイドボス的な相手です。