あなたの歌声でさようなら   作:貴志

1 / 2
(上)

 驚いた。彼女が突然、堂々と歌いだしたから。その声がとても大きくて、高くて、透き通るようだったから。

 私だけじゃない。みんなだって目を丸くしていた。このお別れ会の主役は私のはずなのに、もうすっかり全員の視線を彼女は集めていた。

 そのことに文句なんてない。あるはずもない。だって私だって、綺麗な、綺麗に歌うその佇まいに、目と耳を釘づけにされていたのだから。

 池淵さん。私はあなたと仲良くなりたかったんだよ。なのに、今更そんな見送りをしてくれるなんて、反則なんじゃないかな?

 胸元を抑える。息がちょっとだけ早くなって、顔いっぱいに熱が広がる。涙は出ない。もし出たのだとしても、それは感動の涙なんかでは決してない。それは、後悔の涙だったろう。

 

 

 放課後の教室。もう日も落ちかけて、校舎内は誰もいない。間もなく完全に施錠されて、学校も明日の朝に向けての休憩時間へと突入するのだろう。ひょっとしたらいつかの怪談で聞いたように、魑魅魍魎の跋扈する世界がそこには広がっているのかもしれない。でも、だとしてもそれは私には関係ない話だ。明日からは。

 

「ああああああ! ない、ない、ない! 何でなああああい!?」

 

 だというのに私は今、そんな昼と夜の境界線のような教室の中にいて、机やロッカーを片っ端から漁っていた。今日のお昼、あんな盛大にみんなとお別れしたばかりだというのに、全く無様なものだ。笑ってしまう。

 まさか、お気に入りの上着を置いて忘れて行ってしまうとは不覚。それもこれも全部、日中やたら気温が上がるこの十月上旬が悪い。こんなの、早朝の冷え込み対策として着てきたパーカーなど、忘れて帰ってしまうに決まっている。事実、教室のロッカーや机の椅子には、誰かの忘れ物だと思しきジャケットやカーディガンが随所に見て取れた。というよりはむしろ、急な冷え込みに対処するために置いていっているものなのかもしれない。いわゆる、置き上着というやつだ。

 隣のクラスではそういうことは禁止されているらしいが、うちの担任はそこのところ比較的おおらかで、さらに言ってしまえば適当だった。だから当然、教室は汚くごちゃごちゃとしている。そういうのが気にならない私は、このクラスになってラッキーと、能天気にずっと思っていた。

 だがしかし、それが今となってはすっかり逆風となって、私を大いに苦しめている。

 

――上着が、全く、見つからない!

 

 上着の忘れ物なんて、昨日まではみんなのように、置き上着としてそのままにしておけばよかった。でも、今日に限ってはそうもいかない。

 私は転校するのだ。明日、この町から引っ越すのだ。だから、私のものはここへ残していくわけにはいかない。

 日中だって、それはそれは大変だった。私の絵の具セットや手提げ、昔の図工作品、プリント、彫刻刀、裁縫セットなど、その他もろもろ。クラス中を巻き込んで、ひっかきまわして探したのだ。それだけで午後の一時間が潰れてしまったほどだ。みんな汗だくで、体中埃だらけで、舞い散る塵にくしゃみが止まらなかった。さんざん文句言われて、物を投げられて、何人かには本気で殴られた。

 だけど、楽しかった。ああこのクラスでよかったなって、素直に思えた。

 これ以上ない最高の気分で、この学校を去れそうだったのだ。なのに、なのに。

 

「うおおおお! やっぱりぬえええええ!」

 

 思わず叫んでしまう。それは誰もいない教室の、非日常感がそうさせるのだろうか。頭を抱え、天を、天井を仰ぎ見る。

 十月の夕暮れは短く、もう教室には橙の陽光が二・三筋ほど弱々しく届くだけだ。それが一層パーカー探索の難易度を上げ、私は途方に暮れる。

 これはもう仕方がない。こっそり潜入してスマートに事を済ますつもりだったが、職員室で先生に相談するのが早いかもしれない。『また堀口のうっかりか』だなんて、転校する日まで笑われるのは耐えがたいことだが、あのパーカーには代えられない。だってあれは、私が初めて……

 

「  」

「ん、え?」

 

 一人教室で沈んでいた私の耳に、かすかに聞こえてくる音があった。聞き間違いかとも思ったが、間違いなく何かが響いている。私は耳をすませた。しん、と。聴くことに集中する。

 その音は機械的な、継続的に鳴っているものではなく、途切れたり強くなったり、音程の波があった。人の喉が震える時の音色だ。

 それは、聞き覚えのある人の歌声だった。

 

「あ!? まさか!」

 

 それに気が付いたとき、私は走り出していた。教室から飛び出し、廊下を駆けて行く。上の方から聞こえてくる声めがけて全力疾走だ。『廊下は走るな!』なんてポスターがちらと視界に映るけど、お笑いだ。そんな午後4時までのルールなんて、この薄闇と斜光の入り混じった世界には、何の意味もないのだ。誰も私を止めることなんてできない!

 なんて考えてたら、思いっきりずっこけた。廊下の一部が濡れていて、そこで足を滑らせてしまったのだ。私はうつぶせに倒れこみ、地面に激突する寸前で何とか手で受け身を取ることができたが、その際に膝を強く打ち付けしまった。

 

「いっつつ……もう! ちゃんと絞っとけよ6年!」

 

 原因となった水が滴る雑巾がかけられた物干し台に向き合いながら、顔も名前も分からない上級生への文句を叫ぶ。思い返してみれば、自分も掃除のときにしっかり絞ったことなどなかったような気がしないでもなかったが、関係ない。私しかいないこの暗い廊下では、私の言うことこそが正義なのだ。ふはは。……あー痛い。

 なかなか消えてくれない膝のじんじんとした痛みを、ハイテンションでごまかすことに失敗し、少し冷静になる。声は未だに止まず、今いるところよりもっと上の方から、先ほどよりもはっきりと聞こえてきている。どうやら、向かう方向は正しかったようだ。

 ここが六年生の教室前で、最上階なわけだから、声の主はそのさらに上にいることになる。となると必然、彼女が今歌っている場所が限られてくる。最上階より上の、歌うことができるスペースのある所。

 

「あっ、屋上! うっ」

 

 閃いて顔を上げた瞬間、西側の窓から降り注ぐ、太陽が最後の力を振り絞ったかのような鋭い光が私の目を差した。思わず顔をしかめ、手で遮りながらもそちらへと視線が向いてしまう。西日の向こう、こことは反対側に位置する棟の屋上から、声は聞こえてきていた。

 光の向こう、シルエットとなった屋上の輪郭に一つ、明らかに人の形をした影がくっついていた。

 見つけた。彼女だ。

 

「そうか、反対側だったんだ……ん? あ、ああ!?」

 

 したり顔を浮かべると同時に、私はまたまたびっくらこいてしまった。その人の影は、非常に見覚えのある形状の、ふわふわしたフードのついた服を身にまとっていたのだ。遠目に確認しただけだが、間違えようもない。そもそもあの子は、あんな服を着るタイプじゃない。

 通りでいくら教室を探しても見つからないわけだ。私は驚愕と憤慨をないまぜにした状態で、ひざの痛みも忘れ、再び地を蹴った。目指すは屋上だ。

 屋上は本来鍵がかかっているはずだが、彼女がいるということは開いているはずだ。もし閉まっていたとしても、蹴破るなり、押し破るなりしてやろうじゃないか。私は怒っているのだ。

 反対側の棟にわたり、屋上への階段を昇っていく。一団飛ばしでさえもどかしくて、二段、三段とその勢いを伸ばす。四段飛ばしまで差し掛かろうかといったところで、とうとう屋上への扉が見えた。もちろん止まることなどしない。加速しきっている勢いそのままに、ドアへとぶつかっていった。

 思った通り鍵は開いていて、扉をぶち破る派手な音を立てて私は屋上へと舞い降りる。その際、そこにいるであろう人物への苦言を添えることを、私は忘れない。

 

「くおおらあああ! 池淵さん! このパーカー泥棒!?」

 

 屋外に出たばっかりの私を、まだ沈まない夕日が容赦なく迎える。それが屋内の暗さとあまりに違い過ぎて、一瞬目がくらむ。はっきりしない視界の中、必死で彼女の姿を探す。ここで一手遅れてしまっては、せっかくの勢いが削がれてしまう。そんな気がしたから。

 しかし、どれだけ目を凝らしても探しても、終ぞ彼女の姿が見つかることはなかった。霞が取れた視界には、誰もいない閑散とした屋上の風景が広がっていた。脳内物質が一気に引いていき、代わりに疑問符が頭の中を埋めつくしていく。

 幻覚、だったのだろうか。

 そんな馬鹿な。白昼夢なんて時間でもあるまいに。思わず首をかしげる。

 

「ええ……? どういうこと?」

「んくっ……んふふふっ!」

 

 呟いた瞬間、後ろから弾けた声。人を子馬鹿にするような、実に楽し気な笑いが聞こえてきた。

 してやられた。私は、振り向くこともなくすべてを察した。

 後ろにいるのは彼女だ。私は彼女のそんな声を教室で聞いたこともなかったが、どうしてだか分かってしまう。だって、ずっと見てきたから。彼女がどんな人間なのか、何にどう感じて、どんな反応を返すのか、碌に話したこともなかったけど、でもその分見て想像してきたから。

 彼女はドアのすぐ横で、私がやってくるのを待ち構えていたのだ。そして間抜けにも私は、まんまと背後を取られてしまった。

 私は振り向けずにいた。振り向いた瞬間、負けが確定してしまうような気がして。でも、こんなためらいは全くの無駄で、だって、後ろを見ないことには私は屋上を出ていくことすらできないのだから。この敗北はもはや必定なのであって。

 屋上に出てきたときの場所に立ったまま、身動きを取れないでいる私に、ひとしきり笑い終わったのだろう彼女が声をかけてきた。

 

「ねえ、こっち見ないの?」

 

 興が乗っているその声は、私の思考をそのまま勝者に置き換えたような、愉快な色を含んでいた。

 やはりやられたのだ。私が負けを確信しているように、彼女は勝ちを確信している。言う通りになるのが悔しくて、ますます私は後ろを見ることができなくなってしまう。

 

「ふーん、変なの!」

 

 そしてとうとう彼女が動き出した。

 完全に固まってしまった私のすぐ後ろを、ゆっくりと近づいてくる足音が鳴る。一歩一歩と確実に迫ってくる彼女の気配に、私はどうすることもできず、ただそれを全身で感じるだけだ。完全に固まって神経を集中させているためか、彼女が踏み込む際の振動とか、前進する体が切る風すら感じられて、どうしようもなく身構えてしまう。

 視界の端から、ゆっくり彼女が現れた。腕を後ろ手に組んで、前かがみに窺うように、彼女は笑ってこちらを向いていた。夕日を浴びる方向が歩くたびに代わって、彼女の顔はいろいろな表情を見せた。夕日越しに彼女を見たことのなかった私にとってはそのどれもが新鮮で、ひたすらに目を奪われる。

 そうして完全に私の真ん前へと彼女は立った。一層笑みを深くしたその顔のしわは、教室で覗き見る時のような遠距離では決して気付くことのなかった、今日だけのものだ。

 しゅばっ、と。彼女の手のひらが、おもむろに私の顔へと向けられる。思わずビクついて、不思議そうにそれを眺める私。彼女がふんと鼻を鳴らすと、その手が瞬時に一部折り曲げられ、ピースサインを形作った。

 

「ひひひー。よりの勝ちー!」

 

 彼女が浮かべたどこまでも子供っぽいにやけ面に、私は一気に体の力が抜けて、その場にへたり込んでしまう。そんな私を見下ろしながら、キャッキャキャッキャと喜ぶ彼女に、ああこんな人だったかと、見ているだけで知っているような気分になっていた一時前の自分が何だか恥ずかしくなってしまった。

 池淵より子さん。クラスの誰からも遠巻きにされていて、何人からかは嫌われていて、うるさくて空気の読めない、背の高い女の子。なぜだか今日、私のお別れ会で歌を披露して、今も屋上で歌っていて、なぜか私のパーカーを羽織っている。

 聞きたいことはいろいろある。今のこと、今日のこと、出会ってからの全部が知りたいことで、それは山ほどに積み重なっている。だけど、とりあえず今は彼女が望む通りのことをしよう。いつだって、敗者がすることは決まっているのだ。

 へたり込んだ姿勢のまま、地面に手をつき恭しく頭を下げる。そして、あの言葉を言えば、この勝負は私の負けで完了となるのだ。

 

「ま、まいりましたー……」

 

 地に額をこすりつける私の頭上で、彼女がどんな顔をしていたのかは分からない。でもきっと、あの無邪気な愉悦顔で素直に勝利をかみしめていたのではないかと思う。そうであってほしかった。

 

 

 太陽はもう隠れてしまった。ここから先は、夜に向かってただただ暗くなっていくだけだ。それでもほんのわずかに漏れ出る陽光を背景にしながら、私と向かい合う彼女は顔をしかめた。

 

「違うから! ただちょっとの間借りてただけ、そんな言い方やめて」

 

 それだけ言うと、不機嫌なことを表すようにパーカーの裾をぎゅっと握りしめて、彼女は顔を逸らす。言っていることの割に、申し訳ないだとかすぐに返そうかとか、殊勝な態度が一切見られない。その傍若無人な振る舞いは流石と言ったところだった。

 パーカーの件を『それ私のだから返して』と指摘しただけでこれだ。彼女はどんな注意に対しても、認めない、応えない、謝らないを地で行く子なのだ。そんなことだから、彼女はクラスで嫌われてしまうのだろう。

 私は内心のいらつきを抑えきることができずに、彼女へ手のひらを突き出した。

 

「じゃあ今すぐ返してよ! 借りてただけなら、返して!」

「やだ! 今これ返したら寒いし、もうちょっと借りる!」

 

 つんと体を翻すと、私の手から逃げるように彼女は屋上の奥へと行ってしまう。つかつかと中途半端に早いその歩調は、追いかける私をほどよくうんざりさせる。全く上手なものだ。もしこれが今日じゃなくて、物がパーカーでもなければ、呆れかえって帰ってしまってもおかしくない。そして明日教室で「先生、池淵さんが返してくれません」とでも私は泣きついて、事態は収拾を迎えるのだ。

 でも、そんな明日は来ない。だから私のパーカーは今日、私が取り返すしかないのだ。

 私は足下に力を込めると、一気に地面を蹴り上げた。瞬時に加速し、彼女に迫る。緩急を込めた私の動きは彼女にとって予想外だったようで、あっさりとその腕を捕まえることに成功してしまった。

 私は叫ぶ。

 

「本当に大事な物なの。だから返して!」

「う、うぅっ……!」

 

 捕まった腕を何回か振り、彼女は私の手から逃れようとする。だがそんな程度の抵抗で、今の私の手がほどけるわけがない。絶対に離さないという強い意志が伝わったのか、彼女は腕をぐったりさせると、目つき鋭く私に迫ってきた。

 

「何!? あなたのだって証拠でもあるわけ!?」

「いやいやいや……」

 

 ついさっきまで「借りている」と言っておきながら、何という手のひら返し。あまりに苦しい言い訳だというのに、鬼の首でも取ったように彼女は鼻を高くしていた。彼女は恐らく私を見くびっているのだろう。

 確かに私は普段しっちゃかめっちゃかだ。プリントに名前を書き忘れるなんてしょっちゅうだし、誰の物かも分からない物がよくロッカーやランドセルに混じっている。だから、上着に名前を書いているわけがないと、彼女はたかをくくっているのだ。

 それは半分正解だ。私の私物には、一年生から使い続けている物以外に名前なんて書かれていない。それでも、このパーカーだけは特別なのだ。それを今、証明して見せようじゃないか。 

 私はむんずと、彼女が来ている私のパーカーの、フリルになっている襟首の部分を握った。まるで締め上げているかのような姿勢になってしまい、彼女が狼狽しつつ威嚇を強める。

 

「はあ!? え、何!」

「ここ、見て」

 

 目を見開いてこちらを睨む彼女へ、襟首の裏を伸ばして見せつける。彼女はそこにある刺繍を、チラシにある自分が読める字をとにかく読み上げていく幼児のように読み上げた。

 

「ゆ、ゆうー?」

「ゆう、ね。私の名前。分かったでしょ!」

 

 「Yu」だ。「You」ではない。私は勝利を確信し、鼻から息を漏らした。

 そう。この服には、この服だけには母がアルファベットで私の名前を刺繍してくれていたのだ。仕事で忙しくて、そんなことは滅多にしてくれない母だが、この服だけは特別なのだ。そしてだからこそ、この町に置いていくわけにはいかなかった。

 悔しそうな顔を浮かべる彼女。とうとう降参するかと思われたが、それでもなお食い下がってくる。筋金入りの負けず嫌いだ。

 

「ふーーんだっ! 私お前の名前知らないし!」

「うわっ失礼! 1年の頃からずっと同じクラスだったのに、それ言っちゃう!?」

 

 もはや言いがかりだ。こうなってしまっては、もはや言い分も何もあったものではなく、私はただうなだれて、力なく要求するほかなかった。

 

「いいから……返してよ、本当に」

「うん。分かった」

 

 不意に帰ってきた肯定の返事に、私は顔を上げる。そこには、口をとがらせながらパーカーの感触を確かめるように襟元をパタパタさせて、気まずそうにちらちらとこちらを窺う彼女の姿があった。

 全く、さっさと認めてしまえばいいものを。本当に不器用な子だ。

 私は相好を崩すと、彼女に向かって改めて手のひらを差し出す。

 

「もう……じゃあ、はい」

「でも、もうちょっとだけ着させて」

「はい?」

 

 彼女はまたもその手を拒み、顔を隠すように口元までをパーカーにうずめた。もう何回手のひらを返されたのかも分からずに、私は呆然としてしまう。その意図が全く読めずに、改めて彼女をつぶさに観察する。パーカーからはみ出した、やや潤みを帯びた彼女の視線と、私の視線がぶつかる。

 よく見ると、口元に当たるであろう部分の布が、もごもごと動いているのが分かった。彼女は何か言いたげにしていた。だけどそれをなかなか口に出せずに、パーカーでそれをごまかしているのだ。

 私がそれに気づいたのと、ずっともにょもにょとしていた彼女の部分から声が発せられたのは、ほぼ同時だった。

 

「本当に気に入っちゃったから……」

「う、うん」

「もう少し着てたいから、だから……」

「……」

 

 私は息をのんだ。そんな物欲しげな、何かをねだるような彼女の姿を、見たことがなかったから。いつだって彼女は、欲しいものは持っていき、やりたいことをやって、女王様のように生きていたから。彼女の口がそんな風に、力なくぽしょぽしょと言葉を振り絞るなんて思わなかったから。

 だから、次に繰り出される彼女のお願いを断ることなんて、私にはできなくて。

 

「……もうちょっと、喋ろうよ」

 

 息苦しそうにフードから口を飛び出させ、彼女は言った。布越しでなくなり、それまでよりもはっきり聞こえてくる彼女の言葉はやけに力を帯びていて、私はこくりと頷いた。

 

「うん。私も話したいよ。池淵さんと、いろいろ」

 

 見つめ合って、笑い合う。これはきっとおまけのようなものだ。

 完全に日が暮れて、真っ暗になって、流石に家に帰らなくてはならなくなるまで、もう一時間とないだろう。たったそれだけの時間で、今更仲良くなんてなれるはずもない。もう、彼女と私の関係は終わっているのだ。

 それでも、私は彼女と話したかった。彼女も私と話したかったのだろう。だって、ずっと一緒だったから。このままお別れするには、聞きたいことがあまりに溜まってしまっていたから。

 神様が不意に付け足してくれた、帰りの会みたいに余計なこの時間は、それを消費するのにちょうどよかった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。