プリンセス・プリンシパル ~London Has Fallen~ 作:アルビオン王国ハドソン湾会社
血の様に赤い太陽が落ち、ロンドン名物の霧が立ち込め始めた夕刻――――ヘンリー伍長はロンドンの中心部にある王立公園、ハイド・パークを休みなく巡回していた。
空中戦艦グロスターの水兵であるヘンリー伍長にとって管轄外の任務なのだが、非常事態ということで水兵にも警備巡回の任が与えられていた。
(本当なら今頃、休暇を取ってジェニファーと会っている予定だったのに……)
慣れない巡回業務に、連勤のストレス、休日出勤を命じられた苛立ちから、いつになく彼は不機嫌であった。
「あれは……」
そんな折、彼が目にしたのは一人のみすぼらしい身なりをした少女。しかし、ただの少女ではない――スリだ。彼女の手が道を行き交う人々のポケットに素早く突っ込まれ、何食わぬ顔で財布か何か小さなものを取り出し、自分の服の中へと入れるのをヘンリー伍長は目撃した。
「おい、お前!」
ヘンリー伍長は叫びながら銃を構えた。ロンドンでスリなど珍しくないが、この国の治安を預かる兵士の一人として、見てしまった以上は注意せずにはいられない。もちろん発砲するつもりなどなく、ただ少女を威嚇するために銃を向けたにすぎなかった。
だが、スリの少女の反応はそうではなかった。いきなり恐ろしい形相で自分を睨んだ兵士が、銃口をこちらに向けている―――驚いた少女は、つい盗んでいた“収穫”を落としてしまう。
「お前……!」
ヘンリー伍長の目が驚愕に見開かれた。少女が落としたモノは、何丁もの小型ピストル……件の『リベレーター』拳銃だったからだ。
(コイツはなんだ? まさか、共和国のスパイ―――)
ヘンリー伍長の思い至った可能性に、スリの少女も気付いたらしい。ハッとした表情になり、ガタガタと震え始める。
結論からいえば彼女は共和国のスパイでも何でもない、普通のスリの少女だ。ただ、「禁止されているモノは闇市で高く売れる」というスリの常識に従って『リベレーター』を集めていただけ。
だが、そんな事を言っても信じてはくれないだろう。
王国の階級制度のもとで貧乏人が一度疑われれば、間違いなく有罪判決は避けられない。ましてや恐怖でもって人民を支配しているノルマンディー公の手先、恐るべき内務省に連れて行かれたとなれば待っているのは、共和国のスパイである事を自白するまで続けられる容赦ない拷問だ。
「嫌っ………!」
ゆえに少女は怯えて逃げ出した。悲鳴を上げ、驚いた公園の通行人たちの合間を縫って走り出す。続いて何が発生するかは、容易に想像が出来た。
もしこの場にいたのがヘンリー伍長ではなく警察であったなら、最悪の事態は避けられたのかもしれない。本来であれば逮捕は警察の領分あり、軍人であるヘンリー伍長はこのような事態に際して、どういう対応をとるべきか判断がつきかねた。
ヘンリー伍長は混乱していた。休みなしのシフトもまた、彼の判断力低下に拍車をかけたのかもしれない。
いずれにせよ、彼はパニックに陥った人間の常として、これまでの経験に基づくもっとも慣れた動作を行った………引き金には指がかえられており、彼は無意識のうちに訓練通りの動きをした。
―――銃声―――
機械のような動作で引き金が絞られ、耳をつんざくような轟音がハイド・パーク王立公園に響いた。
驚いた鳩たちが一斉に飛び立ち、すぐ静寂が訪れる。道行く人々はあっけにとられ、銃を撃ったヘンリー自身も自分が何をしたのか理解していない様子であった。
――ふと地面に目を向けると、そこには一人の死体があった。先ほどの、スリの少女の死体であった。
ヘンリー伍長のライフルによって旋回運動を与えられた銃弾は、日頃の厳しい訓練の成果を羽根井してか、見事なまでに正確無比に少女の心臓を貫いていた。
「あ……」
次の瞬間、少女の口から真っ赤な血が溢れ出た。スリの少女は不自然にねじ曲がった姿勢で地面に倒れたまま、まだ生きたいと願っているかのように痙攣している。徐々にて血の滲んだ青い目から光が失われていくと、やがてスリの少女はぴくりとも動かなくなった。
人々が集まり始めた。好奇心と不安に駆られた無数の人々が、ヘンリー伍長とスリの少女の死体を取り囲んだ。男、女、子供、老人、白人、黒人、平民、貧民………普通に暮らしていた人々が、普通じゃない状況を見て引き付けられるように集まっていく。
―――誰の娘だ?
―――分からん。だが、知り合いかもしれん。
―――そうだ、誰の娘であってもおかしくない。
スリの少女の身元を特定することは出来なかった。それほどロンドンにはスリが溢れ、また大量に配られた『リベレーター』拳銃は誰が持っていてもおかしくはなかった。
―――誰がやった?
―――アイツだ。あの男だ。
誰かが言うと、一斉に群衆の目がヘンリー伍長に向けられる。低い囁き声があちこちから聞こえる。怒り、不安、恐怖、憤り……その時初めて、ヘンリー伍長は自分がしでかした事の重大さを悟った。
「く、来るな! 近づくと撃つぞ!」
無数の人々の突き刺すような視線を一身に受けて、ヘンリー伍長は恐怖に駆られた。完全に平常心を失い、溢れ出る冷や汗が止まらない。
慌てて次弾を装填しようとするヘンリー伍長の背後に、一人のスコップを持った鉱夫が歩み寄った。
彼は何年か前に、娘を警察の誤射で殺されたばかりだった。裁判所は助けてくれず、男は泣き寝入りするしかなった。
それゆえ彼は王国を憎んでいた。目の前にいる若い水兵個人に恨みはないが、この腐った社会とそれを積極的に支える政府の人間すべてを憎んでいた。
「くたばれ!」
ヘンリー伍長がライフルを向けるより早く、鉱夫は長年の恨みを込めてスコップで殴りつけた。
「政府の犬め!お前らが、お前たちのような人間がいるせいで俺たち労働者は……!」
我慢の糸がプツンと切れたように、鉱夫の男は倒れたヘンリー伍長を立て続けに殴り続ける。そのすぐ傍では、倒れたスリの少女の母親がボロ人形のように動かなくなった娘の死体を抱いて悲嘆に暮れていた。
それはハイド・パークだけの出来事ではなかった。同じような光景が、ロンドン中で見られていた。ソーホー、チャリング・クロス、トラファルガー広場……ロンドン市内の至るところで何人もの“ヘンリー伍長”が怒りを爆発させた民衆の犠牲となった。
やがて、本格的な暴動が始まった。
内務省はいつもの通り暴力でもって弾圧を加えていたが、やがて警察の手に負えなくなった。何人もの職員が犠牲になり、攻守は完全に逆転した。
潰しても潰しても湧いて出てくるデモや暴動に、現場の職員たちは辟易していた。上層部もまた過労気味で、現場と悲鳴と上層部の無茶な要求に挟まれて精神的リンチを受けていた。
それはこの事件の黒幕である、共和国の想像をも遥かに超えていた。事件を引き起こしているのは共和国のスパイでもなければ、操り人形の革命軍でもない。長年の不満をついに爆発させた、ロンドンの一般市民の手によるものであった。
治安は加速度的に悪化していき、その包囲の輪は徐々に王国の中枢部分、ウェストミンスターとシティ・オブ・ロンドンへ迫ってきているようであった。
哀れヘンリー伍長(原作2話に出てきた水兵の人。ベアトリスの変声をすぐに信じず、カマをかけた上で本人確認するぐう有能)、この日はきっと連勤で疲れてたので2話の冴えはなかった。